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マルクスとフロイトの「フェティシズム Fetischismus」という用語の意味合いは異なる。
マルクスのフェティシズムの場合、モノではなく、形態 Form が強調される。
…労働生産物が商品形態を身に纏うと直ちに発生する労働生産物の謎めいた性格は、それではどこから生ずるのか? 明らかにこの形態 Form そのものからである。(マルクス 『資本論』第1篇第四節「商品の物神的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」ーー芸術作品とフェティシズム Fetischismus))
これは、マルクスが「貨幣のフェティシズム」から「商品のフェティシズム」へと遡行してフェティシズムを分析したことに大きくかかわる。
貨幣物神 Geldfetischs の謎は、ただ、商品物神 Warenfetischs の謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。(マルクス『資本論』)
貨幣物神とすれば、我々はすぐさま黄金物神を想起し、それは、モノというフェティッシュを崇めること「錯覚」してしまう。だが商品物神への遡行とは、ある関係構造の場に置かれることを分析したということにかかわり、それが(柄谷行人、岩井克人、あるいはジジェクによれば)マルクスの価値形態論の核心である(参照:柄谷、参照:岩井、参照:ジジェク)。
大切なのは、或る物が商品であるか貨幣であるかは、それがおかれた「位置」によるということである。或る物が貨幣となるのは、それが等価形態におかれるからである。その或る物は、金や銀であろうと、相対的価値形態におかれるときは、商品である。《相対的価値形態と等価形態は、たがいに依存しあい、交互に制約しあう不可分の要因であるが、しかし、同時に、互いに排斥しあう、あるいは対置される両端である》(『資本論』)。ーー柄谷行人『トランスクリティーク』2001)
いわゆる中期柄谷行人なら次のように言う。
貨幣のフェティシズムは、守銭奴において、あるいは「黄金欲」において、典型的にあらわれる。しかし、マルクスが指摘したように、それは黄金という対象物に由来するのではなく、 黄金がたまたま(一般的)等価形態にあるということに由来する。守銭奴の貨幣フェティシ ズムは、黄金というもの(使用価値)に向けられた欲望から生じるのではなく、それが等価 形態にあり、したがって「直接的交換可能性」(交換価値)をもつがゆえに、その「可能性」 のみを蓄積しようとするところから生じている。(柄谷行人『探求Ⅰ』1986,P.112)
他方、フロイトのフェティシズムとは、(一般に)フェティシュとしてのモノにかかわる。これは、われわれの通念上のフェティシズム、たとえば、足フェチ、靴フェチ、下着フェチ等々に合致する。
呪物 Fetisch とは、男児があると信じ、かつ断念しようとしない女性(母)の陰茎に対する代理物なのである。(…)
足とか靴が呪物――あるいはその一部――として優先的に選ばれるが、これは、少年の好奇心が、下つまり足のほうから女性性器のほうへかけて注意深く探っているからである。毛皮とビロードはーーずっと以前から推測されていたようにーー瞥見した陰毛の生えている光景を定着させる。これにはあの強く求めていた女性の陰茎の姿がつづいていたはずなのである。(フロイト『呪物崇拝 Fetischismus』旧訳 フロイト著作集)
ジジェク=ラカンは、このフロイトのフェティシズムの捉え方を、マルクスの「形態」に近づけて再解釈する。
