2016年8月11日木曜日

結果は原因に先立つ

抑圧は禁圧に先立つ」にて、次の文を引用した。

抑圧されたものの回帰は、過去からではなく未来から来る le retour du refoulé …… ça ne vient pas du passé, mais de l'avenir(ラカン、セミネールⅠ)

以下、もう少し詳しくみてみよう。

…………

まず序奏。

現象に立ちどまって、「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義に反対して、私は言うだろう。いや、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ、と。われわれは、いかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理だろう。(ニーチェ『力への意志』)
真理は、判断や主張としての思考ではなく、現実界のなかの過程としての思考に従属されなければならない。(バディウ、On the Truth-Process by Alain Badiou,2002)
真理は哲学によって生み出されるものではなく、芸術とは、それ自体が「真理の過程[procédure de vérité]」 を体現するものである(Petit manuel d’inesthétique, « Lʼordre philosophique », 1998).

バディウの言っている《真理は、判断や主張としての思考ではなく、現実界のなかの過程としての思考に従属》するとは、フロイトの「夢の仕事」とほとんど同じ意味である、とわたくしは思う。

構造は常に三重である。すなわち、「顕在夢内容」・「潜在夢内容あるいは夢思考」・「夢のなかで分節化される無意識の欲望」。この欲望は自らを夢に結びつける。潜在思考と顕在テキストとのあいだの内的空間のなかに自らを挿し入れる。したがって、無意識の欲望は潜在思考と比べて「より隠された、より深い」ものではない。それは、断固として「より表面にある」。(…)

言い換えれば、無意識の欲望の唯一の場は、「夢」の形式のなかにある。無意識の欲望は、「夢の仕事」のなか、「潜在内容」の分節化のなかに、自らをはっきりと表現する。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989、手元に邦訳がないので私訳ーーフロイトとマルクスにおける「形式」

さらにバディウの文に「現実界」 という用語が出てきたので、その起源のひとつのラカンの文、そしてジジェクの解釈ーーわたくしにとってはいまのところ決定版の定義ーーを掲げておこう。

《現実界は、形式化の行き詰りにおいてのみ記される。[…le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation]》(ラカン、セミネール20)

現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に固有のものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体 pas-tout である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。

存在 being(現実 reality)があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

※ラカン派内部でも異なった解釈があるのは、「何かが途轍もなく間違っている(ジジェク 2016→ ミレール)」を見よ。

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さて、冒頭の《抑圧されたものの回帰は、過去からではなく未来から来る》にて、ラカンは何を言いたいのか。

次のことを忘れないで下さい。フロイトは抑圧をまずは固着として説明します。しかし固着の時期、抑圧のようなものはなにもありません。狼男の抑圧は固着のはるか後に産出されます。

Verdrängung (抑圧) はつねに Nachdrängung (後抑圧) です。 さてこのとき、抑圧されたものの回帰 le retour du refoulé をどのように説明できるでしょう。たとえパラドクサルであっても、これを説明する方法はひとつだけです。それは過去ではなく未来から来ます。 ça ne vient pas du passé, mais de l'avenir

症状における抑圧されたものの回帰がなんであるかについて正しい考えをもつためには、私がサイバネティックス研究者たちから拾ってきたメタファーをもう一度取り上げなくてはなりません。これによって私は自分で発明することを避けることができます。なぜならあまりに多くの事柄を発明すべきではありません。

ウィーナー Wiener は、時間次元が互いに逆方向に向かう二人の人物を想定します。もちろん、これはなにも意味しません。かくして、なにも意味しないことが、突然なにかを、しかし別の領域で、意味します。一人が他者にメッセージ、例えば正方形を送ると、逆方向に向かう人物は、 正方形を見る前に、 まずは消えつつある正方形を見ることになります。

これをわれわれ (分析家も) もまた見ています。 症状はまずわれわれ分析家に痕跡 trace として提示され、これはあくまでも痕跡にすぎません。精神分析が十分進展し、われわれが その意味を実現するまで、つねに理解されないままでしょう。こう言うこともできるでしょう。Verdrängung は Nachdrängung(後抑圧)にほかならないのと同様、われわれが抑圧されたものの回帰のもとに見るものはなにものかの消されたシーニュle signal effacé であり、このなにものかは未来において象徴的実現 réalisation symbolique、その主体の歴史への統合によってのみその価値をとります。文字通り、それは成就のある時点で、aura été ものです。(ラカン、セミネール1巻「フロイトの『技法論』1954 年 4 月 7 日 より、保科正章試訳ーー、ただし一部変更)

ここでの鍵言葉は、象徴的実現 réalisation symbolique と aura été だろう(aura été は何と訳したらいいのか判然としないが、保科訳では仏文だけになっており、岩波書店版訳では「存在しているだろう」となっている)。

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次に、ラカンによる「抑圧されたものの回帰は過去ではなく未来から来る」の初期ジジェクによる解釈の一部(マイケル・ダメットの「結果はその原因に先立ちうるか 」(Can an Effect Precede its Cause?,Michael Dummett,1954)等に触れつつの)を掲げる。

ーーここでは仮に aura été ーージジェク英文では‟will have been”となっているーーの箇所を「そうなるであろう 」と訳した。


◆「イデオロギーの崇高な対象」1989 より

もし症状においてーーラカンが指摘するように--、抑圧された内容が過去からではなく未来からやって来るのなら、そのとき転移--無意識の現実の現勢化--は、我々を過去ではなく未来の中に移し向ける。

そして「過去のなかへの旅」とは何なのだろう、もしシニフィアン自体のこの遡及的な徹底操作・エラヴォレーション(練り上げ elaboration )でないなら?過去の幻覚的「演出 mise-en-scène」の一種、シニフィアンの領野、この領野においてのみ、我々は過去を変容させ過去をもたらしうるという事実の演出でないなら?

過去は存在する、過去はシニフィアンの同時的網目のなかに含まれ入り込んだものとして。すなわち、過去は歴史的記憶の織物のなかに象徴化されている。そしてこの理由で、我々は常に「歴史を書き替える」。諸要素を象徴的重要性に遡及的に付与し、新しい織物のなかに織り上げる。このエラヴォレーション、それが遡及的に「そうなるであろう aura été」ことを決定する。

オックスフォードの哲学者マイケル・ダメットはとても興味深い二つの論を書いている。 (…)「Can an Effect Precede its Cause? (結果はその原因に先立ちうるか)」と「Bringing About the Past(過去を変える)」である。この二つの謎へのラカン派の答えは、〈可能だ yes〉である。というのは「抑圧されたものの回帰」としての症状は、まさにその原因(その隠された核、その意味)に先立つ効果だから。そして症状の徹底操作において、我々はまさに「過去を変える」。我々は過去の、長いあいだ忘れられていた心的外傷性出来事の象徴的現実 symbolic reality を生み出しうる…。(ジジェク、イデオロギーの崇高な対象、1989、私訳ーー手元に邦訳はないため)

※「徹底操作」概念については、「主体の解任 destitution subjective/幻想の横断 traversée du fantasme/徹底操作 durcharbeiten」を見よ

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柄谷行人にも、《原因は結果によって遡及的に構成されている》という記述がある。

カントの第三アンチノミーにおける正命題は、スピノザの考えーーすべてが原因によって決定されており、ひとが自由だと思うのは、原因があまりに複雑であるからだーーに帰着する。そうした自然必然性を超える自由意志や人格神は想像物であり、それこそ自然的、社会的に規定されている。ただしその原因はけっして単純ではない。そこではしばしば原因は結果によって遡及的に構成されている。(柄谷行人『トランスクリティーク』ーー「実存主義→構造主義→ポスト構造主義→ポスト・ポスト構造主義の変遷をめぐって」)

柄谷行人のこの文は、セミネール17のラカンの次の文と「ともに」読むことができる。

言語の効果は遡及的である。まさにそれが展開すればする程、いっそう存在欠如としてあるものを顕す。

L'effet du langage est rétroactif précisément en ceci que c'est à mesure de son développement qu'il manifeste ce qu'il est à proprement parler de manque à être.(S.17)

存在欠如という原原因ーー原動因とさえいえるーーは、言語の遡及的結果である、と。

もちろん、柄谷行人やラカンのむこうには、スピノザやニーチェの「遠近法的倒錯」概念があるだろう。マルクスもしかり→「括弧入れとパララックス(超越論的態度)(柄谷行人=ジジェク)

精神分析における状況に限っていえば、分析家と分析主体(被分析者)とのあいだの関係は、症状の意味は遡及的に解釈されるということであり、それが症状の真理は論理的には未来に発生するということの意味合いであるはずだ。

もっと一般的に次のようにも言えるだろう。

過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』所収)

あるいは、 《記憶とは、新しい事件に出会うたびに総体が大きく組み変えられる一つの生きものである。》(中井久夫『「昭和」を送る』)

上の文からもうかがいえるように、この現象は臨床的環境においてだけ起こるのではない。

たとえば文芸の領域で次のように言われる。

《おのおのの作家は自らの先駆者を創り出す。彼の作品は、未来を修正すると同じく、われわれの過去の観念をも修正するのだ。》(ボルヘス「カフカの先駆者」)

一つの新しい芸術作品が創造された時に起ることは、それ以前にあった芸術作品のすべてにも、同時に起る。すでに存在している幾多の芸術作品はそれだけで、一つの抽象的な秩序をなしているのであり、それが新しい(本当の意味で新しい)芸術作品がその中に置かれることによって変更される。この秩序は、新しい芸術作品が現われる前にすでに出来上っているので、それで新しいものが入って来た後も秩序が破れずにいる為には、それまでの秩序全体がほんの少しばかりでも改められ、全体に対する一つ一つの芸術作品の関係や、比率や、価値などが修正されなければならないのであり、それが、古いものと新しいものとの相互間の順応ということなのである。そしてこの秩序の観念、このヨーロッパ文学、及び英国の文学というものの形態を認めるならば、現在が過去に倣うのと同様に過去が現在によって変更されるのを別に不思議に思うことはない。しかしこれを理解した詩人は多くの困難と、大きな責任を感じなければならないことになる。(エリオット「伝統と個人的な才能」吉田健一訳)

もちろん、ここでドゥルーズ=プルーストの「純粋過去」を引用することもできるが、湯浅博雄の簡潔な叙述ですませておこう。

たとえばプルーストの『失われた時を求めて』において、語り手である〈私〉は、ある偶然の感覚性にともなって「本質的な意味では忘却していた過去」、コンブレで過ごした子供時代、その家や町や人びとが突如として生き生きと甦ってくるのを経験する。それはだから生き直すことである。しかしそれは人々が通常そう思っているように、なにか始原となるもの、オリジナルをなす出来事があって、それを同じように(あるいは類似したままに)繰り返すということではない。コンブレで過した子供時代は、実のところそのときそこで必ずしも生きられたのではなかった。むしろかなりの歳月がたったあとで、まったく新しいフォルムにおいて、その一つの真実のうちにーー現実世界においては等価物を持たなかった真実――のうちに生きられたのだ。すなわち再び生きられたのであり、かつまた同時に初めて生きられたのである。(ドゥルーズ『ニーチェ』の訳者あとがきにかえられた小論「ドゥルーズとニーチェ」より 湯浅博雄)

フロイトとマルクスにおける「形式」」で引用した柄谷行人の発言も、上に掲げた諸解釈の文脈のなかにある。

柄谷)ドゥルーズは超越論的といいますが、これもまさにカント的な用法ですが、これを正確に理解している人はドゥルーズ派みたいな人にはほとんどいない。カントの超越論という観点は、ある意味で無意識論なんです。実際、精神分析は超越論的心理学ですし、ニーチェの系譜学も超越論的です。(中略)

ア・プリオリという言葉がありますけど、ア・プリオリというものは、実際には事後的なんです ―――無意識がそうであるのと同じように。それがほとんど理解されていない。さっき言った様相のカテゴリーはア・プリオリですが、それはたとえば可能性が先にあってそれが現実化されるというような意味ではまったくない。可能性とは事後的に見いだされるア・プリオリです。最近、可能世界論などといっている連中は、こんな初歩的なこともわかっていない。(『批評空間』1996Ⅱー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津/蓮實/前田/浅田/柄谷行人)

ジジェク、1989に、《転移--無意識の現実の現勢化--は、我々を過去ではなく未来の中に移し向ける》とあったことを思い出しておこう。それは柄谷行人の《ア・プリオリというものは、実際には事後的なんです ―――無意識がそうであるのと同じように》に(ほぼ)相当する。

こういった観点に立てば、フロイトが生み出した概念の核心は「遡及性 Nachträglichkeit」(事後性)である(参照:静止的視覚映像による遡及的なトラウマの構成)。

フロイトが稀有の「哲学者」であったとの評価は、ラカンのフロイト絶賛期(50代まではおおむねそうだろう)の言葉を引用すれば次の通り。

人はフロイトは哲学者ではないと言う。私は気にしない。しかし私は、科学的エラヴォレーションに関するテキストで、フロイトのもの以上に哲学的に深遠なものを知らない。

On dit que FREUD n'est pas un philosophe. Moi je veux bien. Mais je ne connais pas de texte sur l'élaboration scientifique qui soit plus profondément philosophique.(S.2)

RICHARD BOOTHBYはやや過剰とさえ言える叙述でフロイトの哲学者側面を強調している(Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN、PDFーー序章だけのPDFだが読む価値はある。わたくしはジジェクの紹介によって知った。すぐれたラカン読みでもある(参照))。

私は議論したい、フロイトのメタ心理学の拒否は、その基礎概念の誤解を基盤にしていると。結果はフロイトの仕事における真の意味のとんでもない曲解であり、その真の根源性の把握失敗である。フロイトはメタ心理学への希望を叙述しつつ、こう言っている、《若いときに私が強く望んだ唯一のものは哲学的知だった。そして今、医学を経由して心理学に向かおうとしている。私は心理学を獲得する過程にある。》(1896,4月2日、フィリス宛て書簡)

メタ心理学は哲学へのフロイトの答えである。フロイトのメタ心理学拒絶の最も不幸な帰結は、メタ心理学が開いた概念的地平を切り詰めて、彼の思考の哲学的豊かさを喪失してしまうことにある。メタ心理学的視野の幅広い大鉈なくては、精神分析はたんなるエディプスと去勢のテーマで識別される対話による治療の一種にすぎない。(RICHARD BOOTHBY,Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN,2001)


たしかにたとえば「抑圧されたものの回帰」という言葉がいわゆる「インテリ」たちや研究者たちの口から漏れることがしばしばあるにしろ、なにも理解しているようには思えない。抑圧されたものの回帰とは、「抑圧されたもの」の真のメカニズムがわかっていなければ、ただの寝言である。

さて、一般的な「遡及性」の最もわかりやすい説明の一つとは、エクリにある次の文ではないだろうか。

このクッションの綴じ目(留め金)の通時的機能は、文のなかに見出すことができる。文はその最終のタームを待ってはじめてその意味形成に留め金をかける。それぞれのタームは、他のタームからなる構築物の中で先取りされているが、また反対に、その遡及的効果によってこれらのタームの意味を確定する。(ラカン、E.805)

Ce point de capiton, trouvez-en la fonction diachronique dans la phrase, pour autant qu'elle ne boucle sa signification qu'avec son dernier terme, chaque terme étant anticipé dans la construction des autres, et inversement scellant leur sens par son effet rétroactif. (LACAN,Subversion du sujet,1960,E.805)

この文を上に掲げたセミネール1 の réalisation symbolique と aura été の箇所とともに読めば、ラカンの言いたいことが判然とするはずだ。

われわれが抑圧されたものの回帰のもとに見るものはなにものかの消されたシーニュle signal effacé であり、このなにものかは未来において、象徴的実現 réalisation symbolique、その主体の歴史への統合によってのみその価値をとります。文字通り、それは成就のある時点で、aura été ものです。(S.1)

ジジェクの解釈を再掲すれば、次の通り。

過去は存在する、過去はシニフィアンの同時的網目のなかに含まれ入り込んだものとして。すなわち、過去は歴史的記憶の織物のなかに象徴化されている。そしてこの理由で、我々は常に「歴史を書き替える」。諸要素を象徴的重要性に遡及的に付与し、新しい織物のなかに織り上げる。このエラヴォレーション、それが遡及的に「そうなるであろう  aura été」ことを決定する。(ジジェク、1989)

《人は常に把握しなければならない、すなわち、各々の段階の間にある時、外側からの介入によって、以前の段階にて輪郭を描かれたものを遡及的に再構成する remanie rétroactivement ということを。》(ラカン、セミネールⅣ)