2016年9月7日水曜日

言語自体がフェティッシュである

人はみなフェティシストである」にて、「言語を使用してコミュニケーション(交換)する動物は、みなフェティシストである」としたが、ジュリア・クリスティヴァが1980年に既に言語自体がフェティッシュféticheではないかと言っている文に出会った、《Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 》。

しかし厳密に言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)

ここでのクリスティヴァの議論は、ラカンの友であったオクターヴ・マノーニ Octave Mannoni の名高い「よく知っているが、それでも…( je sais bien, mais quand-même)」のフェティシズムの論理をベースにしている。「よくわかっている、しかし、それでも……」という形式において、「それでも……」以下に語られる無意識的信念へのリビドー備給を示すフェティシズムの定式である。フロイト文脈で言えば、「母さんにペニスがないことは知っている、しかしそれでも…[母さんにはペニスがあると信じている]」ということになる。

だがクリスティヴァはこういった通念としてのフェティシズムの定義を超えて、言語自体がフェティッシュではないだろうか、と問うていることになる。

わたくしが、「言語を使用してコミュニケーション(交換)する動物は、みなフェティシストである」としたのは、ラカン派内では通説となっている次のような主人のシニフィアンS1の議論を元にしており、言語自体がフェティシュでありうることについてまでは思いを馳せていなかった。

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《「自己」とは、主体性の実体的中核というフェティッシュ化された錯覚であり、実際は何もない。》(ジジェク、2012)

あなたは、最低限の言語構造をもつために、少なくとも二つのシニフィアンが必要である。だから二つの用語がすでにある。それがS1とS2だ。S1は最初のシニフィアン、フロイトの「境界シニフィアン(境界語表象)border signifier」、「原シンボルprimary symbol」、さらに「原症状primary symptom」とさえ言えるが、特別な地位をもつ。それが主人のシニフィアンであり、欠如を埋めようとし、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン〈私〉である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。その意味で、S1は “le savoir”、その連鎖に含まれている知の分母denominatorである。 (ポール・ヴェルハーゲ、1995,Paul Verhaeghe、From Impossibility to Inability. Lacan's Theory of the Four Discoursesーー「四つの言説」(ラカン)概説(Paul Verhaeghe))

《〈私〉を徴示(シニフィアン)するシニフィアン(まさに言表行為の主体)は、シニフィエのないシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は主人のシニフィアン(S1)であり、「普通の」諸シニフィアンの連鎖と対立する。》(ジジェク、Less than nothing、2012)

ラカンは、フロイトの Ich-Spaltung(自我の分割)概念ーーフロイトによって、フェティシズムと精神病の病理的領域に限られた概念--をすべての主体に拡張した。それは、まさに言表内容の主体 sujet de l'énoncé と言表行為の主体 sujet de l'enonciation とのあいだの言語学的区別に言及することによって、である。主体は、《彼が話す限りにおいてのみ主体となるという理由で que le sujet subit de n'être sujet qu'en tant qu'il parle》(E.634)、分裂(分割 Spaltung)をこうむる。

話すことにおいて、そして話すために、主体はけっして十全に自分自身を現しえない。それは、言表内容のなかに現れないのではなく、言表行為によって前提とされ喚起されるものによる(言語の法等々)。(ロレンツォ・キエーザ,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007 PDF)。

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だがクリスティヴァの洞察を考え直してみると、「真のマルクス読み」は、それが暗示的な言い方であれ、既にとっくの昔から気づいていたと言ってよい。もちろんマルクスの「商品のフェティシズム」分析を読解することによってである。

たとえば27歳の小林秀雄。

吾々にとつて幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。(……)

脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物史観に於ける「物」とは、飄々たる精神ではない事は勿論だが、又固定した物質でもない。(小林秀雄「様々なる意匠」1929年)

《遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない》における魔術とは、言葉というフェティッシュの魔術でなくてなんだろう?

貨幣物神(Geldfetischs)の謎は、ただ、商品物神(Warenfetischs)の謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。(マルクス『資本論』)

通念としてのフェティッシュ(足フェチ、下着フェチ、靴フェチ等の謎は、言語フェティシュの謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない・・・

本源的なアタッチメントは、身体の上に言語の痕跡を刻印することである。根本的出来事・情動の痕跡化の原理は、誘惑ではない。去勢の脅かしでもなく、愛の喪失でもない。両親の性交の目撃でもなく、エディプスでもない。そうではなく、言語との関係である。 (Miller, J.-A. (2001). The symptom and the body event.)

小林秀雄だけでなく、柄谷行人もとっくの昔から分かっていたとしてよい(以下の柄谷の『マルクスその可能性の中心』は 1978年出版だが、マルクス論自体は『群像』1974-1975に発表されている。33-34歳時に書かれたことになる)。

マルクスは商品の奇怪さについて語ったが、われわれもそこからはじめねばならない。商品とはなにかを誰でも知っている。だが、その「知っている」ことを疑わないかぎり、商品の奇怪さはみえてこないのである。たとえば、『資本論』をふるまわすマルクス主義者に対して、小林秀雄はつぎのようにいっている。

《商品は世を支配するとマルクス主義は語る。だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するといふ平凡な事実を忘れさせる力をもつものなのである。》(「様々な意匠」)

むろん、マルクスのいう商品とは、そのような魔力をもつ商品のことなのである。商品を一つの外的対象として措定した瞬間に、商品は消えうせる。そこにあるのは、商品形態ではなく、ただの物であるか、または人間の欲望である。くまでもなく、ただの物は商品ではないが、それなら欲望がある物を商品たらしめるのだろうか。実は、まさにそれが商品形態をとるがゆえに、ひとは欲望をもつのだ。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)

