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……シニフィアンの定義から引き出される結論は、私の象徴的(代)表象には、常にある種の残余があることだ。その残余とは、私の発話の具体的な、血肉化された宛先にかかわる。この理由で、具体的な宛先に届くことに失敗した手紙でさえ、ある意味で、真の目的地に到達点する。その目的地とは〈大他者〉、他の諸シニフィアンという象徴的システムである。(SLAVOJ ŽIŽEK. THE STRUCTURE OF DOMINATION TODAY: A LACANIAN VIEW.2004ーーラカンの「四つの言説」における「機能する形式」)
注):《このように、ラカンのシニフィアンの公式(シニフィアンは他のすべての諸シニフィアンに対して主体を代表象する)は、マルクスの商品の公式(価値形態論)と構造的な相同性がある。そこにもまたシニフィアンの公式と同様な二項一組 dyad を伴っている。
すなわち商品の使用価値は他の商品の価値を代表象する。ラカンの公式におけるヴァリエーションでさえ、マルクスの価値形態表現の四つの形式への参照として体系化されうる(『為すところを知らざればなり』の第一部を見よ)。この線に沿えば、決定的なのは、ラカンがこの過程の剰余-残余を、剰余享楽(plus-de-jouir)としての対象a として規定したことだ。これは、マルクスの剰余価値への明示的 explicit な参照である。》
◆ジジェク『為すところを知らざればなり』(Slavoj Žižek For They Know Not What They Do、1991、私訳)より
ーー以下、図やラカン仏文は、わたくしがつけ加えた(図については、わたくしの誤解がなければあのように書けるだろう、ということ)。
最も基本的なところから始めよう。何がシニフィアンの「差異的 differential」性質を構成しているのかと。S1 とS2 、シニフィアンの二個一組の用語(男-女、天-地、明-暗、陰-陽、等々)は、単純には同じレヴェルで現れるわけではない。…「差異性 differentiality」はもっと精密な関係性を示している。
その関係性のなかでは、一つの用語、その現前の対立物は、すぐさま他の用語ではなく、最初の用語の不在・それが記銘された場における空虚である(記名の場と合致する空虚)。そして、他の対立的用語の現前が、最初の用語の不在の空虚を埋め合わせる。これが、典型的二項対立おける、よく知られた「構造主義者」の命題ーー《一つの用語の現前は対立した用語の不在と等価である》--をいかに読まなければならないかのあり方である。
《「あなたの姉さんの裸について、そのほかに何か、私の注意すべきことはないでしょうか?」 「姉の足のあいだに僕は奇妙なことに気づいたんだ」 「彼女の足の間には何もなかったはずですが」 「そこが不思議なんだ」》(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)
《「そのほかに何か、私の注意すべきことはないでしょうか」 「あの晩の、犬の不思議な行動に注意なさるといいでしょう」 「犬は何もしなかったはずですが」 「そこが不思議というのです」とホームズは言った。》(シャーロックホームズ「白銀号事件」)
ここで、「昼(日中 day)」と「夜 (night)」という二個一組のシニフィアンの例を取り上げる。この二組は、単純には補完的シニフィアンではない。二つが組み合わされば(「昼」+「夜」)、全体を形作るものではない。むしろ、核心は次の通り。
《人間は「昼」をそれ自体として置く。それによって、昼は、夜という具体的な背景ではなく昼の潜在的不在ーーこの不在のなかに夜が位置づけられるーー という背景に対して、昼として現れる。もちろん逆もまた真である。》(ラカン、S.3.p.331)
《…que l'être humain pose le jour comme tel. Que le jour vient à la présence du jour et sur un fond qui n'est pas un fond de nuit concrète, mais d'absence possible de jour, où la nuit se loge, et inversement d'ailleurs,…》(Lacan,S.3)
したがって、シニフィアンの二個一組内部において、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在の背景に対して現れる。この不在は、その対立物の現前のなかで、物質化されたものーーポジティヴな存在として想定された不在である。ラカンによるこの不在のマテームは、もちろん、斜線を引かれたシニフィアン $ である。
すなわち、一つのシニフィアンはその対立物の不在を埋め合わせる。それは、その対立物の場を「表象」し所有する。…こうして、我々は既にシニフィアンの定式を生み出した。《一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を表象する[un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.]》。
ゆえに我々は理解できるだろう、ラカンにとってなぜ主体のマテーム $ が必要なのかを。すなわち、一つのシニフィアン S1 は、他のシニフィアン S2 に対して、その不在・その欠如 $ を表象する。
