2016年8月23日火曜日

非抑圧的無意識 nicht verdrängtes Ubw と境界表象 Grenzvorstellung (≒ signifiant(Lⱥ Femme))

◆An Interview With Paul Verhaeghe(Paul Verhaeghe and Dominiek Hoens,2011、PDF)

――無意識にかんして質問します。無意識概念は新しい病理、新しいアイデンティティと主体性において役割があるのでしょうか、それともないのでしょうか?

異なった視点が必要です。我々が無意識を概念的に吟味するなら、フロイトが「システム無意識」・核(夢の臍、菌糸体等)と呼んだものと、「抑圧された無意識」がある。無意識の核に、フロイトはリビドー的なもの、構成的なもの、かつまたトラウマ的なものを含めています。この理由で、これらは明確には決して言葉で言い表されない。はっきりした象徴化は不可能です。

「抑圧された無意識」、それは力動的無意識とも言われますが、それは再構築されうるし、言葉で言い表されうる。神経症とは抑圧された無意識の病理です。この理由で古典的な技法ーー自由連想ーーの効果がある。けれどもわたしたちは現在、以前に比べてとてもしばしば無意識の核(システム無意識)に直面しています。すなわちトラウマ的なもの、リビドー的なものであり、この理由で快と不安の病理があります。

こういった理由で、治療はむしろ数々の象徴化の構築の手助けに焦点を絞ることになります。それは古典的な神経症の治療とは全く逆なものです。かつての神経症では象徴化があまりにも多くありそれを剥ぎとらなければならなかった。…

…………

いまどき流行らない「無意識」と「抑圧」について、このところいささかマジに調べてしまったが、メモが溜まってきたので、いったん吐き出す。つまり以下、主に雑然としたメモ(ようするに未整理のネタであり、これをもとになにやら記してみようとしたが、おそろしく長くなりそうなので、ネタのまま掲げる。ひょっとして他人はあまり読まないほうがいいかもしれない個人的備忘の一種)。


フロイトは1923年にこう言っている。

われわれの無意識的なものに関する見解にとっての帰結は、いっそう重要である。力動的考察は、われわれに第一の訂正をもたらし、構造の洞察はその結果として、われわれに第二の訂正をもたらす。すなわち、無意識的なもの Ubwは、抑圧されたものと一致しないことをみとめなければならない Wir erkennen, daß das Ubw nicht mit dem Verdrängten zusammenfällt;。あらゆる抑圧されたものはubw〈=無意識的〉であるが、Ubw〈=システム無意識〉はすべてが抑圧されてもいるとはかぎらない daß alles Verdrängte ubw ist, aber nicht alles Ubw 。これはあくまで正しいのである。

自我の一部分もまたーーそれが自我のどんな重要な部分であるかは神のみが知る--無意識的 ubw であるかもしれない。いや、たしかに無意識的 ubw である。

そして、この自我のUbw〈=システム無意識〉は、Vbw〈=システム前意識〉という意味で潜在的なのではないUnd dies Ubw des Ichs ist nicht latent im Sinne des Vbw。そうでなければそれは、bw〈=意識的〉となることなしに活性化するわけにはいかない。そしてそれの意識化が、それほど大きな困難をひきおこすことはありえないだろう。

ところで、第三の、抑圧されていないUbw〈=システム無意識〉nicht verdrängtes Ubw を立論する必要にせまられるとすれば、そのときは無意識〈性〉Unbewusstseinの性格がその意義を失うことになるのをみとめなければならない。(フロイト『自我とエス』旧訳フロイト著作集6 p.268からだが、「翻訳正誤表」などをもとに大幅変更)

ここで肝腎なことのひとつは、小文字のubw〈=無意識的〉と大文字のUbw〈=システム無意識〉であろう。この『自我とエス』の文と、ヴェルハーゲの冒頭の文、もしくは次の文をともに読めばーーもっともフロイト1915年の『無意識について』がまずは前提である(引用参照)ーー、その意味合いがよりいっそう判然とするのではないか。

