ところで、なぜ「母の欲望」というのに、
「父の欲望」っていわないんだろ?
やっぱり女のほうがエライせいだろうな
それは神話だ
男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ(西脇順三郎)
世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』)
それとも、「玄牝の門」の欲望じゃないとラチがあかないってことだろうか?
谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子「玄牝の門」 福永光司氏による書き下し)
そこまで遡らなくても、最初の世話人が母のせいなんだろうか?
最初の〈他者〉とは、第一の世話人caretaker であると同時に「身体」をも示す。この理由で、ラカンは「〈他者〉の身体」について語った。二番目の〈他者〉とは、父と法の両方を示す。したがって「法の〈他者〉」と同義である。
…ここでの〈他者〉とは、重層的な multilayered 意味がある。最も明瞭なレイヤーは、〈他者〉を母として理解することだ。すなわち、彼女自身のシニフィアンを通して、子どもの享楽を徴づける世話人である。…二番目の意味はもっと複雑である。〈他者〉は、有機体としての己れ自身の身体をも示す。これは、我々自身の「他」としての、本質的な部分である。…(ヴェルハーゲ、2009)
とすれば、実際にゲイカップルが乳幼児を養子にしたり、赤子を主夫が生れた瞬間から世話するということはすでにあるのだろうから、そのときは「父の欲望」となるんだろうか?
我々の現代的西欧社会では、最初の世話役は父でありうるし、ジェンダーの平等が多かれ少なかれ成就している。その社会では、男たちに向かっての女たちからの同じ反応を漸次、観察できるようになった。すなわち、男たちのエロティックな魅力の見せびらかしを非難しつつ、同時に、自らの欲動と享楽を見て見ぬふりをする女たちである。(同、ヴェルハーゲ)
でも「谷間の神霊は永遠不滅」じゃないか?
試験管ベービーが流行るなら別だが。
それとも、さらにいっそう根源的な話だろうか。
根源的な喪失とはなにか? 不死の生vie immortelle の喪失である、それはひどく逆説的だが、性的存在としての出産の刻限に失われる。(ラカン、セミネールⅩⅠ、摘要)
女は存在しない。われわれはまさにこのことについて夢見るのです。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。(ミレール 『エル ピロポ』)
女のシニフィアンが存在するようになるなんてありうるのかい?
で、男のファルスというシニフィアンはなんであるんだろ?
……ここで、ラカンはラディカルなヘーゲリアンである(疑いもなく、彼自身は気づいていないが)。すなわち、「一」がそれ自身と一致しないから、「多」multiplicity がある。我々は今、ラカンの命題ーー「原初に抑圧されたもの」(原抑圧)は二項シニフィアンbinary signifier (表象-代表 Vorstellungs‐Repräsentanz のシニフィアン)ーーの正確な意味が判然とする。
象徴的秩序が締め出しているものは、「陰陽」、あるいはどんな他の二つの釣り合いのとれた「根本的原理」としての、主人のシニフィアン Master‐Signifiers、S1‐S2 のカップルの十全な調和ある現前である。《性関係はない》という事実が意味するのは、二番目のシニフィアン(〈女〉のシニフィアン)が「原抑圧」されているということだ。そして、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂け目を埋めるものは、多様なmultiple「抑圧されたものの回帰」、一連の「ふつうの」諸シニフィアンである。
(……)この理由で、標準的な脱構築主義者の批判ーーそれによれば、ラカンの性別化の理論は「二項論理」binary logic と擦り合うーーとは、完全に要点を取り逃している。ラカンの「〈女〉は存在しない la Femme n'existe pas 」が目指すのは、まさに「二項」の軸、Masculine と Feminine のカップルを掘り崩すことである。原初の分裂は、「一」l'Un と「他」l'Autre とのあいだにあるのではない。そうではなく、厳密に「一」固有のものである。「一」とその刻印の「空虚の場」とのあいだの分裂(分割)として、「一」固有のものなのだ(これが我々がカフカの有名な言明、「メシアは、ある日、あまりにも遅れてやって来る」を読むべき方法だ)。
これはまた、「一」に固有の分裂/多様性の暴発とのあいだの繋がりを、人はいかに捉えるべきかについての方法である。「多」multiple は、原初の存在論的事実ではない。「多」の超越論的起源は、二項シニフィアンの欠如にある。すなわち、「多」は、失われている二項シニフィアンの裂け目を埋め合わせる一連の試みとして、出現する。したがって、S1 と S2 とのあいだの差異は、同じ領野内部の二つの対立する軸の差異ではない。そうではなく、この同じ領野内部での切れ目であり(その水準での切れ目において、変化をふくむ作用 process が発生する)、「一」の用語固有のものである。すなわち、原初のカップルは、二つのシニフィアンのカップルではない。そうではなく、シニフィアンとそのレディプリカティオ reduplicatio、シニフィアンとその刻印 inscription の場、「一」と「ゼロ」とのあいだのカップルである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
どうしてソーセージのシニフィアンは抑圧されずに
蝦蟇口のシニフィアンは原抑圧されちまうんだろ?
彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢判断』)
でっぱってるか、ひっこんでいるかの違いだけなのに
老子さんが言いたかったのは
玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)の
多様な「抑圧されたものの回帰」ってことだろうか?
いやどうもそんな単純な「精神分析」的議論ではなさそうだ
太古の男たちは、なぜ女が子供を産むことができて、
男にはそれができないかという問いがあったという話がある
女たちは、生み、育て、そして老いて死ぬ。
女たちは、生み、育て、そして老いて死ぬ。
「創造→維持→破壊」の循環、
「死と再生」の体現者である女は、「無限の生命zoe」の象徴
男は一回限りの「有限の生命bios」でしかないコンプレックスをもつ
当時の男たちの「去勢」の試みは、ゾエzoeへの憧憬からなされた、と。
男と女とは、光と闇、太陽と月、生者と死者、
ゾーエーZoëはすべての個々のビオスBiosをビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根源像(Dionysos.Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976)
男と女とは、光と闇、太陽と月、生者と死者、
祝祭と葬礼、天界と大地(父性的と母性的)などの二項対立を象徴
母権社会では、後者が優位におかれる。
「新月→満月→旧月」の三相一体の月女神は、不死、不易、万能の存在
「新月→満月→旧月」の三相一体の月女神は、不死、不易、万能の存在
男たちは、女家長、女性を畏れ、敬愛し、服従する
バーゼル大学の年上の同僚
バッハオーフェンの『母権制』にもかかわる話だ
そろそろこの抑圧された話に回帰したらどうだろ?
女は、ほんとうに女であればあるほど、権利などもちたくないと、あらがうものだ。両性間の自然の状態、すなわち、あの永遠の戦いは、女の方に断然優位を与えているのだから。(ニーチェ『この人を見よ』)