2016年8月15日月曜日

安倍政権のボロメオの環

【ボロメオの環の命運】

ラカンのボロメオの環は、ラカン派内でももはやまともに扱われていない場合が多いそうだ。

後期ラカン読むときに結び目の理論を勉強する必要はまったくないと思う。あれを真面目に受け取ってるのはヴァップローとか一部の超マニアックなラカニアンだけで、ミレールはじめ普通のラカニアンはあれを無視した上で、singularitéの議論とか、使えそうなところだけを取り出してる (松本卓也ツイート)

とはいえ、たとえば、《仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)》(柄谷行人)などを考える上で、いまだすぐれた参照にはなりうる。上の文にもあるように、使えそうなところは使ったらよい。

フロイトの精神分析は経験的な心理学ではない。それは、彼自身がいうように、「メタ心理学」であり、いいかえると、超越論的な心理学である。その観点からみれば、カントが超越論的に見出す感性や悟性の働きが、フロイトのいう心的な構造と同型であり、どちらも「比喩」としてしか語りえない、しかも、在るとしかいいようのない働きであることは明白なのである。

そして、フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。むろん、私がいいたいのは、カントをフロイトの側から解釈することではない。その逆である。(柄谷行人『トランスクリティーク』p59)


【ボロメオの環の基本的読み方】

ボロメオの環の「基本」ーーあくまで基本である、その転覆のいくらかは後述ーーについては、ベルギーのフロイト・ラカンの注釈者であり臨床家でもあるポール・ヴェルハーゲ(英語圏ではラカン派の代表的論者)の明晰な記述がある。

ボロメオ結びにおいて、想像界の環は現実界の環を被っている。象徴界の環は想像界の環を被っている。だが象徴界自体は現実界の環に被われている…。これがラカンのトポロジー図形の一つであり、多くの臨床的現象を形式的観点から理解させてくれる。(DOES THE WOMAN EXIST? PAUL VERHAEGHE,1999,PDF





ヒステリーは現実界と象徴界とのあいだの接合部において始まる。 現実界は象徴界のなかに完全には入り込まない。そして象徴界は現実界との関係において欠如を示す。R > S

ヒステリーの構造における防衛的な作り直しは想像界を通して起こる。その想像界は現実界を支配する。I > R

同時に、三つの審級の完全な構造は、想像界は象徴界に従属していることを示している。S > I > R.

ゆえに想像界の観点からの解決法は失敗を運命づけられている。この想像界は象徴界のなかの欠如に答えを出さなければならない。つまり、想像界はそれ自体、象徴界に決定づけられている。したがって、同じ欠如が想像界のなかに再現する。(同上、ヴェルハーゲ、1999、私訳)

ヒステリーとあるが、われわれは話す存在であり、基本的にはみなヒステリーである(フロイト曰く、強迫神経症はヒステリーの方言)。簡潔に言えば、ヒステリー者とは欲望の主体ということである。

ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは話す主体の本質的な性質である。ヒステリーの言説とは、特別な発話関係というよりは、発話の最も初歩的なモードである。思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリカルそのものだ。(GÉRARD WAJEMAN 「The hysteric's discourse 」ーー「シェイクスピア、ロラン・バルト、デモ(ヒステリーの言説)」)

別の言い方をすれば、《言語、法、貨幣は、人間にとって外部の存在であり、他者》(岩井克人)を媒介とするかぎり、我々は象徴的な〈私〉と現実界的な〈この私〉、あるいは現実界的な身体としての〈私〉とのあいだで分割される。これがラカンの $ (斜線を引かれた主体)のまずは最も基本的な捉え方である(象徴的去勢)。

一般に流布するフロイト的な「去勢」とは、想像的去勢のことであり、他方、フロイトの去勢概念を形式化したラカン派にとっての去勢とは象徴的去勢のことである。--《去勢とはシニフィアンという他者の効果によって導入された現実的な働き(la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant)》 (Lacan,S.17)。

言語、法、貨幣の媒介があって、個々の人間ははじめて普遍的な意味での人間として、お互いに関係を持つことが可能になる。これが神経症的(ヒステリーと強迫神経症)であることの基本的意味である(もっとも「20世紀の神経症の時代から、21世紀のふつうの精神病の時代へ」などとラカン派内では言われることがあるが、「ふつうの精神病」者自体、当然のこと言語等の媒介なしで生きているわけではない)。

