2016年9月29日木曜日

ゲーデルの不完全性定理とラカンの Ⱥ

科学が主体をどうしても「縫合 suture」しえないのは、メタ言語はないからである。言語を統合する真理はないからである。というのは、言語とそれが作り出す象徴構造は構造的に不完全であるから。

これがラカン派にとっての「ゲーデルの不完全性定理 Gödelscher Unvollständigkeitssatz」の使用法である。すなわち大他者A は斜線を引かれている:Ⱥ (大他者の大他者はない Il n’y a pas d’Autre de l’Autre =メタランゲージはない il n'y a pas de métalangage)。

※参照元

1、Richard Klein、Lacan and Gödel、2016
2、Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency',2010,PDF

すなわち、

Gödel's theorem asserts that there is a lack in the Other, that the Other is incomplete and inconsistent, which is why Lacan writes it as the barred Other: A.(Richard Klein、2016)
Crucially, Lacan concludes that, if science at last does not manage to saturate the subject, it is because there is no metalanguage, no totalizing truth of language, since language and the symbolic structures it creates are structurally incomplete.(Lorenzo Chiesa,2010)

を混淆させて、いくらか補いつつ記述した。

以下、後者のロレンツォ・キエーザの論の一部を私訳(上の摘要記述がある前段箇所)。

「科学と真理 (La science et la vérité)」 (1966)のラカンによれば、近代科学は科学の主体を「縫合 suture」ーーその主体を、経験に基づいて、閉じられた知の集合として統合ーーしようと試みる。しかしそれは失敗する。たとえばゲーデルの「不完全性定理」やカントールの「無限」概念が形式化したまさにその可能性によって。《le dernier théorème de Godel montre qu'elle y échoue》(E.861)

したがって、《(科学の)主体は、科学の相関物でありつつも、アンチノミー的相関物である。というのは、科学は主体を縫合するための行き詰まった試みによって定義されることが判明しているから。 le sujet en question reste le corrélat de la science, mais un corrélat antinomique puisque la science s'avère définie par la non-issue de l'effort pour le suturer. 》(E.861)

(…)近代科学によって決定づけられている方法を超越している構造的属性としての科学の主体は、科学の「アンチノミー的相関物 corrélat antinomique」である。より明確にいえば、経験上の偶然的対象の「アンチノミー的相関物」である。言い換えれば、それはまさに、主体を「縫合」することの科学の失敗である。よりよく言えば、主体を「飽和(浸透)」することの失敗ーーラカンは『科学と真理』で二種類の動詞を使用している(suturer、saturé)--、この失敗が精神分析の主体の出現を可能にする。

ゆえに精神分析の主体とは、その主体が「縫合」されていないーー「浸透」されていない non saturé ーー限りで、科学の主体である。精神分析の主体、すなわち無意識の主体と科学の主体は両方とも、知と真理とのあいだの歴史的に限定された分割の帰結である。それ自体、次のことを前提としているのである。すなわち、より構造的な、シニフィアンの論理のなかへの主体の「内的排除 exclusion interne」(E.861)の前提がある。

科学の主体と精神分析の主体は同じコイン裏表である。すなわち近代科学は、歴史のなかで真理を排除する。しかしそのとき真理は、徴示化 signifying 構築のなかの構造の水準で再出現する。精神分析は、徴示化 signifying 構築のなかに症状と他の無意識の形成物を見出す。 (ロレンツォ・キエーザ、 2010, Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency',PDF)

※「内的排除 exclusion interne」

Topologie de l'exclusion interne, de « l'extimité » de la chose. « L'a-chose »(Isabelle Dhonte,PDF)

→「外密 l'extimité」

・私の最も内にある親密な外部、モノ=対象a としての外密。《extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(ラカン、S.7)
・外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité(参照))

ーー〈モノ das Ding(Chose〉とは、結局、≪対象aの初期ヴァージョン≫(フィンク、1997

シンプルに言おう。主体 $ は、ネガティヴなマグニチュード、あるいはネガティヴな数 negative magnitude or negative number としての裂け目である。それが、ラカンによるシニフィアンの定義におけるまさに正確な意味である。シニフィアンとは、主体に代わって対象を表象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を表象するものである。すなわち主体とはシニフィアンの内的な裂け目なのである。そしてそれがその参照の動き referential movement を支えているのだ。他方、対象a は、この動きによってもたらされたポジティヴな残滓である。そしてそれがラカンが剰余享楽 plus-de-jouir と呼んだものである。剰余享楽 のほかには享楽enjoyment はない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピーとして現われる。 (ジュパンチッチ、Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value、参照