フロイトは、「システム無意識あるいは原抑圧」と「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」を区別した。

システム無意識は欲動の核の身体への刻印であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、まずは過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的エラボレーションを表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。フロイトはこれをAbkömmling des Unbewussten(無意識の後裔)と呼んだ。これらは欲動の核が意識に至ろうとするさ遥かな試みである。この理由で、ラカンにとって、「力動的あるいは抑圧された無意識」は無意識の形成と等価である。力動的局面は、症状の部分はいかに常に意識的であるかに関係する、ーー実に口滑りは声に出されて話されるーー。しかし同時に無意識のレイヤーも含んでいる。(ヴェルハーゲ、2004、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnosticsーー「無意識は存在しない L'inconscient n’existe pas」)

潜在思考とは、力動的無意識、つまり抑圧された無意識(前意識)ではある(システム無意識のレイヤーも含んではいる)。だがそれは、システム無意識、つまり原抑圧による無意識では(基本的に)ない。

これは初期ジジェクがすでに記している。

マルクスとフロイトの両者においては、ーーより正確にいえば、商品の分析と夢の分析とのあいだには、根本的相同性がある。どちらの場合も、核心は、形式の裏側に隠蔽されていると信じ込まれている「内容」へのフェティッシュな眩惑を避けることである。すなわち、分析を通してヴェールを剥がされる「秘密」は、形式(商品の形式、夢の形式)によって隠された内容ではない。そうではなく、この形式自体の秘密である。

夢の形式の理論的知恵は、顕在内容から「隠された核」・潜在夢思考へ入り込むことで成り立っているわけではない。そうではなく、次の問いへの応答で成り立っている。

すなわち、なぜ潜在夢思考はあのような形式を取ったのか、なぜ一つの夢の形式に変形されたのか。商品も同じである。真の問題は、商品の「隠された核」・生産過程のなかで使われた労働量による商品価値の確定に入り込むことではない。そうではなく、なぜ労働は商品の価値形式を取ったのか、なぜ生産物の商品形態のなかにのみ社会的性質を主張しうるのか、である。
フロイトは絶えず強調している。潜在夢思考のなかには「無意識」的なものは何もない、と。潜在夢思考は、日常の共通言語の統語法のなかで分節化されうる全く「正常な」思想である。トポロジー的には、意識/前意識のシステムに属する。主体は通常それを知っている。過度に知っているとさえ言える。潜在思考はいつも彼をしつこく悩ます…
構造は常に三重である。すなわち、「顕在夢内容」・「潜在夢内容あるいは夢思考」・「夢のなかで分節化される無意識の欲望」。この欲望は自らを夢に結びつける。潜在思考と顕在テキストとのあいだの内的空間のなかに自らを挿し入れる。したがって、無意識の欲望は潜在思考と比べて「より隠された、より深い」ものではない。それは、断固として「より表面にある」。(…)

言い換えれば、無意識の欲望の唯一の場は、「夢」の形式のなかにある。無意識の欲望は、「夢の仕事」のなか、「潜在内容」の分節化のなかに、自らをはっきりと表現する。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989、手元に邦訳がないので私訳)

この文は、フロイトの『夢解釈』1900年の次の文のコメントのひとつとして書かれている。後期フロイトの註である(1925年版)

私は昔、読者に夢の顕在内容と潜在内容との区別を納得してもらうのに大骨を折った覚えがある。記憶に残った未判断の夢(顕在内容)を基にした議論と抗議とはその跡を絶たず、夢判断の必要を唱えてもひとは耳をかそうとしなかった。

ところがすくなくとも精神分析学徒だけは顕在夢を分析して、その本当の意味をその背後に見つけることに慣れてはきたのだが、そうなると彼らのうちの若干の者は今度は別の混同を犯して、前と同じようにそれを頑固に執着しているのである。つまり彼らは夢の本質をもっぱらこの潜在的内容に求めて、そのさい、潜在夢思想と夢作業とのあいだに存する相違を見のがしてしまうのである。

