2016年9月9日金曜日

カントの「美は無関心」をめぐって

アレンカ・ジュパンチッチはカントの『判断力批判』における「美は無関心」ーー《美とは関心なし(ohne interesse)に人の気に入る(gefallen)何かである》ーーをめぐって、カントの「緑の草原」叙述箇所を参照することにより、次のような説明している(彼女にはラカンに依拠しつつのすぐれたカント論とニーチェ論があるのはよく知られている)。

第一段階は対象(客観)段階である。草原の緑色は対象的感覚に属している。「草原は緑だ」とは客観的判断である。

第二段階は主観段階である。色の快適さは主観的感覚・感情に属している。「私は緑の草原が好きだ」とは主観的判断である。それはまた「私は可能な限り何度も緑の草原を見たい」ことを意味する。これは我々を愉悦させる対象(緑の草原)への「然り」である。

第三段階は「然り」である。色へのではなく快適さ自体の感情への肯定である。我々を愉悦させる対象へではなく愉悦自体への肯定である。すなわち以前の「肯定」への「肯定」。

ここには感情自体、(判断の)対象になる感覚自体がある。「緑の草原は美しい」とは趣味判断・美的判断であり、それは「客観的」でも「主観的」でもない。

この判断は「無頭のacéphale」と呼ばれうる。というのは「私」・判断の「頭」は別のものに取って代わられているから。代替先は「草原は緑だ」の形式の言明のなかにあるような非個人の客観的中立性ではない。そうではなく主体の最も親密な部分である(主体自体が対象としての或る表象によっていかに情動されるのを感じるか、である)。
「無関心(Devoid of all interest)」が意味するのは、まさに我々は対象(緑の草原)の存在にもはや関わることなく、我々に与えられた快のみに関わることである。

特筆しなくてはならない、この第三段階がニーチェ哲学の中心テーマ、「肯定の肯定」にいかに近似しているかを。

ドゥルーズがとても巧みに提示しているように、ニーチェの「然り」の核心は、「然り」自体が別の「然り」によって肯定されなければならないことだ。(Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan,PDF)

ジュパンチッチの言いたいことは、ニーチェのカント批判にもかかわらず(後述)、カントの「美は無関心」はニーチェの中心的概念肯定の肯定に近似している、ということだ。ハイデガーもカントの「関心」概念の誤解を指摘している。《関心を抱くとはそれを自分で(所有し、使用し、支配するために)持とうと意志することである。(……)美しいという我々の判断は、関心によって強制された判断であってはならない》(ハイデガー『ニーチェ講義』)

さてジュパンチッチの上の文に引き続いてドゥルーズの『ニーチェ』からの要約引用があるが、ここではその前後もふくめてもうすこし長く引用する。

生の肯定(……)すなわち生成と多数性を肯定すること、ディオニュソスが八つ裂きにされ、手脚がバラバラとなる状態に至るまで肯定すること(……)。舞踏、軽やかさ、笑いがディオニュソスの諸特性である。肯定の〈力〉として、ディオニュソスは自らの鏡のなかに、ある一つの鏡を、自らの指輪のなかに一つの指輪を喚び出す。つまり肯定がそれ自身肯定されるためには、第二の肯定が必要なのである。ディオニュソスは一人のフィアンセを、アリアドネを持つのである(「おまえは小さな耳をしている。私と同じような耳を持っている、そこによくよく考えた言葉を入れてごらん!」)。唯一のよくよく考えた言葉とは、〈然り〉である。アリアドネは、ディオニュソスとディオニュソス的な哲学者を定義する諸関係の総体を、完成させるのである。(ドゥルーズ『ニーチェ』湯浅博雄訳、文庫P.63)

ドゥルーズ自身の註によれば、《生の肯定……ディオニュソスが八つ裂きにされ、手脚がバラバラとなる状態に至るまで肯定すること l'affirmation de la vie, l'affirmation du devenir et du multiple, jusque dans la lacération et les members dispersés de Dionysos》の依拠は、《八つ裂きに寸断されたディオニュソスは、生への約束である》(ニーチェ「遺された断想」1888年春)にある。

この文から、ラカンにすこしでも関心をもったことのある人なら、ラカンの対象aの定義のひとつをすぐさま思い起こすだろう。

私はあなたを愛する。だがあなたの中にはなにかあなた以上のもの、〈対象a〉がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらにする。[Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile.](ラカン、セミネール11)

ジュパンチッチの文に「無頭のacéphale」という形容詞が出てきているが、これも対象aあるいは欲動にかかわる用語である。

無頭の主体の様態としての顕現……根源的な形式のなかにある欲動la pulsion dans sa forme radical……manifestation, comme mode d'un sujet acéphale(ラカン、S.11)

