幼児は話し始める瞬間から、その前ではなくそのまさに瞬間から、抑圧(のようなもの)がある、と私は理解している。À partir du moment où il parle, eh ben… à partir de ce moment là, très exactement, pas avant …je comprends qu'il y ait du refoulement.(Lacan,S.20)
…………
以下、フロイトの最晩年1939年の大著『モーセと一神教』の、二人の傑出した読み手の文の一部を並置する。
◆DOES THE WOMAN EXIST? PAUL VERHAEGHE (1997; revised edition 1999,PDF)
……フロイトは(『モーセと一神教』の)この箇所で、二つの点を結びつけている。言語の獲得と原父殺しを。彼の臨床的天才はこの二つのテーマのあいだの関係性に気づいたのだ。
…どの神経症者においても常にトラウマ的何かがある。それは「主体」にとってのトラウマ的なものである。なぜそうなのか? それは常に、言語の獲得時期のあいだに起こる何か、言葉が欠如している何かにかかわる。
こうして、すべてが一つの中心的な核のまわりで結晶化する。トラウマ・原父殺し・系統伝承・言語獲得。
…ここでフロイトが発見したのは、主体になること以外のなにものでもない。すなわち、「生物学的」・「自然な」存在から、「文化的」・「話す人間」への移行、完全な身体の現実界から、欠如と欲望の象徴界への以降である。
…フロイトが現実的なものとして考えた原父殺しは、どの人間の子どもも話すのを学ぶときに反復する。「言語は物の殺害である」(ラカン、ローマ講演)。それ以後、象徴的父としての父の名は、死んだ父である。「死んだ」とは、象徴的機能にかかわるという意味である。(ヴェルハーゲ、DOES THE WOMAN EXIST?,1997,私訳)
※フロイトの『モーセと一神教』からの引用があっての叙述だがフロイト本文は割愛した(詳細は、,PDF,pp.226-227前後を見よ) 。また、ふつうに読めばこんな解釈は生まれない。フロイトの可能性の中心の読解である。
◆柄谷行人、1989・1978
フロイトは、世界宗教を「抑圧されたものの回帰」とみなす。私はそれに同意する。しかし、抑圧されたものは「原父」のようなものではなく、いわば「社会的なもの」である。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年ーー第三部 世界宗教をめぐって、p.242)
マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。物象化とは、このことを意味する。それは、「人間と人間の関係が物と物と物の関係としてあらわれる」とか、関係が実体化されることを意味するのではない。(……)
くりかえしていえば、マルクスは、価値形態、交換関係の非対称性が経済学において隠蔽されていることを、指摘したのである。同じことが、言語学についてもいえるだろう。それは、いわば、教えるー学ぶ関係の非対称性を隠蔽している。非対称的な関係を隠蔽するということは、関係を、あるいは他者を排除することと同じである。それゆえに、言語学は、ヤコブソンがそうであるように、古典(新古典)経済学と同じ交換のモデル、たとえばメッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)というモデルから出発している。それは、共同体のなかでの交換のみをみることである。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978年、P.17)
ヴェルハーゲにとって(ここでの)「抑圧されたものとその回帰」は、《身体の現実界》であり、柄谷行人にとっては、《無根拠であり非対称的な交換関係》である。このふたつは、主体と社会の相違はあるが、それを除いてはほとんど同じことを言っている(両方とも、ラカンのマテームなら、S(Ⱥ)にかかわる、と言っておこう。→ 「S(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme」)。
Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳ーー「欠如 manqué から穴 trou へ(大他者の応答 réponse de l'Autre から現実界の応答 réponse du réel へ」)
あるいは、柄谷行人の「対称的であり且つ合理的な根拠」/「社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係」とは、「ファルス享楽」la jouissance phallique /「身体の享楽」 la jouissance du corps と相同的である(ラカンの身体概念の移行)。
すなわち、ファルスとは王=貨幣であり、マルクスの価値形態論の形態Ⅲ、あるいはホップスのリヴァイアサンである。
絶対主義王権においては、王が主権者であった。しかし、この王はすでに封建的な王と違っている。実際は、絶対主義的王権において、王は主権者という場(ポジション)に立っただけなのだ。マルクスは、金は一般的な等価形態におかれたがゆえに貨幣であるのに、金そのものが貨幣であると考えることを、フェティシズムとよんだ。そのとき、彼は、それを次のような比喩で語っている。《こういった反省規定はおよそ奇妙なものである。たとえば、この人が王であるのは、ただ他の人々が彼に対して臣下として振舞うからでしかない。ところが、彼らは逆に、彼が王だから、自分たちは臣下なのだと信じているのだ》(『資本論』第一巻第一篇第三章註)。しかし、これはたんなる比喩ではなくて、そのまま絶対主義的な王権に妥当するのである。古典経済学によって重金主義が幻想として否定されたのと同様に、民主主義的なイデオローグによって絶対主義的王権は否定された。しかし、絶対主義的王権が消えても、その場所は空所として残るのである。ブルジョア革命は、王をギロチンにかけたが、この場所を消していない。通常の状態、あるいは国内的には、それは見えない。しかし、例外状況、すなわち恐慌や戦争において、それが露呈するのだ。