夢というのは結局、睡眠状態の諸条件によって可能になるところの、われわれの思考の一特殊形式以外のものではない。この形式を作り出すのがほかならぬ夢作業である。そして、夢作業のみが夢における本質的なものであり、夢という特殊なものを解き明かしてくれるものなのである。

[Der Traum ist im Grunde nichts anderes als eine besondere Form unseres Denkens, die durch die Bedingungen des Schlafzustandes ermöglicht wird. Die Traumarbeit ist es, die diese Form herstellt, und sie allein ist das Wesentliche am Traum, die Erklärung seiner Besonderheit.]

私はこのことを、夢のかの悪評高き「予見的傾向」の評価のためにいっておく。

夢が、われわれの心的生活に与えられている諸課題の解決の試みに従事するということは、われわれの意識的な覚醒時生活がそれに従事することに比して決してひどく珍しいことえはないのであって、ただそこに、すでにわれわれに知られているように、夢の仕事は前意識のうちにおいても行われうるということを付け加えるにすぎないのである。(フロイト『夢判断』第六章「夢の思考」(VI DIE TRAUMARBEIT) 高橋義孝訳ーー1925年版註)

…………

フロイトは1926年にこう言っている。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえるのである。こういう抑圧の背景や前提については、ほとんど知られていない。また、抑圧のさいの超自我の役割を、高く評価しすぎるという危険におちいりやすい。この場合、超自我の登場が原抑圧と後期抑圧との区別をつくりだすものかどうかということについても、いまのところ、判断が下せない。いずれにしても、最初のーーもっとも強力なーー不安の襲来は、超自我の分化の行われる以前に起こる。原抑圧の手近な誘引として、もっとも思われることは、興奮が強すぎて刺激保護が破綻するというような量的な契機である。(フロイト『制止、症状、不安』1926 P.325)

ラカンはセミネール11(1964-1965)でこう言っている。

抑圧、原初に抑圧されたもの、この抑圧されたものはシニフィアンである。…抑圧と症状は同種のものであり、シニフィアンの機能に還元される。

Le refoulé, le refoulé primordial, ce refoulé est un signifiant… Refoulé et symptôme sont homogènes et réductibles à des fonctions de signifiants.(Lacan,S.11) 
抑圧されたものは、欲望の表象されたもの・意義(意味作用)ではなく、表象代理である。

…que ce qui est refoulé, ce n'est pas le représenté du désir, la signification, que c'est le représentant de la représentation (Vorstellungsrepräsentanz)(S.11)

抑圧、原初に抑圧されたもの Le refoulé, le refoulé primordial と並列している。これは(読みようによっては)、抑圧と原抑圧を同じものとして扱っているようにさえ読める。

もうひとつの核心は、抑圧されたものは、欲望の表象されたもの・意義(意味作用)ではないce n'est pas le représenté du désir, la significationと言っていることだ。

そして次に続いてある「表象代理le représentant de la représentation」という用語は、フロイトのVorstellungsrepräsentanzである。

フロイトの「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」とは、仏語では représentant-représentation、英語では ideational-representative と訳されたりもする。この表象代理とは、主体の生活史をつうじて欲動の固着の対象となり、また心的現象への欲動の記載のための媒介となる表象ないしは表象群のことと一般的には定義される。

ラカンは「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」を別に tenant lieu de la représentation とも訳している。tenant lieu とは、英訳ではplaceholder と訳され、つまりは実際の内容を後から挿入するために、とりあえず仮に確保した場所ということだ。

ジジェクの原抑圧解釈は、この点では、ラカンに忠実である。

原抑圧とは、何かの内容を無意識のなかに抑圧することではない。そうではなく、無意識を構成する抑圧、無意識のまさに空間を創出すること、「システム意識・前意識」 と「システム無意識」 とのあいだの間隙を作り出すことである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

