2017年2月12日日曜日

原抑圧の悪夢

前投稿「現勢神経症・刺激保護・死の本能(中井久夫とフロイト)」補遺。

…………

抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのであり、反復するから忘却する Je ne répète pas parce que je refoule. Je refoule parce que je répète, j'oublie parce que je répète. 。(……)

エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象にかかわる"正式の"抑圧の彼方に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋表象 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』私訳)

「原抑圧とは、純粋表象 présentations pures」とあるが、これは同書の後半で「純粋な差異 la pure différence」、あるいは「起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi 」とされるものと等価であろう。

この純粋差異はすくなくともある時期のラカンにとって「一の徴」のことである。

…この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S.9,1961-1962)
「一の徴 trait unaire」は反復の徴 marqueである。 Le trait unaire est ce dont se marque la répétition. (ラカン、S.19,1971-1972)
純粋差異としての「一」は、要素概念と区別されるものである。L'1 en tant que différence pure est ce qui distingue la notion de l'élément.(S.19,1971-1972)

 『差異と反復』上梓1968年の翌年のラカンのセミネールからならば次の通り(ラカンは『差異と反復』を絶賛している)。

・ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S.17)

・享楽はまさに厳密に、シニフィアンの世界への入場の一次的形式と相関的である。私が徴 marqueと呼ぶもの・「一の徴 trait unaire」の形式と。もしお好きなら、それは死を徴付ける marqué pour la mort ものとしてもよい。その徴は、裂目・享楽と身体とのあいだの分離から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印の戯れ jeu d'inscription、この瞬間から問いが立ち上がる。(S17)

・「一の徴」の機能 la fonction du trait unaire、それは徴の最も単純な形式 la forme la plus simple de marque であり、シニフィアンの起源 l'origine du signifiantである。(S17)

・反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる.(S.17)

・「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17)

ラカンには他に「Y'a d'l'Un(一のようなものがある)」という概念がある。「一の徴」よりもさらに先行した「一」であるとされるが、実際のところはラカン注釈者たちのあいだでもあまり明瞭でない(参照:「一の徴」日記⑤).。

「Y'a d'l'Un」、あるいは「一の徴」が原抑圧にかかわるのは確かである。

フロイトをすこしでも熱心に追えば、「原抑圧」が核心であるのは誰もが知っている。だがフロイト自身が最後までこの概念についてはっきりしていなかったのが厄介のもとのひとつであり、現在までも真に明瞭にこの概念を語っている注釈者はすくない。

フロイトは、抑圧は禁圧に由来するとは言っていません Freud n'a pas dit que le refoulement provienne de la répression。つまり(イメージで言うと)、去勢はおちんちんをいじくっている子供に今度やったら本当にそれをちょん切ってしまうよと脅かすパパからくるものではないのです。

とはいえ、そこから経験へと出発するという考えがフロイトに浮かんだのはまったく自然なことです-この経験とは、分析的ディスクールのなかで定義されるものをいいます。結局、フロイトは分析的ディスクールのなかで進んでいくにつれて、原抑圧が最初だ le refoulement originaire était premier いう考えに傾いていったのです。総体的に言うと、それが第二の局所論の大きな変化です。フロイトが超自我の性格だと言う大食漢 La gourmandise dont il dénote le surmoi は構造的なものであって、文明の結果ではありません。それは「文化の中の居心地の悪さ(症状)« malaise (symptôme) dans la civilisation »」なのです。

ですから抑圧が禁圧を生みだすのだということから試練に立ち戻ることが必要なのです。De sorte qu'il y a lieu de revenir sur l'épreuve, à partir de ce que ce soit le refoulement qui produise la répression. どうして、家族や社会そのものが、抑圧から構築されるべき創造物ではないということがあるでしょうか。まさにそのとおりなのですが、それは無意識が構造、つまり言語によって外-在し、動機づけられることによって可能なのでしょう。(ラカン、テレビジョン、向井雅明試訳、1973、一部変更)

