このブログを検索

2016年3月10日木曜日

エディプス理論? ありゃ《まったく使いものにならないよ! C'est strictement inutilisable ! 》


ラカンのセミネールXVIIの新英訳(2006)の解説論文のひとつにて、Russell Grigg(セミネール英訳者)は、次のように記している。

(ここでの)ラカンの結論は、エディプス・コンプレックスは、《まったく使いものにならない! C'est strictement inutilisable ! 》(Le séminaire, livre XVII,P.137)である。…彼はつけ加えている。《奇妙なことだ、これがもっとはやく明らかにならなかったのは》、と。エディプス・コンプレックスへの、ラカンの多年にわたる長く詳細な取り組みを考えれば、彼はこの意見を、まずは自分自身に向けて言っているとしてよい。(Russell Grigg, Beyond the Oedipus Complex 、2006)

セミネールXVII といえば、ラカン68歳。フロイトが、タナトス概念をはじめて公表したのは、64歳。それよりも若い連中、しかも聡明さに際立って劣る連中が驚くべき「寝言」を言っていても、やむえない。

ところで、Russell GriggはPaul Verhaegheの『New Studies of Old Villains: A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex』2009の書評で、次のように言っている。

“Verhaeghe takes one of the fundamental issues in psychoanalysis, the Oedipus complex, and with the conceptual precision and clarity of exposition we have come to expect from him, effortlessly exposes the paradoxes in the work of Freud. This is a fantastic little book which brings clarification to a field where so often there has been confusion.”

◆ヴェルハーゲ、New Studies of Old Villains: A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、2009、PDFよりいくらかの引用するが、その前に、冒頭のRussell GriggのセミネールXVIIの新英訳(2006)の解説論文のひとつとして書かれたヴェルハーゲ、2006から一節を抜き出しておく。

我々は、愛人の夫に自分の娘を提供するインポテンツの父に遭遇する(ドラ)。妻の財産に頼って生きる父(鼠男)、サナトリウムを渡り歩く鬱屈した父(狼男)、フロイトから学びエディプスポジションを決めてかかっているが、明らかに弱虫の父(少年ハンス)。

四大症例のどこにもフロイトの想定する強い父はいない。エディプスコンプレックスはフロイトの夢・症状であり、ファミリーロマンスだった。« complexe d'Œdipe » comme étant un rêve de FREUD.(ラカン、S.17)(Paul Verhaeghe enjoyment and impossibility、2006)


【ヒステリーヴァージョンとしてのエディプス・コンプレクス】

私の意見では、現在、フロイトは充分に研究されていない。精神分析家集団の内部でさえもである。
 フロイトとラカンのエディプス理論を、彼らは間違っていたとして、両方ともに見捨てることは、あまりにも軽はずみな反応である。だが、それどころか、人はいっそう脊髄反射的反応をしがちだ。というのは、「とにかくフロイトは間違っていた」とするのが、現代のドクサだから。
我々は見ることができる。フロイトによるエディプス期の最初の概念化は男性ヴァージョンではなく、むしろヒステリーヴァージョンであることを。フロイトの足跡を追って行けば、ヒステリーが底に横たわる問題のための解決法を作り出したことが分かる。当時、フロイトは完全には理解していなかったにしろ。


【エディプス・コンプレクスの真の問い】
本当の出発点は、最初の〈他者〉と幼児とのあいだの初期エディプス関係である。それはシニフィアンを超えた享楽によって特徴づけられる。フロイトによって幼児の避けられらない受動性として叙述されたものだ。
エディプス・コンプレックスの核心の問いとは何だったか。それは、アイデンティティと欲動ーーすなわち、人の欲動興奮と結合した欲望--をいかに統合するかである。主体にとって、通常の解決法は、誰か他の人に責任を負ってもらうことだ。普通は、享楽に関して女-母に。禁止に関して男-父に。

ふたたび強調しよう。このような解決法は、大部分が、底に横たわる問題を隠蔽している。それは、自身の欲動興奮の統御と結びついた、人の自己アイデンティティの獲得の問題だ。

親たちとの奇妙な共謀において、精神分析家と精神分析理論は、典型的な神経症的解決法を支持してしまっている。


【フロイトとラカンの神経症的症状】

モーセはヤハウェを設置し、キリストも同じくヤハウェを聖なる父として設置した。ムハンマドはアラーである。この三つの宗教の書は同時に典型的な男-女の関係性を導入する。そこでは、女は統御されなければならない人格である。なぜなら想定された原初の悪と欲望への性向のためだ。

フロイトもラカンもともに、この論拠の少なくとも一部に従っている。それ自体としては、奇妙ではない。患者たちはこの種の宗教的ディスクールのもとで成長しており、結果として、彼らの神経症はそれによって決定づけられていたのだから。

奇妙なのは、二人ともこのディスクールを、ある範囲で、実情の正しい描写と見なしていることだ。他方、それは現実界の脅迫的な部分ーーすなわち欲動(フロイト)、あるいは享楽(ラカン)--の想像的な加工 elaboration、かつその現実界に対する防衛として読み得るのに。

