2017年2月23日木曜日

二種類の原抑圧

やあこれは失礼。わたくしが原抑圧をめぐって主に記しているのは(S(Ⱥ) =サントーム Σ= 原抑圧=Y'a d'l'Un)、そのあたりに出回っている「古典的」原抑圧ではない。たとえばジャン・ラプランシュJean Laplancheの『精神分析用語辞典』にあるようなものではない。

原抑圧をめぐってはフロイトだけでなくラカン自身も彷徨っていたのは、「原抑圧の悪夢」で記したところなので、それを記すのを失念していた。どちらかというと、いちいち参照として掲げるのはメンドクサイので、このところわたくしの記していることを信用しないように、というメッセージをおくっているつもりなのだが、ま、ここは以下の文を掲げて慎んでオワビをしておくことにする。

幼児は話し始める瞬間から、その前ではなくそのまさに瞬間から、抑圧(のようなもの)がある、と私は理解している。À partir du moment où il parle, eh ben… à partir de ce moment là, très exactement, pas avant …je comprends qu'il y ait du refoulement.(Lacan,S.20)
父性隠喩が成立する以前に、言語(非統合的 nonsyntagmatic 換喩としての)は既に幼児の要求を疎外している。(……)

幼児が、最初の音素を形成し、自らの要求を伝え始めるとき、疑いもなく、ある抑圧が既に起こる。彼の要求することは、定義上、言語のなかに疎外される。…その要求は、必ず誤解釈される。したがって、常に増え続ける欲求不満に陥るよう運命づけられている。(ロレンツォ・キエーザ、2007,Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness、2007)


◆ロレンツォ・キエーザ2007(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa )

ラカンにとって、言語は無意識に先立つ。より具体的に言えば、言語は無意識の完全な構造化に先立つ。というのは、どんな隠喩的置換もなしに、原抑圧ーー最初の泣き叫び・音素・言葉の換喩的発声ーーが幼児に起こるから。Laplanche とは異なり、ラカンは、本源的シニフィアン を考えた。その原シニフィアンとは、たんに対立的カップルとしてのシニフィアンーー母の不在によって引き起こされたトラウマの原象徴化の試み、フロイトによって描写されたFort–Da(いないないバア)のようなものーーである。隠喩的置換ーーそれと同時の十分に分節化された言語による厳密な意味での抑圧の可能性ーーは、エディプスコンプレックスの崩壊によってのみ、引き続いてもたらされる。

父性隠喩の出現以前に、言語は(非統合的 nonsyntagmatic 換喩として)既に子供の要求を疎外するーーしたがって、また何らかの形で抑圧されるーー。しかし、無意識と自己意識の両者は、まだ完全には構造化されていない。原抑圧は、エディプスコンプレックスの崩壊を通してのみ、遡及的(事後的)に、実質上抑圧される。
結局、我々は認めなければならない、ラカンは我々に二つの異なった原抑圧概念を提供していることを。広義に言えば、原抑圧は、原初のフリュストラシオン(欲求不満)ーー「エディプスコンプレックスの三つの時」Les trois temps du complexe d'Oedipe の最初の段階の始まりーーの帰結である。《原抑圧は欲望の疎外に相当する。それは、欲求が要求のなかに分節化されれたとき起こる》(ラカン、E690、摘要)。

《諸々の欲求のうち疎外されたものは、要求という形でははっきり表現する〔=分節化する〕ことがおそらく〔仮説によると〕できないでしょうから、原抑圧 [Urverdrangung]として構成されます。しかし、「欲求において疎外されたもの」はそれでもなお支流 [rejeton] の 中に姿をあらわし、その支流はそれ自身、欲望 [das Begehren] として人間に現れるのです。》(ファルスの意味作用、エクリ、690)

明瞭化のために、我々はこの種の原抑圧を刻印 inscription と呼びうる。他方、厳密な意味での原抑圧は、無意識の遡及的形成に相当する。それは(意識的エゴの統合に随伴して)、エディプスコンプレックスの第三の段階の最後に、父性隠喩によって制定される。この意味での原抑圧は、トラウマ的原シニフィアン「母の欲望」の抑圧と、それと同時の根本幻想の形成化に相当する。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