さて、ヴェルハーゲの記している S > I > R をより正確に記せば、


これは岩井克人が独自に詳述化したマルクスの価値形態論の 無限の循環論法 を想起させる。



もっとも、S ,I ,R のポジションについては、上の単純なS >I > R とは異なる(これはさらにラカンの四つの言説理論などを参照しなければならない[参照])。ここでは無限の循環にのみ注目しておく(参照)。

いずれにせよ、上の S > I > R の図式は、種々の変奏が可能であり、たとえば、形式>内容>物自体、あるいは国家>共同体>資本、貨幣>商品>剰余価値等々と置き換えることができる。


人はどのポジションにおいて語っているのか、と問うときーー通常は形式、内容の二項のどちらかだが、そこから零れ落ちるものがある。そのことに思いを馳せるときにとても役立つ図式に相違ない。

形式と内容を、合理論と経験論と言い換えれば次のようになる(周知のように、日本は過剰に経験論者の多い国と言われてきた)。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム 」)
重要なのは、(……)マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

この柄谷行人の文から、彼が捉える「物自体」がなにかが判然とするだろう。つまり、それは《言説の差異でありその「間」》である。

物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。(柄谷行人ーー「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない

これは(少なくともある時期の)ラカンも同様である。

現実界とは形式化の袋小路である ( “Le reel est un impasse de formalization,” )(ラカン、セミネール20)

※異なった視点があるのは、「何かが途轍もなく間違っている(ジジェク 2016→ ミレール)」を参照。


【社会・政治・経済的なボロメオの環】

ところで柄谷行人には、上に掲げた文以外にもボロメオの環の比喩にかかわる次のような叙述がある。

カントが科学、道徳、芸術の関係を明示したことは確かである。しかし、カントが、第一批判、第二批判において示した「限界」を、第三批判において解決したと考えるのはまちがっている。彼が示したのは、これらの三つが構造的なリングをなしているということである。それは、現象、物自体、超越論的仮象がどれ一つを除いても成立しないような、ラカンのメタファーでいえば、「ボロメオの環」をなすということと対応している。だが、こうした構造を見いだすカントの「批判」は、第三批判で芸術あるいは趣味判断を論じることで完成したのではない。(『トランスクリティーク』P.62)
近代国家は、資本制=ネーション=ステート(capitalist-nation-state)と呼ばれるべきである。それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。たとえば、経済的に自由に振る舞い、そのことが階級的対立に帰結したとすれば、それを国民の相互扶助的な感情によって解消し、国家によって規制し富を再配分する、というような具合である。その場合、資本主義だけを打倒しようとするなら、国家主義的な形態になるし、あるいは、ネーションの感情に足をすくわれる。前者がスターリン主義で、後者がファシズムである。このように、資本のみならず、ネーションや国家をも交換の諸形態として見ることは、いわば「経済的な」視点である。そして、もし経済的下部構造という概念が重要な意義をもつとすれば、この意味においてのみである。同上、P.35)

ここでの柄谷行人の表現を言い換えれば、

・現象、物自体、超越論的仮象とは、それぞれ想像界、現実界、象徴界
・資本制、ネーション、ステートとは、現実界、想像界、象徴界、となる。

ーーこのように捉えた場合、一見、現実界をたんなるアンチノミーとすることはできがたいようにもみえるが、柄谷は資本制を資本の論理・資本の欲動と捉えている側面がある。欲動、すなわち欲望(象徴界)のアンチノミーにあらわれる現実界的なものである。

物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーー(……)欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

ジジェクもイデオロギー、ヘゲモニー、エコノミーを、それぞれ想像界、象徴界、現実界としている。

The three ‘true’ reasons for the attack on Iraq (ideological belief in western democracy – Bush’s ‘democracy is god’s gift to humanity’; the assertion of US hegemony in the New World Order: economic interests – oil) should be treated like a ‘parallax’: it is not that one is the ‘truth of the others; the ‘truth’ is, rather, the very shift of perspective between them. They relate to each other like the ISR triad…: the Imaginary of democratic ideology, the Symbolic of political hegemony, the Real of the economy, and, as Lacan would have put it in his late works, they are knotted together. (Zizek Iraq)


ヴェルハーゲのいうS > I > Rの順番と合致させれば、

・超越論的仮象>現象>物自体
・国家(ステート)>共同体(ネーション)>資本制
・ヘゲモニー>イデオロギー>エコノミー

となる。ボロメオの環にあてはめて図示すれば次の通り。



イデオロギーあるいは共同体は、資本制・エコノミーを支配している(被っている)。だがそれは国家あるいはヘゲモニーに支配されている(被われている)。そして国家・ヘゲモニーは、資本制(資本の論理)あるいは経済に支配されている(被われている)。


