2016年8月14日日曜日

「前意識は言語のように構造化されているが、無意識はそうではない」

André Greenは次のように言っているそうだ(WIKI)。

ラカンは「無意識は言語のように構造化されている」と言っている…しかしあなたがたがフロイトを読めば、明らかにこの主張は全く機能しないのが分かる。フロイトははっきりと前意識と無意識を対立させている(フロイトの言う無意識とは物表象によって構成されているのであって、それ以外の何ものによっても構成されていない)。言語に関わるものは、前意識にのみ属しうる。(Quoted in Mary Jacobus, The Poetics of Psychoanalysis 、2005)

彼がいつからこのように言い始めたのかはーーすこし調べてみたかぎりではーー判然としない。ただし、グリーンの発言の注釈者の論文のなかで、次のような叙述を見出しはした。《Si le préconscient peut être structuré comme un langage, ce ne peut donc être le cas de l'inconscient.》。おそらく1970年代にはすでにこのように言っていたようだ。

◆André Green, à propos de "la Mère morte"



ーーいやあ、すくなくともジャック=アラン・ミレールよりは大物っぽい・・・

とはいえ、ミレールはラカンの欠陥を見出しても「構造的に」文句を言えない立場に置かれている。

(ミレールの偉大な功績は、何よりもまず1965年ーーミレール21歳ーーに書かれた「SUTURE( 縫合)」だろうーー「ラカン自身以外によって最初に書かれたラカン派の偉大なテキスト」(バディウ)ーー、50年後の現在でも、いまだ主要テキストとして参照され続けているのだから。そのおかげで? 1966年Judith Lacanと結婚している)。

個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(マルクス『資本論序文』)

早婚のミレールには「社会的な諸関係」の不幸があったのではないか・・・




「ヒステリー女が欲するものは何か? ……」、ある日ファルスが言った、「彼女が支配するひとりの主人である」。深遠な言葉だ。ぼくはいつかこれを引用してルツーーモデルはアルチュセールーーに言ってやったことがあったが、彼は感じ入っていた。 (ソレルス『女たち』)

(Judith Miller Lacan)

ぼくは、いつも連中が自分の女房を前にして震え上がっているのを見た。あれらの哲学者たち、あれらの革命家たちが、あたかもそのことによって真の神性がそこに存在するのを自分から認めるかのように …彼らが「大衆」というとき、彼らは自分の女房のことを言わんとしている ……実際どこでも同じことだ …犬小屋の犬… 自分の家でふんづかまって …ベッドで監視され…(ソレルス『女たち』)

もちろんこれは、ナントイウノカ、ーー冗句である・・・

…………

André Green はすぐれた分析家でありラカン注釈者である。たとえばラカンのセミネール13 にて対象aのプレゼンテーションをしている。ラカンの当時はいまだ漠然として捉えがたいあれやこれやの発言から、対象a 概念を、おそらく最初に巧みにまとめた人物だった。

◆セミネール13 22 Décembre 1965 André Green

L'objet de Jacques LACAN. Rappel cursif

A) Le (a), médiation du sujet à l'Autre
B) Le (a), médiation du sujet à l'idéal du moi
C) Le (a), objet du désir
D) Le (a), fétiche
E) Le (a), objet du manque, cause du désir
F) Le (a), produit d'un travail

ラカンはこのプレゼン直後、すぐさま賞賛の言葉を送っている。

LACAN

Je remercie très vivement GREEN de cet admirable exposé qu'il vient de nous faire sur sa position à l'endroit de ce que j'ai, comme il l'a rappelé, patiemment amené, construit, produit et que je n'ai pas fini de produire concernant l'objet(a).……


たしかに、《前意識は言語のように構造化されているが、無意識はそうではない》とは、フロイト観点からはそう捉えうるかもしれない。

マルクスの C-M-C / M–C–Mʹ と ラカンの Φ/S(Ⱥ)」の末尾に次のように記した。すこし長いが再掲する。

…………

フロイトは「システム無意識」/「システム前意識+意識」の区分けをしている(『無意識』1915)。

①System Unbewußt (Ubw)- システム無意識(Ucs)
②System Vorbewußt (Vbw)- システム前意識(Pcs)
③System Bewußt (Bw) - システム意識(Cs)


との三つの区分はよく知られている。だが『無意識』論文では、①/「②+③」という区分けが強調されている。

「②+③」は「力動的無意識」とも呼ばれる。この区分の記述がある『無意識』論文の第四章の表題は「IV. Topik und Dynamik der Verdrängung (抑圧の局所性と力動性)」であり、そのためそう呼ばれるのだろう。


システム無意識は原抑圧にかかわり、力動的無意識は(主に)抑圧にかかわる。

フロイトは、「システム無意識あるいは原抑圧」と「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」を区別した。

システム無意識は欲動の核の身体への刻印であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、まずは過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。
他方、力動的無意識は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的エラヴォレーションを表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。

フロイトはこれをAbkömmling des Unbewussten(無意識の後裔)と呼んだ。これらは欲動の核が意識に至ろうとする試みである。この理由で、ラカンにとって、「力動的あるいは抑圧された無意識」は無意識の形成と等価である。力動的局面は症状の部分はいかに常に意識的であるかに関係する、ーー実に口滑りは声に出されて話されるーー。しかし同時に無意識のレイヤーも含んでいる。(ヴェルハーゲ、2004、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics)

…………

以上の観点からは、力動的無意識≒前意識は、たしかに言語のように構造化されている、と言いうるが、無意識ーーシステム無意識ーーは、言語のように構造化されていない。

晩年のラカンは次のように言っている。

これからお話しするのは、皆、おそらく混同していることが多々あるからです。わたしのスピーチがある種のオーラを発していて、そのことで皆、言語について、混同している点が多々見受けられます。わたしは言語が万能薬だなどとは寸毫たりとも思っていません。無意識が言語のように構造化されているからではありません。正確を期して言いますと、無意識は、一方的にララングのみに頼ってはいないからなのです。言語はすべて、ララングはすべて、現用のものではあれ、死んだ言語なのですが、無意識はこのララングの死んでいるという性質のみに依拠してはいないからです。(ラカン『ラ・トゥルワジィエーム』 La Troisième 31.10.1974 / 3.11.74
「言語は無意識からのみの形成物ではない」とわたしは断言します。なにせ、lalangue  に導かれてこそ、分析家は、この無意識に他の知の痕跡を読みとることができるのですから。他の知、それは、どこか、フロイトが想像した場所にあります。(ラカン、於Scuala Freudiana 1974.3.30ーー純シニフィアンの物質性

最初のほうだけ、仏原文を貼り付けておこう。

Je dis tout ça parce qu'on fait sans doute beaucoup de confusion, à cause d'une certaine aura de ce que, de ce que je raconte, on fait sans doute beaucoup de confusion sur le sujet : que le langage, je trouve pas du tout que ce soit la panacée universelle. C'est pas parce que l'inconscient est structuré comme un langage, c'est-à-dire que c'est ce qu'il a de mieux, n'est-ce pas, que l'inconscient ne dépend pas étroitement de lalangue, c'est-à-dire de ce qui fait que toute lalangue, toute lalangue est une langue morte, même si elle est encore en usage.


これらは、すくなくともララング観点から、l'inconscient est structuré comme un langageという命題のラカン自身による見直しの言明であるだろう。

すくなくともララングは、言語のように構造化されていない。

…ラカンは現実界をさらにいっそう身体と関連づけていく。もっとも、この身体は、前期ラカンのように〈他者〉を通して構築された身体ではない。彼は結論づける、「現実界は…話す身体 corps parlant の謎 、無意識の謎だ」(S.20)と。

この知は、無意識によって、我々に明らかになった謎である。反対に、分析的言説が我々に教示するのは、知は分節化された何かであることだ。この分節化の手段によって、知は、性化された知に変形され、性関係の欠如の想像的代替物として機能する。

しかし、無意識はとりわけ一つの知を証明する。「話す存在 l'être parlant の知」から逃れる知である。我々が掴みえないこの知は、経験の審級に属する。それはララング Lalangue に影響されている。ララング、すなわち、母の舌語 la langue dite maternelle、それが謎の情動として顕現する。「話す存在」が分節化された知のなかで分節しうるものの彼方にある謎めいた情動として。(ララングの享楽 la jouissance de lalangue、それは身体の享楽である)。(ヴェルハーゲ、2001(Mind your Body P. Verhaegheーー 話す存在 l'être parlant / 話す身体 le corps parlant)

上に掲げた発言と同時期(1974年)、(精神分析において)解釈をもたらすのは、ララングの水準においてだ、という意味の発言もある。

« C'est au niveau de lalangue que porte l'interprétation » ( Le phénomène lacanien ,1974)


2年後には、パロールは寄生虫、うわべ飾り。人間を悩ます癌の形式だよ、とも。

≪La parole est un parasite. La parole est un placage. La parole est la forme de cancer dont l'être humain est affligé.≫(Lacan,S.23、1976)

※より詳しくは、「中井久夫とラカン」を見よ

結局、ある時期までのラカンは象徴界の側面を強調しすぎた。

ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「創造と癒し序説」『アリアドネからの糸』所収)

晩年ーー70歳過ぎからーー、無意識は言語のように構造化されている、から距離を置き始めて、現実界に属する無意識に焦点をあてることになる(これは実際はセミネール11(1964年)あたりから徐々に移行していくのだが)。

最後に誤解のないように繰り返しておくが、力動的無意識は、言語のように構造化されている、と言いうる。ただし、システム無意識はそうではない。