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2016年8月16日火曜日

反復は抑圧に先立つ(ドゥルーズ)

以下、「抑圧は禁圧に先立つ」、「結果は原因に先立つ」の一環のメモ

…………

ドゥルーズの『差異と反復』には、フロイトの「原抑圧」概念に触れつつ、《ひとは、抑圧するから反復するというのではなく、反復するから抑圧する On ne répète pas parce qu'on refoule, mais on refoule parce qu'on répète》という文がある。

《同じことだが》ーーと記しつつ、《ひとは、抑圧するから偽装するのではなく、偽装するから抑圧する on ne déguise pas parce qu'on refoule, on refoule parce qu'on déguise 》ともある。

ジジェクもこのドゥルーズの文を引用して次のように記している。

ラカンにとって、反復は抑圧に先立つ。それはドゥルーズが簡潔に言っているのと同様である、《ひとは、抑圧するから反復するのではなく、反復するから抑圧する》。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

この文に註が付されて、次のようにある。

この帰結はまた、反復と想起とにあいだの関係における転倒をともなう。フロイトの名高いモットー、「我々は想い出せないことの反復を強いられる」は裏返されるべきだ、「我々は反復されえないことに憑き纏われ想起を強いられる」と。過去のトラウマから逃れる方法は、それを想起することではなく、キルケゴール的意味で十全な反復をすることである。

引き続き、こう書かれている。

我々は、最初にトラウマ的内容を抑圧し、そののち抑圧された内容を想起できずそれとの我々の関係を理解しえないゆえに、この内容が偽装された形で自らを反復して我々に憑き纏い続けるのではない。現実界が最小の差異であるなら、反復は(この差異を確立する反復は)原初のものである。抑圧の優越は、現実界の「具現化」とともに、象徴化に抵抗する〈モノ〉のなかへ現れる。そのときにのみ、締め出され或いは抑圧された現実界は己れを主張し反復する。現実界は、原初的には、モノから自らを分離する間隙・反復の間隙以外の何ものでもない。(ジジェク、2012)

上のように書かれた後、数ページ後に、ジジェクがドゥルーズから読み取った核心的な箇所として次の文も引用されている。

…ドゥルーズは『差異と反復』の決定的な一節で叙述している、

《それら二つの現在 〔古い現在と現働的な現在〕が、もろもろの実在的 réels なものからなる系列のなかで可変的な間隔を置いて継起するということが真実であるとしても、それら二つの現在はむしろ、別の本性をもった潜在的対象に対して共存する二つの現実的な系列を形成しているのである。しかもその別の本性をもった潜在的対象 l'objet virtuel は、それはそれでまた、それら二つの現実的な系列のなかで、たえず循環し遷移する。(…)反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成される。》(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳ーー同上)

※仏原文
s'il est vrai que les deux présents sont successifs, à une distance variable dans la série des réels, ils forment plutôt deux séries réelles coexistantes par rapport à l'objet virtuel d'une autre nature, qui ne cesse de circuler et de se déplacer en elles(…)La répétition ne se constitue pas d'un présent à un autre, mais entre les deux séries coexistantes que ces présents forment en fonction de l'objet virtuel (objet = x).

ラカンによってこのあたりのことが詳細に叙述されているのは、セミネール17(1969-1970)であり、ドゥルーズ1968と同じように原抑圧が強調されている(ラカンは『差異と反復』を絶賛している)。

いずれにせよ、ここでも核心は「原抑圧」概念である。原抑圧が抑圧ではないのは、ドゥルーズが以下に指摘している通り(ミレール、ジジェク、ヴェルハーゲ等の見解も同じくだがここでは割愛)。フロイト自身、原抑圧は固着(原固着)といっている(1911、シュレーバー事例)。

ラカンにとって原抑圧は、フロイト概念の「一つの徴einziger Zug」(『集団心理学と自我の分析』)に主にかかわる(後年の「文字」でもあるーー《文字 lettre は対象a、かつ「一つの徴」trait unaire》(S.23)ーーただし« osbjet »という奇妙な言い方もしている、骨象?)。

La seule introduction de ces nœuds bo, de l'idée qu'ils supportent un os en somme, un os qui suggère, si je puis dire, suffisamment quelque chose que j'appellerai dans cette occasion : « osbjet », qui est bien ce qui caractérise la lettre dont je l'accompagne cet « osbjet », la lettre petit a.(S.23)

ーーネット上では、マトモナヒトはほとんど誰もこの語に言及していないので、ミナサン、キニシナイヨウニシマショウ・・・

ここでは無難に? セミネール17から抜き出しておく。

・一つの徴の機能 la fonction du trait unaire は…、徴のもっともシンプルな形 la forme la plus simple de marque であり、厳密に言って、シニフィアンの起源 l'origine du signifiantである。