ラカン的な観点からは、美とは、カントの崇高と美を混淆させたものであり、たんに快にかかわるものではなく、快原理の彼方にある欲動にかかわる。

美は、欲望の宙吊り・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。…que le beau a pour effet de suspendre, d'abaisser, de désarmer, dirai-je, le désir : le beau, pour autant qu'il se manifeste, intimide, interdit le désir.(ラカン、S.7)

ところでフロイトの欲動、ラカンの享楽とは何だったか。

享楽は「苦痛のなかの快 pleasure in pain 」である。もっとはっきり言えば、享楽とは対象aの享楽と等しい。対象aは、象徴界に穴を引き裂く現実界の残留物である。大他者のなかのリアルな穴real hole としての対象aは、次の二つ、すなわち剰余-残余のリアルの現前としての穴、そして全体のリアルWhole Realの欠如ーー原初の現実界 primordial Real は、決して最初の場には存在しないーー、すなわち享楽不在としての穴である。

リアルreal な残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? 最も純粋には、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽は、享楽欠如を享楽することのみを意味する。なぜなら、享楽するものは他になにもないのだから。(ロレンツォ・キエーザ「ラカンとアルトー」 、Lorenzo Chiesa、Lacan with Artaud: j'ouïs-sens, jouis-sans, jouis-sens、PDF

※欲動と享楽の微妙な相違をめぐっては、「欲動と享楽の相違」を参照のこと。

ニーチェの情動(Affekte)も、欲動として読める(実際、「欲動」としている訳者さえいる)。

権力への意志が原始的な情動(Affekte)形式であり、その他の情動は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

さて、こうやって見てみるとーーようはラカン派の観点、あるいはラカンに影響をうけた論者の観点からはーーアリアドネとは何なのか。

《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ》。「温室の写真」は、私のアリアドネだった。それが何か隠されたもの(怪物や宝石)を発見させてくれるからではない。そうではなくて、私を「写真」のほうへ引き寄せるあの魅力の糸が何で出来ているのかを私に告げてくれるだろうからである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

ロラン・バルトにとっての「私のアリアドネ」とは、プンクトゥムである。

ロラン・バルトの『明るい部屋』には、ラテン語のストゥディウム(studium)/プンクトゥム(punctum)という二つの概念がいたるところに提示される。

バルトによれば、

ストゥディウム(studium)、――、この語は、少なくともただちに≪勉学≫を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。(……)

プンクトゥム(punctum)、――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。(『明るい部屋』摘要)

また、《ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、プンクトゥムは、愛する(to love)の次元には属する》ものともある。

ここでロラン・バルトのもうひとつの(一見した)二項対立概念(快楽 plaisir/悦楽 jouissance)の叙述を別の書から抜き出してみる。

快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

快楽が制度内のもの/悦楽(享楽)は制度を揺るがすものとあれば、これは、ストゥディウム/プンクトゥムとほぼ等価である。だがこれは実は二項対立として捉えてはならない。

ラカン派では快楽の非一貫性(非全体pas-tout)の領域内部に外立ex-sistenceするものが享楽であるという言い方がされる。ようするに欲望の主体ーー実際は幻想の主体だが(参照)ーーの表象の裂け目に出現するものが享楽である。(現実界≒享楽とは、象徴化の袋小路に現れる(Le reel est un impasse de formalization,)(ラカン、セミネール20))。

たとえば、ラカンの性関係の不在という定式を受け入れるとしよう。そのとき性関係の不在とはファルス享楽の行き詰り(失敗)において(象徴界の表象の裂け目において)身体の享楽という現実界が現われる。たとえば口唇欲動、肛門欲動、眼差し・声等の部分対象(対象a)が現われる(失敗とは性交においてこれらの欲動が満足されていないということだ)。

バルトに戻れば、彼は最晩年、「人はつねに愛するものについて語りそこなう」(ーーロラン・バルトによって書かれた最後のテクストの題名であり、スタンダール小論でもある)と言っている。この愛するものはプンクトゥムである、《ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、プンクトゥムは、愛する(to love)の次元には属する》。

だが、なぜ愛するもの=プンクトゥムについて語るのが難しいのか?

たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分的な対象である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。 (『明るい部屋』p.58)
……(「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう。それはいかなる点においても一つの科学の明白な対象とはなりえず、語の積極的な意味において、客観性の基礎とはなりえない。時代や衣装や撮影効果が、せいぜい読者のストゥディウムをかきたてるかもしれぬが、しかし読者にとっては、その写真には、いかなる心の傷もないのである。)(『明るい部屋』pp.88-89ーー「アリアドネ・石鹸の広告・対象a」)

私のプンクトゥムであって、あなたのプンクトゥムではない。どうしてそんなものを容易に他人に語りうるのか。

このプンクトゥムは、別に何と呼ぼうとかまわないが、ラカン用語の対象a(剰余享楽)にひどく近似している。ロラン・バルトが悦楽=プンクトゥムとしているように読めると上に想定したが、悦楽とは、ロラン・バルトの文脈では、明らかに剰余享楽のことである。そもそも享楽自体は存在しない。

