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2016年9月5日月曜日

人はみなフェティシストである

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan,S.10)
ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、《我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien]》。

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)
ラカンの定式において、フェティシストの対象は、− φ (去勢)の上の「a」である。すなわち去勢の裂け目を埋め合わせる対象a である。(ジジェク、パララックス・ヴュー、2006)
フェティッシュと幻想は同じ地位にある。フェティッシュは母の去勢を覆う。(Vincent Zumstein, 2006)

去勢という言葉が嫌いな人は、ここでこう引用しておいてもよい。

・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique (S,17)

・去勢はシニフィアンの影響によって導入された現実的な働きである la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant (S.17)

幼児は話し始める瞬間から、その前ではなくそのまさに瞬間から、抑圧(のようなもの)がある、と私は理解している。
À partir du moment où il parle, eh ben… à partir de ce moment là, très exactement, pas avant …je comprends qu'il y ait du refoulement.(S.20)


大事なのは象徴的去勢と想像的去勢を混同させないことだ。

フロイト理論に反して、ラカンは「去勢」を、人間発達に構造的帰結として定義した。ここで、人は理解しなければならない。我々は話す瞬間から、現実界との直かの接触を喪うことを。それはまさに我々が話すせいである。特に、我々は、我々自身の身体との直かの接触を喪う。これが「象徴的去勢」である。そしてそれが、原初の享楽の不可能を補強する。というのは、主体は、身体の享楽を獲得したいなら、シニフィアンの道によって進まざるを得ないから。こうして、享楽の不可能は、話す主体にとって、具体的な形式を受けとる。

一方で、享楽への道は、〈他者〉から来た徴付けのために、シニフィアンとともに歩まれる。他方で、まさにこれらのシニフィアンの使用は、ある帰結をもつ。すなわち、享楽は、決して十全には到達されえない。これは、象徴界と現実界の裂け目にかかわる。シニフィアンが、享楽の現実界を完全に抱くことは不可能なのだ。

社会的に言えば、この構造的な既成事実の行使は、女と享楽・父と禁止をつなぐ。ともに、典型的な幻想ーー宿命の女(ファムファタール)の命取りの享楽・父-去勢者の復讐ーーと結びあわさったものだ。享楽は女に割り当てられる。なぜなら、母なる〈他者 〉(m)Other が、子どもの身体の上に、享楽の侵入を徴付けるから。子ども自身の享楽は、〈他者〉から来る。

享楽を近づけないようにする必要と、享楽への道の上に歯止めを作る必要は、次に、母と彼女の享楽を、ともに禁止されたものとしてーー想定上、父によって、去勢によって罰されるもにとしてーー特徴づける形式をとる。

この「想像的去勢」は根本的真理を覆い隠す。すなわち、人が話す瞬間から、享楽は不可能であるという真理を。これが、構造の既成の事実としての「象徴的去勢」である。

この理論とともに、ラカンは、フロイトのエディプスコンプレックス、そして彼自身の以前のその概念化の両方から、ともに離れた。享楽を禁止し主体を去勢で脅かす権威主義的父、それは、社会的神経症の構築物以外の何ものでもない。ア・プリオリな既成の事実、すなわち享楽の不可能性の上の構築物にすぎない、と。

構築物として、それは想像界の審級に属する。これは、アイデンティティあるいは享楽の問題であれ、最終的な全体性の可能性が夢みられたことを含意する。

これに対して、ラカンは象徴秩序を構造的に不完全なものとして考えた。そして、いっそう更に、この不完全性をシステムの機能にとっての不可欠なものとして見た。……(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009、私訳)

…………

さて、もとの文脈に戻れば、われわれはみな「倒錯的」である(参照:梯子 échelle と脚立 escabeau)。

去勢が意味するのは、欲望の〈法〉の逆さになった梯子 l'échelle renversée の上に到りうるように、享楽は拒否されなければならない、ということである。

La castration veut dire qu'il faut que la jouissance soit refusée, pour qu'elle puisse être atteinte sur l'échelle renversée de la Loi du désir. [Lacn,E827] 
倒錯とは、欲望に起こる不意の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である。享楽がけっしてその場ーーいわゆる象徴秩序が欲望をそこに置きたい場のなかにないという意味で。そしてこれが、ラカンが後に父の隠喩についてアイロニカルであった理由だ。彼は言う、父の隠喩もまた倒錯だ、と。彼は、父の隠喩をpère-version と書いた。…父へと向かう動き [vers le père]と。(JACQUES-ALAIN MILLER: THE OTHER WITHOUT OTHER、2013)

ラカンが言うように、人間の現実は「見せかけの世界 le monde du semblant」(S.18)であるなら、我々はみなフェティシストである。

ーーやあ、で、人間はみな妄想的だ、ってのとどう違うんだろ、これ?

人は皆妄想的である、« Tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant » (Lacan 1978)

いずれにせよ、マルクス『資本論』の「商品のフェティシズム」分析というのは、このフェティシズム=世界は見せかけの文脈で読まなくちゃいけない。

人は症状概念の起源を、ヒポクラテスではなく、マルクスに探し求めなければならない。[Chercher l'origine de la notion de symptôme… qui n'est pas du tout à chercher dans HIPPOCRATE …qui est a chercher dans MARX]》(Lacan,S.22,18 Février 1975)

資本論だけでなくさらに遡っても、「外被」とか「言語の異国性」とか言っている(参照)。

交換価値とは、人と人とのあいだの関係である、というのが正しいとしても、それは物という外被におおわれた関係、ということをつけくわえる必要がある。(マルクス『経済学批判』)
貨幣を言語と比較することも、これ(貨幣を血液と比較すること)におとらずまちがっている。(……)類推は言語のうちにあるのではなく、言語の異国性 Fremdheit のうちにある。(マルクス『グルントリセ』ーー)

すなわち言語を使用してコミュニケーション(交換)する動物は、みなフェティシストである。

しかし言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(クリステヴァ1980、J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection)