2017年6月8日木曜日

言語を使用する人間の宿命としての攻撃欲動

【攻撃欲動】 

まず攻撃欲動は何かについてのフロイトとラカンの二者の簡潔な文を掲げる。

攻撃欲動 Aggressionstrieb は、われわれがエロスと並ぶ二大宇宙原理の一つと認めたあの死の欲動 Todestriebes から出たもので、かつその主要代表者である。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)
…私は、欲動 Trieb を翻訳して「漂流 dérive」・享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。…j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (ラカン、S20, 08 Mai 1973)

そして、《すべての欲動は、潜在的に死の欲動である。toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.》(Lacan E848、1964)


【象徴界の内部にある享楽】

ところで攻撃欲動あるいは死の欲動は、フロイトのいうように「彼岸」にあるのだろうか。そもそも彼岸とは何だろうか。肝腎なのは文字通りの「彼方」――象徴界あるいは言語の世界を「超えた」ところにあるものーーではないことである。

これについてはラカンの親友であるロラン・バルトがはやくからつかんでいた。

享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。 la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. (『彼自身によるロラン・バルト』1975年)

享楽とはけっして欲望(あるいは象徴界)の「彼方」にあるものではない。象徴界の《シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants》の裂け目に《現実界との出会い rencontre du réel》(S11)として現れるものである。

享楽の現実界とは、言語の外部に単純にあるものどころか(現実界は、むしろ言語に関して「外密 extimité」=親密な外部 extériorité intime である)、言語のなかで象徴化に抵抗する何かであり、言語のなかに異物の核として居残ったものである。現実界は、裂け目、切れ目、隙間、非一貫性、不可能性として現れる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

ジジェクのこの文は、享楽(あるいは現実界)は快原理の彼岸にあるものではない、ということを示している。次の文はよりいっそうそれが明らかになっている。

われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012)
最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 (ロレンツォ・キエーザ2004 Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa)

ジジェクとロレンツォの考え方は、何よりもまずは次のラカン文に依拠している

現実界は形式化の行き詰り以外の何ものでもない。le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(S.20)

言語とのかかわりでいえば、次のジジェク文がよい。

主体性の空虚 $ は、「言い得るもの」の彼岸にある「言い得ぬもの」ではない。そうではなく、「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」である。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING、私訳)


【攻撃欲動の経験的観察】 

ここで、ごく一般的な人間の攻撃欲動の経験的観察による指摘をかかげる。


(動物は)攻撃本能が適当なシグナルによって解除され、同類の無用な殺し合いが避けられるのに対し、攻撃欲動は見境なしに発動され、恐るべきジェノサイドを現出する。人間の歴史はまさしく血塗られた歴史であり、いかなる社会的規制も、より大きな暴力をもたらしこそすれ、永続的に平和を築くことができなかったというのは、周知の事実である。(浅田彰『構造と力』)
類人猿は手の届かない対象に直面するとき、何度かそれを掴もうと試みた後にそれを放棄して、より穏当な対象に転ずる(例えば、より魅力の劣る性的パートナー)。他方、人間は、不可能な対象に釘づけになったままで努力をしつこく繰り返す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)
・動物にはアウシュビッツもコソボもない。生物学の要素は心理学に転換され得ないし、逆も真である。欲動はこの二つの領域のあいだの中間地帯に現れ、境界線の不可能な越境の効果である。欲動にしばしば伴う怒りも攻撃性も、動物には馴染みのない不能と無力の表現である。動物には本能はあるが、欲動はない。

・日常生活でも、苛立ち(怒り)やその苛立ちにしばしば付随して生ずる攻撃性は、ほとんど常に不能と無力の表出なのはよく知られている。(ポール・バーハウ1998、Paul Verhaeghe、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE )


【なぜ攻撃欲動は言語にかかわるのか】

なぜ攻撃欲動は言語にかかわるのか。ブルース・フィンクによるとてもわかりやすい説明がある。

我々は動物がけっしてしないことをするように見える。我々は、我々がそうあるべきだと思っている標準、絶対的な標準、規範、水準に照らし合わせて、享楽を判断している。標準や基準は、動物界にはない。標準などは言語によってのみ可能となる。言い換えれば、言語は、我々が得ている享楽が標準には達していない、基準に達していない、そうあるべきものではない、と思わせるのだ。

言語は、我々に「言う」ことを可能にする、我々が種々の方法で得ている満足は取るに足りないもので、別の満足、より良い満足、決して我々を裏切らない満足、決して期待外れに終わらず、失望させない満足があると。我々はかつて一度でもそのような期待通りの満足を経験することができただろうか? 大抵の人にとっては、おそらく「否」だろう。だが、そのことは信じることを止めはしない、きっとそのような満足があるに違いない、何かより良いものがあるに違いない、と。たぶん我々は、ある他の集団ーーユダヤ人、アフリカ系アメリカ人、ゲイ、女性ーーにその徴を見ると考えるかもしれない。そして憎悪したり羨望したりする。たぶん、我々はある集団にそれを投影するのだ。というのは、我々はそれが存在すると信じていたいのだから(私はここでレイシズムやセクシズムなどの全ての局面を、このひどく単純化した形式で説明するつもりは毛頭ないことを断っておく)。

いずれにせよ、我々は、何かより良いものがあるに違いないと思い、何かより良いものがあるに違いないと言い、何かより良いものがあるに違いないと信じる。そのように何度もくり返しして言うのだ、我々自身に、あるいは友人に、さらには分析家に。そうすることによって、我々はこの「他の満足 other satisfaction」 、この「他の享楽 Other jouissance」に一貫性を与える。結局、それにとても大きな一貫性を与えることそのものが、我々が実際に得ている享楽はひどく不十分なものに見えてしまうことに導く。そのため、我々のもつ僅かな享楽は、更に先細りになってしまう、我々がひどく重要だと思い込んでいる享楽の理想との比較によって、いっそう色褪せてしまうのだ。そして我々はその享楽を決して諦め切れない。(フィンク2002、Bruce Fink、Knowledge and Jouissance)

次にジジェク版。

人間が動物を凌駕するのは暴力の能力の点においてであり、それがほかならぬ言葉を使うせいだとすればどうだろう。数多ある言語の暴力的特性を中心的なテーマにしたてた哲学者・社会学者には、ブルデューからハイデガーまでいる。しかしながら、ハイデガーが見落とした言語の暴力的特性がある。それこそラカンによる象徴界の理論の焦点である。その象徴界の理論を通じて、ラカンは存在の家としての言語、つまり言語は人間の創造物でも道具でもなく、人間のほうが言語の中に「暮らし」ている、というハイデガー のモチーフを変奏している。「精神分析は、その主体となるものがなかに住まう言語の科学であるべきです」。ラカンが「パラノイア的な」加えたひねり、ラカンがフロイトのようにして 加えたねじの回転は、この〔ハイデガーの〕家に折檻の家という特徴を与えた点に求めら れる。《フロイトの視点に立てば、人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S3、1956)》。(ジジェク 「詩に歌われる言語の折檻所」
ヘーゲルが何度も繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。もっとパセティックな言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが次のように言うのを好んだように。つまり、私は話しているのではない。私は言語によって話されている、と。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。ダイレクトな動物的生の代理人であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

上にあるように人間は言語という大他者の囚人である。われわれは常に言語に対して受動的ポジションに置かれている。晩年のフロイトが繰り返し言っているように、人は《受動的な体験を能動的な行為によって補う》(『女性の性愛』1931年)。fort-da(糸巻き) 遊びの指摘もその一つである。人は《受動的立場 passive Einstellung》(『終りある分析と終りなき分析』1937年)に堪え難い。フロイトが《女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit》と言ったとき、その意味は受動性の拒否である。受動的ポジションへの反発として能動的に振舞う。そして究極の能動性とは攻撃性である。

