ラカン解釈者の文を掲げるときは、何度もくり返しているが、この解釈が必ずしも正しいわけではないことに注意。ただし2001年の解釈としてはとてもすぐれている、とわたくしは思う。
というのは、ラカン主流派の首領ジャック=アラン・ミレールは前回見たように、2011年になってようやくーー以前から曖昧な形では類似の解釈をしていたのかもしれないがーー、次のように言っているのだから。
「一」と「享楽」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。
Je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours、PDF)
この《固着》と《Yad'lun》ーーYad'lun をめぐってはラカン主流派の2010年前後の捉え方を前回いくらか掲げたーーをつなげる考え方は以下の文に既に現れている。
◆ポール・バーハウ、Verhaeghe, P. (2001). Beyond Gender. From Subject to Drive.より
【話す身体 le corps parlant/話す存在 l'être parlant】
…ラカンは現実界をさらにいっそう身体と関連づけてゆく。もっともこの身体は、前期ラカンのように大他者を通して構築された身体ではない。彼は結論づける、《現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient》(15 mai 1973 du séminaire Encore)と。
この知は、無意識によって我々に明らかになった謎である。反対に分析的言説が我々に教示するのは、知は分節化された何ものかであることだ。この分節化の手段によって、知は、性化された知に変形され、性関係の欠如の想像的代替物として機能する。
しかし無意識は、《話す存在 l'être parlant》 の知から逃れる知をとりわけ証拠づける。我々が掴みえないこの知は、経験の審級に属する。それは《ララング Lalangue》 によって情動化されている。ララング、すなわち《母の舌語 la langue dite maternelle》が、謎の情動として顕現する。分節化された知のなかで《話す存在 l'être parlant》が分節しうるものの彼方にある謎めいた情動として、である。
【Yad'lun の起源】
無意識は、母のララングからやって来るこの情動を扱う方法として捉えうる。ララングは《stoïkeïon(στοιχεῖον 原要素)》、知のアルファベットの原文字を含んでいる。この原要素こそが、主体の記号へのなかに移行させねばならぬものである。
分析は、分析主体(被分析者)の言っていることを超えて、これらの《文字 lettre》を読むことを目標にしなければならない。分析主体は分析を通して、これらの《文字》を読み・読むことを学びうると想定される。
この《文字》は、無性 (a)sexuée の痕跡とシニフィアンとのあいだの神秘的な架け橋を提供する。この記号は、身体と主体との統合を請け合う主人のシニフィアン S1 の作用を通してのみ発足されうる。
次の段階は「交換価値」を伴ってやって来る。それは、主体はシニフィアンによって分割され、欲望の弁証法に入る手法によってである。したがって無意識は、母のララングからもたらされる情動を、《「一」のシニフィアン l'Un-signifiant》 を適用することによって取り扱う方法である。それは身体からやって来るのではなく ne pas venir du corps、シニフィアン「一」からやって来る vient du signifiant l'Un 。《Yad'lun(「一」のようなものがある)》。残されたままの問い、《Yad'lun が意味するのは何か? それはどこからやって来るのか》? ラカンはこの問いをセミネールを通して何度も繰り返す。しかし答えはもたらされない。実際のところ彼はその仕事を通して、とくに『アンコール』の一つ前のセミネールXIXにて、Yad'lun の起源を追求している。
【フロイトの通道 Bahnungen】
フロイトとのつながりはひどく明白であり、いくつかの観点において理解の助けになる。フロイトは『科学的心理学草稿』(1895)にて《通道 Bahnungen》の考え方を詳述している。心的素材は、この《通道 Bahnungen》 によって刻印される。交換価値は後に現れる。『草稿』にてフロイトはこの理論を、疑似-神経学用語で言い表している。
同じ一連の論究が、無意識におけるフロイト理論のまさに最初から再現する。そこにおいて彼は、心的素材が異なったレイヤーにおいて刻印され、それぞれのレイヤーにたいして異なった刻印(《Niederschrift 経験の記載》)があるという仮説を立てている。
発達におけるどのいっそうの歩みも、先立つの素材を次のレイヤーの刻印形式に翻訳する必要がある。これ自体が、防衛の可能性を作り出す。危険な・不快な素材は、先立つレイヤーの刻印形式のなかに取り残されうる。刻印の新しい形式に翻訳されないなら、それは奇妙な仕方で、己れを強く主張する。
【二種類の無意識】
この理論は、《抑圧 Verdrängung》概念にて、いっそうの分節化を与えられる。重要なことは、フロイトは無意識の二つの異なった形式、知の二つの異なった形式を導入していることだ。
正式の抑圧ーー文字通りには《後期抑圧 Nachdrängung》--は、言葉の素材、不快の担い手となる《言語表象 Wortvorstellung》をターゲットにしている。抑圧過程は、これらの言語表象から逃れようと旺盛な《備給 Besetzung》(カセクシス cathexis)をする。したがって、言葉の力動的意味において、それらを無意識にする。
この《備給 Besetzung》は、別の言語表象に移し変えられる。そこにおいて抑圧されたものの回帰が起こる。《後期抑圧 Nachdrängung》は、《抑圧された無意識 verdrängtes Unbewußt》、あるいは《力動的無意識 dynamischen Unbewußt》を形成する。
ここにラカンの考え方、《無意識は言語のように構造化されている L’inconscient est structuré comme un langage》を認めるのはそれほど難しくはないだろう。事実、抑圧された無意識は、大他者からやって来るシニフィアンを伴っている。それは、欲望(《人間の欲望は大他者の欲望 Le désir de l'homme est le désir de l'Autre》)を基盤とした交換(《無意識は大他者の言説 L'inconscient est le discours de l'Autre》)、その交換のあいだにやって来るシニフィアンである。
これは素材の交換価値である。シニフィアンとして、大他者から来る知を含んでいる。この知は、《抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten》によって、十全に知られうる。主体は、これらの事柄において「全て」を知っている。しかし、知っていることを知らない。この知は性的・ファルス的知にかかわり、フロイトは、解釈はつねに同じ事に終わると不平を漏らした。
【原抑圧・システム無意識/抑圧・力動的無意識】
この知は、フロイトの思考においても同様に限界に到る。《後期抑圧 Nachdrängung》の彼方には、無意識の別の形式に属する《原抑圧 Urverdrängung》が潜んでいる。したがって、知の別の形式も同様にある。原抑圧は過程として、まず何よりも《原固着 Urfixierung》である。すなわち或る素材がその原初の刻印のなかに取り残される。
それは決して《言語表象 Wortvorstellung》に翻訳されえない。この素材は《興奮の過剰強度 übergroße Stärke der Erregung》に関わる。すなわち、欲動、Trieb または Triebhaft である。ラカンは《欲動、それは享楽の漂流 Trieb, la dérive de la jouissance》と解釈した。
フロイトはこれに基づいて、《システム無意識 System Unbewußt (Ubw)》概念を開発した。このシステムは、《後期抑圧Nachdrängung》の素材、力動的・抑圧された無意識のなかの素材に対して誘引力を行使する。
【分節化された知 a / − φ 内部の非全体に外立する (a) 】
ラカン的観点からは、これは次のように記しうる。すなわち、性化・ファルス化されて分節化を受けた素材は、この分節化された部分内の《非全体 pas-tout》の領域-- a / − φ 内部の (a) --によって誘引される、と。
《力動的・抑圧された無意識 dynamischen Unbewußt・verdrängtes Unbewußt》とは反対に、この《システム無意識 System Bewußt》には言語表象はない。
【固着 fixierung・身体側からの反応 somatische Entgegenkommen】
そのとき核心となる問いはこうだ。すなわち、固着されるのは欲動なのか、あるいはこの固着が欲動の表象の原形式なのか? さらなる問いは、刻印の形式などそもそもあるのか? フロイトはそれを《我々の存在の核 Kern unseres Wesens》・《菌糸体 mycelium》と呼んだが、また躊躇ってもいる。
実際のところ、問いが立てられなければならない。潜在夢思考は一体どこかに「現前」しているのか? 一体どこかに刻印されているのか? あるいは、あのような夢形成は元来欠如している心的エラボレーションに取って代わるようなものであるなら、元々非存在しないものとして考えられるべきではないのか?
