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2016年8月30日火曜日

分身Doppelgänger =想像的自我+異物 Fremdkörper

少し前ーーといっても二か月ほど前だがーー「不気味な親密」にて、heimilich = unheimlich とラカンの外密 Extimité とどう違うんだろうか? という問いを投げたが、ムラデン・ドラ―が1991年に次のように言っているのに行き当たった。

ーー「不気味なもの」は、仏語ではそれに相応しい言葉がない。だから、フロイトの『不気味なもの (Das Unheimliche)』は、L'inquiétante étrangeté.と訳されている。すなわち「不穏をもたらす奇妙なもの」。これは奇妙な訳語であり、ラカンはそのかわりに、《外密という語を発明した》(ムラデン・ドラ―、Mladen Dolar,I Shall Be with You on Your Wedding-Night": Lacan and the Uncanny,1991、PDF

これはラカン自身が直にそういっているわけではない。ただよく読めばそう読めるといっているのだろうと思う。

ドラー(彼はもちろんスロベニア三人組のひとりである、つまりジジェク、ジュパンチッチ、ドラ―)はこうも言っている。

分身とは、私 moi プラス対象aーー私のイメージに付け加えられた不可視の部分ーーと同じものである。…ラカンは「眼差し」を喪われた対象の至高の現前 presentationとした。鏡のなかで、人は自分の目を見る。しかし喪われた部分である眼差しを見ない。…分身が生み出す不安とは、対象の出現 appearance の最も揺るぎない徴 the surest signである。(Mladen Dolar, Lacan and the Uncanny,1991、PDF

つまり、ドッペルゲンガーDoppelgänger(分身)は、単純には、不気味なもの(外密 Extimité)ではない。外密プラス想像的自我moiということになる。

基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)」に記したように、ラカンは対象aは外密だといっている、《l'objet(a) est extime》(S.16)。そして、対象aはフロイトの異物 Fremdkörperでもある。

とすれば、分身とは想像的自我+異物ということになる(それぞれの概念の微妙な相違はあるに違いないが、ここでは簡略にそれを問わずにこう記す)。

ラカン自身はセミネールⅩ(不安)で、分身のイマージュl'image du double と非自律的主体 la non-autonomie du sujet とか、《人間は、イマージュの彼方にある〈他者〉 [ i'(a) ]のなかに位置づけられた点に自分の家(故郷)を見出す。[L'homme trouve sa maison en un point situé dans l'Autre [ i'(a) ], au-delà de l'image]》(S.10)等々といっており、これらの文から、ロレンツォ・キエーザ2007は、《分身とは i′(a) + a、想像的他者プラス対象a》としている。これはムラデン・ドラ―の言っていることと同じ意味だ。

ラカンはセミネールX にて、根本幻想を《窓の枠組みの上に位置づけられた絵 un tableau qui vient se placer dans l'encadrement d'une fenêtre》としてはっきりと叙述している。この《馬鹿げたテクニックTechnique absurde》はまさに《人が窓から見るものを見ない ne pas voir ce qui se voit par la fenêtre》こと、斜線を引かれた大他者・大他者のなかの欠如 Ⱥ を見ないことにある、と。

…エディプスコンプレックスの第二段階の初めに、子どもは窓ga深淵に枠を嵌めていることに気づく。彼は窓から容易に落ちる(母に呑み込まれる)かもしれない。したがって絵によって描写された光景は、深淵を覆い隠す機能を持っている。

さらに重要なのは、ラカンはセミネールX にて、そのような「防衛的」光景は、異なった諸主体にてどんな個別の特徴があろうとも常に、分身としての他者の非鏡像的 unspecularizable イマージュの肖像を描くと暗に示している。言い換えれば、根本幻想のなかで、想像的他者は 「欠如していないイマージュnonlacking image」 として「見られる」。このイマージュとは、主体から去勢され喪われた部分対象を所有している。したがって分身とは i′(a) + a、想像的他者プラス対象a である。

これが殊更はっきりと現れるのは、フロイトの名高い症例狼男においてである。ラカン曰く、彼の反復される夢は我々に《その構造のなかでヴェールを剥ぎ取られた純粋幻想 le fantasme pur dévoilé dans sa structure》の見事な事例を提供すると。窓が開かれ、狼たちが樹上に止まって患者を見詰める、彼自身の眼差しで(狼男自身の身体の非鏡像的残余にて)。ラカンはまたホフマンの『砂男』の物語において同様の光景に言及する。人形オリンピアは学生ナターニエルの目によってのみ完成されうる、と。(Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by 2007)




ロレンツォは、《分身としての他者の非鏡像的 unspecularizable イマージュ》としているが、ラカンも分身をめぐってヘーゲル用語とは異なる、と言っている。