…………

【象徴的去勢とは?】

上のジジェク文に「象徴的去勢」とあった。象徴的去勢とは原抑圧という用語で理解されることもあるが、ここではそれには触れない(参照:二種類の原抑圧)。

まずラカン文を引用しよう。

小児は話し始める瞬間から、その前ではなくそのまさに瞬間から、抑圧(のようなもの)がある、と私は理解している。À partir du moment où il parle, eh ben… à partir de ce moment là, très exactement, pas avant …je comprends qu'il y ait du refoulement.(Lacan,S.20)
・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique

・去勢はシニフィアンの影響によって導入された現実的な働きである la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant (Lacan,S17)

このシニフィアンによる「象徴的去勢」についてはポール・バーハウのすぐれた注釈がある(ラカンの象徴的去勢とフロイトの想像的的去勢とのあいだの相違が判然とする)。

フロイト理論に反して、ラカンは「去勢」を人間発達の構造的帰結として定義した。ここで人は理解しなければならない。我々は話す瞬間から、現実界との直かの接触を喪うことを。それはまさに我々が話すせいである。特に我々は、己れ自身の身体との直かの接触を喪う。これが「象徴的去勢」である。そしてそれが、原初の享楽の不可能性を強化する。というのは主体は、身体の享楽を獲得したいなら、シニフィアンの手段にて進まざるを得ないから。こうして享楽の不可能性は、話す主体にとって、具体的な形式を受けとる。

一方で、享楽への道は、大他者から来た徴付けのために、シニフィアンとともに歩まれる。他方で、これらのシニフィアンの使用はまさにある帰結をもたらす。すなわち享楽は、決して十全には到達されえない。これは象徴界と現実界とのあいだの裂け目にかかわる。シニフィアンが、享楽の現実界を完全に抱くことは不可能である。

社会的に言えば、この構造的与件の実装は、女と享楽・父と禁止を繋げる。両方とも、典型的な幻想ーー宿命の女(ファムファタール)の破壊的享楽・父-去勢者の懲罰ーーと結びついている。享楽は女に割り当てられる。なぜなら、母なる大他者 (m)Other が、子供の身体に、享楽の侵入を徴付けるから。子供自身の享楽は大他者から来る。

次に、享楽を寄せつけないようにする必要性・享楽への道の上に歯止めを架ける必要性は、母と彼女の享楽の両方を、あたかも父によって禁止されたもの・去勢によって罰されるものとして、特徴づける形式をとる。

この「想像的去勢」は根本的真理を覆い隠す。すなわち、人は話す瞬間から享楽は不可能であるという真理を。これは、構造的与件としての「象徴的去勢」である。

ラカンはこの理論を以て、フロイトのエディプス・コンプレックス、そして以前のラカン自身のエディプス概念化の両方から離脱した。享楽を禁止する権威主義的父、ついには主体を去勢で脅かす父は、社会上の神経症的構築物以外の何ものでもない。ア・プリオリな与件、すなわち享楽の不可能性の上の構築物にすぎない、と。

構築物として、それは想像界の審級に属する。これは、アイデンティティの問題、あるいは享楽の問題であれ、最終的統合の可能性が夢見られたことを含意する。

これに対して、ラカンは象徴秩序を構造的に不完全なものとして考えた。そして、さらに根本的に、この不完全性をシステムの機能にとっての不可欠なものとして見た。(ポール・バーハウ2009、 PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains)


【言語記号(シニフィアン)とは何か】

ここで言語記号への問いをめぐるラカンの基本的叙述のいくらかを掲げる。

シニフィアンは、対象を指示しない記号である le signifiant est un signe qui ne renvoie pas à un objet …シニフィアンはまた不在の記号である Il est lui aussi signe d'une absence…
シニフィアンは、他の記号と関係する記号である c'est un signe qui renvoie à un autre signe。 言い換えれば、二つ組で己れに対立する pour s'opposer à lui dans un couple (ラカン、S3、 14 Mars 1956)
すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(意味=徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)
シニフィアン signifiant は記号 signe とは逆に、誰かに何かを表象するものではなく n'est pas ce qui représente quelque chose pour quelqu'un、主体をもうひとつのシニフィアンに対して表象する représente précisément le sujet pour un autre signifiant ものである。