フロイトにとって、原抑圧の正当的概念化は、メタ心理学的悪夢だった。…

表象が抑圧されるのは、唯一、二つの力が作用するときのみである。すなわち、斥力と引力。難題は後者にある。それはどこから来るのか。ある種の無意識的核・知られていない過程に起源がある「臍」があり、そこからこの引力が発するに違いない。

フロイトは、この無意識的核を生じさせるのは原抑圧の作用であると想定した。しかし「原動因」としてのこの原抑圧は、とても特別なメカニズムを必要とする。なぜなら最初にはどんな引力的核もないから。事実、これが存在するようになるのは原抑圧自体の効果としてでしかあり得ない。したがって唯一可能なメカニズムは、逆備給(カウンター・カセクシス Gegenbesetzung)である。

もし我々が前段で展開した議論に従えば、今の内容を次のように表現しうる。すなわち、「原抑圧は、象徴界にある欠如・現実界が顕現する欠如の境界の上に表象を設立する」と。これが意味するのは、原抑圧は、抑圧というより「固着 fixierung」、事実上「原固着Urfixierung」だということである。つまり現実界の何ものかが、以前の水準に置き残される一方で、最初の展開は「カウンター表象 Gegenvorstellung」として機能する。あたかも穴の周りを循環する洗濯機のように。

驚くことはない、フロイトはこの限定されたメカニズムにあまり満足していなかったことは。1926年に彼は次のように書いている。(ポール・バーハウ1999, DOES THE WOMAN EXIST? PAUL VERHAEGHE, ,PDF

こうしてバーハウはフロイトの『制止、症状、不安』から引用しているのだが、それよりもやや長く引用する(この箇所は前回も引用した)。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえるのである。こういう抑圧の背景や前提については、ほとんど知られていない。また、抑圧のさいの超自我の役割を、高く評価しすぎるという危険におちいりやすい。この場合、超自我の登場が原抑圧と後期抑圧との区別をつくりだすものかどうかということについても、いまのところ、判断が下せない。いずれにしても、最初のーー最も強力なーー不安の襲来は、超自我の分化の行われる以前に起こる。原抑圧の手近な誘引として、もっともあり得ると思われることは、興奮が強すぎて刺激保護が破綻するというような量的な契機である。(フロイト『制止、症状、不安』1926年 旧訳 P.325、一部変更)

バーハウは上のフロイト文を引用したあと、次のように記している、《原抑圧概念のさらなる展開は、フロイトによれば火急の問題であるにもかかわらず、1926年以後最後まで見られない》。

※バーハウ文にあるカセクシスというのはフロイトのBesetzungの英訳語だが、フロイト自身は嫌ったそうだ。もっと日常的な語だと。邦訳では備給、充当などである。

ここで中期フロイトの論文からカセクシスにかかわる記述を掲げておく。

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心理的(表象的)な代理 (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixierung が行われる。というのは、その代表はそれ以後不変のまま存続し、これに欲動が結びつくのである。(フロイト『抑圧』1915)
逆備給Gegenbesetzungこそ原抑圧に唯一の機制である。本来の抑圧(後期抑圧)eigentlichen Verdrängung (dem Nachdrängen)では、「前意識」の備給の剥奪がつけ加わる。表象から剥奪されたその備給 Besetzung が、逆備給にふりあてられることは、大いにありうることである。(フロイト『抑圧』1915)
「 備給(カセクシス)Besetzung」を「リビドーLibido」で置き換えてもよい(同『抑圧』)

もっともリビドーとカセクシスの区別をしたいフロイト派の論者たちもたくさん存在する。

ほかにも拘束されたboud エネルギー/自由な(拘束されない unbound)エネルギーを、カセクシス/逆カセクシスに関連させ、そして順不同でいえば、エロス/タナトスとのかかわりを考慮するという具合になるのだが、これにはあまり触れたくない。ようするにあまり熱心に議論を追ったことがない。わたくしの知るかぎりでのラカン派も詳細に触れている人は少ない。

