2016年9月8日木曜日

偉大なるフェティッシュ分析家マルクス

《論理学は、現実の世界にはなにも対応するものがないような前提、たとえば同等な物があるとか、一つの物はちがった時点においても同一であるというような前提にもとづいている。 数学についても同じことがいえる。もしひとがはじめから厳密には直線も円も絶対的な量もないことを知っていたら、数学は存在しなかっただろう。》(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』)

ーーいやあ若きニーチェもすばらしいね。『探求』の柄谷行人はいささかウィトゲンシュタインに熱を上げ過ぎたのではないだろうか・・・いやいや真にすばらしいのはマルクスである。柄谷行人は正しい。

「すべての概念は、等しからざるものを等置するところに発生する」と、ニーチェはいっている。しかし、ウィトゲンシュタインにとっては、事物の多様性が問題なのではない。むしろ、「等置する」ということの実践的な盲目性・無根拠性が忘れさられることが問題なのだ。

理解を助けるために、マルクスの価値形態論を引例しよう。価値形態は、ある商品がべつのものと「等置された」がゆえに付与される形態である。そこに根拠も「共通の本質」もない。そのような商品関係の連鎖を、マルクスは「拡大された価値形態」とよんでいる。これはファミリー・リゼンブランス(家族的類似性)と同じである。そのような関係の連鎖(交錯)が、一つの商品を排他的に中心とするように組織されると、「一般的価値形態」(貨幣形態)が生じる。貨幣形態の下では、すべての商品は何か「共通の本質」があるゆえに等置されるのだと考えられてしまうだろう。

マルクスの考えでは、「ひとは意識しないが、そう行う(等置する)」のであって、この無根拠性・盲目性こそが「社会的」とよばれている。かくして、社会的関係が、貨幣形態の下では、あるいはわれわれの「意識」のもとでは隠蔽されてしまう。この意味で、ファミリー・リゼンブランスは、「社会的」関係性にほかならない。(柄谷行人『探求Ⅰ』1986年、PP.69-70)
ニーチェのいう「ウラル=アルタイ語」に属する日本人は、主語から脱しようとする西洋人の努力がいかに困難かを想像することができる。もちろん、その逆に主語(主体)を確立しようとしてきた近代日本の経験によって、である。「主語」がいつも暴力的規制力をもつ西洋の文法において、主語という場所の不在を唱えること自体が困難なのだ。主語(意味されるもの)がいつも述語(意味するもの)の優位にたつという構造がそこにはつきまとっている。

さらにいえば、be動詞は論理学と存在論を自然かつ自明なものとしている。たとえば、“The dog runs”は“The dog is running.”に変形可能であるが、その結果あらゆる出来事や活動に“存在”が介在することになるし、またそのisは繋辞として“The dog is an animal.”というのと同じ論理的判断になってしまうのである。論理学と存在論は、いわば文法的な習性として、西洋の形而上学を不可避的なものにしてきたといってよい。しかし、「貨幣の形而上学」という観点からみるならば、このことはけっして西洋に固有のことがらではありえない。

たとえば、古典経済学は、「商品Aの価値はこれこれで“ある”」と考える。それゆえに、価値は本質(であるところのもの)である。これに対して、マルクスは、「商品Aの価値はBの使用価値によって意味される」といいかえる。ここでは、「存在」は「関係」に変形され、意味するものとしての使用価値が価値に優越している。私が「貨幣の形而上学」とよぶのは、貨幣形態が「関係」を「存在」たらしめるからである。マルクスがそこでやろうとしてのは、主語と述語の転倒ということとはちがっている。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)

70年代の若き柄谷行人の明瞭な注釈、「商品Aの価値はBの使用価値によって意味される」に注目しよう。ここにはラカンがいる。

主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって表象されうるものであるUn sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体は何に対して表象されるのか? ーー使用価値である。 le sujet de la valeur d'échange est représenté auprès - de quoi ? - de la valeur d'usage

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値と呼ばれるものである。この喪失は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。(ラカン、セミネールⅩⅥ、D’un Autre à l’autre,1968-1969)

ラカンのセミネールⅩⅥとは、なかばマルクスの価値形態論をめぐっている。ここではいまだセミネールⅩⅦにおける四つの言説の図式ーーラカン理論の華のひとつーーは示されていない。 すなわち剰余享楽(剰余価値a)を含めた下の図はいまだない。




だがどんな思考の過程でこの四つの言説(上に掲げたのは主人の言説)の図式に到ったのかがーーわたくしのようなものでもーーいくらかわかってくる。

たとえば次のような図が示されている。





いまは剰余価値(剰余享楽)の解釈を含めないままだが、マルクスとラカンとのつながりを示すとてもわかりやすい初期ジジェクの説明を掲げよう。

◆ジジェク、1991より(価値形態論(マルクス)とシニフィアンの論理(ジジェク=ラカン)

① 「単純な形態」:あるシニフィアンに対して、他のシニフィアンが主体を表象する(つまり、 一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を表象する[un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.])