とはいえ、この tenant lieu にもかねてより批判がある(参照)。

Tort also criticises Lacan’s use of the translation ‘tenant lieu de la représentation’ for Vorstellungsrepräsentanz (and, by implication, Jacques-Alain Miller’s reformulation of it; CpA 1.3:39)

ところで、このVorstellungsrepräsentanzは、初期フロイトの境界的観念(表象)Grenzvorstellungを想起させる、とポール・ヴェルハーゲはいう(VERHAEGHE,1999)。

抑圧は過度に強い対立的観念の構築によってではなく、境界的観念(表象) の強化によって起こる。(Freud, I January 1896,Draft K)

この文は英訳からの孫訳であり、独原文は拾えていない、《Repression does not take place by means of the construction of an excessively strong antithetic idea but by the intensification of a boundary idea》。

初期フロイトは別に、次のようにも言っている。

本源的に抑圧されているものは、常に女性的なるものではないかと疑われる。(Freud, 25. Mai 1897,Draft Mーー参照:マルクスの C-M-C / M–C–Mʹ と ラカンの Φ/S(Ⱥ)

表象 vorstellung とはラカン派的にはシニフィアンのことである。フロイトの境界的観念(表象)Grenzvorstellung とは境界シニフィアン、大他者の非全体 pas-tout(非一貫性)のシニフィアンS(Ⱥ)である。

S(Ⱥ)とは、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel、La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、という三つの原トラウマ Ⱥ のシニフィアンである、とラカン派では言われる(参照:「S(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme」)。

こうして次のような解釈が生まれる。

原抑圧とは、現実界のなかに〈女〉を置き残すことと理解されうる。

原防衛は、穴 Ⱥ を覆い隠すこと・裂け目を埋め合わせることを目指す。この防衛・原抑圧はまずなによりも境界構造、欠如の縁に位置する表象によって実現される。

この表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(Freud,Draft K,pp. 228-229)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。(ヴェルハーゲ 1999,DOES THE WOMAN EXIST? PAUL VERHAEGHE ,PDF

ヴェルハーゲ解釈では、 境界表象 Grenzvorstellung とはS(Ⱥ) すなわち、 signifiant(Lⱥ Femme)ということになる。

境界 Grenz という用語は、フロイトにとって欲動にかかわる語彙のひとつである。

《欲動》は、わたしたちにとって、心的なものと身体的なものとの境界概念 ein Grenz-begriff として、つまり肉体内部から生じて心に到達する心的代表 psychischer Repräsentanz として、肉体的なものとの関連の結果として心的なものに課された作業要求の尺度として立ち現われる。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915、藤田博史訳)

もちろん、これはあくまで一つの解釈であって――ヴェルハーゲ自身、まだ若い時期1999年の叙述であり、その後、彼にも微妙な移行があるように思えるーー、ポストフロイト派、ラカン派においてさえ「原抑圧」の解釈は多様であり、いまだ瞭然としていない。たとえば、それなりに権威があるだろう The Cahiers pour l’Analyse の Repression(le refoulement)の叙述をみれば、それがよくわかる。

ところで S(Ⱥ)とは、後期ラカンと前中期ラカンとはその意味合いが変貌していることに注意しよう(ある時期までのラカンは「大他者のなかの欠如のシニフィアン Le signifiant du manque dans l'Autre 」だった[参照:二つの欠如 Deux manques])。
 だが、ミレールの見解では次の通り。

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)

この「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan」の仏原文はざっと見てみたかぎりネット上では行き当たらないのだが、英文では、《the most profound value of barred A, which does not mean here a lack in the Other, but rather, in the place of the Other, a hole, the disappearance of the combinatorial rules.》であり、S(Ⱥ) とは、le signifiant du trou dans le lieu de l'Autre と言っていることになるのだろう。

