2016年5月13日金曜日

資料:見せかけ/ファルス

以下、資料の列挙。

◆ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de Lacan' (‘Lacan's later teaching'、2002)

ファルスは繋辞である。そして、繋辞は大他者に関係がある。

対象a は繋辞ではない。これが、ファルスとの大きな相違だ。対象a は、享楽のモードを刻んでいる。しかし、大他者との関係から切り離された享楽だ。

人が、対象a と書くとき、正当的な身体の享楽に向かう。正当的な身体のなかに外立 ex-sistence する享楽に。

以下、繋辞、身体、外立について順不同で見る。

◆外立 ex-sistenceについて(同ミレール)

穴の概念は、欠如の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンと以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、空間は残ったままだ。欠如とは、空間のなかに刻まれた不在を意味する。欠如は空間の秩序に従う。空間は、欠如によって影響を受けない。これがまさに、ある要素が欠けている場に他の諸要素が占めることが可能な理由である。その結果、人は置き換えすることができる。置き換えとは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権威である。

ちょうど反対のことが穴について言える。それは、ラカンが後期の教えでこの概念を詳述したように。穴は、欠如とは反対に、空間の秩序の消滅を意味する。穴は、組み合わせ規則の空間自体の消滅である。これが、Ⱥ の最も深い特性である。Ⱥ は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者ののなかの欠如、つまり穴、組み合わせ規則の消滅である。穴との関連において、外立がある。それは、残余にとっての正しい場であり、現実界の正しい場、すなわち意味の追放の正しい場である。(ミレール、2002ーー欠如 manqué から穴 trou へ(大他者の応答 réponse de l'Autre から現実界の応答 réponse du réel へ))


◆ラカンの「三つの身体」について(ラカンの身体概念の移行

ラカン(1) は、象徴界と想像界とのあいだの対立に関する。象徴界は(法則として)予知可能な仕方で、身体を決定づける。この身体は、効果以外の何ものでもない。それは身体的な表層として理解されうる。

ラカン(2) は、結合された象徴界・想像界の原因としての現実界に焦点が絞られる。すなわち、身体の現実界は、有機体、あるいは欲動として理解されうる。

ラカン (3) は、この(2)の対立を、享楽の用語にて、再び取り上げる。すなわち、「ファルス享楽」la jouissance phallique 対「身体の享楽」 la jouissance du corpsである(参照)(Paul Verhaeghe,Beyond Gender. From Subject to Drive,2001)

ファルスの用語に関して、ラカンは、セミネールⅩⅩにて、ファルスを、シニフィアンとシニフィエ (S/s)のあいだの横棒と同じものとして扱っているのに注意しよう.(Bruce Fink  “KNOWLEDGE AND JOUISSANCE ”,2002)

→横棒:“A is A” と “A = A”:《la fonction de la barre n'est pas sans rapport avec le phallus. 》(Séminaire XX ENCORE )


◆ラカンにおける繋辞の叙述(参照:繋辞と風呂敷

もし「ある être」という動詞がなかったら、「存在」なんて(厄介な)ものはなかったのにな。[s'il n'y avait pas le verbe être, il n'y aurait pas d'être du tout.](セミネールⅩⅩⅠ)
存在論は、言語のなかの繋辞 copula の使用に脚光を浴びせる、繋辞をシニフィアンとして分離してだ。「あるêtre」という動詞に囚われることは…ひどく危険な大仕事だよ。そこには何もないのだがね、主人の言説(discours du maître )、つまり「私が有るm'être」という言説が、「有るêtre」という動詞を強調しなかったら。(セミネールⅩⅩ)

…………

以下、見せかけ(対象a)/ファルスについて見る。

◆ファルス/対象a(参照:ファルスΦと対象aの相違、あるいは二重の欠如

ファルスは対象aの一連の形象化における最後のものである。それは目につきやすい想像的な特徴を発揮する。…ファルスはたんに対象aの一つの形象ーー他の形象のなかのひとつではない。それは特別の地位を負っている。(Richard Boothby , Freud as Philosopher [2001]).
ファルスは対象ではなく、他の源泉、すなわち対象aから来る享楽を統制する事例instanceである。これらの享楽は、ファルスのシニフィアンによって解釈されることを通して統制され、ファルスの快楽に変わる。構造的に、この象徴化は不完全のままである。対象aは、象徴化に抵抗する現実界の部分である。(Verhaeghe, P. & Declercq, F. (2003). Lacan's analytical goal: "Le Sinthome" or the feminine way


◆見せかけ/ファルス(フェティッシュ/仮装)