ラカンだけがこの陥穽から逃れた。とはいえ、それは漸く晩年のセミネールになってからである。私の観点からは、このように女性性を定義するやり方は、男自身の欲動の男性による投影以外の何ものでもない。それは、女性を犠牲にして、欲動に対する防衛システムが統合されたものである。


【前期ラカンのエディプス理論解釈ーー〈母〉への責め】
ラカンの最初のエディプス理論とはこうだ。母は子どもを、ほとんど致死的な deadly 仕方で、享楽する。唯一、父の介入を通してのみ、主体は、母の潜在する致死的 lethal 享楽から救われる。同じ理屈が、三つの宗教書のなかに…見出される。初めにすべての悪の源としてイヴ、次にカトリックの性と女の不安と憎悪、最後にムスリムのベールなどへの強制。女は男を誘惑し破滅させるので、寄せつけないようにしなければならない。

これは次のように読むべきだ。我々自身の享楽、我々の身体から生じる欲動は、享楽的であるだけではなく、我々が統御する必要のある、明らかに脅迫的な何かだ。統御するための最も簡単な方法は、その享楽を他者に帰して、もし必要なら、この他者を破壊することだ。

事実、享楽と他者とのあいだのこの発達的なつながりは、主体にとって、享楽にかんする相克を外部化する道を開く。そうでもしなければ、自身の内部に留まったままになりうる。…

フロイトはくり返し言っている、人は内的な脅威から逃れうるのは、唯一外部の世界にそれを投影することだ、と。問題は享楽の事態に関して、外部の世界はほとんど女と同義だということだ…

《女-母なんてのは、交尾のあと雄を貪り喰っちまうカマキリみたいなもんだよ》(Lacan, Le seminaire, livre X: L' angoisse[1962-63]ーー「子どもを誘惑する母(フロイト)」)


【〈他者〉の重層的な意味】
最初の〈他者〉とは、第一の世話人caretaker であると同時に「身体」をも示す。この理由で、ラカンは「〈他者〉の身体」について語った。二番目の〈他者〉とは、父と法の両方を示す。したがって「法の〈他者〉」と同義である。
…ここでの〈他者〉とは、重層的な multilayered 意味がある。最も明瞭なレイヤーは、〈他者〉を母として理解することだ。すなわち、彼女自身のシニフィアンを通して、子どもの享楽を徴づける世話人である。…二番目の意味はもっと複雑である。〈他者〉は、有機体としての己れ自身の身体をも示す。これは、我々自身の「他」としての、本質的な部分である。…


【ラカンの移行】
しかしそれでは、享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

《L'Autre、c'est le corps ! (大他者とは身体のことである) 》(10 Mai 1967 Le Seminaire XIV

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。これが説明するのは、なぜ母なる〈他者〉the (m)Otherが「享楽の席the seat of enjoyment」なのか、その〈他者〉に対して防衛が必要なのに、についてである。

「三つの驚き」(ラカン、セミネールⅩⅦにおける「転回」)

…………

《男は十分に想像的ファルスを持っていないことを怖れる。女は十分に想像的ファルスでないことを怖れる。》(ラカン、セミネールⅣ、摘要)

【ヴェルハーゲによる変奏】
"I have/am the phallus more (or less) than that other" (competition).
"The other doesn't give me enough of the phallus" (revendication).
"Not I but that other has/ is the phallus" (jealousy).
"I don't have/ I'm not the phallus and will never have/ be it" (depression).
"I have/ am the phallus" (narcissism).

ーーーPAUL VERHAEGHE,2009

〈競争〉
・ボクは他の人よりももっと(or すこし)ファルスを持っているよ
・アタシは他の人よりももっと(or すこし)ファルスだわ

〈クレーム〉
・他の人は、ボク(アタシ)にじゅうぶんにファルスをくれない…

〈嫉妬 〉
・ボクじゃないんだ、他の人のほうがファルスを持ってるんだ
・アタシじゃないの、他の人がファルスなの

〈抑鬱〉
・僕はファルスを持っていないし、けっしてこれからも持たないな
・アタシはファルスじゃないし、けっしてこれからもそうじゃないわ

〈ナルシシズム〉
・ボクはファルスを持ってるさ
・アタシはファルスよ


今は、象徴的権威の失墜のせいで、上のような二者関係の症状がより猖獗している時代だというのが、彼の(社会的)診断である。

重要なことは、権力 power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。

明らかなことは、第三者がうまくいかない何かがあり、われわれは純粋な権力のなすがままになっていることだ。(社会的絆と権威、Paul Verhaeghe,1999
疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(Paul Verhaeghe What About Me? 2014 ーーラカン派による「現在の極右主義・原理主義への回帰」解釈

…………

※附記

「女の享楽」についてのポスト・ラカニアンの煽り立て hype は、そのまさに特性のせいで、取り戻しえないものを取り戻そうとするヒステリカルな試み以外の何ものでもない (ヴェルハーゲ、2001)


※いくらか難解版:エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論