・知としてわれわれ分析家に関心をもたらす全ては、「一つの徴」に起源がある。

・一つの徴から始めることにより、…あなたは主人のシニフィアンの機能 Le fonctionnement du signifiant-Maître について自問することができる。

・一つの徴 trait unaire は、享楽の侵入(突入)の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17)

ジジェクは、ラカンのセミネール17の享楽の侵入の見解をとっていないのを示しておこう。

われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張 「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。 (ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012)

これはバディウも同じく。

L'un, qui n'est pas, existe seulement comme opération. (Badiou, L'être et l'événement)

「一つの徴」に相当するL'un は、 l'Un n'est pas、compte-pour-un 「一」はそれ自身と一致せず「一」として数えるオペレーション、あるいはtrait=stroke(ロレンツォ・キエーザ)等々、これがドゥルーズの「最小の差異」派の原抑圧の捉え方である(バディウのラカン参照はセミネール9(同一化)におけるtrait unaireの叙述にまずは起源があるようだ)。

他方、臨床的ラカン派は、たとえば《母なる〈他者 〉(m)Other が、子どもの身体の上に、享楽の侵入を徴付ける》(ヴェルハーゲ)という観点をとっている人が多いようにみえる。


…………

以下、上に引用したドゥルーズの文の前後をーー手元にない財津理氏訳をネット上から拾うことができたのでーー、ここに貼り付けておく(引用者がいくらか訳語を変えているそうだが)。いくらかの仏語は、わたくしがつけ加えた。

これまでわたしたちは、反復の過程を考えるにあたって、その難しさを何度も強調してき た。二つの現在、二つの〔原〕光景、あるいは二つの出来事(幼児期のものと成人期のも の)を、時間によって隔てられたそれぞれの実在性 réalité のなかで考察する場合、古い現在は、現働的な actuel 現在に間隔を置いて作用し、その現働的な現在を〔おのれをモデルにして〕つくりながら、反対にその現働的な現在からおのれの全有効性を受け取る recevoir rétrospectivement toute son efficacité というのは、いったいどうしたことであろうか。また、時間的間隔を埋めるために必要不可欠な想像的な働きを援用する場合、その想像的な働きは、反復を独我論的主体の錯覚としてでしか存続させないにもかかわらず、結局のところそれら二つの現在の全実在性 toute la réalité des deux présents を吸収してしまわないというのは、いったいどうしたことであろうか。

しかし、それら二つの現在 〔古い現在と現働的な現在〕が、もろもろの実在的 réels なものからなる系列のなかで可変的な間隔を置いて継起するということが真実であるとしても、それら二つの現在はむしろ、別の本性をもった潜在的対象に対して共存する二つの現実的な系列 deux séries réelles を形成しているのである。しかもその別の本性をもった潜在的対象 l'objet virtuel は、それはそれでまた、それら二つの現実的な系列 deux séries réelles のなかで、たえず循環し遷移するのだ (たとえ、それぞれの系列のもろもろの位置や項や関係を実現する諸人物、つまり諸主体が、それらとしては依然、時間的に区別されているにしてもである)。

反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成されるのだ。潜在的対象は、たえず循環し、つねに自己に対して遷移するからこそ、その潜在的対象がそこに現われてくる当の二つの現実的な系のなかで、すなわち二つの現在のあいだで、諸項の想像的な変換と、 諸関係の想像的な変容を規定するのである。潜在的対象の遷移 déplacement は、したがって、他のもろもろの偽装とならぶひとつの偽装 déguisement ではない。そうした遷移は、偽装された反復としての反復が実際にそこから由来してくる当の原理なのである。反復は、実在性réalité の〔二つの〕系列の諸項と諸関係に関与する偽装とともにかつそのなかで、はじめて構成される。 ただし、そうした事態は、反復が、まずもって遷移をその本領とする内在的な審級としての潜在的対象に依存しているがゆえに成立するのだ。したがってわたしたちは、偽装が抑圧によって説明されるとは、とうてい考えることができない。反対に、反復が、それの決定原理の特徴的な遷移のおかげで必然的に偽装されているからこそ、抑圧が、諸現在の表象=再現前化 la représentation des présentsに関わる帰結として産み出されるのである。
そうしたことをフロイトは、抑圧という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧〉と考えてしまってはいた la concevoir encore sur le même mode, comme un refoulement dit « primaire »のだが。 ひとは、抑圧するから反復するというのではなく、かえって反復するから抑圧するのである On ne répète pas parce qu'on refoule, mais on refoule parce qu'on répète。 また、結局は同じことだが、ひとは、抑圧するから偽装するのではなく、偽装するから抑圧する on ne déguise pas parce qu'on refoule, on refoule parce qu'on déguise のであり、しかも反復を決定する焦点〔潜在的対象〕の力によって偽装するのだ。偽装は反復に対して二次的であるということはなく、それと同様に、反復が、究極的あるいは起源的なものと仮定された固定的な項〔古い現在〕に対して二次的であるということもない。 なぜなら、古い現在と新しい現在という二つの現在が、共存する二つの系列を形成しており、しかも、それら二つのなかでかつ自己に対して遷移する潜在的対象に即して、それら 二つの系列を形成しているのであってみれば、それら二つの系列のどちらが根源的でどちらが派生的だ、などと指示するわけにはいかないからである。