ーーRussell Grigg、「ラカンの教えにおける見せかけ概念」The Concept of Semblant in Lacan's Teaching、2007

フェティッシュとして、少なくともある文脈において、「見せかけ」は現実界との遭遇にて生じる恐怖あるいは不安を避けるものとして機能する。

したがってラカンにとって、「見せかけ」は人を惑わすこととと騙すことの両方の含意がある。我々は「見せかけ」を信じる。いやむしろ、現実界を覆うために「見せかけ」を選択する。というのは、「見せかけ」は、満足の手段、あるいは不快を避ける方法だから。「見せかけ」が崩れ落ちたとき、不安が現れる。「見せかけ」は、何かがあるべきなのにない場所へ来て、欠如を埋める。(…)「見せかけ」は、何かの代替物の形式である。それは、不安を引き起こす別の対象の代わりとして、満足の源泉を提供する。

「見せかけ」を観察する二番目の方法は、ジャック=アラン・ミレールにて取り出された。彼は言う、「見せかけ」の機能は《無を覆う》ことだと[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](J.A. Miller, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997)。

ここでふたたび「見せかけ」の二重の側面が現れる。この定義において強調されているのは、ヴェールの機能と、このまさにヴェールに注意を誘引する機能だ。ミレールは続けて言っている、「見せかけ」のこの二重の側面のために、ヴェールはファルス化され、とくに身体がファルス化する、と。
しかしながら注意しよう、「見せかけ」はファルスではないことを。(……)

「見せかけ」とは、存在しない対象の代替物でありながら、それ自体が満足の対象という特徴がある。他方、ファルスの場合、無を覆うものでありながら、この無を何かーー欲望される対象をもたらす何かーーに変換するものとして、ヴェールの彼方において無から創造される対象である。「見せかけ」はフェティッシュな対象の側にあり、ファルスは仮装 masquerade の側にある。

この相違は、セクシャリティの領野において重要である。女性の同性愛において、究極の関心は、例外なく女性性の根本的な問題のなかにある。その関係性は、欲望の原因としての対象a に支配されている。結果として、彼女らが男性性を呼び起こす仕方には、自然な落ち着きがある。これを男性の性倒錯と比較すると、ファルス的仮装 masquerade は、茶番仕立てで誇張され、ときに妄想的な女性性のスタイルの選択に導かれる。(参照:ラカン、E.735)
(……)とくに難しいわけではない、ミレールがなぜ次のように主張しているのかを理解するのは。彼は、ラカン派精神分析の新時代は、大他者は存在せず「見せかけ」だけがあることを自ら認めることだとしている。現在の重要性は、次の事実から来る。すなわち、「見せかけ」しかないことは、父の名は囮であるという引き続く認知をもたらすという事実だ。父の名は、かつては大他者の存在を支えるものとされた。…だがラカンは大他者はない、その「見せかけ」しかないと方向転換した。《人は、「見せかけ」として父の名を使用する条件においてのみ、現実界としての父の名なしでやっていける》(E. Laurent and J.A. Miller, "The Other who doesn't exist and his ethical committees", 1998)。

これは重要な核心である。この結果は、一連のセミネールを通して、明らかにされていった。たとえばセミネールXVII で、ラカンは、フロイトのエディプス・コンプレックスを役に立たないと批判し、あれはフロイトの夢だとした。

しかしながら、「見せかけ」は、ラカンの教えの終わりで、とても重要性を想定され、ほとんど何もかもーー以前は区別されていたものもーー含むようになり、これは問題である。言語、大他者、父の名、ファルス、すべては「見せかけ」と見なされるようになる。…(しかし)後期ラカンの教えにおける新しい方向づけの重要性がなんであれ、それが開いた新しい臨床と理論がなんであれ、新しい方向づけの価値は、「見せかけ」概念の意味するところをたんに拡大することによっては保証されない。

《セミネールXVII で、ラカンは、フロイトのエディプス・コンプレックスを役に立たないと批判》とあるが、同じRussell Griggの2006年の論より。

(ここでの)ラカンの結論は、エディプス・コンプレックスは、《まったく使いものにならない! C'est strictement inutilisable ! 》(Le séminaire, livre XVII,P.137)である。…彼はつけ加えている。《奇妙なことだ、これがもっとはやく明らかにならなかったのは》、と。エディプス・コンプレックスへの、ラカンの多年にわたる長く詳細な取り組みを考えれば、彼はこの意見を、まずは自分自身に向けて言っているとしてよい。(Russell Grigg, Beyond the Oedipus Complex 、2006ーー「エディプス理論? ありゃ《まったく使いものにならないよ!」)

