想定してみようではないか。ラカンが大他者の大他者はあるという見解を維持した、と。そして、父の名は大他者の大他者のシニフィアンである、と。もし彼が精神病のセミネールⅢ の最後で書いたことを保持していたら、分析において光をもたらされる根本要素、分析の終わりにとっての決定因であるだろう要素は、あなたの父の名だろう。それはシニフィアンだ、あなたの身体が苦しんでいる享楽ーーその享楽へ意味を付与するシニフィアンであり、あなたにとってのシニフィアンの単独性 particularities だろう。 (ミレール、2013,JACQUES-ALAIN MILLER: THE OTHER WITHOUT OTHER)
この文の注釈はここではしない。ここではただラカンは「大他者の大他者はある」との思考の下の時期があるーーすくなくともセミネールV(1957‒1958)まではそうだ、参照:「メタランゲージはない」と「他者の他者はない」ーーということを示したいために掲げた(「大他者の大他者はある」とは、一般的には「大他者のイデオロギー的大他者(梯子)はある」ということであり、上の文でミレールが示唆したいことは、「大他者の大他者はない」からさらに反転して、欠如(穴)のシステムである象徴的大他者には個人の単独性としての大他者、つまり「脚立」が必要だということだが。→「梯子 échelle と脚立 escabeau」)。
…………
さて、大他者の大他者はある、という時代には、ラカンは「無意識は大他者は大他者の言説である」とか「無意識は言語のように構造化されている」とかを強調した。
1964年までのラカンは、抑圧された無意識を無意識それ自体と同じものとした。ゆえに彼は《無意識は大他者の言説である》と言う。(……)1964年以降、ラカンはシステム無意識における理論に集中する。
(……)以前のラカンは、無意識の言語学的側面を強調していた。1964年以降からのラカンの欲動と現実界への焦点は、…無意識における新しい理論をもたらす。(……)
ラカンは以前の観点を転覆させる。無意識は「非実現の non-réalisé」「未生の non-né」審級のものと。
《L'inconscient, d'abord, se manifeste à nous comme quelque chose qui se tient en attente dans l'aire, dirais-je du « non-né ».
Que le refoulement y déverse quelque chose, ça n'est pas étonnant, c'est le rapport aux limbes de la faiseuse d'anges. Cette dimension est à évoquer dans ce registre qui n'est ni d'irréel ni de dé-réel : de non-réalisé.》(Lacan.S.11)
この理論をもってラカンは、フロイトの「力動的無意識」と「システム無意識」とのあいだの対立を言い換える。一方で、我々には、夢を含めた無意識の形成がある。他方で、我々は欲動の核、対象a に直面している。
彼の言い換えは、この二つのあいだの独特な関係を強調している。無意識の形成は失敗する。というのは、完全な形で欲動を把握・覆うことに失敗するから(C'est le mode d'achoppement sous lequel il apparaît. Achoppement, défaillance, fêlure, voilà ce qui frappe d'abord.S.11)。無意識の形成は、欲動のファルス的部分を徴示する signify。しかし非ファルス的他の部分は徴示しえない。
この点においてラカンは、古典的分析が必ず逃避する「非全体 pas-tout 」の理論を導入する。事実、無意識の抑圧された部分のみが、厳密に決定づけられ分析しうる。ラカンはこの決定性の考え方を、いわゆるオートマン αύτόματον [ automaton ]として説明している。欲動の核は決定づけられない。それは対照的にテュケー τύχη [ tuché ]・偶然に属しさえし、偶発的な仕方で作動する。これらの二つのレヴェルは、継続的な相互作用をもつ。(ヴェルハーゲ、2001、 Beyond Gender. From Subject to Drive. PDF)