この場合夢分析は、隠蔽された刻印の発見にはつながらない。逆に、シニフィアン内部でのエラボレーション過程--元々そこにはない何かを生む過程--ということになる。
ここで注意しておかねばならない。フロイトは同じ種類の議論を、トラウマを語ったときに提示していることを。トラウマの外傷的影響は、トラウマが生じたときに言葉で言い表せないという事実によって引き起こされる。シニフィアン内でのエラボレーションが欠けているのだ。
これは、セミネールXI におけるラカンの考え方と完璧に一致する。ラカンはその講義で、無意識を実体的な核としてではなく、 何ものかが実現されることに失敗する《偶然的裂目 cause béante》として叙述している。
フロイトにおいて、《システム無意識 System Unbewußt》における欲動刻印の特性についての最終的議論はない。彼にとってそれは、一般的には「固着」、個別的には「身体」という考え方を包含している。したがって我々は、《固着 fixierung》 と似たような表現、構成・欲動の根・《身体側からの反応 somatische Entgegenkommen》を見出す。これらの表現は、フロイトの症例研究すべてに現れる。そして常に幼児の快形態につなげられている。
【ラカンの格闘】
1964年以降、ラカンはこの問いを取り上げ格闘した。Bonneval 会議とRicoeurとの議論を手始めに、彼の弟子である Laplanche と Leclaire との議論。ラプランシュとルクレールは、無意識の核には表象的システムがあるという仮説を提議した。ルクレールにとっては音素、ラプランシュにとってはイマーゴ imago(シニフィアンなしの感覚映像)である。
ラカンは最終的にどちらの答も拒絶し、彼自身の解決法、対象a と文字 lettre の理論を提示する。ラカンはセミネールXXII(R.S.I.)でも、《システム無意識 System Unbewußt》における欲動の表象代理として、再び《文字 lettre》の考え方を取り上げる。この文字は、個別な形で我々に現れる。その形式において、欲動は個別の主体にとって固着されるが、「一」のファルス的シニフィアンのような明確な仕方ではシニフィエされえない。
文字として、それは知を含んでいる。しかしこの知は、大他者の《非全体 pas-tout 》の部分を形成している。したがって、この大他者はその知について無知である。この知を覚えているのは、「身体の大他者」である。そして、享楽経済内部でその度毎に、同じ道を追跡する(フロイトの《通道 Bahnungen》)。しかし享楽の経済は、謎のままである(S22, p. 105)。
この概念化は、分析の終りをいかに捉えるかにとって重要である。一方で、システム無意識の核が表象代理的性質ならば、それは言語化され、治療のあいだに解釈される。他方、もしそうでないなら、治療の最終目標は見直されなければならない。というのは《充溢したパロール parole pleine》は構造的に不可能となるから。ラカンは彼の最後の理論で、後者の選択肢を選んだ。そして、分析の最終の目的として、症状の現実界との同一化を奨励する。
【他の享楽 l'autre jouissance とファルス享楽 la jouissance phallique】
大他者のなかの非全体 pas- tout の部分として外立 ex-sistence する《他の享楽 l'autre jouissance》が意味するのは、享楽の経験・身体の上に刻印を引き起こす経験を通して、身体によって獲得されるということである。この知は、シニフィアンの大他者の、分節化されたファルス的知の非全体の部分にかかわる。知として、それは言語の大他者に属していない。かつまた想定された底に横たわる存在にも属していない。それはエクリチュールを通してのみ把握されうる。もっとも我々は、それを形式化しようとするどんな試みも袋小路に遭遇することを認めなければならない。
これに関連して、無意識の二つの形式、知の二つの形式がある。《システム無意識 System Unbewußt》は、言語化されえない裂け目であり、欲動と享楽を含んでいる。したがって原因-根拠として作用する。この 《システム無意識 System Unbewußt》は、《抑圧された無意識 verdrängtes Unbewußt》--そこには、主体によって知られうる分節化された知があるーー、この内部に外立する。この知は、交換価値、したがって大他者の言説と大他者の欲望に関係がある。この分裂(分割)は、《他の享楽 l'autre jouissance》と《ファルス享楽 la jouissance phallique》とのあいだ、「他の知」と「分節化された知」のあいだに描かれる。…(ポール・バーハウ、Verhaeghe, P. (2001). Beyond Gender. From Subject to Drive.)