さて、Russell Grigg の論は、現在、ラカン主流派(ミレール派)が、身体の享楽以外は何もかも「見せかけ」としてしまっていることに対する批判(吟味)とも読めるのではないか。

そのミレール派のーーこれは臨床上での議論が主だがーー考え方は次ぎの通り(参照:腰抜け・妄想家・詐欺師)。

21世紀における象徴秩序に接触する主要な変化は、今とても広く行き渡った、見せかけの分節化としての思考である。存在を組織するものとされた伝統的カテゴリーは、バラバラになるように運命づけられたたんなる社会構築物の序列へと移行した。見せかけが揺らめいているだけではない。伝統的カテゴリー自体が、見せかけとして認知されている。

さらに、奇妙な交点によって、精神分析は、ラカンを通して、概念的な両極性の他の用語を取り戻しつつある。すなわち、すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的絆の現実界は、性関係の不在だ。無意識の現実界は話す身体だ。

象徴秩序が、現実界を統整しそれに法を課す「知」と思われていた限り、臨床は、神経症と精神病とのあいだの対立によって支配された。象徴秩序は今、現実界を統治せず、むしろ現実界に隷属する「見せかけ」のシステムとして認知されている。象徴秩序は、不在する性関係の現実界に応答するシステムである。(ジャック=アラン・ミレール、2014,L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER(無意識と話す身体))


このミレールの考え方への批判は、次のような形で、ジジェクによっても現われる(参照:
ミレール? 天才だよ、シニカルで完璧に学者ぶった天才だ(ジジェク)

より理論的レベルで、我々は、ミレールの(そして、もし人が後期ラカンのミレール読解を受け入れるならば、ラカンの)、やや粗野な名目論者的対比を問題視すべきだ。その対比というのは、享楽の現実界の個別性と象徴的見せかけの包被とのあいだのものである。ここで喪われているのは、ラカンのセミネールXX(アンコール)の偉大な洞察である。すなわち、享楽自体の地位は、ある意味で、二重化された見せかけ semblance の地位である。享楽はそれ自体としては存在しない。享楽は象徴的過程、その内在する非一貫性と反作用の過程の残余あるいは生産物として、ただ己れを主張するだけである。言い換えれば、象徴的見せかけ semblances は、ある揺るぎない実体的な現実界自体に関する見せかけではない。この現実界は(ラカン自身が定式化しているように)、ただ象徴化の袋小路を通してのみ識別できる。

この観点からは、ラカンの「騙されない者は間違える les non‐dupes errent 」のまったく異なった読み方を提示し得る。もし我々が、象徴的見せかけと享楽の現実界とのあいだの対比を元にしたミレールの読解に従うなら、「騙されない者は間違える」は、シニカルで古臭い諺のようなものだ、すなわち我々の価値観、理想、規則等々は、ただ見せかけに過ぎないが、それらを侮ることなく、社会組織がばらばらにならないよう、現実のものとして振舞うべきだ、というものだ。

しかし正当ラカン派の立場からは、「騙されない者は間違える」の意味するところは全く反対である。真の錯誤 illusion とは、見せかけを現実として取ることではなく、現実界自体を実体化することにある。現実界を実体的なそれ自体と取り、象徴界を単に見せかけの織物に降格してしまうことが真の錯誤である。言い換えれば、 間違える者たちは、象徴的織物を単に見せかけとしてさっさと片付け、その効力に盲目な、まさにシニカルな連中である。効力、すなわち、象徴界が現実界に影響を及ぼす仕方、我々が象徴界を通して現実界に介入できるあり方に盲目な輩が、間違える者たちである。イデオロギーは、享楽の核心を取り囲む象徴的見せかけのネットワークを、深刻に取り扱うことに元々あるのではない。より根本的レベルでは、イデオロギーとは、享楽の現実界に関して、これらの見せかけを「単なる見せかけ」としてシニカルに棄却をすることである。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012 私訳)

ここに出てくる「騙されない者は間違える les non‐dupes errent」は、「父の名 le Nom‐du‐Père 」と同じ発音である。すなわち、父の名→ファルス→S1を示しているとしてよい。

S1(主人のシニフィアン)の機能とは何であったか。基本的な理解としては、たとえば「太鼓のひと弾き」や「S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴)」などにある。だが、いまは主人のシニフィアンと対象aの相違を示す文を掲げる。

◆対象a/主人のシニフィアン

ーーある時期以降のラカンにとって、Φ(象徴的ファルス)= S1(主人のシニフィアン)である(「父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって」)。