対象a(剰余享楽 plus-de-jouir )を除いて言えば次の通り(X=S1,Z=S2,Y= $)。

主体は鎖の内在的属性になる…。すなわちどの徴示化連鎖もそれ自体、主体を含有している。しかし主体自体は、Xが一つのシニフィアン、Zが他のシニフィアンという三組の関係におけるYとしてのみ定義されうる。(ジャン=クロード・ミルネール,Jean-Claude Milner,Le périple structural,2002)

これはマルクスの価値形態論の思考過程そのままである。

ここでは「単純な、個別的な、また偶然的な価値形態」の箇所のさわりのみを引用しよう。

x 量商品 A = y 量商品 B 、あるいは x 量の商品 A は y 量商品 B に値する。(亜麻布 20エレ=上衣 1着、または、20エレの亜麻布は 1着の上衣に値する)。(マルクス『資本論』)


つづいて分析される「拡大された価値形態」、「一般的価値形態」(貨幣形態)は柄谷行人の記述を掲げる。

「すべての概念は、等しからざるものを等置するところに発生する」と、ニーチェはいっている。しかし、ウィトゲンシュタインにとっては、事物の多様性が問題なのではない。むしろ、「等置する」ということの実践的な盲目性・無根拠性が忘れさられることが問題なのだ。

理解を助けるために、マルクスの価値形態論を引例しよう。価値形態は、ある商品がべつのものと「等置された」がゆえに付与される形態である。そこに根拠も「共通の本質」もない。そのような商品関係の連鎖を、マルクスは「拡大された価値形態」とよんでいる。これはファミリー・リゼンブランス(家族的類似性)と同じである。そのような関係の連鎖(交錯)が、一つの商品を排他的に中心とするように組織されると、「一般的価値形態」(貨幣形態)が生じる。貨幣形態の下では、すべての商品は何か「共通の本質」があるゆえに等置されるのだと考えられてしまうだろう。

マルクスの考えでは、「ひとは意識しないが、そう行う(等置する)」のであって、この無根拠性・盲目性こそが「社会的」とよばれている。かくして、社会的関係が、貨幣形態の下では、あるいはわれわれの「意識」のもとでは隠蔽されてしまう。この意味で、ファミリー・リゼンブランスは、「社会的」関係性にほかならない。(柄谷行人『探求Ⅰ』1986年、PP.69-70)

「家族的類似性」は、ラカンの「象徴構造は構造的に不完全である」の別の言い方、象徴的構造は非一貫的(非全体pas-tout)であることを示す(参照)。

柄谷行人の叙述に「無根拠性・盲目性」とあるように、マルクスは交換(コミュニケーション)の「不完全性定理」をすでに示していたということがいえる。すなわち象徴的交換を支えるものはなにもない。つまりは、大他者の大他者はない Il n’y a pas d’Autre de l’Autre(Ⱥ)

主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって表象されうるものであるUn sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体は何に対して表象されるのか? ーー使用価値である。 le sujet de la valeur d'échange est représenté auprès - de quoi ? - de la valeur d'usage

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値と呼ばれるものである。この喪失は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。(ラカン、セミネールⅩⅥ、D’un Autre à l’autre,1968-1969ーー偉大なるフェティッシュ分析家マルクス

次に若きジジェク、1991の明晰な解説を掲げておこう。

シニフィアンの二個一組内部において、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在の背景に対して現れる。この不在は、その対立物の現前のなかで、物質化されたものーーポジティヴな存在として想定された不在である。ラカンによるこの不在のマテームは、もちろん、斜線を引かれたシニフィアン $ である。

すなわち、一つのシニフィアンはその対立物の不在を埋め合わせる。それは、その対立物の場を「表象」し所有する。…こうして、我々は既にシニフィアンの定式を生み出した。《一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を表象する[un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.]》。

ゆえに我々は理解できるだろう、ラカンにとってなぜ主体のマテーム $ が必要なのかを。すなわち、一つのシニフィアン S1 は、他のシニフィアン S2 に対して、その不在・その欠如 $ を表象する。

ここでの決定的な要点は、シニフィアンの二個一組において、一つのシニフィアンはその反対のシニフィアンの直の片割れでは決してなく、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在を表象(具現)するということだ。二つのシニフィアンは、三番目の用語である「空虚」を通してのみ「差異的 differential」関係性に入る。シニフィアンが差異的であるという意味は、主体を表象するどんなシニフィアンもない、ということである。(ジジェク『為すところを知らざればなり』(Slavoj Žižek For They Know Not What They Do、1991、私訳ーー価値形態論(マルクス)とシニフィアンの論理(ジジェク=ラカン)


もちろんラカンのシニフィアンの論理の起源の重要なひとつは、フロイトの公式、「私は自分の家の主人ではない(dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus)」にもある。