それら二つの系列は、〔ラカン的な〕複雑な相互主体性のなかで、様々な項や様々な主体を巻き込んでおり、しかも それら主体のそれぞれは、おのれの系列におけるおのれの役割とおのれの機能とを、おのれが潜在的対象に対して占めている非時間的な位置に負っているのである。この〔潜在的〕対象そのものに関して言うなら、それを究極的あるいは根源的な項として扱うのは、 なおさら不可能なことである。もしそんなことをすれば、その対象が本性の底の底から忌み嫌う同一性と固定した場所を、その対象に引き渡すことになってしまうだろう。その対象が ファルスと「同一化」されうるのは、ファルスが、ラカンの表現を用いるならば、あるべき場所につねに欠け manque toujours à sa place、おのれの同一性において欠け、おのれの表象=再現前化において欠けているかぎりのことなのである。

要するに、究極的な項などは存在しないのであって、わたしたちの愛は母なるものを指し示してはいない nos amours ne renvoient pas à la mère のである。母なるもの la mère は、たんに、わたしたちの現在を構成する系列のなかでは、潜在的対象に対して或るひとつの場所を占めているだけであって、この潜在的対象は、別の主体性の現在を構成する系列のなかで、必然的に別の人物によって満たされ、しかもその際、つねにそうした対象=x〔潜在的対象〕の遷移が考慮に入れられているのである。それは、言ってみれば、『失われた時を求めて』の主人公が、自分の母を愛することによって、すでにオデットに対するスワンの愛を反復している en aimant sa mère, répète déjà l'amour de Swann pour Odette ようなものなのだ。

親の役割をもつ人物はどれも、ひとつの主体に属する究極的な項なのではなく、相互主体性に属する中間項〔媒概念〕であり、ひとつの系列から他の系列へ向かっての連絡 communication と偽装の形式であって、しかも、その形式は、潜在的対象の運搬 transport によって規定されているかぎりにおいて、異なった諸主体にとっての連絡と偽装の形式なのである。仮面の背後には、したがって、またもや仮面があり、だからもっとも隠れたものでさえ、はてしなく、またもやひとつの隠し場所なのである。何かの、あるいは誰かの仮面をはがして正体を暴くというのは、錯覚にほかならない。反復の象徴的な器官たるファルスは、それ自体隠れているばかりでなく、ひとつの仮面でもある。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)

…………

※付記

ここでの話題ではないので、上にはぐらかして記したが、« osbjet », la lettre petit a(骨象 a=文字)、あるいはストロークとしての「一つの徴」については、『同一化セミネール』(S.9)の次の文を参照することができる。

文字という、シニフィアンを支えるものを理解する基となるものはここにあるのだろうか。いや問題はそこにはない。なぜなら、一連の棒を引くとき、いかにていねいにやっても同じものはひとつもないであろうし、逆に無理に同じものを描こうとしないほうが一連の棒として説得力があることはあきらかである。

今私がやっていることをうまく説明するために、棒線の列が表れたのはいつ頃だろうかと調べたところ、サン・ジェルマン博物館ですばらしいものを見つけ出した。そこでガラス越しに明らかに哺乳類の一本の細い肋骨、鹿科の動物の肋骨の上に一連の棒線が引かれているのを見た時の感激をどう表してよいであろう。それはまず二本あり、少し間多いて五本、そしてそれが繰り返されている。
サド公爵は女性と交渉を持つたびにベットの頭に小さな印でマークした。そして彼は幽閉されるまでこれを続けるのであった。自らの性的遂行の追及においてどこまで到達したかを確かめようとするこのような必要性を持つとは、少なくとも性行為という人間の最もありふれ た経験が教えることからすると、欲望の冒険によほどのめりこんでいなければまずできないことである。しかしながらサドのように人生の恵まれた時期において十進法の世界の中で自分がどこにいるかわからなくなるというのは考えられないことではない。

刻み目の印において問題になっているものは、すべての本質的な行為の内在性と呼びうるものに比べて、必然的に何か新しいものを生み出すものである。われわれはまだはっきりとした指標を持っていないと想像するこの印という存在は、現実において差異を持っているものを識別できない、常に容易に更新される現在と単に連帯していると感じるのみではないためには、直感によって限定されたかなり短い時間の中でどう作用するのであろう。この差異は主体の体験の中にあると言うだけではじゅうぶんでないことはすでに明らかであるし、 「とにかく、だれだれは私ではない」と言うことも不充分である。(ラカン、同一化、向井雅明訳)