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2016年8月22日月曜日

――そうだ。お好み焼屋へ行こう

ひさしぶりに小説を熱中して読んだ。青空文庫にごく最近、--なんというのか、入庫した、とでもいっておくがーーその作品を一晩で読んでしまった。この、荷風のいとこである彼の小説は、晩年の大作『いやな感じ』だけしか読んでいなかった(この小説は、二十歳前後、古本屋で手に入れたと記憶するーーたしか吉行淳之介だったか川端康成だったかの賞賛に促されて)。





だいたいわたくしは海外住まいのせいか、日本の食べ物の話に弱い。そして下町のきびきびして 蓮っ葉で物馴れた女にも弱い。

お島のきびきびした調子と、蓮葉な取引とが、到るところで評判がよかった。物馴れてくるに従って、お島の顔は一層広くなって行った。(徳田秋声『あらくれ』)

これは、学生時代、根津に二年半ほど住んだせいだろうか(まだ谷根千などと言われて有名になる以前の頃)。

根津の交差点の一本向うの路地にあった一膳飯屋のおかみさんだって懐かしい。あのころというのは、その後住んだ京都の錦市場あたりをぶらぶらするのと同じくらい懐かしい。ああ、粕汁と刺身とお新香だけの、ビールをたのんでも千円以下ですんだあの狭い店、昼間のみ営業の錦市場端の路地奥の飯屋にもう一度いってみたい(粕汁があんなに美味なのを三十歳前後になってはじめて知った)。下町のカウンターだけのおでん屋や焼き鳥屋にだって行きたい。今晩の夕食は、あわてて、刺身とごはんに寿司酢をまぜて食した(これはこれでまた美味ではあるが、活きのよい魚が一種類しかないのが玉にきず)。

私は火鉢の火が恋しくなった。「――そうだ。お好み焼屋へ行こう」 

本願寺の裏手の、軒並芸人の家だらけの田島町の一区画のなかに、私の行きつけのお好み焼屋がある。六区とは反対の方向であるそこへ、私は出かけて行った。 そこは「お好み横町」と言われていた。角にレヴィウ役者の家があるその路地の入口は、人ひとりがやっと通れる細さで、その路地のなかに、普通のしもたやがお好み焼屋をやっているのが、三軒向い合っていた。その一軒の、森家惚太郎という漫才屋の細君が、ご亭主が出征したあとで開いたお好み焼屋が、私の行きつけの家であった。惚太郎という芸名をそのまま屋号にして「風流お好み焼――惚太郎」と書いてある玄関のガラス戸を開くと、狭い三和土にさまざまのあまり上等でない下駄が足の踏み立て場のないくらいにつまっていた。「こりゃ大変な客じゃわい」

辟易していると、なかから、「――どうぞ」と細君が言い、その声と一緒に、ヘットの臭いと、ソースの焦げついた臭い、そういったお好み焼屋特有の臭いをはらんだ暖かい空気が、何やら騒然とした、客の混雑というのとはちょっと違った気配をも運んで、私の鼻さきに流れて来た。
たとえば学校の小使部屋などによくある大きな火鉢、――特に小使部屋などというのは、あまり上等でない火鉢を想像して貰いたいからであるが、その上に大きな真黒なテカテカ光った鉄板を載せたものの周りを、いずれも一目見てこれもあまり上等の芸人でないと知れる男女が、もっとも女はその場に一人しかいなかったが、ぐるりと眼白押しに取り巻いて、めいめい勝手にお好み焼を焼いていた。大体その「風流お好み焼――惚太郎」の家に出入する客は、惚太郎が公園の寄席の芸人である関係から、芸人が多く、そしていつも定った顔触れの、それもあまり多数ではない常連ばかりだったから、私は一回り顔を見知っていたが、その日の客は初めて見る顔ばかりであった。何か惨めな生活の垢といったものをしみ込ませたような燻んだ、しなびた、生気のない顔ばかりで、まるでヘットそのものを食うみたいな、豚の油でギロギロのお好み焼を食っていながら、てんで油気のない顔が揃っていた。そしてその顔の下に、へんにどぎついあさましい色彩の、いかにも棚曝しの安物らしいヘラヘラのネクタイやワイシャツをつけていて、それらは、それらの持主の人間までを棚曝しの安物のように見せるのにみごとに役立つのであった。――さよう、こうした私の書き振りは、その人々を見た時の私の眼に蔑みと反感が浮んでいたかのように、読者に伝えるかもしれないが、事実はまさに反対なのである。私の眼には、――その人々を見るとたちまち私のうちに湧き上ってきた、なんとも言えない親愛の情、なごやかな心の休い、それらのもたらした感動がありありと光っていたに違いないのである。