ここでの決定的な要点は、シニフィアンの二個一組において、一つのシニフィアンはその反対のシニフィアンの直の片割れでは決してなく、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在を表象(具現)するということだ。二つのシニフィアンは、三番目の用語である「空虚」を通してのみ「差異的 differential」関係性に入る。シニフィアンが差異的であるという意味は、主体を表象するどんなシニフィアンもない、ということである。
《主体とは、それ自身を徴示する signifying 表象の不可能性以外の何ものでもない。》(Žižek, The Sublime Object of Ideology, 1989、私訳)
しかしながら、この点に至って、事態は複雑化し始める。同じことが言えるのだ、最初のシニフィアンが「連接される accoupled」ことになるすべてのシニフィアンに対して。すなわち、どのシニフィアンも最初のシニフィアンに対してその潜在的な不在(主体)を表象する。
言い換えれば、最初には、主人のシニフィアンはない。というのは、《偶発的な機能 fonction éventuelle が主体を他の諸シニフィアンに対して主体を表象するなら、どんなシニフィアンも主人のシニフィアンの機能を想定しうる》(S.17)から。
《Assurément au départ il n'y en a pas, tous les signifiants s'équivalant en quelque sorte, pour ne jouer que sur la différence de chacun à tous les autres, de n'être pas les autres signifiants.
C'est aussi par là que chacun est capable de venir en position de signifiant Maître, et très précisément en ceci : que c'est sa fonction éventuelle… c'est ainsi que je l'ai défini de toujours …de représenter un sujet pour tout autre signifiant.》(S.17)
人は、すべてのシニフィアンに与えうる、そのシニフィアンに対して、その記銘の場の空虚を表象するシニフィアンの「等価物」の終わりなきシリーズを。我々は自分自身をある種の拡散されたーー繋がりの非全体化されたネットワークのーー状態のなかに見出す。すべてのシニフィアンが他の諸シニフィアンとの一連の個別的関係性に入り込む。
この袋小路から抜け出す唯一の可能な道は、一連の等価物をシンプルに反転し、一つのシニフィアンに主体(記銘の場)を表象する機能を付与することだ。それは、全ての他の諸シニフィアンに対して、である(こうして非全体は全体化される)。このようにして、正当的な主人のシニフィアンが生み出される。
ここで共通点、『資本論』の最初の第一章の価値形態の叙述との共通点に瞠目させられる。
まず、「単純な、個別的な、あるいは偶然的な価値形態」において、商品 B は、商品 A の価値の表現として現れる。
次に、「拡大された価値形態」において、等価形態は多数化される。商品 A は、その等価形態を、一連の諸商品、B, C, D, E に見出す。それらの諸商品は商品 A の価値に表現を与える。
最後に、「一般的な価値形態」において、「拡大された価値形態」をシンプルに反転し、「一般的等価物」のレヴェルに至る。こうして、商品 A 自体が全ての他の諸商品、B, C, D, E E ....の価値に表現を与える。
マルクス・ラカンのどちらの場合でも、出発点はラディカルな矛盾である(商品の使用価値と(交換)価値、シニフィアンとその記銘の空虚-場、すなわち S/ $ )。矛盾の最初の局面(使用価値、シニフィアン S)は、まさに初めから二個一組として置かれねばならないためである。
・商品は、他の商品の使用価値においてのみ、その(交換)価値を表現しうる。
・シニフィアンは、他のシニフィアンの現前においてのみ、その記銘の場ーーその潜在的不在 ($) ーーを表象しうる。
したがって、ラカンのシニフィアンの公式の異なったヴァージョンにおける単数形と複数形の戯れ、かつまた S1 と S2 とのあいだの場の交換は、三つの価値形態の継起への参照手段によって説明しうる。
《un signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant.》(E.819)
《Ce signifiant sera donc le signifiant pour quoi tous les autres signifiants représentent le sujet》(同 E.819)
① 「単純な形態」:あるシニフィアンに対して、他のシニフィアンが主体を表象する(つまり、一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を表象する[un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.])