以下の文の主人のシニフィアンは象徴的ファルスとして読むことができる。

…… (ふたつのあいだの)形式的な相同性、主人のシニフィアンの再帰的な論理ーーシニフィアンの欠如のシニフィアン、欠如の代替物(充填物)として機能するシニフィアンーー、そして対象aの論理も、またラカンによってくり返して定義されたように、欠如の充填物である。その地位は純粋にヴァーチャルであり、それ自体のどんな実体的一貫性もなく、ただ象徴秩序における欠如の実体化positivizationである。

何かが象徴秩序から逃れさる。そしてこのXが、対象a、私がしらないものje ne sais quoi として実体化される。それが、私にある物や人を欲望させる。(……)

しかしながら、主人のシニフィアンと対象aのあいだのこの形式的な類似に騙されるべきではない。どちらの場合も、欠如を埋める実体entityとして扱えるようにみえるが、対象aを主人のシニフィアンと分け隔てるものは、対象aの場合、欠如が二重化されていることだ。すなわち、対象aは、二つの欠如の重なり合いの結果である。その二つの欠如とは、〈大他者〉(象徴秩序)にある欠如と対象にある欠如である。ーー例えば、視覚領野において、対象aとは、我々が見ることのできないもの、絵画にかんするなら我々の盲点である。

二つの欠如の各々は互いに独立して作用しうる。我々はシニフィアンの欠如を持ちうる、例えば「言葉が行方不明になる」という豊かな経験をしたときに。あるいは我々は視覚において欠如を持ちうる。その欠如のために、まさに主人のシニフィアンと名づけられるシニフィアンがある。それは、対象の不可視の領域を再捕獲するようにみえる神秘的なシニフィアンである。

そこには、主人のシニフィアンの錯覚 illusionがある。すなわち主人のシニフィアンは対象aと合体する。そして主体の〈大他者〉/〈主人〉は、主体が欠如しているものを所有しているようにみえる。これをラカンは疎外と呼んだ。すなわち、主体が欠けているものを所有している〈大他者〉との主体の遭遇である。疎外にひき続く分離においては、対象aもまた〈大他者〉から、主人のシニフィアンから分離する。すなわち、主体は見いだすのだ、〈大他者〉もまた彼に欠けているものを持っていないことを。ラカンに従って金言を掲げれば、「aなしの私はないno I without a」である。〈私〉(たった一つの特徴unary feature、主体を表象するシニフィアン化の徴)が出現するときはいつでも、〈a〉が伴うのだ、リアルの意味作用における喪われたものの代替物としての〈a〉が。

それでは、対象aは、S1の、主人のシニフィアンのシニフィエだろうか。一見そのようにみえるかもしれない。というのは、主人のシニフィアンは、まさに図り知れないXーー「ふつうの」シニフィアンたち (S2)の連鎖によってシニフィエされる一連の実体的な属性から逃れるXを意味づけるsignifiesのだから。しかし、より精緻にみると、我々はその関係はまったく正反対であることが分かる。すなわち、シニフィアンとシニフィエのあいだの分解にかんして、対象aはシニフィアンの側にあり、それはシニフィアン“の中の/の”欠如を埋める。他方、主人のシニフィアンは、シニフィアンとシニフィエのあいだの「縫合点」であり、その点において、シニフィアンはシニフィエのなかに落ちる。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

…………

ジジェクのいささか難解な区分けの説明を掲げたが、これは、彼にとってはどうしても必要なものである。たとえば、上のような観点があって初めて次ぎのような解釈が生まれる。つまり、次ぎの最初の文では、ユダヤ人の主人のシニフィアンとして機能、二番目の文では、ユダヤ人の対象aの機能である。


【主人のシニフィアンとしてのユダヤ人】
ドイツにおける1920年代の反ユダヤ主義について考えてみよう。人びとは、混乱した状況を経験した。不相応な軍事的敗北、経済危機が、彼らの生活、貯蓄、政治的不効率、道徳的頽廃を侵食し尽した……。ナチは、そのすべてを説明するひとつの因子を提供した。ユダヤ人、ユダヤの陰謀である。そこには〈主人〉の魔術がある。ポジティヴな内容のレベルではなんの新しいものもないにもかかわらず、彼がこの〈言葉〉を発した後には、「なにもかもがまったく同じでない」……。たとえば、クッションの綴目le point de capitonを説明するために、ラカンは、ラシーヌの名高い一節を引用している、「Je crains Dieu, cher Abner, et je n'ai point d'autre crainte./私は神を恐れる、愛しのAbner よ、そして私は他のどんな恐怖もない。」すべての恐怖は一つの恐怖と交換される。すなわち神への恐怖は、世界のすべての出来事において、私を恐れを知らなくさせるのだ。新しい〈主人のシニフィアン〉が生じることで、同じような反転がイデオロギーの領野でも働く。反ユダヤ主義において、すべての恐怖(経済危機、道徳的頽廃……)は、ユダヤ人の恐怖と交換されたのだ。je crains le Juif, cher citoyen, et je n'ai point d'autre crainte. . ./私はユダヤ人を恐れる、愛する市民たちよ。そして私は他のどんな恐怖もない……。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012,私訳