私の犬はご存知のように、私の記号 signes を探し、そして話す parle。なぜこの犬は話す時に言語 langage を使わないのであろう。

それは、私はこの犬にとって記号 signes を与えるもので、シニフィアン signifiant を与えることはできないからである。

前言語的 préverbal に存在し得るパロール parole と言語 langage との違いはまさにこのシニフィアンの機能 la fonction du signifiant の出現にかかっているのである。 (ラカンS9, 06 Décembre 1961)


【それ自身に対して差異的な差異体系としての言語】

上のラカン文を補うために、柄谷行人の明晰な叙述をかかげる。

言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式 体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系あるいは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。あ るいはニーチェがいうように多中心(多主観)的であり、ソシュールがいうように混沌かつ過 剰である。ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある。( 柄谷行人「言語・数・ 貨幣」『内省と遡行』所収、1985 年)

ジュパンチッチの次の記述は、上の柄谷文の変奏である。

……ラカンの公式、《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant 》。これは現代思想の偉大なブレイク スルーだった。…この概念化にとって、再現前(表象 representation)は、「現前の現前 presentation of presentation」、あるいは「ある状況の状態 the state of a situation」ではない。 そうではなく、むしろ「現前内部の現前 presentation within presentation」、あるいは「ある状 況内部の状態 state within a situation 」である。

この考え方において、「表象」はそれ自体無限であり、構成的に「非全体 pas-tout」(あるい は非決定的 non-conclusive)である。それはどんな対象も表象しない。思うがままの継続的な「無‐関係 un-relating 」を妨げはしない。…ここでは表象そのものが、それ自身に被さっ た「逸脱する過剰 wandering excess」である。すなわち、表象は、「過剰なものへの無限の滞留 infinite tarrying with the excess」である。それは、表象された対象、あるいは表象され ない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に内在的な「裂け目」、非一貫性から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂け目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ2004“Alenka Zupancic、The Fifth Condition”2004)

このジュパンチッチのバディウ論においても、現実界は象徴界の彼岸にあるものではないことが強調されている(「過剰なものへの無限の滞留 infinite tarrying with the excess」における「滞留することtarrying」とは、ヘーゲル用語の否定的なものに「留まるverweilt」 ことの英訳である)。


ラカン自身の叙述を掲げよう。

主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって表象されうるものである Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値 valeur d'échange として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体 le sujet de la valeur d'échange は何に対して表象されるのか? ーー使用価値 valeur d'usage である。

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値 plus-valueと呼ばれるものである。この喪失 perte は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。

主体は己自身と同一化しえず、もはやたしかに享楽しえないne jouit plus 。何かが喪われているだ。それが剰余享楽plus de jouir (対象a)と呼ばれるものである。(ラカン、セミネ ールⅩⅥ、D'un Autre à l'autre, 13 Novembre 1968)

再度、ジュパンチッチから。

シンプルに言おう。主体 $ は、ネガティヴなマグニチュード、あるいはネガティヴな数 negative magnitude or negative number としての裂け目である。それが、ラカンによるシニフ ィアンの定義におけるまさに正確な意味である。シニフィアンとは、主体に代わって対象を表 象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を表象するものである。すなわち主体とはシニフィアンの内的な裂け目なのである。そしてそれがその参照の動き referential movement を支えているのだ。他方、対象a は、この動きによってもたらされたポジティヴな 残滓である。そしてそれがラカンが剰余享楽 plus-de-jouir と呼んだものである。剰余享楽 のほかには享楽 jouissance はない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピー として現われる。 (ジュパンチッチ2006、Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value)

…………

【原初は最初ではない】

とはいえ言語以前に人間には欲動があるではないか、という問いがあるはずである。たとえば初期ラカンは、人間の「本源的な欲動のアナーキー l'anarchie de ses pulsions élémentaires」(S1) といったではないか、と。

だがラカンは後に、フロイトの「遡及性 Nachträglichkeit」概念に依拠して《原初 primaireとは最初 premier のことではない》という。

Il est évidemment primaire dès que nous commencerons à penser, mais il est certainement pas le premier. (ラカン、 S.20、13 Février 1973)