だがジジェクがしばしば敬意をもって依拠する RICHARD BOOTHBY は次のように記している。

Our efforts must center first upon the notion of psychical energy itself, along with its companion concepts of Besetzung, or cathexis, and of binding and unbinding. We must then retrace the meaning of Freud's mature theory of the dual drives. (Freud as Philosopher 、METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN by RICHARD BOOTHBY)

ここでもフロイト自身から引用しておこう。

……このような想定と、ブロイアーが、心理的体系の諸要素について、静止せる(拘束された) 備給エネルギー Besetzungsenerと自由に活動しうる備給エネルギーとを区別した見解とをむすびつけて考えることができる。Bwシステムの諸要素は、そのとき拘束されたエネルギーをもたず、ただ自由に放出できるエネルギーしかそなえていないだろう。(フロイト『快原理の彼岸』)

Man kann mit dieser Vorstellung die Breuersche Unterscheidung vonruhender (gebundener) und frei beweglicher Besetzungsenergie in den Elementen der psychischen Systeme zusammenbringen; die Elemente des Systems Bw würden dann keine gebundene und nur frei abfuhrfähige Energie führen.(フロイト引用集、あるいはラカンのサントーム)

かねてからフロイトとラカンを熱心に結び付けようとしているポール・バーハウの議論では、boud/unboud(拘束された/拘束されない)エネルギーは次のようになる(一度どこかで訳したが、いまは英文のまま貼り付ける)。

………All these attempts (from the false connection to the repetition compulsion) are effects of the Eros drive, with its proclivity to synthesis, to the One, and to fusion. For Freud, Eros aims at the reduction of tension by means of the secondary process, i.e., the "abreaction" of bound energy, which is made possible by an association with word-presentations.

Over and against this he finds yet another primary drive, which is much harder to get hold of and to define because it operates literally "in silence", outside the dimension of word-presentations.

It operates as a resistance, the same resistance Freud discovered at the heart of the system Ucs. itself, setting itself against consciousness, i.e., against any association with word-presentations. The repetition compulsion collides with this same inertia, hence its repetitive effect.

This other drive, Thanatos, operates in the same way as the primary process: it is unbound, and causes ever-increasing levels of tension that cannot be "abreacted" for lack of an association with word-presentations. This Thanatos induces a scattering of Eros, it disassembles everything that Eros brought together into One and makes this unity explode into an infinite universe.

In Lacanian terms, what we have here is the One of phallic fusion versus the infinity of the beyond. And this Thanatos drive implies a pleasure as well, although it is an incomprehensible jouissance, experienced traumatically by the subject who cannot handle it in its usual symbolic way.(ポール・バーハウ2001、Beyond Gender,PDF)

…………

現在ラカン派では、ラカンのサントームーー人間の原症状といえるーーは、原抑圧にかかわると解釈されている。

サントームとはまずは次のように定義される(何種類かあるサントームの用語遣いのうちの最も基本的な定義ではある)。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

かつまたここでのサントームは、フロイトの「欲動の固着』(リビドーの固着 Fixierung der Libido)(正確に言えば原固着 Urfixierung)と等価であるとされる[参照]。

「一」と「享楽」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours、PDF)

そして21世紀は原抑圧の時代である。

なぜなら世界的に(先進諸国という意味でだが)、20世紀における三度の「父の死」を経て(参照:三つの「父の死」)、21世紀はエディプスの父(ファルス)の衰退期であり、そのためエディプスによる抑圧の時代からより原初的な原抑圧の時代への移行という考え方である。これはミレール曰くの20世紀の神経症の時代から、21世紀の「ふつうの精神病」の時代へ、という命題と等価である。