《母のペニスの欠如は、ファルスの特性が現われる場所である[… ce manque du pénis de la mère où se révèle la nature du phallus]》(Lacan,E.877)。われわれは、この指摘にあらゆる重要性を与えなければならない。それはまさにファルスの機能とその特性を識別するものである。
そしてここに、我々はフロイトの紛らわしい「ナイーヴな」フェティッシュ概念、すなわち主体が、女のペニスの欠如を見る前に見た最後の物としてのフェティッシュという考え方を更生(リハビリ)すべきである。フェティッシュが覆うものは、単純に女におけるペニスの欠如ではない(…)。そうではなく、この、現前/不在のまさに構造が、厳密に「構造主義者的」意味において、差延(ズレ)的であるという事実にある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
《この、現前/不在のまさに構造が、厳密に「構造主義者的」意味において、差延(ズレ)的であるという事実》という表現から、わたくしは、ロラン・バルトの「出現ー消滅 apparition-disparition」をめぐる叙述を思いおこさざるをえない。
身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出 la mise en scène d'une apparition-disparition である。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)
モノではなく、出現ー消滅の演出にどうしようもなく魅せられてしまうのが、真のフェティシストではないだろうか。
ところで、現在のマルクス研究者のなかにも、通念としてのフェティシズム概念に囚われてか、「形態」ではなく「物象化」ーー使用価値等のモノ化--としていまだ捉えている場合も多いのかもしれない(すなわち彼らもいまだ不純なフェティシュ解釈にとどまっている)。
…我々は、標準的なマルクス主義者の「物象化 Versachlichung」と「商品のフェティシズム」の題目を徹底的に再形式化するように強いられる。それは、後者が、確固とした対象としてのフェティッシュ、その安定した現前が社会的仲裁を煙に巻くものとしてのフェティッシュ概念に依拠しているかぎり、においてである。
逆説的に、フェティシズムは、フェティッシュ自体がまさに「脱物質化」されたときに、そのアクメ(絶頂)に達する。それは、流動的な「非物質的」ヴァーチャルな実在 entity に変換される。貨幣のフェティシズムとは、電子的形式への移行に伴って最高潮に達する。すなわち、貨幣の物質性の最後の痕跡が消滅するときである。(同ジジェク、2012)
とすればーージジェクのいうように、《流動的な「非物質的」ヴァーチャルな実在》が純粋なフェティッシュであるならばーー、いわゆる「足フェチ」の谷崎潤一郎よりも、「覗き趣味」の永井荷風のほうが、純粋なフェティシストであるということは言えないだろうか?
まず、谷崎という「不純な」フェティシストの文章を抜き出そう。
丁度四年目の夏のとあるゆうべ、深川の料理屋平清の前を通りかかつた時、彼はふと門口に待つて居る駕籠の簾のかげから、真っ白な女の素足がこぼれて居るのに気づいた。鋭い彼の眼には、人間の足はその顔と同じように複雑な表情を持つて映つた。(谷崎潤一郎『刺青』)
私の布団の下にある彼女の足を撫でてみました。ああこの足、このすやすやと眠っている真っ白な美しい足、これは確かに俺の物だ。彼女が小娘の時分から毎晩毎晩お湯に入れて(『痴人の愛』)
春琴は寝床に這入つて肩を揉め腰をさすれと云われるままに暫く按摩しているともうよいから足を温めよと云ふ畏まつて裾の方に横臥し懐を開いて彼女の蹠を我が胸の上に載せたが胸が氷の如く冷えるのに反し顔は寝床のいきれのためにかつかつと火照つて歯痛がいよいよ烈しくなるのに溜まりか、胸の代わりに脹れた顔を蹠へあてて辛うじて凌いでいると忽ち春琴がいやと云ふ程その顔を蹴つたので佐助は覚えずあつと云つて飛び上がつた。(『春琴抄』)
