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2016年5月16日月曜日

揺らめかすvaciller というロラン・バルトの鍵言葉

見せかけの国 l'empire des semblants」と「ファルスの国 l'empire du phallus」にて、次のようにーーテキトウにーー記した。

…………

揺らめかすvaciller とは、70年前後以降からのバルトの鍵言葉のひとつだが、ここではそれに触れない。ただし、現在主流のラカン派でも、この言葉がキーコンセプトの一つであることだけを示しておく。

精神分析とは、見せかけを揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。[la psychanalyse fait vaciller les semblants , le Witz fait vaciller les semblants](ジャック=アラン・ミレール)

…………

というわけだが、ラカン自身にも、バルトの『記号の国』に触れたセミネール18に「主体を揺らめかす」という表現がある、≪…remplacé par le « Il existe » pur de cette inter-signifiance dont je parlais tout à l'heure pour qu'y vacille le sujet.≫(S.18)。(ただし、似たような言い方は、セミネールⅩⅠにもあるので、バルトに影響を受けた、という言い方はしないでおく)。

さて、いくつかわたくしの印象に残っているバルトの「揺らめかす」をーーめったにしないことだがーー仏原文を含めてすこし調べてみたら、次の通り。


◆ロラン・バルト『記号の国』
エクリチュールとは結局のところ、それなりの悟りなのである。悟り(「禅」におけるできごと)とは、多少なりとも強い地殻変動であり(厳粛なものではまったくない)、認識や主体を揺るがせるものである。つまり、悟りは言葉の空虚を生じさせてゆく。そして、言葉の空虚こそがエクリチュールをかたちづくる。「禅」は、その描線で、禅庭や、人のしぐさ、家屋、生け花、人の顔、暴力などを、いかなる意味からも免除させながら書いてゆくのである。

le satori (l'évé-nement Zen) est un séisme plus ou moins fort (nullement solennel) qui fait vaciller la connaissance, le sujet : il opère un vide de parole. Et c'est aussi un vide de parole qui constitue l'écriture ; c'est de ce vide que partent les traits dont le Zen, dans l'exemption de tout sens, écrit les jardins, les gestes, les maisons, les bouquets, les visages, la violence(Roland Barthes, L'Empire des signes)


◆『テキストの快楽』
快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

Texte de plaisir : celui qui contente, emplit, donne de l'euphorie ; celui qui vient de la culture, ne rompt pas avec elle, est lié à une pratique confortable de la lecture.
悦楽のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。

Texte de jouissance : celui qui met en état de perte, celui qui déconforte (peut-être jusqu'à un certain ennui), fait vaciller les assises historiques, culturelles, psychologiques, du lecteur, la consistance de ses goûts, de ses valeurs, et de ses souvenirs, met en crise son rapport au langage.(Roland Barthes, Plaisir du Texte)


◆『明るい部屋』
効果は確かに感じられるのだが、しかしその位置を突きとめることはできず、その記号、その名前が見出せない。その効果は切れ味がよいのだが、しかしそれが達しているのは、私の心の漠とした地帯である。それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光なのである。

l'effet est sûr, mais il est irrepérable, il ne trouve pas son signe, son nom; il est coupant et atterrit cependant dans une zone vague de moi-même; il est aigu et étouffé, il crie en silence. Bizarre contradiction : c'est un éclair qui flotte.(La Chambre claire)

ーーというわけで、「ゆらめく閃光」は、vaciller ではなく、flotter だった。だが、いずれにせよ明らかにこの二語は関係がある(参照:「固有名とマナ」)。そして、flotter とは、レヴィ=ストロースの浮遊するシニフィアン、マナにかかわる(参照:バルトとマナ(浮遊するシニフィアン signifiant flottant))。

作家はいつも体系の盲点にあって、漂流している。それはジョーカーであり、マナであり、ゼロ度であり、ブリッジのダミー、つまり、意味に(競技に)必要ではあるが、固定した意味は失われているものである。彼の位置、彼の(交換)価値は、歴史の動きや戦術によって変わる。彼には、すべて、および/あるいは 無が要求される。彼自身は交換の外にあって、利益ゼロ、無所得禅の中に没入する。単語の倒錯的な悦楽以外には何も得ようとせずに(しかし、悦楽は決して獲得ではない。悦楽と悟り、忘我の間に、距離はない)。逆説。すなわち、(悦楽によって死の無償性に接近する)エクリチュールのこの無償性を作家は沈黙させる。彼は体を引き締め、筋肉を堅くし、漂流を否定し、悦楽を抑える。イデオロギーの抑圧とリビドーの抑圧(もちろん、知識人が自分自身に、自分自身の言語活動に加える抑圧)の双方と同時に戦う作家は非常に少ない。 (ロラン・バルト『テクストの快楽』)
マナとしての語