ここで柄谷行人の上に引用した文章の一部を再掲する。

それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。たとえば、経済的に自由に振る舞い、そのことが階級的対立に帰結したとすれば、それを国民の相互扶助的な感情によって解消し、国家によって規制し富を再配分る

この文をここでの文脈に則ればーーつまりヴェルハーゲの記述をベースにすればーー次のように書き換えうる。




とすれば、次のように言うことができるだろう。

1、資本・経済的に自由な振舞いという現実界は、ヘゲモニー・国家の規制という象徴界のなかに完全には入り込まない。そしてヘゲモニー・国家の規制(象徴界)は、資本・経済(現実界)との関係において欠如を示す。R > S(経済的に自由な振舞い>国家による規制)。

2、防衛的な作り直しはイデオロギー・相互扶助という想像界を通して起こる。イデオロギー・相互扶助は、資本=経済的に自由な振舞いという現実界を支配する。I > R(相互扶助>経済的に自由な振舞い)

3、イデオロギー・相互扶助という想像界は、ヘゲモニー・国家の規制という象徴界に従属している。S > I(国家による規制>相互扶助)

ゆえにイデオロギー・相互扶助という想像界の観点からの解決法は失敗を運命づけられている。このイデオロギー・相互扶助(想像界)はヘゲモニー・国家の規制(象徴界)のなかの欠如に答えを出さなければならない。つまり、イデオロギー・相互扶助(想像界)はそれ自体、ヘゲモニー・国家の規制(象徴界)に決定づけられている。

したがって、同じ欠如ーー資本=経済的に自由な振舞い(現実界)が国家の規制(象徴界)のなかに徴づけた穴ーーが相互扶助(想像界)のなかに再現する。

ボロメオの環によって図示すれば、次のようになる。





【安倍政権(現在日本)のボロメオの環】

1989年以降は、国家による規制というヘゲモニーが弱まって、経済的に自由な振舞いが前面に出てきている。

・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……

・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰 『憂国呆談』2012.8より)

民主主義というイデオロギーの仮面も機能しない。資本の論理・市場原理という非イデオロギー(現実界)が臆面もなく振る舞っている時代である。

「帝国主義的」とは、ヘゲモニー国家が衰退したが、それにとって代わるものがなく、次期のヘゲモニー国家を目指して、熾烈な競争をする時代である。一九九〇年以後はそのような時代である。いわゆる「新自由主義」は、アメリカがヘゲモニー国家として「自由主義的」であった時代(冷戦時代)が終わって、「帝国主義的」となったときに出てきた経済政策である。「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。しかし、アメリカの没落に応じて、ヨーロッパ共同体をはじめ、中国・インドなど広域国家(帝国)が各地に形成されるにいたった。(柄谷行人 第四回長池講義 要綱


柄谷行人のいうように、新自由主義という現実界が席捲しているのは、すくなくとも1989年以降は世界的にもあてはまるのだが、現代日本という卑近な例に適用すれば次のようになるだろう。

・資本=経済的に自由な振舞いとは、新自由主義・市場原理主義(現実界=物自体)である。

・共同体=相互扶助とは、たとえば、絆、美しい国の復活(想像界=現象)。

・ヘゲモニー=国家(による規制)とは、戦後レジームからの脱却、憲法改正(象徴界=超越論的仮象)



※上の記述は、安倍晋三氏の2009年の発言を援用した。

・日本というのは古来から絆を大切にし、地域の絆、家族の絆、そして国の絆の中で、助け合っていろんな困難を乗り越えてきたわけでありまして、それぞれが抱えている問題についてもお互いが協力し合って乗り越えてきた。

・この憲法、そして教育基本法といった、この時に出来上がった戦後の仕組みをもう一度、根本から見直しをしていって、21世紀にふさわしい日本を私達の手で作っていこうというのが「戦後レジームからの脱却」でございます。(【安倍晋三氏「美しい国へ―戦後レジームからの脱却】 2009年2月11日 明治神宮会館]


さて、新自由主義という非イデオロギー的イデオロギー(現実界)が前面に出てきてしまった環境においては、悪の陳腐さが渦巻く。

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(Paul Verhaeghe What About Me? 2014 ーーラカン派による「現在の極右主義・原理主義への回帰」解釈

