2016年5月14日土曜日

「見せかけの国 l'empire des semblants」と「ファルスの国 l'empire du phallus」

ロラン・バルトは自分のエッセーを 『表徴の帝国』 L'Empire des signes と題しているが、 それは 『見せかけの帝国』 l'empire des semblantsを意味する。(ラカン、リチュラテール.Lituraterre 1971 オートルエクリ)

という具合に、ラカンは日本を「見せかけの国」と呼んだ(旧訳『表徴の帝国』は新訳では『記号の国』となっているので、ここでは「見せかけの国」としておく)。

では、日本が「見せかけの国」であるなら、欧米諸国(すくなくとも先進諸国)はなんのか。

いまではいささか様相が変わったということはある。たとえば、ラカン派主流の精神分析の世界では次のようなことが言われている。

21世紀における象徴秩序に接触する主要な変化は、今とても広く行き渡った、見せかけの分節化としての思考である。存在を組織するものとされた伝統的カテゴリーは、バラバラになるように運命づけられたたんなる社会構築物の序列へと移行した。見せかけが揺らめいているだけではない。伝統的カテゴリー自体が、見せかけとして認知されている

さらに、奇妙な交点によって、精神分析は、ラカンを通して、概念的な両極性の他の用語を取り戻しつつある。すなわち、すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的絆の現実界は、性関係の不在だ。無意識の現実界は話す身体だ。(ジャック=アラン・ミレール『無意識と話す身体』2014ーー腰抜け・妄想家・詐欺師

だが今はこの文脈に触れるのはやめーーそれ以外にもっと重要かもしれない日本語の言語構造についても割愛する(参照:「繋辞と風呂敷」)ーー、文化社会的な観点においては、いまだ欧米諸国は、日本に比べたら、ずっと「ファルスの国」と呼んでよいだろう。

すなわち、日本/欧米は、見せかけの国/ファルスの国 [l'empire des semblants  / l'empire du phallus]。これはロラン・バルトの『記号の国』を読めばわかる。

主体と神は、追いはらっても追いはらっても、もどってくる。わたしたちの言語のうえに跨がっているからである。これらの事実やほかのさまざまな事実などから、確信することになる。社会を問題にしようと主張するときに、そうするための(道具になる)言語の限界そのものをまったく考えずに問題にしようとしても、いかに愚かしいことであろうか、と。それは、狼の口のなかに安住しながら狼を殺そうと望むようなものだからである。したがって、わたしたちにとっては常軌を逸している文法を習ってみること。そうすれば、すくなくとも、わたしたちの言葉のイデオロギーそのものに疑念をいだくようになる、という利点はもたらされるであろう。(ロラン・バルト『記号の国』P.17)

バルトは、自らのファルス文化を、日本文化に接することにより「揺らめ」かされたのである(より詳しくは、「人間の思考はその人間の母語によって決定される」を見よ)。

揺らめかすvaciller とは、70年前後以降からのバルトの鍵言葉のひとつだが、ここではそれに触れない。ただし、現在主流のラカン派でも、この言葉がキーコンセプトの一つであることだけを示しておく。

精神分析とは、見せかけを揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。[la psychanalyse fait vaciller les semblants , le Witz fait vaciller les semblants](ジャック=アラン・ミレール)

※見せかけ les semblants とあるが、ここでミレールが言っている「見せかけ」は、ファルスも含めた見せかけのことであるのに注意(参考:見せかけ/ファルス)。

で、みなさんどちらがお好きだろうか、見せかけの国とファルスの国と?(ほかの選択肢であるかもしれない「享楽の国」というのは、常識的にはありえない。見せかけもファルスも無法の享楽から逃れる手蔓である)。

このファルス/見せかけは、男性の論理/女性の論理にもかかわる。

一般に、男性の論理とは、〈例外〉を伴う〈不完全性〉の論理、女性の論理とは、境界を欠いた〈非全体〉の表層における〈矛盾(非一貫性)〉の論理とされる。

最初は、我々は考えたかもしれない、女性の論理(非全体の論理)に基づいた社会構造の方が遥かに上手くゆくと。とどのつまり、女性の論理は、差異性、偶然性、単独性を強調する。(…)

しかしながら、女性の論理のタームで組織された社会構造もまた、それ自身の袋小路に遭遇する。男性的社会構造は、超越性と必然性のタームにて考え得る。主体にかんしての指導者やボス、父親、神、国等々の超越性と、これらの主体が如何に法と関わるかについてである。(…)

反対に女性的社会構造は、内在的かつ偶然的である。ここでの強調点は、断然に、絶えず流動的で変貌する関係性のネットワーク形式にある。これらのネットワークは、前世紀に大惨事を引き起こした集団的幻想と同じような怖るべき分岐形成物を生み出さない限りで、いっそう魅力的であるにもかかわらず、女性的ネットワークは、一連の他の問題を引き起こす。一方で、この社会的形式を基盤としたネットワークは、政治的闘争が決定的に難しい。というのは、敵がどこにいるのかはっきりしないからだ。(Levi R. Bryan,Surplus-jouissance, Desire, and Fantasy、2008,私訳ーー女性の論理が必ずしもいいわけじないよ

ファルス社会/見せかけ社会とは、単純化して言ってしまえば、一神教的社会とそうでない社会の相違でもある。

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。(……)

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収)

ここで丸山昌男を引用してみよう。

日本では、思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎないという考えがつよくて、 人間が思想によって生きるという伝統が乏しいですね。これはよくいわれることですが、宗教がないこと、ドグマがないことと関係している。 イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているにすぎな い。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。その意味では大衆社会のいちばんの先進国だ。ドストエフスキーの『悪霊』な んかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、あ そこまで観念が生々しいリアリティをもっているというのは、われわれには実感できないん じゃないですか。

人を見て法を説けで、ぼくは十九世紀のロシアに生れたら、あまり思想の証しなんていい たくないんですよ。スターリニズムにだって、観念にとりつかれた病理という面があると思うんです。あの凄まじい残虐さは、彼がサディストだったとか官僚的だったということだけではなくて、やっぱり観念にとりつかれて、抽象的なプロレタリアートだけ見えて、生きた人間 が見えなくなったところからきている。しかし、日本では、一般現象としては観念にとりつか れる病理と、無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方と、どっちが定着しやすいのか。ぼくははるかにあとの方だと思うんです。だから、思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない。しかし、思想が今日明日の現実をすぐ動かすと思うのはまちがいです。(丸山真男、針生一郎との対談『丸山座 談5』)

というわけで普遍的にはどちらがいいということはいえないが、日本のような無イデオロギーの国、見せかけの国、女性の論理が支配的な国、あるいは「いつのまにかそう成る会社主義 corporatism」の国(柄谷行人)、「おみこしの熱狂と無責任」の国(中井久夫)では、いささかファルス的であったほうがいいのではないか?

いま、ひどく図式化して言っていることに注意。とんでもない父性原理の権化のようないわゆる「ファルス的」人間が日本に棲息していないわけではないのだから。ここで言っているのはそういったファルスではない。超越的ファルスではなく、超越論的ファルスである。それは構成的ファルスではなく統整的ファルスだといってもよい(参照:主人のシニフィアンと統整的理念)。

浅田彰の転回もこの文脈にある、とわたくしは思う。すなわち「王様を笑い続ける少年」(ファルス批判)から、不本意で面白くないのを重々承知でゴリゴリの「頑固親父」の役割を敢えて演じること(見せかけ批判)。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」)
重要なのは、(……)マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしの存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P250ーーS(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme