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2017年1月6日金曜日

原超自我 surmoi primordial

私がいまだかつて扱ったことのない唯一のもの、それは超自我だ(笑)

la seule chose dont je n'ai jamais traité, c'est du surmoi [ Rires ] (Lacan、le séminaire XVIII. 10 Mars 1971)
私に教えを促す魔性の力…それは超自我だ。

Quelle est cette force démoniaque qui pousse à dire quelque chose, autrement dit à enseigner, c'est ce sur quoi j'en arrive à me dire que c'est ça, le Surmoi. (le séminaire XXⅣ 08 Février 1977)

いやあ、 「自我理想と超自我の相違(基本版)」の基本版ってのは「寝言版」にしといたほうがよかったんじゃないか。

いずれにせよ核心は冒頭に貼り付けたミレール文だーーこれを貼付しといてよかった・・・

ラカンの教えにおいて「超自我」は謎である。「自我」の批評はとてもよく知られた核心がある一方で、「超自我」の機能についての教えには同等のものは何もない。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO by Leonardo S. Rodriguez, 1996、PDF

 柄谷行人ってのは勇気があるよ、『憲法の無意識』とかで、マガオで超自我を扱って。いやあ、フロイトもラカンも超自我において最後まで逡巡してるのだから、ひょっとしてあれでいいのかもしれないが(ネットで片言隻語を拾い読みしただけなので、詳細不明ではある)。

で、フロイトの超自我ってのはラカンの「父の名」だよ。

父の名 →ファルス→ 「一の徴trait unaire」→ 父の諸名 → S1(主人のシニフィアン)→ S(Ⱥ)、Y a d'l'Un、「女 Lⱥ Femme」、サントームΣという変遷はあるのだが。

「大他者の(ひとつの)大他者はある」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(ラカン、セミネール23、16 Mars 1976)
一般的には〈神〉と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。(Lacan, S17, 18 Février 1970、末尾にやや長く引用)


わたくしの雑な頭では超自我とは女のことなんだが、だめだろうか?(参照:サントームSinthome = 原固着Urfixierung →「母の徴」)。女としたら首尾一貫してるんだが。

フロイトは原抑圧も超自我も(はっきりとは)わからん、と1926年に言っている。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえるのである。こういう抑圧の背景や前提については、ほとんど知られていない。また、抑圧のさいの超自我の役割を、高く評価しすぎるという危険におちいりやすい。この場合、超自我の登場が原抑圧と後期抑圧との区別をつくりだすものかどうかということについても、いまのところ、判断が下せない。いずれにしても、最初のーーもっとも強力なーー不安の襲来は、超自我の分化の行われる以前に起こる。原抑圧の手近な誘引として、もっとも思われることは、興奮が強すぎて刺激保護が破綻するというような量的な契機である。(フロイト『制止、症状、不安』1926年 旧訳 P.325)

《不安が抑圧をひき起こすのであって、私が前に考えたように、抑圧が不安を起こすのではない。》(フロイト『制止、症状、不安』1926年 P.335)

ラカンは1973年、超自我は原抑圧にかかわるものだという風に捉えうることを言っている。

フロイトは、抑圧は禁圧に由来するとは言っていません Freud n'a pas dit que le refoulement provienne de la répression。つまり(イメージで言うと)、去勢はおちんちんをいじくっている子供に今度やったら本当にそれをちょん切ってしまうよと脅かすパパからくるものではないのです。

とはいえ、そこから経験へと出発するという考えがフロイトに浮かんだのはまったく自然なことです-この経験とは、分析的ディスクールのなかで定義されるものをいいます。

結局、フロイトは分析的ディスクールのなかで進んでいくにつれて、原抑圧が最初である le refoulement originaire était premier という考えに傾いていったのです。総体的に言うと、それが第二の局所論の大きな変化です。フロイトが超自我の性格だと言う大食漢 La gourmandise dont il dénote le surmoi は構造的なものであって、文明の結果ではありません。それは「文化の中の居心地の悪さ(症状)« malaise (symptôme) dans la civilisation »」なのです。(ラカン、テレヴィジョン、1973年)


結局、初期フロイトが正当的なんじゃないか。

本源的に抑圧されているものは、常に女性的なるものではないかと疑われる。(Freud, 25. Mai 1897,Draft M)
この時点(1897年)においてフロイトは見出した、何かがある、我々の存在の核(Kern unseres Wesen) 、臍(navel)、菌糸体(mycelium)があることを。精神上では分節化されえず、不安を引き起こす何かである。ラカンの現実界、シニフィアンの彼方にあるものである。

フロイトが見出したこの何かは、常に受動的で不快なトラウマ的性質を持っている。受動性、ゆえに女性性である。より正確に言えば、受動性は女性性にとっての代理シニフィアンになる。というのは、フロイトは他に正しい表現を見出せなかったから。言い換えれば、トラウマ的現実界ーー象徴界のなかにはそれを言い表すシニフィアンはないーーが女性性である。フロイトは象徴システムにおける欠如を見出した。すなわち〈女〉を言い表すシニフィアンはない。半世紀後、ラカンはこれをȺ と表記した。その意味は、シニフィアンの全体は決して完全ではなく大他者には欠如がある、ということである。(ポール・バーハウ 1999,DOES THE WOMAN EXIST?)
原抑圧とは、現実界のなかに〈女〉を置き残すことと理解されうる。