《後はどうとでもなれ。これがすべての資本家と、資本主義国民の標語である。だから資本は、社会が対策を立て強制しないかぎり、労働者の健康と寿命のことなど何も考えていない。》(マルクス)

もちろん、現実界が象徴界に開けた「穴」とは、ヴェルハーゲのいう「悪の陳腐さ」や柄谷のいう「弱肉強食の社会ダーウィニズム」だけではなく、経済低成長・少子高齢化による財政崩壊・社会保障制度崩壊等の危機である。

そして象徴界的な憲法改正・戦後レジームからの脱却(形式)の実態(内容)とは、大日本帝国の復活だという見解がある。

安倍政権は、経済政策のアベノミクスが「富国」を、今回の特定秘密保護法や、国家安全保障会議(日本版NSC)が「強兵」を担い、明治時代の「富国強兵」を目指しているように見えます。この両輪で事実上の憲法改正を狙い、大日本帝国を取り戻そうとしているかのようです。(浜矩子・同志社大院教授

美しい国、大日本帝国の復活という想像的なイデオロギー、--その《解決法は失敗を運命づけられている》(ヴェルハーゲ)。

以下の文の内容を「美しい国」、形式を「憲法改正」、原抑圧を「市場原理」に置き換えて読んでみよう。

内容と形式とのあいだの裂け目は、内容自体のなかに投影される。それは内容が全てではない pas-tout ことの表示としてである。何かが内容から抑圧され/締め出されているのだ。形式自体を確立するこの締め出しが、「原抑圧」 (Ur‐Verdrängung)である。そして如何にすべての抑圧された内容を引き出しても、この原抑圧はしつこく存在し続ける。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)



われわれは少子高齢化、財政破綻・社会保障制度崩壊の危機という経済(現実界)によって象徴界に開けられた穴を直視しなければならない。

柄谷行人は福島原発事故後のインタヴューで次のように語っている。

【柄谷】最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる。こういう考えの前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に没却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。([反原発デモが日本を変える])

たとえば、安倍の消費税増延期やら経済音痴系のインテリ諸氏の消費税反対の絶叫などというものも、人間主義的モラリズム・相互扶助という想像界による彌縫策にすぎず、失敗を運命づけられている。

ああ、財政破綻危機や少子高齢化社会にふれないままの「美しき魂」たちの寝言、その相変わらずの跳梁跋扈!

道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である。(二宮尊徳)

ーー《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども》(ニーチェ)

現在、ヨーロッパで、また世界で支配的なイデオロギーの主流(……)。資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫するだけ。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかないーーこのように資本主義的なシニシズムと新カント派的なモラリズムがペアになって、現在の支配的なイデオロギーを構成している(『可能なるコミュニズム』シンポジウム 2000.11.17 浅田彰発言)


【社会的縫合としての結び目】

象徴界〉想像界〉現実界という無限の循環論法から逃れるためにはどうしたらいいのか(しかも現在現実界の側面が前面にでき来てしまっている)。

ラカン読みなら、サントームという言葉がすぐさま口に出るだろう。だがその考え方が社会的縫合にも機能するかどうかは議論の余地がある(参照:象徴界のなかの再刻印・再象徴化(ジョイス=サントーム))。





ーーこの図では、三つの環それぞれがバラバラになってしまっているのが分かるだろう(このあたりについては、藤田博史氏の「セミネール断章 2012年4月14日講義より」を参照)。

《各々はバラバラなのです。ラカンはここへ第四の輪 le quatrième cercle を導入します。つまりこの第四の輪が三つの輪に対して補填として働くのです第四の輪 le quatrième cercle を導入します。つまりこの第四の輪が三つの輪に対して補填として働く》(藤田博史)--この第四の輪がサントームである。

(もっとも特殊な精神病症状でなければ、バラバラということは通常ありえない。ふつうは《仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)》はなんらかの形でつながっている。それはイデオロギー、ヘゲモニー・エコノミーもしかり。)

では、サントーム概念を社会的現実において仮に利用することができるなら、具体的にどうしたらいいのか。現在の無限の循環論法の留め金--ラカン用語ではクッションの綴じ目ーーが機能していないようにみえる現在、まずは新しいシニフィアンを探さなくてはいけない、ということであるはずだ。

なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?” ( J. Lacan, Le Séminaire XXIV)

《ラカンはこの自己によって創造されるフィクションを、サントームと呼んだ。…新しいシニフィアン或いはサントームの創造の文脈における創造とは、〈大他者〉の欠如の上に築き上げられるものである。すなわちcreatio ex nihilo無からの創造においてのみ。》(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