…これは我々に「原 Ur」の時代、フロイトの「原抑圧 Urverdrängung」の時代をもたらす。Anne Lysy は、ミレールがなした原初の「身体の出来事」とフロイトが「固着」と呼ぶものとの連携を繰り返し強調している。フロイトにとって固着は抑圧の根である。それはトラウマの記銘ーー心理装置における過剰なエネルギーの(刻印の)瞬間--である。この原トラウマは、どんな内容も欠けた純粋に経済的瞬間なのである。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom"Tel Aviv, 27 January, 2012ーーフロイト引用集、あるいはラカンのサントーム

※より詳細には、「フロイト引用集、あるいはラカンのサントーム」を参照のこと。

…………

ミレールの「ふつうの精神病」ではなく、フロイトの「現勢神経症」概念を前面に出し、「現勢病理」を現在の症状の中心的概念とするのが、ポール・バーハウである。

この10年のあいだに、ラカンの精神病概念理論化をめぐる二つの重要な発展があった。ポール・バーハウの「現実神経症」とジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病」である。(Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis Jonathan D. Redmond、2013(PDF))

ーーいくらかの詳細は、「「現勢神経症」スペクトラム」を見よ。

フロイトの論拠では、「精神病理」的発達は、どの発達の出発点としての「現勢病理」の核の上への標準的継ぎ足しである。これらの二つは、単一の連続体の二つの両極端として考えられなければならない。どの「精神病理」も「現勢病理」の核を含んでおり、どの「現勢病理」も潜在的に「精神病理」へと進展する。(Lecture in Dublin, 2008 (EISTEACH) A combination that has to fail: new patients, old therapists Paul Verhaeghe(PDF)

…………

※追記

日本において「一の徴」は欧米と同じようには機能していない、というラカンの議論は、柄谷行人や大澤真幸などの議論によって、比較的よく知られているだろう(参照:音声言語の裏に常に張りついている漢字表象)。

その核心部分を「Lituraterre リチュラテール」(1971)から抜き出しておく。

私はすでに指摘したある事実から生ずることについて述べたい。エクリチュールが作用するものとしての、日本語 というラングの事実である。 それは、日本語の中にエクリチュールの効果が含まれているということであり、重要なのは日本語がエクリチュー ルに繋がれたままになっていること、 そしてエクリチュールの効果を担っているものが、 日本語では二つの異なった発音で読めるということにおいて、 特殊なエクリチュールだということである。 つまり音読みという、 漢字が漢字としてそれ自体で発音される読み方、そして訓読みという、漢字が意味することを日本語で言う方法である。

漢字が文字であるという理由で、シニフィエの河を流れるシニフィアンの残骸がそこに示されているとみなすのは滑稽であろう。 隠喩の法則によってシニフィアンの支えとなるのは文字それ自体である。 シニフィアンが文字を見せかけ の網目のなかに捕らえるのは別のところ、ディスクールからである。 とはいえ、そこから、文字はあらゆるものと同じように本質的な指示対象として格上げされ、そしてそのことは主体の地位を変化させる。

主体がおのれの基本的同一化として、 単一の徴 le trait unaire (一の徴)にだけではなく、 星座でおおわれた天空にも支えられることは、主体が「おまえ le Tu」によってしか支えられないことを説明する*XXXII。「おまえ le Tu」によってというのは、 つまり、 あるゆる言表が自らのシニフィエの裡に含む礼儀作法の関係によって変化するようなすべての文法的形態のもとでのみ、主体は支持されるということである。

日本語では真理は、私がそこに示すフィクションの構造を、このフィクションが礼儀作法の法のもとに置かれてい ることから、強化している。 奇妙なことに、このことは抑圧されたものとして防衛すべきものは何もないという結果をもたらすようにみえる。 というのも、抑圧されたもの自体が文字への参照によっておのれの宿る場所を見いだすからである。 言いかえると、日本でも主体は他のすべての地域においてと同様に言語によって分割されているが、主体の次元の 一方はエクリチュールへの参照によって満足することができ、他方ではパロールによって満足することができるのだ。

