2016年8月19日金曜日

梯子 échelle と脚立 escabeau

les escabeaux de la réserve où chacun puise. (Lacan,AE.568,1975)

ーー誰もが脚立escabeauxを取っておかなくちゃいけない。つまり脚立が必要だといいうことだ。





脚立 escabeau とは、横断的概念である。それは、フロイトの昇華の生き生きした翻訳だが、それはナルシシズムとの交点にある。そして、言存在 parlêtre の時代に特有のつながりがある。脚立は昇華である。(ミレール、2014、L’INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANTLECTURE BY JACQUES-ALAIN MILLER)

 かつて(1960年)ラカンは欲望の〈法〉の「逆さになった梯子 l'échelle renversée」といった。

去勢が意味するのは、欲望の〈法〉の逆さになった梯子 l'échelle renversée の上に到りうるように、享楽は拒否されなければならない、ということである。

La castration veut dire qu'il faut que la jouissance soit refusée, pour qu'elle puisse être atteinte sur l'échelle renversée de la Loi du désir. [Lacn,E827] 

なんの法なのか。 基本的にはシニフィアンの法だが、ジャック=アラン・ミレールは法の五つの領域を示している(後述)。

ここではさきに欲望は享楽に対する防衛であるということを示しておく。

欲望は防衛、享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。

le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.) E825)

ミレールの欲望=防衛の説明であるならこうだ。

倒錯とは、欲望に起こる不意の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である。享楽がけっしてその場ーーいわゆる象徴秩序が欲望をそこに置きたい場のなかにないという意味で。そしてこれが、ラカンが後に父の隠喩についてアイロニカルであった理由だ。彼は言う、父の隠喩もまた倒錯だ、と。彼は、父の隠喩をpère-version と書いた。…父へと向かう動き [vers le père]と。》(JACQUES-ALAIN MILLER: THE OTHER WITHOUT OTHER、2013)

さて、ミレールのいうように倒錯的症状をもっているとして、つまりフェティシズムやらなんやらだけではなく、神経症こそが究極の倒錯 père-version(社会規範とまぐわった倒錯)症状だとして、ーーとはいえオワカリダロウカ?

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)
ピアノは生活の手段だった。(……)ピアニストとみなされると、人が聞きたがるものを弾くことになる。バッハを弾いているとそればかり求められるが、日本では数十年前のグレン・グールドの代用品にすぎないから、弾くだけむだと最近は思うようになった。(……)

確信をもっていつも同じ演奏をくりかえす演奏家がいる。この確信は現実の音を聞くことを妨げる障害になるのではないかと思うが、感性のにぶさと同時に芸の傲慢さをしめしているのだろう。演奏が商品でありスポーツ化している時代には、演奏家の生命は短い。市場に使い捨てられないためには、いつも成長や拡大を求められているストレスがあるのかもしれない。(高橋悠治「ピアノを弾くこと」

ーーこれが究極の父のヴァージョン=倒錯père-version の例である。

話を戻せば、梯子から脚立への移行とは具体的には何なのか?
おそらくこうだ。

人は梯子(イデオロギー的父の名)を取り払わなくてはならない。
だがそうすれば症状は裸になり、享楽(身体の現実界、無頭の主体)と直面してしまう。
それには耐えられない。なんらかの「症状」が必要だ。

症状は、われわれが"狂気を避ける"方法、われわれが、何も選択しない代わりに(ラディカルな精神病的自閉症、象徴的世界の崩壊)、何か(症状-形成物)を選択することである。その選択は、あるシニフィアンに、あるいは世界におけるわれわれの存在へ最低限の一貫性を保証してくれる象徴的形成物に、われわれの享楽を拘束することbindingを通してなされる。

もしこの根源的領域における症状が拘束から解放されてunboundしまったら、文字通り"世界の終わり"である、ーー唯一の代替物は無である、すなわち純粋な自閉症、精神病による自殺、死の欲動に身を委ねられ、象徴的世界の全き壊滅にさえ向かう。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989)

イデオロギー的梯子に囚われていてはならない。
ニーチェでさえ、ツァラトゥストラでさえ、〈他〉からきた梯子だ。

ーー《まことに、わたしは君たちに勧める。わたしを離れて去れ。そしてツァラトゥストラを拒め。いっそうよいことは、ツァラトゥストラを恥じることだ。かれは君たちを欺いたかもしれぬ。》(ニーチェ)

だが、すくなくともその代替となる個人独自の「梯子の代わり」を設置しなければならない。
それが脚立である。

精神分析実践の目標は、人を症状から免がれるように手助けすることではない。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置することである。(ヴェルハーゲ、2009,PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex)

ーー詳しくは、「エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論」を見よ

脚立 escabeau のbeau とは美である。
《美は現実界に対する最後の防衛である。》(ミレール)

「美はおそるべきものの始まり」(リルケ、ドゥイノ)であるとしても、
梯子で現実界を防衛するよりはましではないか。

欲動 Drive は主体を彼自身の限界を超えて駆り立てる drives。たんに欲望の問題である限り、人生は薔薇の寝床、笑と涙、とりわけ会話である。これは人生の道のりの安全な側だ! 欲望を超えて「他の人間」(他の享楽)に向かうとき、私は享楽に魅惑され・吐き気をもよおす。(ヴェルハーゲ、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE,1998)