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以下、資料編としていくらかの文章を引用しておこう。

一見したところ、商品はきわめて明白で平凡な物に見える。だがそれを分析してみると、形而上学や神学の細かな問題が一杯詰まった、ひじょうに複雑な物であることがわかる。(マルクス『資本論』)

マルクスは、ふつうの啓蒙主義的な言説とはちがって、(神秘的で神学的な実体であるように見える)商品が「ふつうの」日常的な過程から生まれるということを主張しているのではない。彼は反対に、批判的分析の仕事とは、一見するとごくふつうの物に見えるものの中から「形而上学や神学の細かな問題」を発掘することだと主張しているのだ。商品の物神崇拝=フェティッシュ(商品は内在的・形而上学的力をそなえた魔法の品物だというわれわれの確信)を、われわれの心の中に位置づけてはならない。つまりそれは、われわれが現実をどう(誤)認識しているかという問題ではない。そうではなく、社会的現実そのものの中に位置づけなくてはならない。いいかえると、マルクス主義者が物心崇拝にどっぷり浸かったブルジョワ的主体と出会ったとき、その主体に対するマルクス主義者の批判は、「商品は、あなたの目には特別な力をそなえた魔法の品物のように見えるかもしれないが、じつは人間と人間との関係の洗練された表現にすぎないのだ」というのではなくむしろ、「商品は、あなたの目には社会関係の単純な具現化に見えると(たとえば金は、自分が社会的産物の一部になるための一種の証明書にすぎないと)思っているかもしれないが、本当はそう見えていないはずだ。あなたは自分の社会的現実の中で生き、社会的交換に参加しているために、本当に商品が特別な力をそなえた魔法の品物のように見えるという不気味な現実を目撃しているのだ」というふうなものであるべきだ。(ジジェク『ラカンはこう読め』原著2006年)
マルクスによる価値形態論は、古典経済学が「高慢に冷笑し」去った、貨幣の呪物崇拝(フェティシズム)を再び正面から見さだめようとする企てである。なぜなら、この呪物崇拝こそ、古典経済学が無視しているにもかかわらず、資本主義の原動力として存続しつづけているからだ。したがって、価値形態論が、貨幣の呪物崇拝を否定しているかのようにみえても、それはけっして啓蒙主義的な批判ではなく、むしろ啓蒙主義=古典経済学への批判なのである。すなわち交換に合理的な根拠があるという考えへの批判にほかならない。

マルクスは、古典経済学が冷笑した“幻想”をこそ重視したのである。価値形態をとりだすということは、価値尺度や流通手段にとどまらないような呪物としての貨幣をとりだすことであり、あるいは交換の非合理性(無根拠性)をとりだすことである。だが、この解明が、貨幣のフェティシズムから商品のフェティシズムのレベルに遡行されてなされるとき、それがもはやいかなる意味でも啓蒙主義的でありえないことに注意すべきであろう。それは、“幻想”を批判しうるような合理的立場にいたるのではなく、商品であれ言語であれ、交換という行為にともなう“悲劇的”な条件を照らし出すことになるからである。(柄谷行人『探求』1986年)
・貨幣とは、言語や法と同様に、純粋に「共同体」的な存在である。

・貨幣共同体とは、伝統的な慣習や情念的な一体感にもとづいているのでもなければ、目的合理的にむすばれた契約にもとづいているのでもない。貨幣共同体を貨幣共同体として成立させているのは、ただたんにひとびとが貨幣を貨幣として使っているという事実のみなのである。

・貨幣で商品を買うということは、じぶんの欲しいモノをいま手にもっている人間が貨幣共同体にとっての「異邦人」ではなかったということを、そのたびごとに実証する行為にほかならない。いささか大げさにいえば、それは貨幣を貨幣としてあらしめ、貨幣共同体を貨幣共同体として成立させた歴史の始原のあの「奇跡」を、日常的な時間軸のうえでくりかえすことなのである。(岩井克人『貨幣論』1993)
21世紀──言語と法と貨幣が生み出す社会の「危機」はさらに激しさを増すはずです。……おそらく人間は、言語や法や貨幣といった異物の介入を嫌悪し、知り合ったもの同士が身を寄せ合っていた、小さく安定していた共同体的な集団に回帰したい願望を、本能的に持っているはずです。だが、……もはや閉じた小さな社会への後戻りは不可能です。すでに人間は「自由」なるものを知ってしまったからです。

自由への欲望は無限です。人間が自由を求める限り、言語と法と貨幣の媒介が必要になります。自由を知った社会的生物としての人間は、いくら母胎回帰の願望が強くても、見知らぬもの同士が同じ人間として関係し合える「人間社会」の中で生きていかざるをえません。そして、それが、必然的に生み出していく人間社会の「危機」を、その場その場で一つ一つ解決していくよりほかにないのです。(岩井克人『経済学の宇宙』2015ーー岩井克人版「人間の真のパートナーは、言語、法、貨幣」)

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マルクスと言わずとも、ニーチェも言語のフェティシズムを語っているとしてよいのかもしれない。

なおわれわれは、概念の形成について特別に考えてみることにしよう。すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなるのである。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。

すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような観念を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形というものが存在するかのような観念を与えるのである。(ニーチェ「哲学者の本」(『哲学者に関する著作のための準備草案』1872∼1873))
どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』)