Alors elle est la reine du jeu. Elle s'empare de l'image qui la supporte et l'image spéculaire devient l'image du double avec ce qu'elle apporte d'étrangeté radicale… et pour employer des termes qui prennent leur signification de s'opposer aux termes hégéliens …en nous faisant apparaître comme objet, de nous révéler la non-autonomie du sujet.(Lacan、S.10)

となれば、やはり柄谷行人の不気味なものの捉え方ーーこれも「不気味な親密」にて記したがーー間違っているように思える(少なくともラカン派観点からは)。

フロイトがいったように、「不気味なもの( unheimlich)」とは本来「親密なもの( heimlich)」である。つまり、自己投射にほかならない。また、われわれがいう他者は絶対的な他者ではない。それもまた自己投射にすぎない。われわれが考えるのは、むしろありふれた相対的な他者の他者性である。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

不気味なものは、けっして自己投射ではない。その残余である(剰余享楽=剰余価値である)。

残余とは上にもセミネールⅩの図を示したように「花束a」である。





いまさらだが、花束は部分対象である。花瓶が身体のイメージ(あるいは想像的自我)である(もっともこの光学的(鏡像)モデルにはいくらか欠陥がある。それゆえ後年のラカンはこのモデルを放棄した、と言われる。→参照:Stijn Vanheule,Lacan’s construction and deconstruction of the double-mirror device、2011

結局、1919年に出版された『不気味なもの』を読むための核心のひとつは翌年の『快原理の彼岸』とともに読むことだろう。

……二番目のポイントは、この論文がフロイトの進展する仕事のいっそう偉大な統合へ溶け入る仕方にかかわる。この論文の中ほどで、フロイトは「不気味なもの」とその幼児期の決定因とのあいだの関連を完全には展開できていないことを謝罪している。彼は読者に準備されている論文を引き合いにだして、中心的概念はそこで展開されるとする。問題の論文は『快原理の彼岸』であり、快原理の彼方にある反復強迫概念である。これは極めて重要である。

フロイトは言っている、「不気味なもの」は快原理の彼方・ファルス快楽の彼方に横たわるものに関係すると。それは他の享楽に繋がる。すなわち、脅威を与える現実界のなかのシニフィアンの外部に横たわるもの。我々は既に、反復強迫の機能をこの現実界を「拘束するもの」として叙述した。シニフィアンが始めから欠けている場に、現実界をシニフィアンに繋げる試みとして。(ヴェルハーゲ、PAUL VERHAEGHE,DOES THE WOMAN EXIST? 1999,PDF

フロイト自身の記述は次の通り。

……同種のものの繰返しの不気味さがいかにして幼児の心的生活から演繹されうるかを、ここではただ示唆するにとどめて、そのかわりこれについてはすでに、これを別の関連において詳細に論じた仕事のあることをお知らせしておく。つまり心の無意識のうちには、欲動生活から発する反復強迫の支配が認められる。これはおそらく諸欲動それ自身のもっとも奥深い性質に依存するものであって、快不快原則を超越してしまうほどに強いもので、心的生活の若干の面に魔力的な性格を与えるものであるし、また、幼児の諸行為のうちにはまだきわめて明瞭に現われており、神経症者の精神分析過程の一段階を支配している。そこで、われわれとしては、以上一切の推論からして、まさにこの内的反復強迫を思い出させうるものこそ不気味なものとして感ぜられると見ていいように思う。(フロイト『不気味なもの』旧訳、著作集3、p.344)

快原理の彼方にあるもの、それはラカン用語なら、ファルスの彼方にはあるものだ。

・ファルスの彼方には Au-delà du phallus、身体の享楽 la jouissance du corpsがある。(ラカン、S.20)

・現実界は話す身体の神秘であり、無意識の神秘である。(le réel, c'est le mystère du corps parlant, c'est le mystère de l'inconscient.)(S.20)

快原理の彼岸の主体の主体とは、欲望の主体 sujet du désir の「表象の裂け目」に現れる「欲動の主体 sujet de la pulsion」である(ラカンは欲動の主体にかかわるものとして、享楽の主体 le sujet de la jouissance、無頭の主体 le sujet acéphale、話す身体 le corps parlant 等々と言っている)。

ファルス享楽の彼方には、他の享楽 l'autre jouissanceがある。それは女性の享楽 La jouissance féminine、身体の享楽 la jouissance du corpsなどとも呼ばれる(参照:ラカンの身体概念の移行)。

くり返せば、これらは、フロイトにおいては、不気味なものや身体のなかの異物にかかわる。

…………

ここでの話とは関係がないが、愉快なGIF画像を見出したので、ここに貼付。







やあ、やっぱり肝腎なのは〈女〉じゃないだろうか。

神経症者が、女の性器はどうもなにか気味が悪いということがよくある。しかしこの、女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。(フロイト『不気味なもの』1919)

《人間は、イマージュの彼方にある〈他者〉 [ i'(a) ]のなかに位置づけられた点に自分の家(故郷)を見出す。[L'homme trouve sa maison en un point situé dans l'Autre [ i'(a) ], au-delà de l'image]》(ラカン、S.10)

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(ラカン、セミネール23、 サントーム)

《……この女性的マゾヒズムは、原初の、催淫的 erogenen マゾヒズム、苦痛のなかの快である。Der beschriebene feminine Masochismus ruht ganz auf dem primären, erogenen, der Schmerzlust, 》(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924 )

…… 《不安(=不気味なもの)の枠組み化 encadrement de l'angoisse》……、《寄る辺なさ Hilflosigkeit を越えた最初の治療 le premier recours au-delà de l'Hilflosigkeit》(Lacan.S.10)において、根本幻想はまた、無意識の水準において、不安の現実界を有効化する、《それは敵対性自体の(主体の)構成である c'est la constitution de l'hostile comme tel》。フロイトが名付けた性的(催淫的 erogenen)マゾヒズムラカンが享楽 jouissanceと名付け直したものの誕生である。(Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by 2007)

もちろんーーよく知られているようにーーフロイト・ラカン派の「女性的 feminine」というシニフィアンは、解剖学的性別とは関係がない。

ひとは、女性のポジションからのみ本当に愛することができます。「愛する女性」 Loving feminisesとはそういうことです。(ミレール、2009,Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”)

ーーと引用してきて、最後にここでの話題とつなげるが、〈女〉とは結局、異物(対象a・外密)のことである。

女の問題とは、(……)空虚な理想ーー象徴的機能――empty ideal‐symbolic function—を形作ることができないことにあるので、これがラカンが「女は存在しない」と主張したときの意図である。この不可能の「女」は、象徴的フィクションではなく、幻影的幽霊fantasmatic specterであり、それは S1ではなく対象 aである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳ーー難解版:「〈他者〉の〈他者〉は外-存在する」(ジジェク=ラカン)
女性性は、女にとって(も)異者である。したがって、彼女自身の身体という手段にて、女は「他の女」の神秘を敬う。「他の女」は、彼女が何なのかの秘密を保持している。すなわち、他の女を通して、リアルな他者を通して、彼女が何なのかを具現化しようと試みる。 ……

純化されたヒステリアの目的は、リアルな身体を作ることである。その身体のなかには、症状が住んでいる。症状の能動化の肉体的場。これがヒステリー的女の挑戦である。この身体、「症状の出来事」の場は、言説に囚われた身体とは同じではない。

言説に囚われた身体は、他者によって話される身体、享楽される身体である。反対に、話す身体le corps parlantとは、自ら享楽する身体un corps joui である。(The mystery of the speaking body,Florencia Farías, 2010、PDF

究極の異物とは子宮ではないだろうか・・・

偶然にも、ヒステリーの古代エジプト理論は、精神分析の洞察と再遭遇する一定の直観的真理を含んでいる。ヒステリーについての最初の理論は、Kahun で発見された (Papyrus Ebers, 1937) 4000年ほど前のパピルスに記されている。そこには、ヒステリーは子宮の移動によって引き起こされるとの説明がある。子宮は、身体内部にある独立した・自働性をもった器官だと考えられていた。

ヒステリーの治療はこの気まぐれな器官をその正しい場所に固定することが目指されていたので、当時の医師-神官が処方する標準的療法は、論理的に「結婚」に帰着した。

この理論は、プラトン、ヒポクラテス、ガレノス、パラケルルス、等々によって採用され、何世紀ものあいだ権威のあるものだった。馬鹿げた考え方ーーしかしながら、たいていの奇妙な理論と同様に、それはある真理の芯を含んでいる。

まず、ヒステリーはおおいに性的問題だと考えらてれる。第二に、身体の他の部分に比べ気まぐれで異物のような器官という想念をもって、この理論は事実上、人間内部の分裂という考え方を示しており、我々内部の親密な異者・いまだ知られていない部分としてのフロイトの無意識の発見の先鞭をつけている。

神秘的・想像的な仕方で、この古代エジプト理論は言っている、主体は自分の家の主人ではない(フロイト)、人は自分自身の身体のなかで何が起こっているか知らない(ラカン)、と。(Frédéric Declercq,LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE:2004)

男性のおちんちんだって、異物といえないことはないが、あれは外に出っ張ってるからな、《ラカンの造語「Extimité」……最も親密な intimité 部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外 ex に現れ、捉えがたいもの》(Richard Boothby、Freud as Philosopher、,2001)というわけにはいかない。もともと外部にある不如意棒だよ、たいして親密なもんじゃない・・・

しかも簡単に「捉えられる」のは次ののGIFの如し。