原防衛は、穴 Ⱥ を覆い隠すこと・裂け目を埋め合わせることを目指す。この防衛・原抑圧はまずなによりも境界構造、欠如の縁に位置する表象によって実現される。

この表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(Freud,Draft K)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。(PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999、,PDF

フロイトはまた1923年に次のように記している。

自我理想の背後には個人の最初のもっとも重要な同一化がかくされている(……)。その同一化は個人の原始時代、すなわち幼年時代における父との同一化である。(フロイト『自我とエス』1923年)
※註)おそらく、両親との同一化といったほうがもっと慎重のようである。なぜならば父と母は、性の相違、すなわちペニスの欠如に関して確実に知られる以前には、別のものとしては評価されないからである。

もちろん終生「父」にこだわり続けたフロイトだから、表現は曖昧なままだけれど、「母」への示唆がある。

エディプス理論を作ってしまったから「母」が見えなくなっちまっただけさ。


最初期ラカンには、《太古的超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque》(Lacan, LES COMPLEXES FAMILIAUX ,1938)という表現がある。

セミネール5では次のように言っている。

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。

le Surmoi maternel… est-ce qu'il n'y a pas derrière le Surmoi paternel, ce Surmoi maternel, encore plus exigeant, encore plus opprimant, encore plus ravageant, encore plus insistant dans la névrose que le Surmoi paternel ? (Lacan, S.5, 15 Janvier 1958) 

さらに約半年後、次のような文が現われる。

母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)

ラカンも安易にメラニー・クラインに対抗しようと思って、彷徨ってしまったんじゃないか。

ミレールは1990年代の時点で、超自我はほとんど母なる超自我のことだと言っているように読めないでもない。

超自我とは、確かに、法(象徴的なもの)である。しかし、鎮定したり社会化する法ではない。むしろ無分別な法である。それは、穴・正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「一」unary のシニフィアン、S1 としての法である。…超自我は、この「一」のシニフィアンから生まれる徴候でありパラドックスである。というのはそれは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。(……)

母なる超自我 surmoi mère…この思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似している。それは、父の名によって隠喩化され支配される前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez、1996よりの孫引き,PDF)

ーーもちろんわたくしの書いていることはテキトウであり、すこし調べているうちにヤケクソ気味になっちまったわけだが。

しかしどうしてフロイトはこの点で間違えたんだろう? Mais pourquoi FREUD s'est-il trompé à ce point …この神話、エディプス理論で? ce mythe, le « complexe d'Œdipe » ?

……そう、奇妙なことだ、もっとはやく明らかにならなかったのは。… Oui, il est étrange qu'il ne soit pas devenu plus rapidement tout à fait clair

……たぶんまったく使いものにならない…実に c'est probablement du caractère strictement inutilisable… et en effet。誰が使うんだろ qui l'utilise ?、分析の依拠としてこの名高いエディプス理論を?

……いやあ、まったく使い物にならない!C'est strictement inutilisable !

そう、母という生の記念物 grossier rappel を除いて。欲望の原因としての対象のあらゆる投入を前にした母という障害物の価値 la valeur d'obstacle de la mère、その未加工の形見を除いて。

というのは、並々ならぬ労作があるからな、分析家たちが辿りついた《合体した親 parent combiné 》と呼ばれるものが。

その唯一の意味は、享楽の受け手としての大他者 un grand A receleur de la jouissance を構成するものだ…それは一般的には〈神〉と呼ばれる on appelle généralement Dieu…神と剰余享楽の一か八かの勝負をする価値があるってわけだ avec lequel ça vaut la peine de faire le quitte ou double du plus de jouir。すなわち超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi だ

ああ! 今日私はあなた方を台なしにしてしまった! (笑)Ah, je vous gâte aujourd'hui, hein ! [ Rires ]

私はもはや決して再び取り扱わないよ、この超自我の話を。Je n'avais pas encore abordé cette histoire du surmoi.(Lacan, S17, 18 Février 1970)
私は、エディプスは役立たずだ l'Œdipe ça ne sert à rien とは全く言っていない。我々がやっていることとは無関係だとも言っていない。だが精神分析家にとっては役に立たない。それは真実である!Ça ne sert à rien aux psychanalystes, ça c'est vrai ! …

精神分析家は益々、ひどく重要な何ものかにかかわるようになっている。すなわち「母の役割 le rôle de la mère」に。…母の役割とは、「母の惚れ込み le « béguin » de la mère」である。

これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の惚れ込み」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?

巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である

やあ、私は人を安堵させる rassurant 何ものかを説明しようと試みている。…単純な事を言っているんだ(笑 Rires)。私は即席にすこし間に合わせを言わなくちゃならない(笑Rires)。

シリンダー rouleau がある。もちろん石製で力能がある。それは母の顎の罠にある。そのシリンダーは、拘束具 retient・楔 coinceとして機能する。これがファルス phallus と呼ばれるものだ。シリンダーの支えは、あなたがパックリ咥え込まれる tout d'un coup ça se refermeのから防御してくれるのだ。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)