② 「拡大された形態」:あるシニフィアンに対して、他のどんな諸シニフィアンも主体を表象しうる。





③ 「 一般的な価値形態」:ある(一つの)シニフィアンが他の全ての諸シニフィアンに対し て主体を表象する。




もちろん、転回点は、②から ③への移行、「拡張された」形態から「一般的な」価値形態へ の移行である。一見、ただ関係性を逆にしただけに見える(一つのシニフィアンに対して 主体を表象する諸シニフィアンの代わりに、他のすべてのシニフィアンに対して主体を表象する一つのシニフィアンを我々は見ることができる)。だが、実際には、この移行は付加的な「再帰的 reflective」な次元を導入することにより、表象の全経済を移動させる。 (ジジェク『為すところを知らざればなり』1991、私訳)


結局、この説明が「現代思想」の基礎的核心ーー哲学プロパーに疎いわたくしに言わせればーーである。

…ラカンの公式、《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する》。これは現代思想の偉大な突破口だった。…この概念化にとって、再現前(表象 representation)は、「現前の現前 presentation of presentation」、あるいは「ある状況の状態 the state of a situation」ではない。そうではなく、むしろ「現前内部の現前 presentation within presentation」、あるいは「ある状況内部の状態」である。

この着想において、「表象」はそれ自体無限であり、構成的に「非全体 pas-tout」(あるいは非決定的 non-conclusive)である。それはどんな対象も表象しない。思うがままの継続的な「関係からの分離 un-relating 」を妨げはしない。…ここでは表象そのものが、それ自身に被さった逸脱する過剰 wandering excess である。すなわち、表象は、過剰なものへの無限の滞留 infinite tarrying with the excess である。それは、表象された対象、あるいは表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に固有の「裂け目」、非一貫性から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂け目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ“Alenka Zupancic、The Fifth Condition”2004)

たとえば、バディウの存在論の中核表現 l'Un n'est pas、mise-en-un、compte-pour-un等はマルクスーラカンに起源があるといってよい。

l'un, qui n'est pas, existe seulement comme opération. (参照

ーー欧米語のような繋辞に相当するものがない日本語ではとても訳しにくい文であるので仏文のまま引用した。

ところで日本語にも繋辞があるとすれば何なのだろう。大きく言って助詞の「は」が繋辞、「である」が繋辞のふたつの主張があるようだが(参照:日本語における繋辞(copula)についてのメモ)、実際に主要な欧米語の繋辞に相当するものがあるとは言いがたい。それは時枝誠記が指摘している→「繋辞と風呂敷」。

この「繋辞」をめぐっても上に引用した文のなかに柄谷行人の指摘があったが、ラカンであれば次の通り。

存在論は、言語のなかの繋辞 copula の使用に脚光を浴びせる、繋辞をシニフィアンとして分離して、だ。「あるêtre」という動詞に囚われることは…ひどく危険な大仕事だよ。そこには何もないのだがね、主人の言説(discours du maître )、つまり「私がある (私は主人だ)m'être」という言説が、「ある être」という動詞を強調しなかったら。(ラカン、セミネールⅩⅩ)
もし「ある être」という動詞がなかったら、「存在」などという(厄介な)ものはなかったのだが。[s'il n'y avait pas le verbe être, il n'y aurait pas d'être du tout.](セミネールⅩⅩⅠ)

《横棒 barre の機能はファルスと関係ないわけではない(la fonction de la barre n'est pas sans rapport avec le phallus.) (、Séminaire XX ENCORE Staferla 版 p.51)




ーーすなわち、ソシュールのS/s(意味するもの/意味されるもの)。

この横棒がファルス=繋辞である、としてよいだろう。


さてバディウの存在論の問いーーたとえばl'Un n'est pasーーの起源としては、たとえば次のようなものがある。

われわれは、思考にとって「AはAである」ということが昔からいかなる困難を引き起こしてきたかを知っている。「AはAである」というとき、AがかくもAならば、なぜAを自分自身から切り離し、すぐに置き戻すのであろうかというものである。(ラカン、セミネールⅩ「同一化」)