たとえば、シュミットが評価するホップスについて考えてみよう。ホップスは主権者を説明するために、万人が一人の者(レヴァイアサン)に自然権を譲渡するというプロセスを考えた。これはすべての商品が一商品のみを等価形態におくことによって、相互に貨幣を通した関係を結び合う過程と同じである。ホップスはマルクスの次の記述を先取りしている。《最後の形態、形態 Ⅲにいたって、ようやく商品世界に一般的・社会的な相対的価値形態が与えられるが、これは、商品世界に属する商品が、ただ一つの例外を除いて、ことごとく一般的等価形態から排除されているからであり、またそのかぎりでのことである》(『資本論』第一巻第一篇第三節C)。すなわち、ホップスは国家の原理を商品経済から考えたのである。そして、彼は主権者が、貨幣と同様に、人格であるよりも形態(ポジション)において存するということを最初に見いだした。(柄谷行人『トランスクリティーク』、pp.417-418)
※参照:価値形態論(マルクス)とシニフィアンの論理(ジジェク=ラカン)
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◆ジジェク書評:PAUL VERHAEGHE、DOES THE WOMAN EXIST?
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※付記
「言語による物の殺害」とは、ある時期以降のラカンにとっては「象徴的去勢」のことである。それはセミネール17(1969-1970)ではっきり言われている。
・去勢は幻想ではない castration qui n'est pas un fantasme.
◆ジジェク書評:PAUL VERHAEGHE、DOES THE WOMAN EXIST?
女性のセクシャリティのフロイト・ラカン理論を取り巻く混乱状態への奇跡的な応答だ。…この書を読めば、当然のごとく明瞭になるだろう、女性のセクシャリティへの精神分析的アプローチは、時代遅れどころか、いわゆる「寛大な」ポストモダン社会の行き詰まりのなかで新しい道を見出しうることが。…必読の書である、精神分析が今日言わなければならないことを把握したい誰にとっても。(ジジェク、書評)
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※付記
「言語による物の殺害」とは、ある時期以降のラカンにとっては「象徴的去勢」のことである。それはセミネール17(1969-1970)ではっきり言われている。
・去勢は幻想ではない castration qui n'est pas un fantasme.
・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique
・去勢はシニフィアンの影響によって導入された現実的な働きである la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant (S.17)
※より詳しくは「第一次象徴的去勢/第二次象徴的去勢」を見よ
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※追記
柄谷行人、1978に次の文があった。
とすれば、「対称的であり且つ合理的な根拠」/「社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係」とは、メッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)/コード(貨幣)-メッセージ(商品)-コード(貨幣)である。
すなわち、C-M-C(商品-貨幣-商品) /M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])である。
フロイト理論に反して、ラカンは「去勢」を、人間発達に構造的帰結として定義した。ここで、人は理解しなければならない。我々は話す瞬間から、現実界との直かの接触を喪うことを。それはまさに我々が話すせいである。特に、我々は、我々自身の身体との直かの接触を喪う。これが「象徴的去勢」である。そしてそれが、原初の享楽の不可能を補強する。というのは、主体は、身体の享楽を獲得したいなら、シニフィアンの道によって進まざるを得ないから。こうして、享楽の不可能は、話す主体にとって、具体的な形式を受けとる。
一方で、享楽への道は、〈他者〉から来た徴付けのために、シニフィアンとともに歩まれる。他方で、まさにこれらのシニフィアンの使用は、ある帰結をもつ。すなわち、享楽は、決して十全には到達されえない。これは、象徴界と現実界の裂け目にかかわる。シニフィアンが、享楽の現実界を完全に抱くことは不可能なのだ。
社会的に言えば、この構造的な既成事実の行使は、女と享楽・父と禁止をつなぐ。ともに、典型的な幻想ーー宿命の女(ファムファタール)の命取りの享楽・父-去勢者の復讐ーーと結びあわさったものだ。享楽は女に割り当てられる。なぜなら、母なる〈他者 〉(m)Other が、子どもの身体の上に、享楽の侵入を徴付けるから。子ども自身の享楽は、〈他者〉から来る。
享楽を近づけないようにする必要と、享楽への道の上に歯止めを作る必要は、次に、母と彼女の享楽を、ともに禁止されたものとしてーー想定上、父によって、去勢によって罰されるもにとしてーー特徴づける形式をとる。
この「想像的去勢」は根本的真理を覆い隠す。すなわち、人が話す瞬間から、享楽は不可能であるという真理を。これが、構造の既成の事実としての「象徴的去勢」である。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009、私訳)
※より詳しくは「第一次象徴的去勢/第二次象徴的去勢」を見よ
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※追記
柄谷行人、1978に次の文があった。
古典(新古典)経済学と同じ交換のモデル、たとえばメッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)というモデルから出発している。それは、共同体のなかでの交換のみをみることである。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978年、P.17)
とすれば、「対称的であり且つ合理的な根拠」/「社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係」とは、メッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)/コード(貨幣)-メッセージ(商品)-コード(貨幣)である。
すなわち、C-M-C(商品-貨幣-商品) /M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])である。
リビドー経済において、反復強迫の倒錯行為に煩わされない「純粋な」快原理はない。倒錯行為とは、快原理の観点からは説明されえない。同様に、商品の交換の領野において、別の商品を買うために商品を貨幣に交換するという直接的な閉じられた循環はない。もっと多くの貨幣を得るために商品を売買する倒錯的論理によって蝕まれていないような循環はないのだ。この論理においては、貨幣はもはや単なる商品交換のための媒体ではなく、それ自体が目的となる。
唯一の現実は、もっと貨幣を得るために貨幣を使うという現実である。マルクスが C-M-C(商品-貨幣-商品)と呼んだもの、すなわち別の商品を買うために或る商品(労働力商品も含む)を貨幣に換えるという閉じられた交換ーーその機能は、交換過程の「自然な」基礎を提供するーーは究極的に虚構である。(……)
ここにある基本のリビドー的メカニズムは、フロイトが 「快の獲得 Lustgewinn」と呼んだものである。この概念を巧みに説明している Samo Tomšič の『資本家の無意識 The Capitalist Unconscious』から引用しよう。
《Lustgewinn(快の獲得)は、快原理のホメオスタシス(恒常性)が単なる虚構であることの最初のしるしである。とはいえ、Lustgewinn は、欲求のどんな満足もいっそうの快を生みえないことを示している。それはちょうど、どんな剰余価値も、C–M–C(商品–貨幣–商品)の循環からは論理的に発生しないように。剰余享楽、利益追求と快との繋がりは、単純には快原理を掘り崩さない。それが示しているのは、ホメオスタシスは必要不可欠な虚構であることだ。ホメオスタシスは、無意識の生産物を構造化し支える。それはちょうど、世界観メカニズムの獲得が、全体の構築における罅のない閉じられた全体を提供することから構成されているように。Lustgewinn(快の獲得)は、フロイトの最初の概念的遭遇、--後に快原理の彼方、反復強迫に位置されるものとの遭遇である。そして、精神分析に M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])と同等のものを導入した。》(Samo Tomšič,The Capitalist Unconscious,2014)
「快の獲得 Lustgewinn」の過程は、反復を通して作用する。人は目的地を見失い、人は動作を繰り返す。何度も何度も試みる。本当の目標は、もはや目指された目的地ではなく、そこに到ろうとする試みの反復動作自体である。形式と内容の用語でもまた言いうる。「形式」は、欲望された内容に接近する様式を表す。すなわち、欲望された内容(対象)は、快を提供することを約束する一方で、剰余享楽は、目的地を追求することのまさに形式(手順)である。(ジジェク、 Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge,2016ーー快の獲得 Lustgewinn、剰余価値 Mehrwert、剰余享楽 plus-de-jouir)
M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])は、無限を生む。それが、柄谷の「社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係」の意味であるだろう。
…ラカンの公式、《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する》。これは現代思想の偉大な突破口だった。…この概念化にとって、再現前(表象 representation)は、「現前の現前 presentation of presentation」、あるいは「ある状況の状態 the state of a situation」ではない。そうではなく、むしろ「現前内部の現前 presentation within presentation」、あるいは「ある状況内部の状態」である。
この着想において、「表象」はそれ自体無限であり、構成的に「非全体 pas-tout」(あるいは非決定的 non-conclusive)である。それはどんな対象も表象しない。思うがままの継続的な「関係からの分離 un-relating 」を妨げはしない。…ここでは表象そのものが、それ自身に被さった逸脱する過剰 wandering excess である。すなわち、表象は、過剰なものへの無限の滞留 infinite tarrying with the excess である。それは、表象された対象、あるいは表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に固有の「裂け目」、非一貫性から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂け目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ“Alenka Zupancic、The Fifth Condition”2004)
とすれば、柄谷行人にとっての「抑圧されたものとその回帰」は、ロードス島だといってよいかもしれない(このあたりはやや論理的に飛躍があるのは自認しているので、当面その思いつきを記しておくだけにする)。
《資本は流通において発生しなければならぬと同時に、流通において発生してはならない。 ……幼虫から成虫への彼の発展は、流通部面で行われねばならず、しかも流通部面で行われてはならぬ。ここがロードス島だ、ここで跳べ》(マルクス『資本論』)