このサントームの機能は、社会的には、ジジェクのいう主人のシニフィアン、柄谷行人のいう統整的理念の機能とほぼ等しい(参照:主人のシニフィアンと統整的理念)。

〈主人のシニフィアン〉とは何だろう?社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、〈主人〉は新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「クッションの綴じ目 point du capiton」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。(……)〈主人〉は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しい調和la nouvelle harmonie」に変ずる。(ジジェク、2012)

 ※ポワン・ド・キャピトン point du capiton :袋状にしたカバーのなかに羽毛や綿を詰めたクッションは、そのままでは、不安定で非一貫的である(中身がすぐに偏ってしまう)。「クッションの綴じ目」は、この詰め物の偏りを防ぐためのものであり、クッションの中央にカバーの表から裏まで糸を通し、糸が抜けてしまわないようにボタンをつけたりする。このボタンは、主人のシニフィアン S1 とも呼ばれる。

それは日常語でいえば、まずは社会的調和のために「新しい言葉を探せ」ということであるだろう(参照:クッションの綴じ目と社会的縫合)。現在、「人権」、「正義」、「平等」、「民主主義」等々、どの言葉もまともに機能していないのだから。

たとえば「寛容」という想像界的語彙の流通は、人権などの象徴界的語彙の敗北としての猖獗である。

どうしてだろう、 現在、とても多くの問題が「不寛容」の問題として受けとめられるのは? 不平等や搾取、不正議の問題としてではなく、「不寛容」なのは? どうしてだろう、提案される治療法は「寛容」であって、束縛からの解放や政治的闘争、さらには武力闘争ではないのは? すぐさま返ってくる答は、リベラル多文化主義者たちの基本的イデオロギー操作だ。すなわち「政治の文化化 culturalization」ーー政治的差異、政治的不平等や経済的搾取などに条件づけられた差異ーーは「文化的」差異や異なった「生活様式」へと順応させられ/脱色化される。それらは、与件としての何か、克服されえず、たんに「寛容」に扱われなければ何かということになる。

(……)この「文化化 culturalization」の原因は、直接の政治的解決(福祉国家、社会主義的プロジェクト等々)からの退却、失敗のせいだ。「寛容」は、それらのポスト政治的模造品である。(ジジェク、2007、Tolerance as an Ideological Category

さて、なにが主人のシニフィアンを構成するのかといえば、《語りの残りの部分、一連の知識やコード、信念から孤立化されることによってである》(Fink 1995)

あるいは、この“empty”(空の)シニフィアン(主人のシニフィアン)が、正確な意味を持たないことによって、《雑多な観点、相剋する意味作用のチェーン、ある特定な状況に付随する独特の解釈を、ひとつの共通なラベルの下に、固定し保証してくれる》(Stavrakakis 1999)

柄谷行人=カントの「世界共和国」、バディウ・ジジェクの「新しいコミュニズム」(「新コミューン」とでもしたら抵抗は少なくなるのではないか)というシニフィアンーーそれはラカンのいう無意味のシニフィアン=サントームではなく、むしろ Fink やStavrakakis のいう主人のシニフィアンに近いーーもこの文脈にはありながら、機能するところまでは言っていない。

※ラカン派では、「私」という一人称単数代名詞、あるいは各人の「名」も、主人のシニフィアンとされる。卑近な例では、すこしまえ流通していた「女子力」という空虚のシニフィアンでさえーー限定されて集団内でのーー、主人のシニフィアンと言いうるかもしれない。


【21世紀のボロメオの環】

最後にボロメオ結びについて、最晩年(1979)のラカンの言葉を引用しておこう。

ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もないから。私が言っていることの本質は、性関係はないということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ,(Lacan, séminaire XXVI La topologie et le temps 9 janvier 1979)9 janvier 1979)

かつまたーー、21世紀のボロメオの環は、腰抜け・妄想家・詐欺師、あるいは脆弱 – 妄想 – 詐欺 Débilité – délire – duperieーー《これが、21世紀の分析臨床上の、《想像界・象徴界・現実界の結び目の谺、鋼鉄製の三幅対》[Débilité – délire – duperie, telle est la trilogie de fer qui répercute le nœud de l'imaginaire, du symbolique et du réel].である》(ミレール、2014ーー腰抜け・妄想家・詐欺師)、ーーなどという観点さえある。

たしかに、イデオロギーが腰抜けであり、ヘゲモニーが妄想であり、エコノミーが詐欺であるのは以前からよく知られてはいる・・・