それがおそらくロラン・バルトに、すべての行動様式において日本人的主体は何も包み隠すものをもたないという、 あの陶酔した感覚を与えたものである。 彼は自分のエッセーを 『表徴の帝国』 と題しているが、 それは 『見せかけの帝国』 を意味する。(ラカン「Lituraterre リチュラテール」1971、向井雅明試訳)

※参照: 「見せかけの国 l'empire des semblants」と「ファルスの国 l'empire du phallus」

そもそもラカンあるいはフロイトの議論を日本にそのまま適用させるのは、間違っている可能性を常に疑わなければならない。

記銘における兆候性あるいはパラタクシス性は、言語化によって整序されているとはいえ、その底に存在し続けている。それは日本語の会話において音声言語の裏に常に漢字表象が張りついているという高島俊男の指摘に相似的である。想起においても兆候性あるいはパラタクシス性は、影が形に添うごとく付きまとって離れない。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』p.73)

そのとき核心となりうるひとつの概念は「倒錯」である(参照:「倒錯天国日本」の本当の意味、さらには「日本語による「構造的倒錯」」)。

ポール・バーハウの2001年時点の仮説は次の通り(参照:倒錯の三つの特徴

もし我々が倒錯構造をもった患者を見出したいなら、いわゆる心的外傷後ストレス障害、とくにその慢性的形式のDSMのカテゴリーのなかに探し求めるなければならない。

彼はその後、倒錯よりも現勢神経症をめぐる論文・レクチャーが多くなる。

人が、現勢神経症についてのフロイトの叙述と DSM–IV における PTSD (心的外傷後ストレス障害)の叙述を比較するとき、すぐさま数多くの類似性が現れる。まず、現勢神経症と PTSD の両方とって、中心的な臨床現象は不安である。この理由で、DSM–IVにおいて、PTSD は不安障害の見出しのもとに分類されている。この不安の特性はまったく典型的なものだ。すなわち、この不安の精神的加工がない。PTSD の DSM–IV 評価基準に叙述されている恐怖・無力・戦慄は、フロイトにおける不安神経症とパニックアタックの不安とそっくりである。(ヴェルハーゲ他、2005、ACTUAL NEUROSIS AND PTSD(Paul Verhaeghe and Stijn Vanheule,PDF

もちろん、上の二つのバーハウの叙述からは、「倒錯」と「心的外傷後障害」は、「現勢神経症」を基盤とした心因的構造をもっているという見解になる。

そして現勢神経症の最も基本的な症状とは何か。

「現勢神経症」の主な特徴とは、表象を通しての欲動興奮を処理することの失敗である。(Paul Verhaeghe,Lecture in Dublin, 2008,A combination that has to fail: new patients, old therapists,PDF

フロイトが次のように記しているのは前回見た。

……もっとも早期のものと思われる抑圧(原抑圧:引用者)は 、すべての後期の抑圧と同様、エス内の個々の過程にたいする自我の不安が動機になっている。われわれはここでもまた、充分な根拠にもとづいて、エス内に起こる二つの場合を区別する。一つは自我にとって危険な状況をひき起こして、その制止のために自我が不安の信号をあげさせるようにさせる場合であり、他はエスの内に出産外傷 Geburtstrauma と同じ状況がおこって、この状況で自動的に不安反応の現われる場合である。第二の場合は根元的な当初の危険状況に該当し、第一の場合は第二の場合からのちにみちびかれた不安の条件であるが、これを指摘することによって、両方を近づけることができるだろう。また、実際に現れる病気についていえば、第二の場合は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現われ、第一の場合は精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。

(……)外傷性戦争神経症という名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』1926,旧訳P.356、一部訳語変更「現実神経症→現勢神経症」等)