盛リ上ガッテイル部分カラ土蹈マズニ移ル部分ノ,継ギ目ガナカナカムズカシカッタ。予ハ左手ノ運動ガ不自由ノタメ,手ヲ思ウヨウニ使ウコトガ出来ナイノデ一層困難ヲ極メタ。「絶対ニ着物ニハ附ケナイ,足ノ裏ダケニ塗ル」ト云ッタガ,シバシバ失敗シテ足ノ甲ヤネグリジェノ裾ヲ汚シタ。シカシシバシバ失敗シ,足ノ甲ヤ足ノ裏ヲタオルデ拭イタリ,塗リ直シタリスルコトガ,又タマラナク楽シカッタ。興奮シタ。何度モ何度モヤリ直シヲシテ倦ムコトヲ知ラナカッタ。(『瘋癲老人日記』)
以下は、荷風の覗き趣味の「噂」である。
「……小西夫妻の寝室の障子には毎晩、廊下ざかひの障子に新しい破れ穴ができて荷風がのぞきに来るらしいといふので、小西の細君がノイローゼ気味になつたのが、小西の荷風に退去を求めた理由であつたと説く者もある」 (半藤一利と新藤兼人、そして松本哉の語る永井荷風 )
関根歌というそんなに美人さんじゃない芸者がいたんですが、荷風はこの関根歌を落籍せ、麹町に「幾代」という待合の店を持たせました
ここで素人客の部屋を覗き見することにしたのです
小さい柄のついた細長い鋸を買って、押入れの中で穴をあける作業に夢中
小さな穴が開くと、本気で大喜びし、夢中でのぞきました
でもって、「今のはあんまりよくなかった」とか、「あの方たちはいい。席料はまけてあげなさい」なんて言ったりしてました(のぞき癖)
昭和四十年頃に私は或る同人誌に加わっていたが、その同人の一人で戦中にお年頃を迎えた女性がこんな話をしていた。終戦直後、その女性は千葉県のほうにいたらしいのだが、或る日総武線の電車に乗っていたら市川の駅から、荷風散人が乗りこんできた。例の風体をしていて、まず車内をじわりと物色する。それからやおらその女性の席の前に寄ってくると、吊り皮につかまって、身を乗り出すようにして、しばし脇目もふらずに顔をのぞきこむ。
色白の細面、目鼻立ちも爽やかな、往年の令嬢の美貌は拝察された。それにしても荷風さん陣こそ、いかに文豪いかに老人、いかに敗戦後の空気の中とはいえ、白昼また傍若無人な、機嫌を悪くした行きずりの客に撲られる危険はさて措くとしても、当時の日本人としては何と言っても懸け離れた振舞いである。(古井由吉『東京物語考』)
文脈の都合上、谷崎を不純なフェティシストとしてしまったが、もちろん異なった観点があるのを知らないわけではない。上にかかげた文だけを抜き出して足フェチに焦点を絞る見方は、たんなる通念としての谷崎のイメージの範囲を出ない。
谷崎は盲目のエクリチュール、あるいは触覚の作家なのだ。この松浦寿輝の叙述する谷崎に「出現ー消滅 apparition-disparition」、「揺らめく閃光 un éclair qui flotte」(「揺らめかすvaciller というロラン・バルトの鍵言葉」)の作家谷崎潤一郎に思いを馳せないでどうしていられるというのだろう?
またすくなくとも谷崎のモノとしてのフェティッシュという「通説」の範囲にとどまってさえ、彼にとってのモノは、足から乳房へ、またその逆へ、と揺らめいているということは十分ありうる。たとえば「乳房」は随筆である『陰影礼賛』にさえあらわれる。
この谷崎の側面は、「雪子のシミ」でも示したが、『細雪』とは、雪子の顔にあらわれる「出現ー消滅の演出」の物語としても読める。
