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2016年8月13日土曜日

マルクスの C-M-C / M–C–Mʹ と ラカンの Φ/S(Ⱥ)

本源的に抑圧されているものは、常に女性的なるものではないかと疑われる。(Freud,  25. Mai 1897,Draft M)
抑圧は過度に強い対立的観念の構築によってではなく、境界的観念(表象) の激化によって起こる。(Freud, I January 1896,Draft K)

『夢判断』1900 以前のフロイトがスゴイと言われることがしばしばあるのだが、 上の二文というのは実にスゴイ・・・

順不同で「境界的観念(表象)Grenzvorstellung」と「女性的なるもの」に注目したい。

まず表象 vorstellung とはラカン派的にはシニフィアンのことである。

そしてラカン派にとっての境界シニフィアンは、大他者の非全体 pas-tout(非一貫性)のシニフィアンS(Ⱥ)である。

Ⱥは、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場のなかの欠如、つまり穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳ーー「欠如 manqué から穴 trou へ(大他者の応答 réponse de l'Autre から現実界の応答 réponse du réel へ」)

本源的に抑圧されているもの=女性的なもののにおける「女性的なもの」もしかり。大他者(象徴界)のなかに「女 La Femme」を表象するシニフィアンはない、すなわち「女は存在しない (La Femme n'existe pas)」。これは S(Ⱥ) と表示される。

ちなみに、S(Ⱥ) と Φ (ファルスのシニフィアン)の相違とは、非全体の論理/例外の論理のシニフィアンの相違である。この相違とは、カントの無限判断/否定判断、後期ウィトゲンシュタイン/前期ウィトゲンシュタイン(家族的類似性/語りえぬものは沈黙)にもかかわると(ラカン派内部では)言われる。

この文脈に則れば、本源的に抑圧されているものは、S(Ⱥ) であり、抑圧されているものの回帰は、S(Ⱥ) が回帰する。象徴界の非一貫性が回帰する、と言ってもよい。

抑圧されたものの回帰と抑圧とは同じものであるということには驚かないでしょうね? Cela ne vous étonne pas, …, que le retour du refoulé et le refoulement soient la même chose ? (ラカン、S.1)

より正確に言えば次のようなことになる。

ヒステリーの抑圧は、終わりのない循環的過程として機能する。どの抑圧もその抑圧をもってそれ自体の失敗を実現する。すなわち、抑圧されたものの回帰をもたらし、代わりの新しい抑圧を必要とする。(…)

フロイトは三つの論文にてこのような動きを叙述した。「シュレーバー研究」1911、『抑圧』1915、『無意識』1915である。(ヴェルハーゲ 1999,DOES THE WOMAN EXIST? PAUL VERHAEGHE ,PDF

※すこし後に、『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』、すなわちシュレーバー研究の記述を抜き出すので参照のこと。

…………

で、やっぱり柄谷行人もスゴイんじゃないか。とくに1978年の柄谷とは1890年代のフロイトと同様、30代の柄谷だ・・・

フロイトは、世界宗教を「抑圧されたものの回帰」とみなす。私はそれに同意する。しかし、抑圧されたものは「原父」のようなものではなく、いわば「社会的なもの」である。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年ーー第三部 世界宗教をめぐって、p.242)
マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。物象化とは、このことを意味する。それは、「人間と人間の関係が物と物と物の関係としてあらわれる」とか、関係が実体化されることを意味するのではない。(……)

くりかえしていえば、マルクスは、価値形態、交換関係の非対称性が経済学において隠蔽されていることを、指摘したのである。同じことが、言語学についてもいえるだろう。それは、いわば、教えるー学ぶ関係の非対称性を隠蔽している。非対称的な関係を隠蔽するということは、関係を、あるいは他者を排除することと同じである。それゆえに、言語学は、ヤコブソンがそうであるように、古典(新古典)経済学と同じ交換のモデル、たとえばメッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)というモデルから出発している。それは、共同体のなかでの交換のみをみることである。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978年、P.17)

原父殺し=言語による物の殺害(フロイト『モーセと一神教』)」で記したことの要点を抜き出せば、次の通り。

「対称的であり且つ合理的な根拠」/「社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係」とは、「メッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)」/「コード(貨幣)-メッセージ(商品)-コード(貨幣)」である(C-M-C/M–C–Mʹ)。