とすれば前期の定義 Le signifiant du manque dans l'Autre → 後期の定義 le signifiant du trou dans le lieu de l'Autre ということになる(くり返せばミレールによれば、であり、ラカンが正確にそのように言っている箇所はない)。

このミレールの《大他者の場の穴、組み合わせ規則の消滅》という表現は、柄谷行人がマルクス読解から得た解釈「社会的なもの」と驚くほど似通っていることを少し前に示した(参照:原父殺し=言語による物の殺害(フロイト『モーセと一神教』)。

フロイトは、世界宗教を「抑圧されたものの回帰」とみなす。私はそれに同意する。しかし、抑圧されたものは「原父」のようなものではなく、いわば「社会的なもの」である。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年ーー第三部 世界宗教をめぐって、p.242)

社会的なもの、それは、《無根拠であり非対称的な交換関係》(柄谷『マルクスその可能性の中心』)である。

さて真の抑圧されたもの、つまり原抑圧されたものとは、《無根拠で非対称的な交換関係》(柄谷)、《組み合わせ規則の消滅》(ミレール)という穴(ブラックホール)、あるいは、Lⱥ Femme (ヴェルハーゲ)ということになるのだろうか。

だが、ジジェクは原抑圧されたものは、Ⱥ 自体ではなく、S(Ⱥ)である、という意味にとれることを言っている。

ラカンの命題が孕んでいるもの…その命題によれば、「原初的に抑圧されている」ものは、二項シニフィアン binary signifier (Vorstellungs-Repräsentanz 表象-代表のシニフィアン)である。すなわち象徴秩序が締め出しているものは、(二つの)主人のシニフィアン Master-signifiers、S1ーS2 のカップルの十全な調和的現前 full harmonious presence である。S1 – S2 、すなわち陰陽(明暗、天地等々)、あるいはどんなほかのものでもいい、二つの釣り合いのとれた「根本原理」だ。「性関係はない」という事態が意味するのは、まさに第二のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原初的に抑圧されている」ということであり、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂け目を満たすもの、それは「抑圧されたものの回帰」としての多数的なもの multitude、「ふつうの」シニフィアンの連続 series である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012 、私訳)

このあたりがわたくしには瞭然としない。だが、ジジェク組(ジュパンチッチ、ロレンツォ・キエーザ)の見解、あるいはバディウを掠め読むと、シニフィアンであるほうが「論理的」ではあるような印象を最近は受けている。さらにフロイトやラカンの「遡及性 Nachträglichkeit」概念の強調をいっそう活かすことができるのではないか、という心持をもっている。

原初 primaire とは最初 premier ではない(S.20)ーー《Il est évidemment primaire dès que nous commencerons à penser, mais il est certainement pas le premier. 》(Lcan séminaire ⅩⅩ)。

ーーとすれば「原抑圧」自体は最初でなかったらどうしよう? 遡及的(事後的)に原初と措定されるものであるとしたら?

ドゥルーズの『差異と反復』には、フロイトの「原抑圧」概念に触れつつ、《ひとは、抑圧するから反復するというのではなく、反復するから抑圧する On ne répète pas parce qu'on refoule, mais on refoule parce qu'on répète》という文がある(参照:反復は抑圧に先立つ)。

もっともここで言っている抑圧とは「後期抑圧」のことのはずだが・・・

《結局、我々は認めなければならない》ーー(最初はメモだけのつもりだったのだが、メモを眺めて補足をつけているうちに、とても長くなってしまった、ここでひどく飛躍があるのは分かっているが、ロレンツォ・キエーザを唐突に引用することにする)。

ラカンにとって、言語は無意識に先行する。より具体的に言えば、言語は無意識の完全な構造化に先行する。というのは、どんな隠喩的置換もなしに個人において、原抑圧ーー最初の泣き叫び・音素・言葉の換喩的発声ーーが起こるから。Laplanche とは異なり、ラカンは、本源的なelementary シニフィアン を考えた。その原シニフィアンとは、たんに対立的カップルとしてのシニフィアンでありーー母の不在によって引き起こされたトラウマの原象徴化の試み、フロイトによって描写されたFort–Da(いないないバア)のようなものーー、充分に分節化された言語と共の、厳密な意味での抑圧の平行的可能性は、エディプスコンプレックスの崩壊によってのみ、引き続いてもたらされる。(…)

父性隠喩の出現以前に、言語は(非統合的 nonsyntagmatic 換喩として)既に子どもの要求を疎外するーーしたがって、また何らかの形で抑圧されるーー。しかし、無意識も自己意識もいまだ完全には構造化されていない。原抑圧は、エディプスコンプレックスの崩壊を通してのみ、遡及的(事後的)に、実質上抑圧される。

(……)結局、我々は認めなければならない、ラカンは我々に二つの異なった原抑圧概念を提供していることを。広義に言えば、原抑圧は、原初のフリュストラシオン(欲求不満)ーー「エディプスコンプレックスの三つの時」Les trois temps du complexe d'Oedipe の最初の段階の始まりーーの帰結である。《原抑圧は、欲求が要求のなかに分節化された時の、欲望の疎外に相当する》(E690:摘要)。

明瞭化のために、我々はこの種の原抑圧を刻印 inscription と呼びうる。他方、厳密な意味での原抑圧は、無意識の遡及的形成に相当する。それは(意識的エゴの統合に随伴して)、エディプスコンプレックスの第三の段階の最後に、父性隠喩によって制定される。この意味で、原抑圧は、トラウマ的原シニフィアン「母の欲望」の抑圧と、根本幻想の形成化に相当する。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007 PDFーー原抑圧・原固着・原刻印・サントーム

…………

ここでまたいささか反転させよう。

まず上に掲げたフロイト1926の一部を再度抜き出す、《最初のーーもっとも強力なーー不安の襲来は、超自我の分化の行われる以前に起こる》と。これは原抑圧は、超自我以前に発生すると言っている。

ラカンは1973年の『テレヴィジョン』で、《フロイトは、抑圧は禁圧に由来するとは言っていません Freud n'a pas dit que le refoulement provienne de la répression》と言っている。この抑圧は、フロイト文脈では原抑圧のことのように読めないだろうか。すくなくとも「力動的無意識」ではなくシステム無意識にかかわる「抑圧」のように思える。

もし家族的禁圧の記憶が事実ではなければそれは作り出すされなければならないしょうしまた間違いなくそうされるでしょう。神話とはそうすることであって、構造から起こるものに叙事詩的形態を与えようとする試みです。
フロイトは、抑圧は禁圧に由来するとは言っていません Freud n'a pas dit que le refoulement provienne de la répression。つまり(イメージで言うと)、去勢はおちんちんをいじくっている子供に今度やったら本当にそれをちょん切ってしまうよと脅かすパパからくるものではないのです。

とはいえ、そこから経験へと出発するという考えがフロイトに浮かんだのはまったく自然なことです-この経験とは、分析的ディスクールのなかで定義されるものをいいます。結局、彼が分析的ディスクールのなかで進んでいくにつれて、最初にあるのは抑圧だという考えに傾いていったのです。総体的に言うと、それが第二の局所論の大きな変化です。フロイトが超自我の性格だと言う貪食は構造的なものであって、文明の結果ではありません。それは「文明における居心地の悪さ(症状)« malaise (symptôme) dans la civilisation »」なのです。

ですから抑圧が禁圧を生みだすのだということから試練に立ち戻ることが必要なのです。De sorte qu'il y a lieu de revenir sur l'épreuve, à partir de ce que ce soit le refoulement qui produise la répression. どうして、家族や社会そのものが、抑圧から構築されるべき創造物ではないということがあるでしょうか。まさにそのとおりなのですが、それは無意識が構造、つまり言語によって外-在し、動機づけられることによって可能なのでしょう。(ラカン、テレビジョン、向井雅明試訳、1973)