ひとりの著作者の語彙系の中には、つねにひとつ、マナとしての語の存在する必要があるのではないか。その語の意味作用、燃えさかり、多様な形をもち、補足できず、ほとんど神聖であり、その語から人は、それによって何にでも応えることができる、という錯覚を与えられる。その語は、中心はずれでもなければ、中心的でもない。それはみずから動くことなく、しかも運ばれ、漂流し、決して《仕切りの中にはめ込まれる》ことなく、つねに《アトピック》であり(どんなトピカからも逃れ)、残余であると同時に追加であり、ありとあらゆる記号内容をまとめて代表する記号表現である。その語は彼の仕事の中に徐々に姿をあらわした。それははじめのうち、“真理”の審級(“歴史”のそれ)において覆い隠されていた。次には“妥当性”の審級(体系と構造のそれ)において覆い隠された。が、今、それは開花している。その、マナとしての語、それは「身体」という語である。 (『彼自身によるロラン・バルト』)

※「浮遊するシニフィアン(signifiant flottant)」
われわれは、マナ型に属する諸概念は、たしかにそれらが存在しうる数ほどに多様であるけれども、それらをそのもっとも一般的な機能において考察するならば(すでに見たように、この機能は、われわれの精神状態のなかでもわれわれの社会形態のなかでも消滅してはいない)、まさしく一切の完結した思惟によって利用されるところの(しかしまた、すべての芸術、すべての詩、すべての神話的・美的創造の保証であるところの)かの「浮遊するシニフィアン(signifiant flottant)」を表象していると考えている。 (レヴィ=ストロース『マルセル・モース著作集への序文』) 
……すべてのシニフィアン化 signifying 領野は、補充のゼロシニフィアンによって「縫合」される。《ゼロの象徴的価値、すなわち、補充の象徴的内容の必然性(必要性)を徴付ける記号、シニフィエが既に含有するものの上に覆い被さるもの》(レヴィ=ストロース)。

このシニフィアンは、「純粋状態におけるシンボル a symbol in its pure state」である。どんな確定した意味も欠如しており、意味の不在と対照的に、意味の現前自体を表す。さらにいっそう弁証法的捻りを加えるなら、意味自体を表すこの補充シニフィアンの顕現の様相は、「非意味」である(ドゥルーズが『意味の論理学』でこの要点を展開したように)。こうして、マナのような概念は、《あらゆる有限の思考から逃れ去る「浮遊するシニフィアン」以外のなにものでもないものを表象する》(レヴィ=ストロース)。ーー(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012より私訳ーー「固有名とマナ」)

…………

さて、ここでは浮遊するシニフィアンの話ではなく、焦点を絞って「揺らめかす」に戻る。

バルトの文のなかに、≪読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの≫とあった。これは、歴史的、文化的、心理的土台が擬着していなければ、揺らめかしようがないとさえ言える。

見せかけの国 l'empire des semblants」と「ファルスの国 l'empire du phallus」にて、日本のような無イデオロギーの国、見せかけの国、女性の論理が支配的な国、あるいは「いつのまにかそう成る会社主義 corporatism」の国(柄谷行人)、「おみこしの熱狂と無責任」の国(中井久夫)では、いささかファルス的であったほうがいいのではないか?ーーと記したのはこの意味合いでもある。

たとえば、蓮實重彦は次のように言っている。

僕は「ニュー・アカデミズム」は本質的に思想運動ではなく「闘争」だったと思っています。その「闘争」は、出発点において共同体内の戦いだった。浅田彰にしても中沢新一にしても、その戦いを一つの攻撃として組織したんだと思います。そうした姿勢を勇気づける雰囲気はある程度準備されてはいましたけれど、より持続的な戦いの端緒として『構造と力』や『チベットのモーツァルト』は出版されたわけです。その際、共同体内の敵はもっと強力なものだという自覚があったはずです。その自覚とは、あっさり蹴散らされるほどの理論的な強力さではなく、いわば無視されるといった程度の負の強力さを予測していたということです。

ところが、仮想敵がまるで強くなかった。浅田氏にしろ中沢氏にしろ、積極的な敵意に出会う以前に共同体内的な嫉妬によって受け入れられ、それをバネにして共同体内で勝利してしまったのです。これは、日本社会の無責任的な柔構造にからめとられたということにほかなりませんが、大学といった「アカデミズム」の場にまで拡がり出しているこの柔構造の無責任性は、いつでも逆転しうるものだ。王殺しはたえず共同体的な健康維持として可能ですが。ところで、いわゆる「ニュー・アカデミズム」が一時的に占有しえた王の位置というのは、彼らが意図してそこについたわけのものでない。いわば、彼らの書物が読まれたことからくる思想的な勝利ではなく、共同体が容認しうるイメージに翻訳された観念に支えられたものでしょう。「アカデミズム」でさえ、そのイメージに汚染されているわけで、まあ、僕の場合なら、そうしたイメージ汚染の現状を物語批判として展開したのだけれど、「ニュー・アカデミズム」の当事者たちの方は、ある程度、そのイメージ汚染の醜悪さを楽しんでいました。それが柄谷さんのいう「調子に乗ってやってきた」という側面だと思いますが、いまや、彼らの書物が持っていた「闘争」性があらためて問われるときだと思う。(蓮實重彦『闘争のエチカ』P176)