人は吐き気にそれほど長いあいだ耐えられるわけではない。

なぜ我々は音楽を聴くのか? 対象としての声との遭遇の恐怖を避けるためである。リルケが美について言っていることは音楽にも当てはまる。美=音楽は、囮・スクリーン・最後のカーテンである。音楽は、(声の)対象の恐怖との直面から我々を防御してくれる。(ジジェク、"I Hear You with My Eyes"、1996)

たとえばロラン・バルトのいうアマチュアが脚立であるだろう(参照:知的スノッブたち、あるいは音楽のユートピア )。


ーーとはいえ、ここでの記述は、ラカン派という梯子に囚われているのではないだろうか・・・

メタ言語を破壊すること、あるいは、少なくともメタ言語を疑うこと(というのも、一時的にはメタ言語に頼る必要がありうるからである)が、理論そのものの一部をなすのだ。「テクスト」についてのディスクールは、それ自体が、ほかならぬテキストとなり、テクストの探求となり、テクストの労働とならねばならないだろう。(ロラン『作品からテクストへ』)
…………

◆法の五つの領域(JACQUES-ALAIN MILLER: THE OTHER WITHOUT OTHER,2013


なぜラカンは、その教えの出発点で、法へ情熱をもったのか。そして「大他者の大他者はない」と言ったとき、なぜそれを捨て去ったのか。ラカンは異なった法(言語、パロール、言説等の)を我々に教え、この表明に到った。…

第一に、言語学の法がある。ラカンがソシュールから借りてきたものだ。それはシニフィアンをシニフィエから、共時性を通時性から区別することに導く。ヤコブソンに見出した法もまたある。それは、隠喩を換喩から分節化し区別する。ラカンはこれらを法として・メカニズムとして語った。

第二に、弁証法的法がある。ラカンがヘーゲルのなかに探しにいったものだ。この法は告げる、言説のなかで主体は、他の主体の仲介を通してのみ、彼の存在を想定しうる、と。ラカンはこれを承認の弁証法的法と呼ぶ。

第三に、我々はラカンのなかに数学的法を見出す(これはある時期とても人気があったが、もはや我々のものではない)。例えば、ラカンが、最初の図式とともに、「盗まれた手紙」についてのセミネールにて探求したような法だ。あの α, β, γ, δ の図式は、無意識の記憶にとってのモデルを提供した。

第四に、社会学的法がある。ラカンがレヴィ=ストロースの『親族の基本構造』から採用した同盟と親族の法である。

第五に、想定されたフロイトの法、エディプスがある。それは、初期ラカンが法へと作り上げたものだ。すなわち「父の名」は「母の欲望」の上に課されなければならない。その条件のみにおいて、身体の享楽は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる、と。

さて、私は面倒を厭わず、法の5つの領域を列挙した。言語学的・弁証法的・数学的・社会学的・フロイト的である。ラカンが分析経験を熟考し始めたとき、少なくとも主体をめぐって教え始めたとき、この法の5つの領域は、彼にとって、象徴界と呼ばれるものを構成した。(……)
なぜラカンは、このように法概念に中心的重要性を与えたのか。それは疑いなく、彼にとって法は合理性の条件だからだ。さらに具体的にいえば、科学の条件である。ラカンはあたかも「法がある場にのみ科学はある」という箴言に駆り立てられていたかのようだ。

(……)しかしながら、はっきりさせておかねばならない。ラカンの教えにおいて、最初に駆り立てられていた後、この法の概念は消滅したことを。ラカンはそれを発明し導入した。それは彼の概念化にとっての基礎として現れた。象徴界・想像界・現実界のあいだの三幅対的分割の基本としてだ。だが彼はそれを持ち続けなかった。

注意しておかねばならない。この秩序の概念、法の5つの領域は混淆されていることを。言い換えれば、秩序という視点からは、それらは、事実上、同じものとして現れる。数学的法、弁証法的法等であれなんであれ。(……)

法がある場に、秩序がある。初期ラカンのシステムにおいて、唯一の秩序とは象徴界である。象徴界的秩序はーーもし人がこのように言うのを好むならーー想像界的無秩序と対立しうる。

象徴界において、各々のもの、各々の要素はその場のなかにある。正確に言えば、象徴界のなかにおいてのみ、場がある。想像界においては、対照的に、要素は場を入れ替える。したがって、事実上、場は区別できない。いや、要素自体が区別されうるかさえ確かでない。

想像界においては、別々の、分離した要素はない。象徴界において分離した要素があるようにはない。これらの用語にて、ラカンは、エゴと他者ーー外部にある自身のイメージであるのみの他者ーーとのあいだの関係を叙述した。そこには、自我と他者の相互侵入がある。想像界は、本質的非一貫性によって徴づけられて現れる。ラカンはかつて「影と反映」のみの存在とさえ言った。現実界とは、この秩序と不秩序とのあいだの分割の外部にあるものだ。それは純粋で単純である。(ミレール、2013、私訳)