今回は、Presentation of the Theme of the IXthCongress of the WAP by Jacques-Alain Miller(2012)にかかわる(このミレールの叙述からとても長々と引用しているが、その箇所は割愛)。
批判の核心は、ラカン自身のThe real without lawという言明に依拠したミレールの解釈にかかわり、かつ以前と同様に「資本主義」にかかわる。ラカン主流派によるーージジェクからみたらーー反動的な資本主義解釈への流れには耐え難いのだろう。
◆ジジェク、2016(Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge)より(リンク切れ、次を見よ、→Slavoj Žižek: Am I a Philosopher?)
…象徴界の外部の「純粋な」現実界 the “pure” Real、象徴界によっていまだ汚染されていない或る現実界 a Real に向けてのミレールの探求。彼はその現実界をラカンに属するものだと考えている。だがそんな探求は、ドゥルーズ的袋小路 blind alley に到るものとして、捨て去らなければならない。
ミレールは、まさにドゥルーズ的なやり方で(『アンチ・オイディプス』からの定式を文字通り反復して)、フロイトの無意識の「地下 beneath」の「本当の」プレエディプス的無意識について話している。あたかも、我々は最初に「純粋な」プレエディプス的欲動の動き、そしてラカンのララングによって洗礼を受けた徴示的 signifying 物質と享楽の直かの浸透があるかのように。
そして、(もし一時的でなかったら、論理的な)後の時間においてのみ、この流動 flux は、象徴的苦心作 elucubrations によって「任命され ordained」、二項論理・父の法・去勢の象徴的拘束服をまとうことを余儀なくされると(その象徴的拘束服とは、男性と女性という二つの性のアイデンティティの標準的構造としての性差を支えるものだ)。
ミレールによれば、ラカンの「性別化の式」でさえ、法の外部にある「純粋な」現実界を混乱させる象徴的苦心作のカテゴリーに落ちる。
(ミレール曰く)現代、事態は変化しており、我々は、《21世紀のリアル the real において、ますます増大する性別化の混乱を観察する》。そして、セクシャリティの新しい形が出現している。それは《あたかも生きとし生けるものをひどく手際よく分割させてしまうかのようで、男-女の二項》を掘り崩す…
この論拠の流れは、厳密なラカン派の立場からは、何かが途轍もなく間違っている terribly wrong。
ミレールは、「自然」としての現実界ーー自然の統整的リズムとその法--から直に純粋な無法の現実界へと移行する。ここで失われているものは、ラカンの現実界自体である。現実界とは象徴化あるいは形式化の袋小路である ( “Le reel est un impasse de formalization,” とラカンがセミネール XX で言っているように)。現実界とは象徴界の固有の不可能性であり、象徴界を内部から妨害/歪曲する純粋に形式的障害物である。象徴界の核に刻み込まれている敵対性 antagonism 、象徴界の自己限界、それが現実界 the Real である。
この袋小路は、外部のリアル an external real によって引き起こされるのではない。ミレールが、ラカンの性別化の式をリアル the real における苦心作とみなしているようなものではない。(だが)彼は性差の象徴的解釈はそのような苦心作としている。(性)差異自体の現実界 the Real ではなく、である。性差とは、二項的/差延(ズレ)的なものではない。性差とは、二項の象徴的差異が、それを象徴的対立に翻訳する方法によって「正常化」を試みようとする敵対性である。
(そして、厳密に相同的な形で、階級の敵対性は、社会生活の無法のリアルにおける象徴的苦心作ではない。そうではなく、イデオロギー-政治的な形式化によって混乱させられた敵対性の名である。ミレールは、資本主義を法の外部の現実界(去勢の外部)と等価とするとき、資本主義をそれ自体のイデオロギーにおいて取り扱っている。ミレールは、ラカンが資本家の倒錯によってヴェールされた敵対性をはっきりと観察したことを無視している。象徴的法の外部にある資本家の現実界としての現代の社会のヴィジョンは、敵対性の否認であり、原事実 primary fact ではない。)欠如と剰余、それは同じく袋小路の二つの顔である。
…………
セミネール23(3 Avril 1976)で、ある質問者の問いに答えて、ラカンは次のように言っている(この質問者はひょっとしてミレール自身かもしれない・・・)。
Question V
« Je m'attends toujours à ce que vous jouiez sur les équivoques. Vous avez dit : Y a d'l'Un, vous nous parlez du Réel comme impossible. Vous n'appuyez pas sur Un-possible. À propos de JOYCE vous parlez de paroles imposées… Vous n'appuyez pas sur le Nom-du Père, comme Un-posé. »
LACAN
Ça, c'est une chose qui est signée.
Qui est-ce qui s'attend toujours à ce que je joue sur les équivoques saintes ? Je ne tiens pas spécialement aux équivoques saintes. Je crois que… il me semble que je les démystifie.
Yad'lun. Il est certain que cet Un m'embarrasse fort. Je ne sais qu'en faire, puisque, comme chacun sait, l'Un n'est pas un nombre. Et même que, à l'occasion, je le souligne.
Je parle du Réel comme impossible dans la mesure où je crois justement, que le Réel… enfin, je crois… si c'est mon symptôme, dites-le moi …où je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi.
Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre. Et c'est ce que je veux dire, en disant que la seule chose que - peut-être - j'arriverai un jour à articuler devant vous, c'est quelque chose qui concerne ce que j'ai appelé un bout de Réel.
ここには、
・le Réel sans loi.(法のない現実界)
・Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre(本当の現実界は、法の欠如を意味する。現実界は、秩序がない)
・un bout de Réel(ちょっとした現実界)
ーーなどという表現がたしかに現われている。
ミレールの観点は、ラカンはセミネール20以降、転回したという発想のもとにある。
ミレールは 2000-2001 年のセミネールにおいて、ラカンの教えを三つの時期に分けた。ラカンの体系の区分は研究者によって異なるが、ミレールは前期をセミネール 1 から 10までの時期(1953-1963)、中期をセミネール 11 から 21 までの時期(1964-1974)、後期を「第三の女」とセミネール 22 から 27 までの時期(1974-1980)とした。そして、翌年のセミネールにおいて、 それぞれの時期に対応するものとして、 「ラカンの三つの臨床」を提示している。ラカン第一臨床は「同一化の臨床」、ラカン第二臨床は「幻想の臨床」、ラカン第三臨床は「サントームの臨床」とされている。(赤坂和哉『ラカン的臨床への助走』)
…………
さてどうしたものかーー。
一般に哲学的ラカン派(あるいは政治的ラカン派)は、「現実界とは象徴化あるいは形式化の袋小路である」 ( “Le reel est un impasse de formalization,”、S.20)の立場を取るし、臨床的ラカン派は、「法のない現実界」(‟le Réel sans loi”.、S,23)を探し求めるとでもしておこうか・・・
たとえば、次の文は臨床的ラカン派ヴェルハーゲが哲学的ラカン派を批判している文章として読める。
セミネールXVIIでは、享楽の喪失を引き起こすシニフィアンの導入がある。それは一見、ラカンの以前の立場の転倒にようにみえる。が、私の読解では、そうではない。シニフィアンによって引き起こされたこの喪失は、性的生の導入によって引き起こされた喪失の上に重なるものだ。それは、この原初の喪失の別の反復 iteration だけではなく、この喪失への応答を練りあげる試みである。
この応答の試みは、構造的な理由で、失敗せざるをえない。それゆえ、必然的に「もっとencore」、ーーフロイトの反復強迫である。他の場所で(“BEYOND GENDER. From subject to drive ”2002)、私はこれを、絶えまないしかしつねに失敗する循環運動として叙述した。それは、原初の原因が原初の喪失(永遠の生の喪失)であるというはずみ車 flywheel の動きなのであり、原初の喪失は継続して不可能な関係を反復する。それはそのたびごとに異なったレヴェル(有機体-身体、身体的イマーゴ-自我、自我-主体、男-女)での反復である。その上、この喪失はたんに一つの喪失ではない。シニフィアンの導入は喪失とならんで獲得をもたらす。それはさらに別の多義的な表現 plus-de-jouir によって完全に表現されている。
ラカンはこの剰余享楽 plus-de-jouir をマルクスの「剰余価値」概念と結びつける。剰余価値の獲得は、喪失のために必然的に生じる反復と密接な関係がある。これは既に、いかに曖昧な獲得かということを示している。どこかほかの場所、原初の享楽とは異なった場所にある享楽だからだ。マルクスと比較するのは、偶然の一致ではない。というのは、この「どこかほかの場所」は、文化と産業の生産物にかかわるからだ。それは我々に(常に)一時的で部分的な満足のみを供給する。
生産物として、それらは享楽の喪失の効果であり、かつこの喪失への応答である。この意味で、それらは剰余享楽 plus-de-jouir として我々に与えられる。ラカンはこれに「享楽の欠片 les lichettes de la jouissance」という名を与えている。このように、ラカンはマルクス概念「剰余価値」にきわめて接近している。それは使用されなければならないだけでなく、浪費さえされなければならない。(Enjoyment and Impossibility: Lacan's Revision of the Oedipus Complex,2006ーー「二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe)」)
哲学的ラカン派/臨床的ラカン派の相違とは合理論/経験論の相違である・・・(とはいえ、ミレールはかつては形式化(合理論)に終始したラカン派であったはずだが、それにもかかわらず・・・)。
(何度も記しているが、わたくしの使用する三点リーダー「・・・」とは、ワカンネエ、という意味である・・・)
ーーというわけで、柄谷行人でも貼り付けて当面誤魔化しておこう。
思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」)
重要なのは、(……)マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしの存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P250ーーS(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme)
…………
※付記
ミレール批判のなかでドゥルーズの名が出ているが、おそらく次の点にかかわる。
ラカン派によるドゥルーズ読解の出発点は、情け容赦ない直接的な読み替えである。すなわち、ドゥル ーズ&ガタリが「欲望機械(machines désirantes)」について語るとき、我々はその用語を欲動に置き換えるべきだ。
ラカンの欲動ーーそれは、エディプスの三角形とその禁圧的な法/その法への侵犯の弁証法に先んじる匿名/無頭的で不滅な「身体なき器官」の反復への執拗さであり、ドゥルーズが前エディプスのノマド的な「欲望機械」として境界を引こうとしたものと完全に一致する。実際、セミネールⅩⅠの欲動に捧げられた章で、ラカン自身が、欲動の「機械的な」特徴・反有機的な anti‐organic 性質(その人工的な要素、あるいは異質の成分からなる部分のモンタージュの特質)を強調している。
しかしながら、これは出発点にすぎない。問題をすぐさま混み入らせるのは、この読み替えにおいて、何かが失われてしまうという事実である。すなわち、欲動と欲望とにあいだにある、まさに還元し得ぬ相違、この差異の視差的性質があり、一方から他方へと跡づけたり生み出したりするのは不可能なのだ。
言い換えれば、ラカンには全く異質なものは、ドゥルーズの反-表象主義者的な欲望欲望の概念である。それ自体が表象や抑圧の場面を創造する原初的流動 fluxとしての欲望概念。これはまた、ドゥルーズが欲望の解放について語る理由だが、ラカンの地平ではまったく無意味である。
ドゥルーズにとって、最も純粋な欲望とはリビドーの自由な流動だが、ラカンの欲動は、基盤となる解決しえぬ袋小路によって構成的に徴づけられている。ーー欲動は行き詰まりであり、まさに行き詰まりの反復において満足を見出す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳ーー「欲望は剰余享楽の換喩である」)