ようは、アリアドネとは対象aのこととして捉えうる。あるいは外密 extimité のこととして(場合によっては想像的自我+対象a=分身として[参照])。

そしてアリアドネ=美とは、私の最も内にある外部、モノとしての外密である、《extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(ラカン、S.17)、

la Choseとは、フロイトのdas Ding(モノ)だが、《他のモノは、本質的に、モノである« Autre chose » est essentiellement la Chose》 (S.7)とあるようにモノ=対象a である。

そして外密とは実はフロイトの「不気味なもの」のことでもある(参照)。フロイトがその論文『不気味なもの』で賞賛しつつ引用したシェリングの定義、《隠されているはずのもの、秘められているはずのものが表に現れてきた時は、なんでも「不気味なunheimilich」と呼ばれる》とジャック・アラン=ミレールの外密の定義をともに読んでみよう。

Extimité(外密)は親密の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。異物(フロイトのFremdkörper)、寄生物のようなものである(ミレール、参照

たとえば制作者側からみても、外密=美とは実は不気味なものを作ることではないだろうか。ラカンのセミネールⅦには名高い壺作りの話がある。

壺は穴を創造するものである。その表面の内部の空虚を。芸術制作とは無に形式を与えることである。創造とは(所定の)空間のなかに位置したり一定の空間を占有する何ものかではない。創造とは空間自体の創造である。どの(真の)創造であっても、新しい空間が創造される。

別の言い方であれば、どの創造も覆い(ヴェール)の構造がある。創造とは「彼方」を創り出し告知する覆いとして作用する。まさに覆いの織物のなかに「彼方」をほとんど触れうるものにする。美は何か(別のもの)を隠していると想定される表面の効果である。(同、ジュパンチッチ)

これはほとんどフェティッシュの定義でもある(ラカン派のフェティッシュの定義は、通念として流通するフロイトのフェティッシュの定義とは異なり、マルクスの商品分析におけるフェティッシュの定義に近いことに注意しておこう[参照])。

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan,S.10)
ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、《我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien]》。

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

「対象aが外密である(l'objet(a) est extime)」(S.16)ことと同じように、「見せかけsemblant 」が対象aであることはラカン自身が示している。



(ラカン、セミネールⅩⅩ)




外密・対象aはトラウマ(心的外傷)にもかかわる(参照:基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による))。

もしそうであるなら、ジュネ=ジャコメッティによる美の最も美しい定義(のひとつ)のなかにある「傷」という言葉もこの文脈によって捉えうる。

美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)

…………

※付記

ジュパンチッチの論のベースになっているニーチェの記述等を抜きだしておこう。

ニーチェのよく知られているカント批判のひとつに次の文がある。

「美とは関心なし(ohne interesse)に人の気に入る(gefallen)何かである」とカントは言った。この定義を、本当の「鑑賞者」であり芸術家である人がなした定義と比較して頂きたい。つまりスタンダールは、美は幸福を約束するものと呼んだのである。ここではいずれにせよ、カントが美的状態において浮き彫りにしたことがまさに拒絶され、消し去られているのである。それは無関心(le désintéressenment)である。果たしてカントが正しいのかスタンダールか。もっとも我らの美学者諸氏がカントを贔屓目にこんな事を量りに掛けてみたらどうだろう。美という魔法が掛けられて、いやそれどころか一糸纏わぬ女性の銅像を「関心なしに」観ることができるかどうかということである。おそらく彼らの無駄な努力に人はいささか笑いを禁じ得ないだろう。芸術家の諸々の経験はこのデリケートな点に関して「より関心を引く」ものであり、またピグマリオンが「審美的でない(unästhetisch)人間」であったというのはいずれにせよ当を得ていないのである。(ニーチェ『道徳の系譜』)

ハイデガーはこのニーチェのカント批判にたいして、「関心」という語のニーチェの誤解を指摘しつつ、《関心を抱くとはそれを自分で(所有し、使用し、支配するために)持とうと意志することである。(……)美しいという我々の判断は、関心によって強制された判断であってはならない》(『ニーチェ講義』としている(参照:林湛秀『ニーチェの美学批判について』PDF)。

カントの「関心」という語の意味がハイデガーのいう通りならーーわたくしはカントにもハイデガーにも疎いがーー、ニーチェ自身が似たようなことを言っている。それは「好奇心」という用語にてだ。ここではロラン・バルト、蓮實重彦を通したニーチェの「好奇心」を掲げよう。