マルクスがC-M-C(商品-貨幣-商品)と呼んだもの、すなわち別の商品を買うために或る商品(労働力商品も含む)を貨幣に換えるという閉じられた交換ーーその機能は、交換過程の「自然な」基礎を提供するーーは究極的に虚構である。(ジジェク、 Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge,2016ーー快の獲得 Lustgewinn、剰余価値 Mehrwert、剰余享楽 plus-de-jouir)
Lustgewinn(快の獲得)は、フロイトの最初の概念的遭遇、--後に快原理の彼方、反復強迫に位置されるものとの遭遇である。そして、精神分析に M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])と同等のものを導入した。》(Samo Tomšič,The Capitalist Unconscious,2014)

このC-M-C/M–C–Mʹ とは、あきらかにΦ /S(Ⱥ) 、つまり、例外の論理/非全体の論理にかかわる(閉じられたシステム/開放システム)。

抑圧されたものの回帰とは、S(Ⱥ)が回帰する(もちろん通常の意味での「抑圧されたもの」とは別に、である)。そして、S(Ⱥ) とは原抑圧(原固着)にかかわる。

上にミレールによるS(Ⱥ) の定義を掲げたが、前期ラカンにとって、S(Ⱥ) は「大他者のなかの欠如のシニフィアン(Le signifiant du manque dans l'Autre)」だった。だが、これではファルス Φ と区別できない。

後期ラカンのΦ と S(Ⱥ) の定義とは次の通り。

・S(Ⱥ) は大他者の非一貫性(無限判断)のシニフィアン
・Φは大他者の欠如(例外の論理=否定判断)のシニフィアン

S(Ⱥ)を穴(ブラックホール)と呼び、Φを欠如と呼ぶ場合がある(参照:欠如 manqué から穴 trou へ(大他者の応答 réponse de l'Autre から現実界の応答 réponse du réel へ))。

柄谷行人は、意図してか否かは知らぬが、マルクスの価値形態論とブリュメールの説明の文脈において、「穴」という表現を使っている。

マルクスは『資本論』においていっている。貨幣が一商品であることを見ることはたやすいが、問題は、一商品がなぜいかにして貨幣となるかを明らかにすることだ、と。彼がポナパルドについていうのも同じことだ。ポナパルドに「痛烈にして才気あふれる悪口をあびせかけた」ヴィクトル・ユーゴーに対して、マルクスは、「私は平凡奇怪な一人物をして英雄の役割を演ずることをえせしめた情勢と事件とを、フランスの階級闘争がどんな風につくりだしていったかということをしめす」と書いている(『ブリュメール一八日』「第二版への序文」)。ユゴーのような批判を幾度くりかえしても、それは貨幣がただの紙きれだというのと同じく、何の批判にもならない。とはいえ、マルクスがいう謎は、たんに「階級闘争」というだけでも明らかにはならない。代表制あるいは言説の機構が自立してあり、「階級」はそのような機構を通してしか意識化されないということ、さらに、このシステムには一つの穴があるということ、そこに、ポナパルドを皇帝たらしめた謎がひそんでいるのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001,p.222)

さて本題に戻る。

「抑圧」は三つの段階に分けられる。

①第一の段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている「固着」である。(…)

②「正式の抑圧(後期抑圧)」の段階は、ーーこの段階は、精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーー実際のところ既に抑圧の第二段階である。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、抑圧の失敗、侵入、「抑圧されたものの回帰」である。この侵入とは「固着」点から始まる。そしてその点へのリビドー的展開の退行を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、摘要)

《Als dritte, für die pathologischen Phänomene bedeutsamste Phase ist die des Mißlingens der Verdrängung, des Durchbruchs, der Wiederkehr des Verdrängten anzuführen. Dieser Durchbruch erfolgt von der Stelle der Fixierung her und hat eine Regression der Libidoentwicklung bis zu dieser Stelle zum Inhalte.》(FREUD,Psychoanalytische Bemerkungen Uber einen autobiographisch beschriebenen Fall von Paranoia1911)

①の固着とは、原抑圧のことである(参照:原抑圧・原固着・原刻印・サントーム)。そして③を読めば、抑圧されたものの回帰は原抑圧=原固着にかかわることがわかる(すくなくともこの時点のフロイトはそう考えていた)。

くり返せば、抑圧されたものの回帰とは、S(Ⱥ) 、すなわち象徴界の非一貫性が回帰する。柄谷行人1978の言い方なら、マルクスのいう社会的なもの、《すなわち無根拠であり非対称的な交換関係》が回帰する。

ラカンのいう「真理の回帰」とはこのことである。それは知の裂け目のなかに表象される。

精神分析の誕生以前にさえ、症状と呼ばれる次元が導入されているのを観察しないでいられるのは難しい。症状は、真理の回帰 le retour de la vérité をある知の裂け目のなかに表象するものとしてはっきり表現されている。(……)この意味で、この次元は、マルクスによる批判のなかに顕著に識別しうる、仮に明示的に示されていなくても。.(Lacan, « Du sujet enfin en question », Écrits,,1966, p. 234.) à n'y être pas explicitée, est hautement différenciée dans la critique de Marx.(Lacan, « Du sujet enfin en question », Écrits,,1966, p. 234.ーー抑圧は禁圧に先立つ

極東の島国でも現在「抑圧されたものの回帰」が起こっているのは、ミナサンの知る通り。

いわゆる「民主主義の危機」が訪れるのは、民衆が自身の力を信じなくなったときではない。逆に、民衆に代わって知識を蓄え、指針を示してくれると想定されたエリートを信用しなくなったときだ。それはつまり、民衆が「(真の)王座は空である」と知ることにともなう不安を抱くときである。今決断は本当に民衆にある。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』2009)

たとえば、「戦後レジームからの脱却」という安倍晋三のくり返す標語の「真の意味」は、戦前の回帰である、とされることがあるだろう。

安倍政権は、経済政策のアベノミクスが「富国」を、今回の特定秘密保護法や、国家安全保障会議(日本版NSC)が「強兵」を担い、明治時代の「富国強兵」を目指しているように見えます。この両輪で事実上の憲法改正を狙い、大日本帝国を取り戻そうとしているかのようです。(浜矩子・同志社大院教授

だがここでの文脈では、それは「後期抑圧」が回帰しているという限定的解釈の範囲を出ない(シュレーバー症例の引用の②)。ようするに、それは潜在思考の回帰にすぎない。すなわち単に前意識的なものの回帰である。

フロイトは絶えず強調している。潜在夢思考のなかには「無意識」的なものは何もない、と。潜在夢思考は、日常の共通言語の統語法のなかで分節化されうる全く「正常な」思想である。トポロジー的には、意識・前意識のシステムに属する。主体は通常それを知っている。過度に知っているとさえ言える。潜在思考はいつも彼をしつこく悩ます…

構造は常に三重である。すなわち、「顕在夢内容」・「潜在夢内容あるいは夢思考」・「夢のなかで分節化される無意識の欲望」。この欲望は自らを夢に結びつける。潜在思考と顕在テキストとのあいだの内的空間のなかに自らを挿し入れる。したがって、無意識の欲望は潜在思考と比べて「より隠された、より深い」ものではない。それは、断固として「より表面にある」。(…)

言い換えれば、無意識の欲望の唯一の場は、「夢」の形式のなかにある。無意識の欲望は、「夢の仕事」のなか、「潜在内容」の分節化のなかに、自らをはっきりと表現する。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989、手元に邦訳がないので私訳ーーフロイトとマルクスにおける「形式」

社会的次元における原抑圧的なものの回帰ーー真の無意識的なものの回帰とは、《無根拠であり非対称的な交換関係》の回帰であり、こちらが根源的な回帰現象である。

…………

※付記

フロイトは「システム無意識」/「システム前意識+意識」の区分けをしている(『無意識』1915)。

①System Unbewußt (Ubw)- システム無意識(Ucs) 
②System Vorbewußt (Vbw)- システム前意識(Pcs) 
③System Bewußt (Bw) - システム意識(Cs)

との三つの区分はよく知られている。だが『無意識』論文では、①/「②+③」という区分けが強調されている。

「②+③」は「力動的無意識」とも呼ばれる。この区分の記述がある『無意識』論文の第四章の表題は「IV. Topik und Dynamik der Verdrängung (抑圧の局所性と力動性)」であり、そのためそう呼ばれるのだろう。

システム無意識は原抑圧にかかわり、力動的無意識は(主に)抑圧にかかわる。

フロイトは、「システム無意識あるいは原抑圧」と「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」を区別した。

システム無意識は欲動の核の身体への刻印であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、まずは過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的エラヴォレーションを表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。

フロイトはこれをAbkömmling des Unbewussten(無意識の後裔)と呼んだ。これらは欲動の核が意識に至ろうとする試みである。この理由で、ラカンにとって、「力動的あるいは抑圧された無意識」は無意識の形成と等価である。力動的局面は症状の部分はいかに常に意識的であるかに関係する、ーー実に口滑りは声に出されて話されるーー。しかし同時に無意識のレイヤーも含んでいる。(ヴェルハーゲ、2004、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics)