2016年8月10日水曜日

抑圧は禁圧に先立つ

マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。(……)

次の著作は『マルクスの偉大さ』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。(……)私はもう文章を書きたくありません。マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいます。そうして後は、絵を書くでしょう。(ドゥルーズ「思い出すこと」ーー死の二年前のインタヴュー、死後1995年に発表)

ドゥルーズやヴァレリー、ラカン、柄谷がマルクスをベタ褒めしてるから、
いまごろになってーーオレは実は経済学士なんだけどさーー
『資本論』の古い訳を岩波文庫ですこしづつ読んでんだけど、
第一巻第三篇までだな、オレになんとか読めるのは。
かなり退屈してきたよ、よくあんなの読み続けられるな、
ケインズのほうがずっとオモシロかったな

昨晩、読み返しよ(少しばかり)、『資本論』をね‼ ぼくはあれを読んだ数少ない人間の1人だ。ジョレス〔当時代表的な社会主義者〕自身は--(読んでいないように見える)。(…)『資本論』といえば、この分厚い本はきわめて注目すべきことが書かれている。ただそれを見つけてやりさえすればいい。これはかなりの自負心の産物だ。しばしば厳密さの点で不十分であったり、無益にやたらと衒学的であったりするけれど、いくつかの分析には驚嘆させられる。ぼくが言いたいのは、物事をとらえる際のやり方が、ぼくがかなり頻繁に用いるやり方に似ているということであり、彼の言葉は、かなりしばしば、ぼくの言葉に翻訳できるということなんだ。対象の違いは重要ではない。それに結局をいえば、対象は同じなんだから!(ヴァレリー、1918年5月11日、ジッド宛書簡、山田広昭訳)


で、ミナサンだって、少しばかりだろ? 
ホントに最後まで読んだんだろうかね

いずれにせよ核心は冒頭の商品分析だよ、
そこを舐めるように読んどけばいいんじゃないか、
オレはまだぜんぜんナメルところまでいってないけど

ナメル気にならないのは訳文のせいだろうか、
どうもイケナイ味がするぜ

『ブリュメール一八日』にもどって考えるならば、われわれは特に精神分析を必要としない。なぜなら、ここでマルクスは、ほとんどフロイトの『夢判断』を先取りしているからである。彼は短期間に起こった「夢」のような事態を分析している。その場合、彼が強調するのは、「夢の思想」すなわち実際の階級的利害関係ではなく、「夢の仕事」すなわち、それらの階級的無意識がいかにして圧縮・転移されていくかである。フロイトはつぎのようにいっている。

《夢はいろいろな連想の短縮された要約として姿を現しているわけです。しかしそれがいかなる法則に従って行われるかはまだ解っていません。夢の諸要素は、いわば選挙によって選ばれた大衆の代表者のようなものです。われわれが精神分析の技法によって手に入れたものは、夢に置き換えられ、その中に夢の心的価値が見出され、しかしもはや夢の持つ奇怪な特色、異様さ、混乱を示してはいないところのものなのです。》(『精神分析入門続』高橋義孝訳)

フロイトは「夢の仕事」を普通選挙による議会になぞらえている。そうであれば、われわれは、マルクスの分析に精神分析を導入したり適用したりするよりは、『ブリュメール一八日』から精神分析を読むべきなのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

そうかい、でもーー同じケッタイな訳文でもーーオレにはまだフロイトのほうがいいね。

ラカン曰くの「マルクスが症状を発明した」ってのハッタリじゃないか、
とすこしPDFファイルのセミネールやエクリ検索してみたら、
そこらじゅうでマルクスの名だしてんだな、マイッタね、
ま、当時は「流行」だったとはいえ。

日本でもある時期のある環境では
マルクス主義者でないとインテリではない
という状況にあったはずだからな

当時の私は最悪の状態にあった。事実上母校を去って東京で流動研究員となっていて、身を寄せた先の研究所で自己批判を迫られていた。フッサールという哲学者の本を読んでいるところを見つかったのである。研究室主宰者は、「『プラウダ』がついに核酸の重要性を認めたよ」と喜びの涙を流しておられた、誠実で不遇のマルクス主義者だった。傘下の者が「ブルジョア哲学」にうつつを抜かすのを許せなかったのであろう。(中井久夫

やあ、いいね、最近の連中は
ブルジョア哲学やらブルジョア文芸にうつつを抜かしても
破廉恥野郎などといわれないですんで

フロイトだってその気味があったはずで
フロイトしらないのはインテリじゃないってことだったはずだよ、当時は

ところで今、マトモな作家の「流行」ってなんかあるんだろうか、
世界はなんでコモノやコモノ好みばっかりになっちまったんだろ?