ーーここでの力動的無意識は、基本的に「システム意識+システム前意識」のことである(後にそれをめぐるフロイトの『無意識について』1915の記述を引用)。そしてオートマンは、無意識は言語のように構成されているの言い換えの一つである。自由連想もそのうちの一つ。だが自由連想とは実は自由ではないーーFree association is not free but lawfully determined in the chain of signifiers(ヴェルハーゲ、2004)。言語の法の囚われた「見せかけの自由」連想である。他方、我々には欲動の審級にあるテュケー τύχη [ tuché ]・偶然がある(セミネールXIで出てくるアリストテレスのテュケーは「僥倖」と訳されている)。
ところで、ヴェルハーゲの上の文2001は、(システム)無意識は言語のように構造化されていない、と読み替えうる。つまり、力動的無意識は、言語のように構造化されているが、システム無意識はそうではない。
André Greenが長年主張する《Si le préconscient peut être structuré comme un langage, ce ne peut donc être le cas de l'inconscient.》とは、システム無意識は言語のように構造化されていない、と言い換えることができる(参照:「前意識は言語のように構造化されているが、無意識はそうではない」)。
これは日本でもようやくそう言う人が出てきた → 東京大学の石田英敬氏のブログ(韓国での会議の講演録)。
We may note here that contrary to Lacan, for Freud, the Unconscious is not structured like a language.(2015年10月25日日曜日)
だが、冒頭のヴェルハーゲのの見解をとるなら、つまりシステム無意識が、ファルスの非全体の領域に外立するなら、さらにこう言えるーー、(システム)無意識は存在しない L'inconscient n’existe pas、すくなくとも象徴界には、と。
ところで、ラカンはこう言っている。
・ファルスの彼方には Au-delà du phallus、身体の享楽 la jouissance du corpsがある。(ラカン、S.20)
・現実界は話す身体の神秘であり、無意識の神秘である。(le réel, c'est le mystère du corps parlant, c'est le mystère de l'inconscient.)(S.20)
ーーこの二文はともに非全体の内部に外立する身体的無意識を言っている。
それはラカンによって、他の享楽 l'autre jouissance、あるいは女性の享楽 La jouissance féminine(身体の享楽la jouissance du corps)などとも呼ばれる(参照:ラカンの身体概念の移行)。
他の享楽は、身体のなかの異物 Fremdkorper として機能しつつ、ファルス享楽の内部に外立 ex-sist する。(ヴェルハーゲ、2001)
これらは結局、フロイトの「快原理の彼岸」の言い換えと言うことができる。つまり快原理の彼方(非全体ー非一貫性ー象徴界の裂け目)に外立する享楽ー欲動と。
抑圧された無意識は、無意識の部分だが、無意識とは一致しない。
さらにシステム無意識、全体のなかの非全体 pas-tout がある。フロイトの初期理論の用語では、これが意味するのは、自我によって逸らされ・他の領域に置かれた素材は、外部にあるのではなく、奇妙な形ではあるが、自我の部分を形成し続けるということである。この素材をフロイトは異物 Fremdkorper と呼んだ。内部にありながら内部にとって異質であるもの。現実界は、分節化された象徴界の内部に外立 ex-sist する。(同ヴェルハーゲ、2001)
ラカン用語の外立ex-sistence は、ハイデガーの Exsistenz からだが、起源はギリシャ語 έκστασηからであり、エクスタシーという意味(参照:ラカンのExtimité とハイデガーのExsistenz)。
また、ラカンの使用する ex-sistence の意味合いは、Extimité(外密)、あるいはフロイトのFremdkörper(異物)とほぼ同一と捉えうる(参照:防衛と異物 Fremdkörper)。
Extimité(外密)は親密の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。異物(フロイトのFremdkörper)、寄生物のようなものである。(ミレール)
さて、「無意識は存在しない」とだれか言っていないかとネット上を英仏文で探ってもなかなか見当たらない。なぜ誰も言っていないのかと不思議に思い、ふとジジェクを探ってみると、やはり彼だけは言っていた。
我々は、ラカンの 一連の “il n'y a pas…” (de l'Autre)と一連の “n'existe pas” を混同してはならない。 “n'existe pas” とは、取り消された対象の完全な象徴的実在 existence を否定している(既にヘーゲルにとって、実在 existence は存在 being ではなく、底に横たわる象徴的-概念的本質の外観としての存在である)。
他方、“il n'y a pas”とは、もっと根源的である。それが否定するものは、まさに亡霊のようなプレ本質的な彷徨う存在 being とプレ存在論的実体である。要するに、la Femme n'existe pas, mais il y a des femmes(〈女〉は実在しないが、女たちはいる)。同じことが神と無意識についても言える。神は実在しないが、我々に纏わりつく「神たちはいる」。無意識は、十全な存在論的実体としては実在しない(ユングは実在すると考えたが)。しかしながら、無意識は、我々に纏わりつくことをやめない。
この理由でラカンは言った、無神論の真の定式は、《神は無意識的である》と。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
これは別になんら奇異な話ではない。柄谷行人が無意識は事後的(遡及的)にのみ存在すると言っているのも同じことである。
柄谷)ドゥルーズは超越論的といいますが、これもまさにカント的な用法ですが、これを正確に理解している人はドゥルーズ派みたいな人にはほとんどいない。カントの超越論という観点は、ある意味で無意識論なんです。実際、精神分析は超越論的心理学ですし、ニーチェの系譜学も超越論的です。(中略)
ア・プリオリという言葉がありますけど、ア・プリオリというものは、実際には事後的なんです ―――無意識がそうであるのと同じように。それがほとんど理解されていない。さっき言った様相のカテゴリーはア・プリオリですが、それはたとえば可能性が先にあってそれが現実化されるというような意味ではまったくない。可能性とは事後的に見いだされるア・プリオリです。最近、可能世界論などといっている連中は、こんな初歩的なこともわかっていない。(『批評空間』1996Ⅱー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津/蓮實/前田/浅田/柄谷行人ーー結果は原因に先立つ)
…………
もちろんラカン派のなかにも別の捉え方をするひとがいるだろう。上の記述は絶対的なものではない。だが。いずれにせよ原抑圧をいかに捉えるかが核心である。
もちろんラカン派のなかにも別の捉え方をするひとがいるだろう。上の記述は絶対的なものではない。だが。いずれにせよ原抑圧をいかに捉えるかが核心である。
原抑圧とは、何かの内容を無意識のなかに抑圧することではない。そうではなく、無意識を構成する抑圧、無意識のまさに空間を創出すること、「システム意識・前意識」 と「システム無意識」 とのあいだの間隙を作り出すことである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
フロイトは、「システム無意識あるいは原抑圧」と「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」を区別した。
システム無意識は欲動の核の身体への刻印であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、まずは過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。
他方、力動的無意識は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的エラボレーションを表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。フロイトはこれをAbkömmling des Unbewussten(無意識の後裔)と呼んだ。これらは欲動の核が意識に至ろうとするさ遥かな試みである。この理由で、ラカンにとって、「力動的あるいは抑圧された無意識」は無意識の形成と等価である。力動的局面は、症状の部分はいかに常に意識的であるかに関係する、ーー実に口滑りは声に出されて話されるーー。しかし同時に無意識のレイヤーも含んでいる。(ヴェルハーゲ、2004、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics)
以下、フロイト『無意識について』1915ーー人文書院旧訳からだが、「翻訳正誤表」などを元に大幅に変更。
【記述的無意識とシステム的無意識】
さきにすすむまえに、重要ではあるが厄介な事実を確認しておこう。すなわち無意識性は心的なもの Psychische のひとつの目じるしであって、この目じるしだけでは、心的なもの Psychische の特性を全て尽くしてはいない、という事実である。無意識的であるという点では一致しているが、種々さまざまな地位を持った心的 psychisch 行為がある。無意識的なものが含むものにはふたつあって、一方には、たんに潜在的で、一時的に無意識的ではあるが、その他の点では意識的なものとなんらの差別のない行為があるし、またもう一方には、抑圧された事象のように、それが意識的になるときは他の意識的なものとまったくかけはなれているはずの事象がある。
われわれがこれから各種の心的 psychisch 行為を記述するにあたって、意識的であるか無意識的であるかは度外視して、たんに欲動と目標にたいする関係にしたがって、またその組成と所属にしたがって、たがいに序列化された心的 psychisch 諸システムへと分類し、それらを相互に関連づけてみるなら、すべての誤解に終止符をうつことになろう。
しかしながら、これはいろいろな理由から実現しにくい。そして、ある曖昧さをまぬかれない。つまりわれわれは意識的と無意識的という言葉を、あるときは記述的な意味につかうが、あるときはシステム的な意味につかって一定のシステムへの所属を意味し、ある属性を備えていることを意味したりする。認識された心的 psychisch 諸システムを、意識性に言及しない恣意的な名で呼ぶことで、このような混乱の予防をこころみてもよいかもしれない。
【無意識・前意識・意識】
・System Unbewußt (Ubw)- システム無意識(Ucs)
・System Vorbewußt (Vbw)- システム前意識(Pcs)
・System Bewußt (Bw) - システム意識(Cs)
だが、そのまえに、それらのシステムの差別を、どうしてきめるかという論拠を明らかにしなくてはならないだろうが、そのさい、意識性という目じるしを、さけることはできないだろう、それは、われわれの研究の、そもそもの出発点になっているのだから。おそらく、次のような提案が、いくらか助けになるであろう。その提案とは、これらの語をシステム的な意味で用いる場合には、すくなくとも書き物においては意識をBwと書き換え、それと対応する略し方で無意識的なものを Ubw と書き換えることである。
積極的ないいかたをすると、精神分析の成果からみて、心的 psychisch 行為は一般に二つの状態の相を通過し、その相のあいだには、一種の照合 Pruefung(検閲)が介在している。第一の相では、心的 psychisch 行為は無意識的であり、「システム無意識」System Ubwに属している。もしそれが照合に際して検閲によって追放 abweisen された場合には、第二の相にうつることは拒まれる。それは「抑圧された」のであって、無意識的なままにとどまる。
しかし照合 Pruefung に合致すれば、第二の相にはいってゆき、われわれが「意識」とよぶつもりである第二のシステムに所属する。しかしこのシステムに帰属しても、意識に対する関係は、なお一義的にはきまらない。それはいまのところ意識的ではないが意識可能であるEr ist noch nicht bewußt, wohl aber bewußtseinsfähig(ブロイアーの表現による)。
すなわち、ある条件がそなわれば特別な抵抗もなしに意識の対象となることができる。このように意識されるということを考慮にいれて、われわれは「システム意識」を「前意識」System Bw auch das »Vorbewußte«.とも名づける。前意識が意識されることもまた、ある検閲によってさだめられるという点を、とくにとりあげるべきときには、「システム前意識」と「システム意識」を、もっと厳重に区別することになろう。さしあたりは、「システム前意識」は「システム意識」の性質を共有し、「無意識」から「前意識」(あるいは「意識」)Ubw zum Vbw (oder Bw) への移行にさいしてきびしい検閲が行われることを、確証すればたりるだろう。pp.91-92
【抑圧:「システム無意識」と「システム前意識」(「意識」)の境界】
われわれは、抑圧が、本質的に、「システム無意識」と「システム前意識」(「意識」) Systeme Ubw und Vbw (Bw)の境界において、表象に対して行われる事象である、という結論をえた。そこでこんどは、あらためてこの過程を、もっとこまかくのべることにしよう。そのさい、充当の剥奪が問題とならなければならないが、しかしどのシステムで剥奪が行われ、剥奪された充当がどのシステムに帰属するかが問題になる。
抑圧された表象は、「無意識」の中で活動 Aktion 可能のままでいる。であるから、その充当を保持しているにちがいない。剥奪されたものはなにか別のものでなければならない。前意識的な表象あるいはすでに意識的な表象について行われる、本来の抑圧(追送)を例にとるならば、抑圧とは、「システム前意識」に属しているところの、(前)意識的な充当が表象から剥奪される点に成りたつことになる。そのとき表象は充当されないままになるか、「無意識」から充当をうけるか、あるいはすでに前からもっていた「無意識」の充当を保持するかである。
つまり前意識的充当が剥奪され無意識的充当を受けるか、あるいは前意識的充当を無意識の充当で代理するかである。それにしても、以上の考察には、「システム無意識」から次のシステムへの移行が記載の更新によるのではなく、状態の変化、充当の変遷 Wandel によっておこるという仮定が、偶然にも基礎になっているのに気がつく。機能的な仮定がここでは、局所的な仮定を容易におしのけたのである。p.97
【重要な差異:前意識的なもの/無意識的なもの】
われわれにとって、より重要な差異は、意識的なものと前意識的なもののあいだにではなくて、前意識的なものと無意識的なもののあいだにもとめられるべきである。
「無意識」は「前意識」との境界Grenzeで検閲によって却下zurueckweisenされ、その派生物はこの検閲を迂回し、高度に組織され、「前意識」の中である程度の強さの充当をもつまでに成長し、そしてそれ〈=「前意識」との境界〉を越えてしまったうえで、意識に侵入しようとするときは、「無意識」の派生物としてみとめられ、「前意識」と「意識」のあいだの新しい検閲の境界Grenzeであらためて抑圧されるのである。最初の検閲は「無意識」自身にたいしてはたらき、後のは無意識の「前意識」派生物にたいしてはたらく。検閲は個体の発達の経過中にいくらか前進したと考えられるであろう。(pp.105-106)
【語表象/事物表象(システム前意識(+意識)/システム無意識】
意識的な対象表象とよぶことのできるものは、いまや語Wort表象と事物Sach表象とにわけられる。それは、直接の事物記憶像Sacherinnerungsbildではないにしても、それに由来する、より隔絶されたentfernter〈=よりかすかな〉記憶痕跡の充当によって成りたつのである。いまとつぜんわれわれは、意識的表象がなにによって無意識的表象から区別されるかがわかると思う。
両者は、われわれが考えたように、異なった心的psychischな場所における同一の内容の異なった記憶ではなく、またおなじ場所における異なった機能的な充当でもなく、意識的表象は、事物Sach表象とそれに属する語Wort表象とをふくみ、無意識的表象はたんに事物Sach表象だけなのである。
「システム無意識」は対象の事物充当つまり最初で本来の対象充当をふくんでいる。「システム前意識」は、この事物Sach表象が、それに相応する語Wort表象と結合して重層充当をうけることによって生ずる。このような重層充当は、高次の心的psychisch体制organisationをもたらし、一次的過程を、「前意識」を支配している二次的過程によって交代することを可能にするものであると、推測することができる。
われわれはいま、転移性神経症において抑圧が、却下したzurueckweisen対象について拒絶してVerweigernいるものが何かを、正確に表現することができる。それは、対象に結ばれたままであるような語に翻訳することである。語のうちにとらえられない表象、あるいは重層充当をうけない心的行為は、抑圧物として「無意識」のなかに残される。(フロイト『無意識について』p111)
《逆備給こそ原抑圧に唯一の機制である。本来の抑圧(後期抑圧)では、「前意識」の備給の剥奪がつけ加わる。表象から剥奪されたその充当が、逆備給にふりあてられることは、大いにありうることである。
Die Gegenbesetzung ist der alleinige Mechanismus der Urverdrängung; bei der eigentlichen Verdrängung (dem Nachdrängen) kommt die Entziehung der vbw Besetzung hinzu. Es ist sehr wohl möglich, daß gerade die der Vorstellung entzogene Besetzung zur Gegenbesetzung verwendet wird.》(フロイト『抑圧』1915)