仮想敵がまるで強くない、かつ柔構造の無責任性をもっている日本では、「揺らめかす」ことを試みてもたいした効果はないのだ。


ところで、若手ラカン派のすぐれた論客の一人、ロレンツォ・キエーザには、ラカンを引用しつつ、「横にずれる」ということの意味合いをたくみに説明する文がある(“Lacan and philosophy : the new generation / edited by Lorenzo Chiesa” 、2014)。≪哲学的存在論の「全体化への欲望」を弁証する(結び目を解く unsuture)のだ≫。これは哲学的言説がしっかりしていなければ、揺らめかしようがないではないか、とわたくしは読む。揺らめかすためには、「哲学的言説によって言い表されたある参照点」が必要なのだ。これは哲学的言説に限らない。ここではあえてファルス的言説とっておこう。ファルス的言説がなければ、揺らめかしようがないではないか、と。

以下、ロレンツォの論から、やや長く抜き出しておく(「僕らしい」(ボククラシー je-cratie)哲学者たち)。

もし、一方で、哲学は、m'être (私-在、私-支配)の言説を典型的に表すなら、つまり、「私は私自身の主人maîtreである」という妄想的な信念の言説、もっと正確に言うなら、《m'être à moi meme[我々に「私は私自身の主人だ」と思い込ませてくれる]》(Lacan,S.17)言説であるなら、他方で、精神分析はこの支配 mastery の古臭い存在論ーーそれは、ボククラシー[je-cratie]も同然である:ーー、《理想のボクの神話、支配するボクという神話、少なくとも何かがそれ自身、つまり話し手と一致するというボクの神話》(Lacan,S.17)--を代替すべきだとする。それは、par-être の言説への代替である。パラ存在 para-being としてある言説、横にずれてある[être à côté]言説だ。
パラ存在論とは何か? それは、なによりもまず、シニフィアン(文字としての)の偶然性と物質性、その結果として、そのシニフィアンの上に乗る言語の法の偶然性と物質性にかかわる横方向からの lateral 存在論である。

(……)パラ存在論でさえ、必然性の存在論に陥る危険はある。それは、文字の偶然性という必然性の存在論だ。だから反哲学的「悪魔払い」は…結局のところ充分ではない。

ラカンは充分にこの危険に気づいていた。たとえば、セミネールXVIIにて、彼はこう言う、《哲学によるどんなアカデミックな言明、…もしそれが哲学ならいずれにせよ、ボククラシー[je-cratie]が避けがたく出現する》。

しかしながら、ラカンは同じように気づいていた、彼もそれを避けられない事実を(同様に、彼の精神分析的言説もまた、同じレヴェルで、原支配 Ur-mastery の言説だという印象を完全には追い払いえないという事実を)。

要するに、我々はまず、哲学的存在論を m'être(私-存在)の言説として読むことを学ぶべきだ。それは、究極的に、つねにを「一」としての「世界 uni-verse(一界)」を支配しようとする挫折される試みを前提としている。したがって、その存在論に沿って、いやむしろその傍らでーー哲学的存在論と平行して動いている存在の「裏面 l'envers 」にて--、パラ存在(横にずれてあること[être à côté])を見いだすべきだ。

しかし、最も重要なのは、我々はまた、次のことを認めねばならないことだ。一方で、《言語は、哲学的言説の領野、その言説がそれ自身を繰り返して刻むたんなる領野より、その資源のなかにはるかに豊かさを証している》のだが、それにもかかわらず、「哲学的言説によって言い表されたある参照点」は存続する。《その言説は、どんな言語の使用からも完全には消去することは難しい》(S.17)から。

哲学によって支えられた伝統的な存在論は、ある程度は、超えがたいものだ。パラ存在論は、その名がはっきり示しているように、哲学的存在論を打ち負かしたり揚棄するものではない。哲学的存在論が…無意味だとして、それを除去しようとする動きを装っているのでさえない。(……)そうではなく、パラ存在論はむしろ、哲学的存在論の「全体化への欲望」を弁証する(結び目を解く unsuture)のだ。そして、文字の偶然性と物質性を指差し、その裏面 envers を暴く。……(Lorenzo Chiesa、2014)