2016年8月3日水曜日

「途方もない好い女」による BWV 878

やあ、やっぱりピアニストはアジアの乙女たちがいいんじゃないか

不思議に日本の女性ピアニストに魅かれたことがないのだが
(なんだか生臭く感じて)
あれは西洋化されすぎているせいなんだろうか・・・

…………

おそらく(世界的には)いまだまったく無名であるはずのピアニスト、
シンガポールのSee Ning Hui (1996年生まれ)のデビューコンサートより

◆Bach - Prelude & Fugue No. 9 in E, BWV 878



ーー実に惚れ惚れする。何度もくり返して聴いてしまった。
(ふたつほど気になる音?があるが、そんなものはへいっちゃらさ)

なんというのか、インティメートで、抒情的で、上品で、節度があって、--あたかもオレが弾くように、肝腎かなめの箇所でひどいミスタッチがあってーー下手な小細工をせずに、自然にーー”魂のこと”をするようにーー演奏されたSee Ning Hui =バッハの奇跡!

いやあ、種々の名高い演奏家のものとききくらべてしまったよ。

グールドだけでなくーーグールドにはCD版やヴィデオ版だけではなく、初期の1957版があるようだ、初期から緩急緩の移行ーー、グルダリヒテル、それに Edwin FischerRosalyn Tureck や Helene Grimaud やらと。すくなくとも「この今」は、See Ning Hui ちゃんがナンバーワンだね・・・

クララ・ハスキルはなんでこの曲やらなかったんだろ?

カザルスの録音はないんだろうか?

・これまでの 80年間、私は毎日毎日、その日を、同じように始めてきた。ピアノで、バッハの平均律から、プレリュードとフーガを、 2曲ずつ弾く。

・Schumann シューマン、Mozart モーツァルト、Schubert シューベルト・・・Beethoven ベートーヴェンですら、私にとって、一日を始めるには、物足りない。Bach バッハでなくては。

どうして、と聞かれても困るが。完全で平静なるものが、必要なのだ。そして、完全と美の絶対の理想を、感じさせるくれるのは、私には、バッハしかない((パブロ・カザルス 鳥の歌 ジュリアン・ロイド・ウェッバー編

くり返して「観賞」しているうちに、つまり、彼女の眼差し、腕や軀の動かし方のすみずみまでなめるように観察していると、侯孝賢の女たちーーとくに辛樹芬(シン・シューフェン)ーーを思い出して、胸キュンとなっちゃったよ。

しかもオレの最も愛する曲をデヴューコンサートでやるなんて。




あなたの口は「いや」という、あなたの声とあなたの眼は、もっと優しい一言を、もっと上手に語っている。[Votre bouche dit non,votre voix et vos yeux disent un mot plus doux,et disent bien mieux] (Andre Chenier)

ーー《己は生涯忘れることが出来まい。あの伏目になった様子が己の胸に刻み込まれてしまった。》


ファウスト

もし、美しいお嬢さん
不躾ですが、この肘を
あなたにお貸申して、送ってお上申しましょう。

マルガレエテ

わたくしはお嬢さんではございません。美しくもございません。
送って下さらなくっても、ひとりで内へ帰ります。

ファウスト

途方もない好い女だ。
これまであんなのは見たことがない。
あんなに行儀が好くておとなしくて、
そのくせ少しはつんけんもしている。
あの赤い唇や頬のかがやきを、
己は生涯忘れることが出来まい。
あの伏目になった様子が
己の胸に刻み込まれてしまった。
それからあの手短に撥ね附けた処が、
溜まらなく嬉しいのだ。


しかも伏目がちにて「魂のこと」をされたら、わたくしは魂をうばわれざるをえない。

車から降りたウェルテルがはじめてシャルロッテをみかける(そして夢中になる)。戸口を額縁のようにして彼女の姿が見えている(彼女は子供たちにパンを切り分けている。しばしば注釈されてきた有名な場面)。われわれが最初に愛するのは一枚のタブローなのだ。というのも、ひとめぼれにはどうしても唐突性の記号が必要だからである(それがわたしの責任を解除し、わたしを運命に委ね、運び去り、奪い去るのだ)。(……)幕が裂ける、そのときまで誰の目にも触れたことのないものが全貌をあらわすにする。たちまちに眼がこれをむさぼる。直接性は充満性の代償となりうるのである。わたしは今、秘密をあかされたのだ。画面は、やがてわたしが愛することになるものを聖別しているのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』ーー「魂を奪われる」一目惚 coup de foudre




《女の眼の語ったことを、誰が忘れようか。シェイクスピヤもいったように、その眼のなかに全世界を読みとることさえあり得るからだ。》(加藤周一『絵のなかの女たち』)

私の少年時代は主に渋谷ですごされた。生まれたのは、牛込区新小川町三丁目であるが、三歳の時、赤十字病院前麻布区笄町(現、南青山七丁目)に引っ越した。
私はこの電車(皇城の外濠を一巡する路線「外濠線」)が好きで、その頃家にいた母方の祖母くにに抱かれて、外濠線を一巡したということである。一枚の切符で一巡する者はあまりなかったろうが、毎日乗るので、車掌も顔見知りになり、なんにもいわれなかった、と伝えられている。