※刻印については、初期フロイト概念「刻印 Niederschrift」(経験の記載)を参照のこと。
…………

このあたりが理解されていないのは、たとえば次の向井雅明氏の文が示している。

……注目すべき点は、私たちが通常の知覚を獲得したり、シニフィアンを使用して言語的表象行うことができたりするようになるには、ばらばらの印象から一つのまとまったイメージへの移行と、イメージからシニフィアン的構造化への移行という二つの翻訳過程、二つの契機を経なければならないという論理だ。一般的にラカン理論では二番目の移行に相当する原抑圧、もしくは父性隠喩の作用による世界のファルス化という唯一の過程のみで心的装置の成立をかんがえる傾向にあるが、たとえば精神病を父の名の排除という機制だけで捉えることは、精神病者においても言語による構造化はなされているという事実をはっきりと捉えられなくなってしまう。心的装置の成立過程に二つの大きな契機があるとかんがえると、主体的構造の把握がより合理的に行われるように思われる。向井雅明『自閉症と身体』2010、PDF)

2010年時点でさえ、《一般的にラカン理論では二番目の移行に相当する原抑圧、もしくは父性隠喩の作用による世界のファルス化という唯一の過程のみで心的装置の成立をかんがえる傾向にある》とあるわけで、ま、むかしの辞書のたぐいは真に受けないほうがいい、ということが多い。21世紀に入ってラカン概念の捉え方は原抑圧だけでなく大きく変わっている(参照:古典的ラカンドグマの転回)。

わたくしもエラそうなことをいうつもりはなく、ついこの2,3年でそれがようやくわかってきたので、こうやってメモしている。そもそも「わかってきた」といっても、限られた注釈者たちの論を読むなかでのーーわたくしの誤読の可能性をも含めたーー「わかってきた」であり、仮に誤読がないにしろ、そのうちまたラカン派注釈者の解釈が変わりうるのは当然予想される。

いずれにせよそのあたりのラカンコミュニティの人たちとはあまりお付き合いはするつもりはないので、ときに「補足」を忘れてしまう。

如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるものsignifiedがそのメンバー自身にとって謎の意味するものsignifierである。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアンを使う。この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく(たとえば、コーサ・ノストラ Cosa Nostra(われらのもの)にとっての異なった用語:私たちの国、私たち革命等々)、ラカン派のコミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン用語の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である。(ジジェク『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』私訳ーー第一次象徴的去勢/第二次象徴的去勢)

ーーでは左様ナラ!!

…………

※付記

そもそもフロイトは最初に「原抑圧」概念に近似した記述を提示したときに次のように記している。1926年の記述と併せて読めば、前期ラカンの原抑圧概念の捉え方自体がいささか問題があったという見方さえできる。

「抑圧」は三つの段階に分けられる。

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②「正式の抑圧(後期抑圧)」の段階は、ーーこの段階は、精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーー実際のところ既に抑圧の第二段階である。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、抑圧の失敗、侵入、「抑圧されたものの回帰Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてその点へのリビドー的展開の退行を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911、摘要)

…………

原抑圧 Urverdrängung とは?

・夢の臍 Nabel des Traums
・菌糸体 mycelium、
・真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perle
・欲動の根 Triebwurzel
・欲動の固着 Fixierungen der Triebe.
(リビドーの固着 Fixierung der Libido、Libidofixierung)
・我々の存在の核 Kern unseres Wesen

・サントーム sinthome
・一のようなものがある Y'a d'l'Un
・身体の出来事 un événement de corps
・享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance
・S(Ⱥ)
・Lⱥ femme 

・原症状 Ursymptom(還元不能の症状 Il n'y a aucune réduction radicale)
・原防衛 Urverteidigung
・原固着 Urfixierung
・原トラウマ Urtrauma

…………

以下はたぶんそう

・原リアルの名 le nom du premier réel
・原穴の名 le nom du premier trou

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)
ラカンによれば、《母の欲望 Désir de la Mère》を構成する「原-諸シニフィアン」は、イメージの領域における (子供の)欲求の代表象以外の何ものでもない。同じ理由で、これらの想像的諸シニフィ アン/諸記号は、刻印としての原抑圧を徴づける。(ロレンツォ・キエーザ2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )

さらに次のものもたぶん。

・要素現象 phénomènes élémentaires
・J(Ⱥ)

J(Ⱥ)は享楽にかかわる。だが大他者の享楽のことではない。というのは私は、大他者の大他者はない、つまり、大他者の場としての象徴界に相反するものは何もない、と言ったのだから。大他者の享楽はない。大他者の大他者はないのだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。