――「 備給(充当)Besetzung」を「リビドーLibido」で置き換えてもよい(同『抑圧』)
※R.ストラッティ英訳では「カセクシスcathexis」と訳される besetzung は、邦訳では「備給」、「充当」などである。フロイトは英訳のカセクシスを嫌ったそうだ、besetzungはもっと日常的語彙だと。だが備給も充当も日常的語彙ではない。なにかよい訳はないものか。他方、逆備給は、「脱備給」「対抗備給」「カセクシスの撤収」などとも訳される。
備給/逆備給を、エロス/タナトス(象徴界/現実界)と結びつけている注釈者もいるのだが、いまだ消化不良なのでここでは触れない。
…………
※付記:ヴェルハーゲ、2001
ーー途中から抜き出すので、これだけではわかりにくいようだったら、前後は「話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant」にある。
……この理論は、抑圧概念にて、いっそうの加工 elaboration を与えられる。重要なことは、フロイトは無意識の二つの異なった形式、知の二つの異なった形式を導入していることだ。
正式の抑圧ーー文字通りには「後期抑圧」(Nachdrängung)--は、言葉の素材、不快の担い手となる語表象をターゲットにしている。抑圧過程は、これらの語表象を弱めるための旺盛な注ぎ込み(備給 cathexis)をする。したがって、言葉の力動的な意味において、それらを無意識にする。
この備給は、別の語表象に移し変えられる。そこにおいて抑圧されたものの回帰が起こる。「後期抑圧」は、「抑圧された無意識」、あるいは「力動的無意識」を形成する。
この点において、ラカンのアイデア、すなわち、《無意識は言語のように構造化されている》を認めるのはそれほど難しくはないだろう。事実、抑圧された無意識は、〈他者〉からやって来るシニフィアンを伴っている。欲望(人間の欲望は〈他者〉の欲望)を基盤とした交換(無意識は〈他者〉の言説)、その交換のあいだにやって来るシニフィアンである。
これは素材の交換価値である。シニフィアンとして、〈他者〉から来る知を含んでいる。この知は、抑圧されたものの回帰によって、十全に知られうる。主体は、これについて、「全て」を知っている。しかし、知っていることを知らないだけである。この知は性的・ファルス的知にかかわり、フロイトは、解釈はつねに同じ事に終わると不平を漏らした。
この知は、フロイトの思考においても同様に限界に到る。「後期抑圧」の彼方には、無意識の別の形式に属する「原抑圧」が潜んでいる。したがって、知の別の形式も同様にある。そのプロセスとして、原抑圧は、まず何よりも「原固着」である。ある素材がその原初の刻印のなかに取り残されている。
それは決して語表象に翻訳されえない。この素材は「過剰度の興奮」に関わる。すなわち、欲動、Trieb または Triebhaft である。ラカンは「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」として欲動を解釈した。
これに基づいて、フロイトは、システム無意識 System Unbewußt (Ubw) 概念を開発した。このシステムは、「後期抑圧」の素材、力動的・抑圧された無意識のなかの素材に対して引力を行使する。(Mind your Body & Lacan´s Answer to a Classical Deadlock. In: P. Verhaeghe、原文)
彼には、現在のフロイト派の大半や自我心理学などはプレフロイトに退行しているという発言もある。
かつまた、1900年までのフロイトは別にして、1900-1913のフロイト、1914以降のフロイトを、フロイト Ⅰ、フロイト Ⅱに分けるなら、巷間に流通している通念としての事実上フロイトはーー用語そのものは理解されないまま後期の用語が流通しているがーー、フロイト Ⅰ でしかない、とも(フロイトは1914年の『想起、反復、徹底操作』で少なくも種々の概念上の境目がある。たとえばWiederholen(反復)からWiederholungszwang(反復強迫)正確に言えば「Zwang zur Wiederholen(反復することの強迫)」から「Wiederholungszwang(反復強迫)」)。
ーーとはいえ、こんなことをいまさら言っても仕方がないのかもしれない。
「まぁ、世界とはその程度のものです」(蓮實重彦)。それぞれの分野での「真の」専門家というのは実は世界に十人ぐらいしかいない。