ここから現実界の定義さえ生み出される、《現実界とは形式化の袋小路である 》( “Le reel est un impasse de formalization,” )(ラカン、セミネール20)

象徴界と現実界を分ける棒線は、厳密に象徴界の内部のものである。というのは、その棒線が、象徴界が「それ自身になる」のを妨げるのだから。シニフィアンにとっての問題は、現実界に触れ得ないことではなく、「それ自身に到達する」ことが出来ないことだ。シニフィアンに欠けているものは、特別な言語の対象ではなく、「シニフィアン」自身、棒線を引かれない、何物にも邪魔されない〈一者 l'Un〉である。(ジジェク『為すところを知らざればなり』For They Know not What They Do; Enjoyment as a Political Factor - Slavoj Žižek 1996 私訳ーー“A is A” と “A = A”

もっともバディウなどとラカンの現実界には微妙な差異がある。

現実界は、バディウにとって裂開をもたらす出来事、ドゥルーズにとって生成変化(「なる」ことの過程)にかかわる一方で、ラカン派の現実界は実体でも過程でもない。むしろ、《過程を妨害する何ものか、躓きの石のような何かである。すなわち現実領野の構造のなかにある不可能性である》(ジュパンチッチ、Zupančič, The Odd One In,2008)

…………

やあ、やっぱりマルクス読まなくちゃだめだよ、そこらあたりの10年に一度程度の「思想家」だとか、柄谷行人や蓮實重彦だって30年に一度の「批評家」だし、ハイデガーやドゥルーズだっておそらく半世紀に一人程度の「哲学者」だろ? 2~3世紀に一人の思想家ってのは、マルクスだよーーフロイト、ラカンもオレの趣味でいえば入れてもいいがーー(カント、ヘーゲル趣味の人もいるのは知ってるさ)。

マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。(……)

次の著作は『マルクスの偉大さ』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。(……)私はもう文章を書きたくありません。マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいます。そうして後は、絵を書くでしょう。(ドゥルーズ「思い出すこと」ーー死の二年前のインタヴュー、死後1995年に発表)
…症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、…マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。(ラカン,.S.18,16 Juin 1971ーー抑圧は禁圧に先立つ)

つまりは商品のフェティシズム分析家としてのマルクスってわけだ。

商品形態の謎めいた性格とは偏に次のことにある;

商品形態が彼ら自身の労働の社会的性格を、諸労働生産物自身がもつ対象的な諸性格、これら諸物の社会的な諸自然属性として、人の眼に映し出し、したがって生産者たちの社会の総労働との社会的関係を彼の外に存在する諸対象の社会的関係として映し出す。この置き換えに媒介されて労働生産物は商品、すなわち人にとって「超感覚的な物あるいは社会的な物 sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge」になる。

労働の社会的性格が商品の社会的性格に転化するという関係は、人が視神経に結ぶ物の像ーーそれは外部の物から視神経が受ける主観的な刺激にすぎないーーを物そのものの姿として認識するのに喩えることができる。

だが、物の像が人に見えるという現象が物理的関係--外部の物が発する光が別の物である眼に投射されるーーを表しているのに対して、商品形態とそれが表れる諸商品の価値関係は何らの物理的関係も含んでいない。

だから(商品がもつ謎めいた性格の)類例を見出すには宗教の領域に赴かなければならない。そこでは人間のこしらえた物 Produkt が独自の命を与えられて、相互に、また人々に対していつでも存在する独立に姿で現れるからである。同様に、商品世界では人の手の諸生産物が命を吹き込まれて、互いに、また人間たちとも関係する自立した姿で表れている。

これを私は商品の呪物崇拝と名づける。それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist. (マルクス 『資本論』第1篇第四節「商品の物神的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」ーーフロイトとマルクスにおける「形式」

剰余価値も剰余享楽も厳密さをきさずに言えば、フェティッシュのことさ

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan,S.10)

◆ラカン、セミネール13 22 Décembre 1965 André Green

L'objet de Jacques LACAN. Rappel cursif

A) Le (a), médiation du sujet à l'Autre
B) Le (a), médiation du sujet à l'idéal du moi
C) Le (a), objet du désir
D) Le (a), fétiche
E) Le (a), objet du manque, cause du désir
F) Le (a), produit d'un travail

しかし厳密に言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか? Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(クリスティヴァ、1980,J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980ーー「言語自体がフェティッシュである」)