惚太郎とあるが、これは浅草の「染太郎」のことらしい。




――ここでミーちゃんのことを、ちょっと。私は初めてこのお好み焼屋へ来て、ミーちゃんに会った時、彼女がお客のようでありながら、この場合のように何くれとなく小まめに手伝っているのを見て、この娘はなんだろうと思った。ここへ私を案内してくれたレヴィウ作者に、そこでそっと聞いてみると、彼女は嶺美佐子といって、以前T座のダンシング・チームにいて、その後O館に移った踊り子で、今は公園の舞台に出ていないという。――それ以上のことは、彼も知らなかった。 浅草の舞台は大変な労働で、その舞台をやめると、踊り子は急に肥る。身体を締めつけていた箍を外した途端にぷうと膨れたといったような、その奇妙な肥り方を美佐子も示していて、まだ若いのだろうに、年増の贅肉のような、ちょっといやらしいのを、眼に見えるところではたとえば顎のあたりに、眼に見えなくて もはっきりわかるところでは腰のあたりに、ぶよぶよとつけているのに、私は「なるほどねえ」といった眼を注いだ。――蜂にでもさされたみたいな腫れぼったい眼蓋で、笑うと眼がなくなり、鼻は団子鼻というのに近く、下唇がむッと出ているその顔は、現在のむくみのようなものに襲われない以前でも、そう魅力的な顔だったとは思えない。ただ声が、――さて、なんと形容したらいいだろう、さよう、山葵のきいたのを口にふくむと鼻の裏側をキュッとくすぐられる、あの一種の快さ、あれにちょっと似た不思議な爽快感を与える声で、少なくとも私には少なからず魅力的であった。

その後、私はそのお好み焼屋の、これまたなんというか、――何か落魄的な雰囲気に惹かれて足繁く通うようになったが、行くたびに、ミーちゃんこと美佐子は大概いた。そしていつも、お客のようでありながら、お客にしては気のききすぎる手伝いをしていた。――ここの、三十をちょっと出た年恰好の、背のすらりとした、小意気な細君を美佐子は「お姉さん」と甘えるように言っていた。

(この「お姉さん」というのは、ねに強いアクセントを置き、さんは「さん」と「すん」の間の音で、言葉では現わし得ない微妙な甘さである。美佐子は、黙って放って置くと、いかにも気の強そうな、男を男とおもわぬ風の女としか見えない、――たとえば墨汁をたっぷりつけた大きな筆で勇ましく書いた肉太の「女」というような字を思わせる、圧迫的な印象をやや強烈にまいているのだが、時々、そうした甘い言葉のうちに、おや? とびっくりさせる優しさを放射した。)(高見順『如何なる星の下に 』)





以下、染太郎紹介文を拾った(引用元)。


「染太郎」創業の地は浅草田島町六十番地。

現在の本店の少し北西側でした。

当時の浅草は大エンターテイメント地域。浅草寺を一区とした浅草公園の六区は映画、演劇、レヴュー、奇席など,当時の娯楽を取り揃えた劇場が立ち並び、連日大賑わい。

その隣、田島町には芸能事務所やそこに出入りする芸人、踊り子、役者など芸能関係者が多数暮らしていました。

昭和12年(1937)、日支事変の勃発に伴い、漫才師だった旦那さん(林家染太郎)
が軍に応召されて、幼い息子と二人で留守を預かっていたオカミさん。ブラブラしていているのも能がない思っていたところに、自宅の二階を稽古場に貸していた剣劇一座の座付作家から、元手のかからないお好み焼き屋でもはじめたら?とすすめられ、自宅の一階に開業したのが始まりです。

狭い路地のしもたや、玄関のガラス戸を開けて狭い三和土に入るとすぐに3畳間と6畳間、そこへ大きな火鉢に乗せた鉄板を置いただけ、というような急仕立ての店でしたが、すぐに芸人達の社交場として繁盛しはじめ、最初はなかった店の名前も常連客、作家の高見順氏が少々の安普請もむしろ風情として味わってもらおうと「風流お好み焼き」、屋号を旦那さんの芸名からとって「染太郎」と名付けました。

(いまでは既製品にあるほどお好み焼き屋ののれんに定番の「風流」ですが、これは「染太郎」が最初。もとはこんな理由だったんです。)

 昼には仕事がない芸人が油を売っているところへ出番の合間をぬってレビューガール達が六区の劇場から行き来して腹を満たし、夜になればフラリと文士が立ち寄り、そこへ仕事を済ませた芸人、演出家、踊り子たちが集まって来て、ひとつしかない鉄板を囲むうちに双方入り混じって、ワイワイガヤガヤ。その横には女将さんの幼い息子が寝息をたて、2階では相変わらず稽古が続いている。三和土には足の踏み立てる隙もないほど履物が脱がれ、もう店はいっぱい。そのうち宴にも興が乗って・・・といった、にぎやかな光景は日常の事、その様子は昭和14年発表の高見順の小説「如何なる星の下に」にも描写されています。