2016年8月18日木曜日

サロメとフロイト(ヤッタ後の悲しみ)

原始的淋しさは存在という情念から来る。
Tristis post Coitumの類で原始的だ。
孤独、絶望、は根本的なパンセだ。
生命の根本的情念である。
またこれは美の情念でもある。
                                    
――西脇順三郎『梨の女「詩の幽玄」』より

Tristis post Coitum 、すなわち性行後の悲しみーー。

――……ずっと若い頃に、かなり直接的に誘われながらヤラなかったことが、二、三人にういてあったんだね。後からずっと悔やんだものだから、ある時から、ともかくヤルということにした時期があったけれども…… いまはヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢だね。(大江健三郎『人生の親戚』)





幸福とはまぢかい迫りつつある損失の性急な先触れにすぎないのだ
……
たとえば閾。愛しあう二人は、昔からある扉口の閾を
かれら以前の多くの人、またかれらの後にくる未来の人々と同様に
すこしばかり踏みくぼめるが、それは二人にとって 通常の閾だろうか……、いな、かろやかに越える閾なのだ、(リルケ、『ドゥイノの悲歌』「第九の悲歌」手塚富雄訳)





…………

ルー・アンドレアス・サロメは、1915年1月10日、直前に発表された『ナルシシズム入門』への応答としてフロイト宛に書信を送っている。…

《これはセクシュアリティの主要な問題なのではないでしょうか。セクシュアリティは、渇望を癒やしたいというよりも、むしろ渇望自体を切望することから構成されているのですね? 身体的緊張の解放と満足に到った状態は、同時に失望ということですね? というのは、緊張と渇望が減ってしまうのですから。》 (Freud-L. A. Salome, Brie fwechsel)

……サロメは、フロイトの快原理の議論の欠陥を明示し、新しい解決法に向かうよう促している。セクシュアリティは 「Durstsehnsucht 渇きへの欲望」であり、欲望自体への欲望であって、欲望の満足ではない。緊張の蓄積は快感でありうる。緊張の放出は失望をもたらす。快原理はよろめき始めた。フロイトはこの単純な見解を彼の理論のなかに反映させるために、5年を要した(『快原理の彼岸』1920 )。それは彼の以前の考え方すべての修正を余儀なくさせた。(ヴェルハーゲ、1999,DOES THE WOMAN EXIST?,PDF





《欲望は、満足への性向でも、愛への要求でもなく、二番目のものから最初のものを控除(引き算)することから生じる差異である。 C'est ainsi que le désir n'est ni l'appétit de la satisfaction, ni la demande d'amour, mais la différence qui résulte de la soustraction du premier à la seconde 》(ラカン、É, 691)

・彼女の抱擁には、自然力のというのか原初的というか、何か恐ろしいものがあった。きらきら光る青い目でみつめながら、“精液をうけとることは私にとって恍惚の絶頂です”と言うのである。そしてそれを飽くことを知らず求めた。

・愛しているときの彼女は、まったく無情だった。

・彼女はまさに不道徳であって敬虔であり、吸血鬼と子供とが同居している。彼女を愛したいという男たちに関するかぎり、彼女は自分の本能しか信じなかった。(ある老紳士の回顧ーーペータース『ルー・サロメ』)




ちなみに、わが妹は不幸をもたらすウジムシです。この二年間六度にわたって彼女は、私の最 高にして至福の感情―およそこの地上では稀であった感情―のただ中に、あまりに人間的な ものの卑劣きわまりない臭気を漂わせる手紙を放り込んできたのです。

いつも不思議に思って いたのですが、ローマでもナウムブルクでも、妹の言うことで私の気持ちを逆撫でしないことは ごく稀でした。

妹から手紙を受け取るたびに、サロメ嬢について語るその汚らわしい中傷のや り方に憤慨させられました。 (…)妹の一番最近の手紙の類いには法的に本来、横っ面を二、三 発張ってやるくらいがふさわしいでしょう。  (ニーチェ、オーヴァーベック宛書簡下書き)

Lou Andreas Salomé1934


……かれはあるとき厩舎に行き、雌牛の乳しぼりを見る。

「ほら、おちんちんからミルクが出ているよ」

すでにこれらの観察から期待できるのは、ハンス少年に見られたものの大部分とはいわないが、その多くは子供の性的発展に現われる典型的なものらしいということである。女子に、男性性器を吸うという考えが見出されても、さして驚くにはあたらないということを私はかつて論じておいた。このけしからぬ興奮のよってきたる原因は、非常に無邪気なもので、つまりそれは、母親の乳房を吸うことに由来するのであり、その場合雌牛の乳房はーーその機能上からいうと女性の乳房、形態および位置からは陰茎――格好の仲だちとなるのである。幼いハンスの発見は私の主張の後半の証明をしている。

さておちんちんに対する彼の興味は、単に理論的な面だけにとどまらず、予期された通り、彼に性器接触への興味を起こさせる。三歳半のときペニスをいじっているところを母親に見つかる。母親は脅かす。「そんなことをしていると、A先生に来ていただきますよ。先生はおちんちんを切っておしまいになります。そうしたらどこでおしっこをするの?」
ハンス「お尻」

彼は罪悪感も抱かずに返事をしているが、この機会に「去勢コンプレクス」を獲得している。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』)




上の文の註に、ルー・アンドレアス・サロメの名が出てくる。

〔1923年の追加〕去勢コンプレクス理論は爾来、ルー・アンドレアス、A、シュテルケ、F・アレクサンダーらの寄与によってさらに拡大されることになった。乳児はすでに母親の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり重要な、自己の所有権のある身体の一部の喪失と感じるにちがいないこと、規則的な便通もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、誕生行為がそれまで一体であった母親からの離別として、あらゆる去勢の原像であるということが認められるようになった。このコンプレクスのこれらすべての根源を容認したうえで、私はしかし、去勢コンプレクスという名称はペニスの喪失と結びついた興奮や影響にかぎるべきであると主張した。……

現在の潮流は、サロメのほうが正しかったという考え方に傾きつつある。たとえば、ヴェルハーゲ、2009の解釈は次の通り。

フロイトとともに、私はこの移行に、はるかに基本的な動機を見分ける。すなわち、最初の母と子どもの関係では、子どもは、その身体的な somatic 未発達のため、必然的に、最初の〈他者〉の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を表す。平明な言い方をすれば、子どもと彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。

そのときの基本的動機(動因)は、不安である。これは去勢不安でさえない。原不安primal anxietyは母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では最初の世話人caretakerとしてもよい。無力な幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに分離不安separation anxietyである。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを融合不安 fusion anxiety と呼んでみよう。もう一つの原不安、分離不安とは別に、である。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。しかしながら、彼の推論において、最初の不安は分離と喪失に関係し得るにもかかわらず、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このように、フロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的な加工(エラボレーションelaboration)とさえ言いうる。原不安は二つの対立する形式を取る。すなわち、他者は必要とされるとき、そこにいない不安、そして他者が過剰にそこにいる不安である。(PAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009ーー享楽 (a) とファルス化された対象a(Paul Verhaeghe)