以下、ラカンによるマルクス言及のいくらか
(私粗訳なのであわせて原文も付記しておくよ)


◆セミネール22(1975年)
人は症状概念の起源を、ヒポクラテスではなく、マルクスに探し求めなければならない。[Chercher l'origine de la notion de symptôme… qui n'est pas du tout à chercher dans HIPPOCRATE …qui est a chercher dans MARX]》(Lacan,S.22,18 Février 1975)

◆セミネール18(1971年)
…症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、…マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。

la notion de symptôme. Il est important historiquement de s'apercevoir que ce n'est pas là que réside la nouveauté de l'introduction à la psychanalyse réalisée par FREUD : la notion de symptôme, comme je l'ai plusieurs fois indiqué, et comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX.(Laca,.S.18,16 Juin 1971)

◆エクリ(1966年)
精神分析の誕生以前にさえ、症状と呼ばれる次元が導入されているのを観察しないでいられるのは難しい。症状は、真理の回帰をある知の裂け目のなかに表象するものとしてはっきり表現されている。(……)この意味で、この次元は、マルクスによる批判のなかに顕著に識別しうる、仮に明示的に示されていなくても。

Il est difficile de ne pas voir, dès avant la psychanalyse, introduite une dimension qu'on pourrait dire du symptôme, qui s'articule de ce qu'elle représente le retour de la vérité comme tel dans la faille d'un savoir. (…)En ce sens on peut dire que cette dimension, même à n'y être pas explicitée, est hautement différenciée dans la critique de Marx.(Lacan, « Du sujet enfin en question », Écrits,,1966, p. 234.)

「真理の回帰」なんて言葉まであるよ、
「抑圧されたものの回帰」の起源は、
フロイトじゃなくてマルクスにあるっていいたんだろうな

とはいえ、オレは『資本論』冒頭の価値形態論以外は、
『ブリュメールの十八日』程度でいいさ。

いかがわしい生計手段をもつ、 いかがわしい素性の落ちぶれた貴族の放蕩児と並んで、身を持ち崩した冒険家的なブルジョアジーの息子と並んで、浮浪者、除隊した兵士、出獄した懲役囚、脱走したガレー船奴隷、詐欺師、ペテン師、ラッツァローニ、すり、手品師、賭博師、女衒、売春宿経営者、荷物運搬人、日雇い労務者、手回しオルガン弾き、くず屋、刃物研ぎ師、鋳掛け屋、乞食、要するに、はっき りしない、混乱した、ほうり出された大衆、つまりフランス人がボエーム[ボヘミアン]と呼ぶ大衆がいた。自分とは親類のこういう構成分子でもって、ボナパルトは一二月一〇日会の元手を作った。(マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメールル一八日』植村邦彦訳)

ーーなんでこういうふうに書いてくれなかったんだろ、資本論もさ

マルクスは、『ルイ・ポナパルドのブリュメールの十八日』にて、フランス革命によって実現された共和制から生じた皇帝制の出現のなかに反復を見出している。1789年の革命において、王は処刑されて、それに引き続く共和制から、人びとの支持をともなって「皇帝」が出現した。これは、フロイトが「抑圧されたものの回帰」と呼ぶものである。Kojin Karatani,Revolution and Repetition,2008,PDF、私訳)
周知のように、マルクスはこの書物の冒頭でヘーゲルの言葉をパラフレーズし、歴史における反復に言及している。世界史的な事件は「一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として」生じる。一八四八年の革命は共和制から皇帝制にいたった一七八九年以後の事態の反復である。しかし、一七八九年の革命もまたすでに、古代ローマの反復的再現として演じられていた。柄谷が指摘するように、そこで反復を生むのは「王殺し」による共和制成立に始まる歴史的なプロセスの構造的必然性であるに違いない。(ボナパルティズムの署名──都市クーデターの技術 | 田中純

資本論には、シェイクスピアの引用もわずか? だしな

シェークスピアは『アテネのタイモン』のなかでいう、

「黄金か。(……)
こいつがこのくらいあれば黒も白に、醜も美に、
悪も善に、老も若に、臆病も勇敢に、卑賤も高貴にかえる」

(……)

シェークスピアは貨幣についてとくに二つの属性をうきぼりにしている。

(1) 貨幣は目に見える神であり、一切の人間的なまたは自然的な諸属性をその反対のものへと変ずるものであり、諸事物の全般的な倒錯と転倒とである。それはできないことごとを兄弟のように親しくする。

(2) 貨幣は一般的な娼婦であり、人間と諸国民との一般的な取りもち役である。

貨幣が一切の人間的および自然的な性質を転倒させまた倒錯させること、できないことごとを兄弟のように親しくさせることーー神的な力――は、人間の疎外された類的本質、外化されつつあり自己を譲渡しつつある類的本質としての、貨幣の本質のなかに存している。貨幣は人類の外化された能力である。

私が人間としての資格においてはなしえないこと、したがって、貨幣はこれらの各本質諸力のいずれをも、それがそれ自体としてはそうでないようなあるもの、すなわち反対のもおんい変ずるのである。(マルクス『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳)

で、ラカンの実にケッタイな抑圧されたものの回帰 le retour du refouléでもつけくわえとくよ

抑圧されたものの回帰は、過去からではなく未来から来る le retour du refoulé …… ça ne vient pas du passé, mais de l'avenir(S.1)
抑圧と抑圧されたものの回帰は、一つであり同じものである。le refoulement et le retour du refoulé sont une seule et même chose,(S.3)

《抑圧されたものの回帰と抑圧とは同じものであるということには驚かないでしょうね? Cela ne vous étonne pas, …, que le retour du refoulé et le refoulement soient la même chose ? 》(S.1)

ーーって言われてもな、
抑圧=抑圧されたものの回帰は、
なんとか驚かないふりしとくけど
抑圧されたものの回帰は未来から来るってのは、
驚かずにはいられないね

フロイトの『モーセ』の定義じゃだめなんだろうか? 

症状形成の全ての現象は、「抑圧されたものの回帰」として正当に記しうる。(フロイト『モーセと一神教』)

Alle Phänomene der Symptombildung können mit gutem Recht als »Wiederkehr des Verdrängten« beschrieben werden. (Sigmund Freud,Der Mann Moses und die monotheistische Religion、1939)

この記事の表題は、抑圧されたものの回帰は抑圧に先立つ
としようかと思ったけど無難系の題名にしておくよ
抑圧は禁圧に先立つ、とね

いずれにせよ、われわれは超自我に禁圧されるまえに
言語によって抑圧されているんだよ

幼児は話し始める瞬間から、その前ではなくそのまさに瞬間から、抑圧(のようなもの)がある、と私は理解している。À partir du moment où il parle, eh ben… à partir de ce moment là, très exactement, pas avant …je comprends qu'il y ait du refoulement.(Lacan,S.20)

ーー詳しくは、「原父殺し=言語による物の殺害(フロイト『モーセと一神教』)」を見よ。

…………

もし家族的禁圧の記憶が事実ではなければそれは作り出すされなければならないしょうしまた間違いなくそうされるでしょう。神話とはそうすることであって、構造から起こるものに叙事詩的形態を与えようとする試みです。
フロイトは、抑圧は禁圧に由来するとは言っていません Freud n'a pas dit que le refoulement provienne de la répression。つまり(イメージで言うと)、去勢はおちんちんをいじくっている子供に今度やったら本当にそれをちょん切ってしまうよと脅かすパパからくるものではないのです。

とはいえ、そこから経験へと出発するという考えがフロイトに浮かんだのはまったく自然なことです-この経験とは、分析的ディスクールのなかで定義されるものをいいます。結局、彼が分析的ディスクールのなかで進んでいくにつれて、最初にあるのは抑圧だという考えに傾いていったのです。総体的に言うと、それが第二の局所論の大きな変化です。フロイトが超自我の性格だと言う貪食は構造的なものであって、文明の結果ではありません。それは「文明における居心地の悪さ(症状)« malaise (symptôme) dans la civilisation »」なのです。

ですから抑圧が禁圧を生みだすのだということから試練に立ち戻ることが必要なのです。De sorte qu'il y a lieu de revenir sur l'épreuve, à partir de ce que ce soit le refoulement qui produise la répression. どうして、家族や社会そのものが、抑圧から構築されるべき創造物ではないということがあるでしょうか。まさにそのとおりなのですが、それは無意識が構造、つまり言語によって外-在し、動機づけられることによって可能なのでしょう。(ラカン、テレビジョン、向井雅明試訳、1973)

ーーこの向井雅明訳では、
抑圧 le refoulement 、禁圧 la répression と訳されているように、
本来、英語圏のrepression、日本語の「抑圧」は誤訳に近い
という指摘がかねてよりある。

日本では従来Verdrängungは「抑圧」と訳されるが、ドイツ語の語感からは「抑圧」ではなしに「追放」とか「放逐」が正しく、「抑圧」はむしろUnterdrückung(かりに上では「抑制」と訳したところの)に当る訳語である。(フロイト『夢判断』下 高橋義孝訳 註  新潮文庫p379)
「抑圧」の原語 Verdrängung は水平的な「放逐、追放」であるという指摘があります。(中野幹三「分裂病の心理問題―――安永理論とフロイト理論の接点を求めて」)。とすれば、これをrepression「抑圧」という垂直的な訳で普及させた英米のほうが問題かもしれません。もっとも、サリヴァンは20-30年代当時でも repression を否定し、一貫して神経症にも分裂病にも「解離」(dissociation)を使っています。(批評空間2001Ⅲー1 「共同討議」トラウマと解離」(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

もっとも単純に抑圧を水平的としてしまうのも、
ラカン派的にはやや異議があるのではないか。

少なくともラカンは、「真の精神分析と偽の精神分析」1958年にて、
ーーヤコブソンに依拠しつつつーー、
フロイトの圧縮(Verdichtung)/転換(Verschiebung)を、
隠喩/換喩(垂直的/水平的)としており、
抑圧は(主に)隠喩にかかわる(ーーという見解が多い)。