(……)私にはまったく記憶がない。突然外界が動き出す驚きに似た感覚を覚えているような気がするが、それは多分後の経験がこの時期に投射されたものだろう。新小川町の家で、私の唯一の記憶はーーそしてそれは私の最初の記憶になるのだがーーどこかの家の庭の植込みを抜け、座敷へ近づいて行く感覚である。障子を開け放った座敷の中には、一人の少女がいて、ピアノを弾いていた。(大岡昇平『幼年』)



《朝礼で整列している時に、隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚》(中井久夫の恋文

とはいえ、王羽佳(ユジャ・ワン)だって、いつまでたってもあの朝礼の少女、「障子を開け放った座敷の中」の少女さ




ああ、「あんなに行儀が好くておとなしくて、そのくせ少しはつんけん」しているユジャ・マルガレエテ(グレエトヘン)ちゃん!

◆Yuja Wang in Carnegie Hall - Gretchen am Spinnrade(糸を紡ぐグレートヒェン)




《あの女の目や、頬や、唇にはことばがある。いや、脚も話しかけてくる。[There's language in her eye, her cheek, her lip, Nay, her foot speaks. ]》( (シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』) )

私の記憶は、前に書いた、ピアノを弾く嘉子さんだけである。明治三十二年生れだから、この頃十一、二歳である。はっきりした映像は残っていない。ただ薄暗い木陰から明るい庭の向うの座敷で、ピアノを弾く少女の方へ近づいて行く感じだけである。(……)

その時の私の感情も思考についても何の記憶もない。しかし私の最初の記憶がこういう場面であったということは、後年、私がピアノに特別な愛着を持ったことに関連するかも知れない。中学生の時ピアノを習いたいといったが、許して貰えなかった。一九六二年、胃潰瘍をやって、三ヶ月、運動も執筆も禁止された時、私がピアノと作曲をやることとしたのは、少年の日の充たされなかった夢を、齢五十をすぎて、実現さたということだったかも知れない。

それらをみなこの最初の記憶のせいにするのは牽強附会にすぎようが、これはその後今日までの私の生活態度、或いは私の書いたものから抜けない、なにか上品で、女性的で、きれいなものに対する憧れ、要するにスノビスムと関連があるだろう。(大岡昇平『幼年』)

といっても、ユジャ・ワンちゃんのこの時期は知らなかった・・・





ーーと、ふと調べてみると、
SEE NING HUI ちゃんのホーム・ページを開けば、
こんな写真が唐突に飛び込んでくる・・・




けやきの木の小路を
よこぎる女のひとの
またのはこびの
青白い
終りを

ーー西脇順三郎『禮記』


ところで、わたくしは実は、隣りにいるまぶしいばかりの中学時代の同級生の少女とーー苦心惨憺してーー結婚したのだが、いまは別の国に住み、別の少女と暮らしている・・・

《女は口説かれているうちが花。落ちたらそれでおしまい。喜びは口説かれているあいだだけ。[Women are angels, wooing: Things won are done; joy's soul lies in the doing.]》( Troilus and Cressida )

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から「彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの」、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,私訳)

《得ようとして、得た後の女ほど情無いものはない。》(永井荷風『歓楽』)

結婚とは崇高化が理想化のあとに生き残るかどうかの真のテストの鍵となるものだったらどうだろう? 盲目的な愛では、パートナーは崇高化されるわけではない。彼(彼女)はただ単純に理想化されるだけだ。結婚生活はパートナーをまちがいなく非―理想化する。だがかならずしも非―崇高化するわけではない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、私訳)

理想化と崇高化? 理想化と崇高化を混同してはならない。

誤った崇拝は理想化をうむ。それは他者の弱さを見えなくする──あるいは、それはむしろ、自己のいだく幻影を投影するスクリーンとして他者を利用し、他者そのものを見えなくする。(ジジェク『信じるということ』)

オレはいつまでたっても「理想化」傾向がある人間かもしれぬ。今では、惚れてしまったら、できるだけはやく欠点を見いだそうとする習慣を身につけようとはしているのだが。

いまの「少女」とはビリヤード場で知り合ったのだが、
ビリヤードも伏目にて「魂のこと」をする一種であった・・・

◆Three Times 百年恋歌( 最好的時光)- Opening Scene "Smoke Gets in Your Eyes"(侯孝賢、スー・チー 舒 淇)




人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくとこもある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。

再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。(加藤周一『絵のなかの女たち』)

最後にルネ・フレミングとアバドのグレートヒェンを貼り付けておこう。オレはアバドのよれよれになって音楽に溺れているような表情がひどく好きでね、だいたいこんな顔して音楽聴いてるんだろうな、オレも。

◆Renee Fleming sings Schubert's "Gretchen am Spinnrade"