こうしてSerge Leclaireのように、抑圧ではなく原抑圧に焦点を絞るべきだ、という立場も生まれてくる(参照)。

いずれにせよ21世紀は原抑圧の時代である(参照:ふつうの妄想・ふつうの父の名・原抑圧の時代)。これは「20世紀の神経症の時代から、21世紀のふつうの精神病の時代へ」(ミレール)や「ふつうの倒錯の時代へ」(メルマン派)といわれることの変奏であり、つまりは超自我による抑圧の時代(神経症の時代)は基本的に過ぎ去った(象徴的権威の崩壊)。

そのとき、問いの核心の最も重要なひとつは、上に記した非抑圧的無意識 nicht verdrängtes Ubw と境界表象 Grenzvorstellung であるだろう。


…………

※付記

最後に「抑圧」概念の、最も基本的な理解のために次の文を付記しておこう。

日本では従来Verdrängungは「抑圧」と訳されるが、ドイツ語の語感からは「抑圧」ではなしに「追放」とか「放逐」が正しく、「抑圧」はむしろUnterdrückung(かりに上では「抑制」と訳したところの)に当る訳語である。(フロイト『夢判断』下 高橋義孝訳 註  新潮文庫p379)

さらに、若い研究者の最新の小論から(フロイトの冥界めぐり―― 『夢解釈』の銘の読解 ――、上尾真道、2016.07,PDF

「抑圧」という概念が,各国語への翻訳において,しかしそもそもそれ以前にフロイト自身においても混乱のなかに叩き込まれている様子をまず確認したい。というのもしばしば指摘されることだが,『夢解釈』においてこの概念は明らかに二重化しているからだ。すなわち「抑圧 verdrängen」と「押さえ込み unterdrücken」の二つの用語によって。一見すると『夢解釈』では, 「抑圧」と「押さえ込み」は,ほとんど同じ扱いを受けているようにも見える。たとえば,初版一一一頁では,彼の夢理論の中核をなす重要な命題が次のように述べられる。「夢は (押さえ込まれ,抑圧された) ある願望の (偽装された) 充足である」 30) 。

しかし,一方でフロイトは,ひとつの脚注をつうじて,この両者の微妙な差異についても示唆している。「たとえば, 「押さえ込まれたもの」という言葉に, 「抑圧されたもの」と言うときとは異なる意味を与えているかどうかについて,私は報告するのを避けた。ただし,後者のほうが前者よりも強く,無意識への所属性に重きが置かれていることは明らかになっているのではないだろうか。 」 31) 。

この曖昧な差異をどのように理解すればよいだろうか。たとえばラプランシュとポンタリスは,有名な語彙集のなかで,上記の注に依拠しながら「押さえ込み」を「意識的メカニズム」とし, 「押さえ込まれる内容はただ前意識的になるだけで無意識的にはならない」としている 32) 。ただし,これは,フロイトが後年になって整理をすすめた無意識論,抑圧論を踏まえての遡及的な理解であり, 『夢解釈』におけるこの語の機微を直接扱ってはいないことに注意しておかねばならない。

我々としては素朴に,はじめてフロイトを読むかのように進めていきたい。そこでまずは,ドイツ語の語義そのものに立ち止まることとしよう。 「抑圧」と通例訳されるverdrängen は,drängen という動詞に,ver という接頭辞がついたものである。Drängen とは「押す」こと,「押しやる」ことであり,排除を示す ver との組み合わせからして,verdrängen は「押しのける」と訳すことができるだろう 33) 。一方で unterdrücken を見れば,drücken もまた「押す」 ,「押さえる」であるが,ここには「下へ」という方向性を示す接頭辞 unter が付されていることこそ特徴的である。 「押さえ込み」と訳してきた unterdrücken はしたがって正確に述べれば, 「下へ押さえつけること」である。ひるがえって見れば「抑圧」においては,そもそもこの「下へ」という垂直的な作用のニュアンスは,言葉そのものには存在しないことにも気づかれる。