 これはセミネール20まで追わなくても、セミネール4にもとても理解しやすい形で現れている。

次のように言うことーー、「エネルギーは、河川の流れのなかに潜在態として、なんらかの形で既にそこにある l'énergie était en quelque sorte déjà là à l'état virtuel dans le courant du fleuve」--それは(精神分析にとって)何も意味していない。

なぜなら、我々に興味をもたせ始めるのは、エネルギーが蓄積された瞬間 moment où elle est accumulée からのみであるから。そして機械(水力発電所 usine hydroélectrique)が作動し始めた瞬間 moment où les machines se sont mises à s'exercer からエネルギーは蓄積される。(ラカン、セミネール4、1956)

水力発電所の作動とはシニフィアンの世界への入場ということである。

享楽はまさに厳密に、シニフィアンの世界への入場の一次的形式と相関的である。私が徴 marqueと呼ぶもの・「一の徴 trait unaire」の形式と。もしお好きなら、それは死を徴付ける marqué pour la mort ものとしてもよい。

その徴は、裂目 clivage ・享楽と身体とのあいだの分離 séparation de la jouissance et du corps から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印のゲーム jeu d'inscription は、この瞬間からその問いが立ち上がる。(ラカン、S17、10 Juin 1970)

このあたりの機制については、ドゥルーズの潜在的なもの/現勢的なものにもかかわるが、ここでは若きラカン派リーダー、ロレンツォ(1976年生れ)による簡潔な文を掲げる。

潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ現勢化されうる。(ロレンツォ・キエーザ、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

ーー欲動の本源的アナーキーはシニフィアンの世界への入場に先立つ。だがそれはシニフィアンによってのみ現勢化される、とパラフレーズしておこう。

このあたりは最晩年のラカンに依拠した別の議論もあるが、ここでは割愛。いやわたくしはこの議論を十分には処理できていない(参照:「何かが途轍もなく間違っている(ジジェク 2016→ ミレール)」)。

…………

【象徴的去勢の否認】

いずれにせよ、こういった言語による象徴的去勢を排除しているのが、現在の時代の言説の特徴であると言われる。やや詳細には、「資本の言説と〈私〉支配の言説」を見よ。ここでは簡潔に要点を絞って引用しておくだけにする。

資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)

去勢の排除は、愛の問題を脇に置くとある。なぜか? ジャック=アラン・ミレールの説明が明快である。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかの場に置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼方にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。(ミレール、 On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller janvier 2010

とはいえ現代ラカン派では、ラカンの去勢の排除(精神病)ではなく、去勢の否認、つまり倒錯とする捉え方が主流である。

資本の言説は、「一般化された倒錯」の用語で叙述しうる。(ANDREA MURA. 2015, Lacan and Debt: The Discourse of the Capitalist in Times of Austerity, PDF
資本主義は、社会的つながりの水準で、倒錯的享楽の一般化を強いる。それは克服できない地平であり、数多くの倒錯が咲き乱れる。他方、一般的な社会の枠組は変わらないないままである。商品形態の閉じられた世界、その多形性は、アンタゴニズムのすべての形態の加工・同化・中性化を可能にする。資本主義の主体は去勢を嘲笑し、去勢は時代錯誤的で、ポストモダン社会がきっぱりと克服した男根社会の残滓だと宣言する。(Samo Tomšič, 2015, The Capitalist Unconscious: Marx and Lacan)

わたくしの理解する範囲では、この去勢の排除あるいは否認は、ヘーゲルの「世界の闇 Nacht der Welt」の排除・否認にもかかわる。

ヘーゲルの『精神現象学』「序論」、1807年)における《精神は、否定的なものNegativenを見すえ、否定的なものに留まる verweilt からこそ、その力 Macht をもつ》とは、《欲動の現実界 le réel pulsionnel》(あるいは死の欲動・攻撃欲動)の起源である「象徴的去勢」を見すえることにより初めて、精神は力をもつ、というふうに理解している。

これは、ニーチェの言い方なら次のようになる。

わたしは君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえにわたしは君から善を期待するのだ。

まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部「崇高な者たち」)