…que j'ai déjà ici noté de J(Ⱥ) .Il s'agit de la jouissance, de la jouissance, non pas de l'Autre, au titre de ceci que j'ai énoncé : - qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, - qu'au Symbolique - lieu de l'Autre comme tel - rien n'est opposé, - qu'il n'y a pas de jouissance de l'Autre en ceci qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, et que c'est ce que veut dire cet A barré [Ⱥ]. (Lacan,Séminaire XXIII Le sinthome Décembre 1975)

そしてラカンのサントームsinthome にほぼ相当するものとして、
フロイトの現勢神経症 Aktualneurose 。

……もっとも早期のものと思われる抑圧(原抑圧 :引用者)は 、すべての後期の抑圧と同様、エス内の個々の過程にたいする自我の不安が動機になっている。われわれはここでもまた、充分な根拠にもとづいて、エス内に起こる二つの場合を区別する。一つは自我にとって危険な状況をひき起こして、その制止のために自我が不安の信号をあげさせるようにさせる場合であり、他はエスの内に出産外傷 Geburtstrauma と同じ状況がおこって、この状況で自動的に不安反応の現われる場合である。第二の場合は根元的な当初の危険状況に該当し、第一の場合は第二の場合からのちにみちびかれた不安の条件であるが、これを指摘することによって、両方を近づけることができるだろう。また、実際に現れる病気についていえば、第二の場合は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現われ、第一の場合は精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。

(……)外傷性戦争神経症という名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』1926ーーフロイト引用集、あるいはラカンのサントーム

…………

・異物Fremdkörper

異物も原抑圧にかかわる。

トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

・異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger(ラカン、S23,11 Mai 1976)

・外密Extimité :私の最も内にある《親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(ラカン、S.7、03 Février 1960)

外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité
Fremdkörper(異物)は内部にあるが、この内部の異者である。現実界は、分節化された象徴界の内部(非全体pas-tout)に外立 ex-sistence する。(Paul Verhaeghe、2001,PDFーー基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による))
われわれがずっと以前から信じている比喩では、症状Symptomをある異物 Fremdkörper とみなして、この異物は、それが埋没した組織の中で、たえず刺激現象や反応現象を起こしつづけていると考えた。もっとも症状形成Symptombildungがなされると、好ましからぬ欲動の蠢きTriebregungにたいする防衛の闘いAbwehrkampf は終結してしまうこともある。われわれの見るかぎりでは、それはヒステリーの転換でいちばん可能なことだが、一般には異なった経過をとる。つまり、最初の抑圧作用についで、ながながと終りのない余波がつづき、欲動の蠢きTriebregungにたいする闘いは、症状にたいする闘いとなってつづくのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926年、旧訳、一部変更)


中井久夫の幼児型記憶も、理論的には原抑圧と近似する。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 P.53)

原抑圧とは、何かの内容を無意識のなかに抑圧することではない。そうではなく、無意識を構成する抑圧、無意識のまさに空間を創出すること、「システム意識 System Bewußt (Bw)・システム前意識System Vorbewußt (Vbw)」 と「システム無意識System Unbewußt (Ubw)」 とのあいだの間隙を作り出すことである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
……ここにはカントからヘーゲルへの移行の鍵となる帰結がある。すなわち、内容と形式とのあいだの裂け目は、内容自体のなかに投影される(反映し返される reflected back into)。それは内容が「全てではない not all 」ことの表示としてである。何かが内容から抑圧され/締め出されているのだ。形式自体を確立するこの締め出しが、「原抑圧」 (Ur‐Verdrängung)である。そして如何にすべての抑圧された内容を引き出しても、この原抑圧はしつこく存在し続ける。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

…………

で、ドゥルーズの純粋表象 présentations puresはどうだろう?

エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象にかかわる"正式の"抑圧の彼方に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされるvécues 仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』私訳)

あるいはドゥルーズの「純粋な差異 la pure différence」・「起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi 」は?

ラカンのY'a d'l'Un(一のようなものがある )やサントーム sinthome とは次の記述とともにまずは理解されるべきである。

この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S.9, 06 Décembre 1961)
純粋差異としての「一」は、要素概念と区別されるものである。L'1 en tant que différence pure est ce qui distingue la notion de l'élément.(S.19,1971-1972)

《サントーム le Sinthome……それは Yadlun と等価である》(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)