② 「拡大された形態」:あるシニフィアンに対して、他のどんな諸シニフィアンも主体を表象しうる。
③ 「 一般的な価値形態」:ある(一つの)シニフィアンが他の全ての諸シニフィアンに対して主体を表象する。
もちろん、転回点は、②から ③への移行、「拡張された」形態から「一般的な」価値形態への移行である。一見、ただ関係性を逆にしただけに見える(一つのシニフィアンに対して主体を表象する諸シニフィアンの代わりに、他のすべてのシニフィアンに対して主体を表象する一つのシニフィアンを我々は見ることができる)。だが、実際には、この移行は付加的な「再帰的 reflective」な次元を導入することにより、表象の全経済を移動させる。
この次元を識別用するために、再度、『精神分析の裏面 L'Envers de la psychanalyse』(S.17)から上に引用した文節へと戻ろう。ラカンは引き続いてこう言っている、主体は《このレヴェルにおいて、表象されると同時に表象されない》(これが、我々の「マルクス的」読解における、「拡大された価値形態」であり、厳密な意味では、いまだ主人のシニフィアンS1 はない)、《何かがこの同じシニフィアンへの関係性において隠蔽されている》。
◆S.17
《Assurément au départ il n'y en a pas, tous les signifiants s'équivalant en quelque sorte, pour ne jouer que sur la différence de chacun à tous les autres, de n'être pas les autres signifiants.
C'est aussi par là que chacun est capable de venir en position de signifiant Maître, et très précisément en ceci : que c'est sa fonction éventuelle… c'est ainsi que je l'ai défini de toujours …de représenter un sujet pour tout autre signifiant.
Seulement le sujet, le sujet qu'il représente n'est pas univoque : il est représenté, sans doute, mais aussi n'est pas représenté. Quelque chose - à ce niveau - reste caché en relation avec ce même signifiant.》
主体は、己を「十全に」表象する「正しい proper」シニフィアンを持たない。どの徴示するsignifying 表象も誤表象である。いかに微細(感知できないもの)であろうとも、常に-既に主体を置換・歪曲する誤表象である。
そして、まさにこの、徴示する signifying 表象の削減されえない機能不全が、「単純な形態」 から「拡大された形態」への移行を誘いだす。すなわち、どのシニフィアンも主体を誤表象するため、表象の動きは次のシニフィアンへと動き続ける。究極の「正しい」シニフィアンを探し求めて、である。その結果は、徴示する signifying 表象の、非全体化された「悪の無限」である。
しかしながら、決定的な核心は次の点にある。すなわち、「一般的な形態」の出現にともなって、すべての他の諸シニフィアンに対して「一般的等価形態」として置かれるシニフィアンは、最終的に見出された「正しい」シニフィアン・誤表象を免れた表象ではない。
「一般的等価形態」として置かれるシニフィアンはーー、同じレヴェル・同じ論理的空間内部ではーー、他の諸シニフィアン(「拡大された形態」から来るすべての他のシニフィアン)として主体を表象しない。逆に、このシニフィアンは「再帰的 reflective」シニフィアンである。そこでは、まさに機能不全・シニフィアンの表象の不可能性が、この表象自体のなかに投影される。言い換えれば、この逆説的シニフィアンは、主体を徴示する表象の、まさに不可能性を表象(具現)する。擦り切れたラカンの公式に頼るなら、「シニフィアンの欠如のシニフィアン」として機能する。欠如しているシニフィアンが、欠如のシニフィアンへと再帰的倒置する場として。……(ジジェク『為すところを知らざればなり』1991、私訳)
この「再帰(投影)的シニフィアン」はあきらかにファルスのシニフィアン Φのことを言っている。そして、ある時期以降のラカンにとって(多くの場合)、Φ=S1である。たとえばジジェク 2012には、phallic Master‐Signifier という表現が頻出する(参照)。
【ファルスのシニフィアンの三つの水準】
(1)ポジション:喪われた部分、主体がシニフィアンの秩序に入るとともに喪いかつ欠けてしまった何かのシニフィアン。
(2) 否定:この欠如のシニフィアン。
(3) 否定の否定:欠如している/喪っているlacking/missing シニフィアン自体。(ジジェク、2012)
…………
※付記
◆Conversations with Ziiek Slavoj Zizek and Glyn Daly 2004より(邦訳『ジジェク自身によるジジェク』からだが、手元に邦訳がないので、私訳)
ーー1989年のあなたの本、『イデオロギーの崇高な対象』は発売と同時に古典となりました。この成功についてはどう説明します?
興味深いことは、この本のずっと前に私はすでにフランスでいくつかの出版をしていたけれど、むしろ失敗であまり売れなかった。今、あなたが『イデオロギーの崇高な対象』は、発売と同時に古典になったと言うんだが、それを私が自分自身で判断できるとは思わないね。
何と言ったらいいのか、そう、古臭い退屈な言い方をするならば、この本が占める場に、よりいっそうかかわるんじゃないか。固有の質とはあまり関係がない。たぶん知らないままで、私は当時の場にふさわしい調子で語ったというほうが大きいんだろう。私が思うに、人びとは標準的な分析手法にたぶんうんざりしてたんじゃないか。シンプルにそういった移行の時だった。私はちょうど正しい時にたまたまそこにいたということだ。つねにこういった幸運の時がある。
たとえば、ハイデガーの『存在と時間』、ーーやあ、もちろん偉大な書だ。でもまた幸運の時という面もある。正しい時にそれが現れたという意味でね。
あなたが訊ねていることについて言えば、そうだな、例えば私の二番目の本、『為すところを知らざればなり』(For They Know Not What They Do,1991)は、理論的によりいっそうの実際の価値があった。けれど、よくあることだが、みだらな冗談やらが少なくて、受けがいいというわけにはいかなかった。
だから多くは環境によるのさ。私の最初の本(ヒッチコックについての論集を勘定に入れないでのだが)、Le Plus Sublime des Hystenques は、三分の二までがーー、言ってしまえば、『崇高な対象』と重複している、全部じゃないけど。…でも大失敗だったよ、何のまともなインパクトも残していない。というわけで、これであなたは分かるだろう、いかに事態は運まかせであるかが。ここで爆発したって、ほかの場合は萎みっぱなしさ。
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※付記2:(「価値形態論と例外の論理」より)
普遍性と構成的例外の論理は、三つの段階において展開されるべきである。
(1)まず、普遍性への例外がある。どの普遍性も特殊な要素を含んでいる。その要素は、形式的には普遍的次元に属しているにもかかわらず、突出しており、普遍的次元にフィットしない。
(2) 次に、普遍性のどの特殊な例あるいは要素も、例外であるという洞察が来る。「標準的な」特殊性はない。どの特殊性も突出している。それは、普遍性の観点からは、過剰/欠如している(ヘーゲルが示したように、存在するどの国家も「国家」の概念にフィットしない)。
(3) 次に弁証法プロパーのひねりが来る。例外への例外である。それはいまだ例外であるが、唯一の普遍性としての例外・要素である。その要素の例外は、普遍性自体に直接な繋がりがある。それは普遍性を直接的に表す(ここで注意しておこう、この三つの段階はマルクスにおける価値形態論と共通していることを)。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
◆THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE Slavoj Zizek、2002
セミネールXXにて、ラカンは「非全体 pas-tout の論理」と普遍性を構成する「例外の論理」を展開した。
(普遍性に属する要素の)シリーズ series とその例外のあいだの関係性のパラドックスとは、たんに「例外が普遍的規則を基礎づける」という事実にあるのではない。すなわち、どの普遍的シリーズもある例外の除外を含んでいる--例えば、すべての男は譲渡することのできない権力を持っている。狂人、犯罪者、未開人、無教養者、子供等の例外を除いて--という事実にあるのではない。
正当的弁証法の核心は、むしろある意味で、シリーズと諸例外は直接的に一致するいうことだ。シリーズは常に「諸例外」のシリーズである。すなわち、ある例外的な質を示す実体のシリーズであり、それがシリーズに所属するための資格を付与する(英雄の、我々のコミュニティのメンバーの、真の市民の、等々のシリーズ)。
思い起こそう、標準的なスケコマシ male seducer の女性征服リストを。どれも「例外」である。どの女も、特殊な「言葉で言い表しえないもの je ne sais quoi」のために誘惑される。そしてこの女性のシリーズは、まさに例外的な人物像のシリーズである。(私訳)
注):私はこの点をアレンカ・ジュパンチッチとの会話に負っている。もう一つ例を挙げよう。ここにはまた、ジャン=ポール・サルトルとシモーヌ・ボーヴォワールとのあいだの「開かれた結婚」関係の袋小路がある。
彼らの書簡を読むことから明瞭になるのは、二人の「パック」は、事実上、非対称的であり機能していないということだ。それはボーヴォワールに数々のトラウマを引き起こした。彼女は期待した、サルトルは他の愛人の「シリーズ」を持つにもかかわらず、彼女は「例外」、唯一の本当の愛の関係だと。
他方、サルトルにとっては、ボーヴォワールは「シリーズ」のなかの唯一の女ではなかった。彼女は、まさに諸例外の一人だった。サルトルのシリーズは、女たちのシリーズであり、どの女も彼にとっては「例外的な何か」だった。