快楽も、愛も、好奇心から生まれるものではない(……)。好奇心とは、感覚器官の粗雑さを忘れるために、知的に遂行されるストリップのごときものであり、自信にみちた心の動きだ。ニーチェにならって、「われわれは、精緻さが欠けているから、科学的になるのだろう」とバルトが書くとき、科学の名で指し示されているのは、まだ見えていないものへの究明へと人を向かわせるものが好奇心だとする社会的な、それこそ粗雑きわまる暗黙の申し合わせのことである。(蓮實重彦「倦怠する彼自身のいたわり」『表象の奈落』所収)

カントの「無関心」とは、柄谷行人が「括弧入れ」という用語を使って次のように語ったことでも知られる。

カントが、趣味判断のための条件としてみたのは、ある物を「無関心」において見ることである。無関心とは、さしあたって、認識的・道徳的関心を括弧に入れることである。というのも、それらを廃棄することはできないからだ。しかし、このような括弧入れは、趣味判断に限定されるものではない。科学的認識においても同様であって、他の関心は括弧に入れられねばならない。たとえば、外科医が診察・手術において、患者を美的・道徳的に見ることは望ましくないであろう。また、道徳的レベル(信仰)においては、真偽や快・不快は括弧に入れられなければならない。こうした括弧入れは近代的なものである。それはまず近代の科学認識が、自然に対する宗教的な意味づけや呪術的動機を括弧に入れることによって成立したことから来ている。ただし、他の要素を括弧に入れることは、他の要素を抹殺してしまうことではない。(柄谷行人「美学の効用」『ネーションと美学』所収)

…………

さて、これらの考え方と、ジュパンチッチの観点ーーつまりラカン派的観点ーーのどちらがより説得的であろうか。結局、美をめぐっての問いにおいても、フロイトの快原理の彼岸やタナトス、ラカンの享楽や対象a をどうとらえているかでその判断が大きく異なってしまう、とわたくしは思う。

私はどの哲学者にも挑んでいる。シニフィアンの出現と享楽が存在にかかわる仕方とのあいだにある関係を、この今確認するために…どの哲学も、言わせてもらえば、今日、我々に出会えない。哲学の哀れな流産 ces misérables avortons de philosophie 。我々はその哲学を後ろに引き摺っているのだ、前世紀(19世紀)の初めから、ボロボロになった習慣として。あの哲学オタクとは、むしろこの問いに遭遇しないようにその周りを踊る方法にすぎない。この問いとは、真理についての唯一の問いである。それは、死の欲動と呼ばれるもの、フロイトによって名付けられたもの、享楽の原マゾヒズム…。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。( Lacan, Le séminaire, Livre XIII: L'objet de la psychanalyse,1966ーー人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望

「美はおそるべきものの始まり」(リルケ『ドゥイノ』)でなかったら美とは何なのか? 美とは《刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目(……)、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然》でなかったら何なのか。美とは、ときにはできるだけ離れていたいと思う「無の彫刻」でなかったら何なのか?

……遠さ、戦慄、なにか異様なもの。彼はわれわれを試練に遭わせるーーあまりにも透明なあの音、昇華作用を経たあのピアノが耐え切れないという人々をわたしは知っている。このピアノを聴くと彼らの皮膚はひきつり、指は痙攣するのだ。試練はときに恐ろしいものを含んでいる。わたしもまた、そのせいで、彼があとに残したあの無の彫刻からできるだけ離れていたいと思うことがある。(ミシェル・シュネデール「グールド、ピアノソロ』)

形式的な観点からの美はもちろんある。

「軽薄にソネットを扱いそこにピタゴラス的な美をみないのは馬鹿げている」(ボードレール)。ピタゴラス的な美とは、”現実”や”意味”と無関係に形式的な項の関係のみで成り立つものである。(柄谷行人『隠喩としての建築』)

しかしながら、たとえば、《バッハの作品を見て、それが理論的であり、規則に厳格であると人はしばしば感嘆する。しかし、理論的であり、規則に厳格だからバッハの音楽が美しいと考えたら嘘になろう》(小倉朗)

いやもちろん形式美やロラン・バルトのいうプンクトゥム(punctum)ではなく、ストゥディウム(studium)の美に慰安を見出している人たちもいることだろう、そしてそれのみが「美」だと思い込んでいる人たちさえいるのかもしれない・・・

人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。

それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。

それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)

もちろんプルーストも外密 extimité のことを言っている、 私の最も内にある親密な外部、モノ=対象a としての外密を。--《extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(ラカン、S.7)

プルーストは『『失われた時を求めて』の表題を最初は『心情の間歇』にしようと考えていた。その心情の間歇をめぐる箇所には次のような表現がある。

自我であるとともに、自我以上のもの(内容をふくみながら、内容よりも大きな容器、そしてその内容を私につたえてくれる容器)だったのだ。 il était moi et plus que moi (le contenant qui est plus que le contenu et me l’apportait). (プルースト「ソドムとゴモラ Ⅱ」)