『盲目物語』でも『春琴抄』でもべつだんとりたてて女性の乳房が登場するわけではない。だが、そこには、視力の喪失によってのみ可能となるような特異な官能性が漲っており、それは性交によるオルガスムスの擬似体験よりはむしろ、無意識的な幼児期における乳首と唇との至福の交合の不意の再現に近いものであるかに思われるのだ。谷崎の繰り出しつづける粘着的な言葉の流れに身を浸していると、人はあたかも羊水に全身を浸して暗闇を漂っているかのような印象さえ受ける。もはや遠近のパースペクティヴもなく、中心と周縁とを分かつヒエラルキーもない、パースペクティヴやヒエラルキーといった視覚的秩序によって組み立てられた世界像、つまり世界のイメージそのものが刻々と崩壊し、ワタシニ触レルナカレという命令が平然と無視されて、言葉と言葉との結びつきが肌の滑らかさや肉の柔らかさによってのみ可能となるような、イマジネール以前のイマジネールが展開してゆく。『春琴抄』の佐助は、晩年になってから「しばしば掌を伸べてお師匠様の足はちやうど此の手の上へ載る程であつたと云ひ、又我が頬を撫でながら踵の肉でさへ己の此処よりはすべすべして柔らかであつたと」語ったという。だがこれは、むしろ谷崎の言葉が言葉それ自身をめぐって呟いている感想なのではないか。
女体への谷崎の執着が、とりわけ足という部位に焦点を結ぶものであったことはよく知られている。若い女の柔らかな蹠をフェティッシュとして聖化しそれで顔を踏まれることの快楽を夢想してやまない谷崎的マゾヒズムが、文学的に昇華された倒錯的症例の一形態としてしばしば語られるわけだが、谷崎の織り上げてゆく言葉の物質的表情それ自体は、むしろ乳房と唇とのかすかな触れ合いがいつまでも引き延ばされてゆくといった印象をかたちづくっているように思う。盲目という特権的主題がそれをさらに誇張するのだが、瞳を失った者のイマジネールは、内面的な暗闇の中に引き籠もってゆく代わりに、肉と肉の物質的な接触へと向かってあくまで凶暴に開かれてゆくことになるのだ。乳首と唇のエクリチュール。……(松浦寿輝『官能の哲学』 「乳房が眼を閉じる」)
谷崎は盲目のエクリチュール、あるいは触覚の作家なのだ。この松浦寿輝の叙述する谷崎に「出現ー消滅 apparition-disparition」、「揺らめく閃光 un éclair qui flotte」(「揺らめかすvaciller というロラン・バルトの鍵言葉」)の作家谷崎潤一郎に思いを馳せないでどうしていられるというのだろう?
またすくなくとも谷崎のモノとしてのフェティッシュという「通説」の範囲にとどまってさえ、彼にとってのモノは、足から乳房へ、またその逆へ、と揺らめいているということは十分ありうる。たとえば「乳房」は随筆である『陰影礼賛』にさえあらわれる。
私は、吸い物椀を手に持った時の、掌が受ける汁の重みの感覚と、生あたゝかい温味(ぬくみ)とを何よりも好む。それは生れたての赤ん坊のぷよぷよした肉体を支えたような感じでもある。吸い物椀に今も塗り物が用いられるのは全く理由のあることであって、陶器の容れ物ではあゝは行かない。第一、蓋を取った時に、陶器では中にある汁の身や色合いが皆見えてしまう。漆器の椀のいゝことは、まずその蓋を取って、口に持って行くまでの間、暗い奥深い底の方に、容器の色と殆ど違わない液体が音もなく澱んでいるのを眺めた瞬間の気持である。人は、その椀の中の闇に何があるかを見分けることは出来ないが、汁がゆるやかに動揺するのを手の上に感じ、椀の縁(ふち)がほんのり汗を掻いているので、そこから湯気が立ち昇りつゝあることを知り、その湯気が運ぶ匂に依って口に啣(ふく)む前にぼんやり味わいを豫覚する。その瞬間の心特、スープを浅い白ちゃけた皿に入れて出す西洋流に比べて何と云う相違か。それは一種の神秘であり、禅味であるとも云えなくはない。
私は、吸い物椀を前にして、椀が微かに耳の奥へ沁むようにジイと鳴っている、あの遠い虫の音のようなおとを聴きつゝこれから食べる物の味わいに思いをひそめる時、いつも自分が三昧境に惹き入れられるのを覚える。 (谷崎潤一郎『陰翳礼讃』)
この谷崎の側面は、「雪子のシミ」でも示したが、『細雪』とは、雪子の顔にあらわれる「出現ー消滅の演出」の物語としても読める。