【対象a としてのユダヤ人】 
要するに、父の名と“概念上のユダヤ人”の相違とは、象徴的フィクションと幻想的幽霊fantasmatic specterとの相違である。ラカンのアルジェブラではS1、すなわち主人のシニフィアン(象徴的権威の空のシニフィアン)と対象aの相違である。主体が象徴的権威を授けられるとき、彼はその象徴的肩書きの付属物として振舞う。すなわち〈大他者〉が彼を通して行動するのだ。幽霊的な現前の場合は、反対に、私が行使する力は“私自身のなかにあって私以上のもの”である。

しかしながら、去勢のシニフィアンとしてのファルスによって保証された象徴的権威と「概念的なユダヤ人」の幽霊的な現前とのあいだには決定的な相違がある。どちらの場合も、知と信念のあいだの分断を扱うにもかかわらず、このふたつの分断は根本的に異なった特質がある。最初の場合、信念は「目に見える」公的な象徴的権威にかかわる(私は父が不完全で弱々しいことを知っているにもかかわらず、私は父を権威の形象として受け入れる)。他方、二番目の場合、私が信じているのものは、目に見えない幽霊的な顕現である。幻想的な「概念上のユダヤ人」は象徴的権威の父権的形象、公的権威の"去勢された"担い手あるいは媒体ではない。そうではなく、何か決定的に異なったもの、正当なロジックを倒錯させる公的権威の不気味な分身である。彼は影として振舞う、公衆の眼には見えない、幻影のような、幽霊的全能性を照射するのだ。この測り知れなく捉えがたい彼のアイデンティティの核心にある地位によって、ユダヤ人はーー「去勢された」父とは対照的にーー去勢されていないものとして感知される。彼の実際の、社会的、公的な存在existenceが中断されればされるほど、その捉えがたい、幻想的な外-存在ex‐sistenceは人びとを脅かすようになる。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING)

これは、たとえば現在 IS( Islamic State:イスラム国)がどう機能しているのかを考える上でもとても参考になる。おそらく敵対国すべてで同じように機能しているわけではない(ある国にとっては、主人のシニフィアンであり、別の国にとっては対象aだろう)。

我々はまったく文明の衝突を取り扱っているのではない(西側キリスト教徒対ラディカルイスラム)。そうではなくそれぞれの文明内部での衝突だ。すなわち、キリスト教徒の宇宙のなかでの米国と西側ヨーロッパ対ロシア。ムスリムの宇宙のなかでのスンニ派対シーア派である。イスラム国の醜怪さは、これらの闘争を覆う「フェティッシュ(呪物)」として機能しているということだ。そこでは、どちらの側も、本当の敵を叩くために、イスラム国と闘うふりをしているのだ。( ジジェク「我々はトルコについて語る必要がある」(Slavoj Žižek: We need to talk about Turkeyーーさあイスラム国抜きでわしらはどうなる?

…………

※対象a としての〈女〉
他の相同関係――同じ理由で拒絶されるべきであるーーは父の名と幻影的な「女」の間の関係である。ラカンの「女は存在しない」(la Femme n'existe pas)は、経験上の、肉体をもった女は決して「彼女She」ではない、ということを意味しない。すなわち彼女は到達できない「女」の理想に従って生きることができないということを意味しない(経験上の、「真の」父は、彼の象徴的機能、彼の「名」に生きることができないという様ではない)。どんな経験上の女も〈女〉から永遠に分離されているというギャップは、空の象徴的機能とその経験上の担い手とのあいだのギャップと同じではないのだ。

女の問題とは、逆に、女の空の理想――象徴的機能――を形作ることができないことにあるので、これがラカンが「女は存在しない」と主張したときの意図である。この不可能の「女」は、象徴的フィクションではなく、幻想的幽霊fantasmatic specterであり、それは S1ではなく対象 aである。「女は存在しない」と同じ意味での「存在しない」人物とは、原初の「享楽の父」である(神話的な前エディプスの。集団内のすべての女を独占した父)。だから彼の地位は〈女〉のそれと相関的なのである。(同 LESS THAN NOTHING)