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2016年11月14日月曜日

日本語による「構造的倒錯」

「倒錯天国日本」の本当の意味」において曖昧に記した、なぜ日本が「構造的倒錯」の国であるのかの問いは、じつは別の観点からの示唆がすでにふんだんにある。

以下は日本語の特性についての諸家の見解の列挙だが、われわれはまずなりよりもまず、ニーチェやロラン・バルトらのいう通り、「人間の思考はその人間の母語によって決定される」ことを(あらためて)心得ておくことだろう。

…………

【日本語の敬語性・二者関係性】
いまさらながら、日本語の文章が相手の受け取り方を絶えず気にしていることに気づく。日本語の対話性と、それは相照らしあう。むろん、聴き手、読み手もそうであることを求めるから、日本語がそうなっていったのである。これは文を越えて、一般に発想から行動に至るまでの特徴である。文化だといってもよいだろう。(中井久夫「日本語の対話性」2002初出 『時のしずく』所収)
日本語は、つねに語尾において、話し手と聞き手の「関係」を指示せずにおかないからであり、またそれによって「主語」がなくても誰のことをさすかを理解することができる。それはたんなる語としての敬語の問題ではない。時枝誠記が言うように、日本語は本質的に「敬語的」なのである。(柄谷行人「内面の発見」『日本近代文学の起源』1980)
日本語を見ておりますと、日本語で何か言うわけです。「私は生徒です」とか「これは本です」とか言っているわけですが、よく考えて見ますと、「です」というのはいったい何だろうか。「です」というのは話しことばですから「私」しかそれを言わない。あなたがそれを言う時にそれを私から見る場合に「です」と言うのはぜんぜん意味をなさないわけでしょう。「これは時計です」というのは、私が時計ですということを言うわけです。と同時に「です」の中に「あなた」が入っている。もし、目の前に非常に偉い、白いひげの生えたおじいさんが来たら、「これは時計でございます」と無意識に言ってしまう。それから前に弟とか息子が出てくると、「これは時計だ」と言うわけでしょう。すると「です」とか「でございます」とか「だ」とことになっている。(……)これは一人称的な性格を持っていると同時に、二人称の如何がそれに影響しているわけです。ですから、「だ」とか「です」とか「ございます」とかいう、いわゆる敬語というものは(……)実は私、日本語全体がこういう意味で敬語だと思うのです。(……)

だから何か日本語でひとこと言った場合に、必ずその中には自分と相手とが同時に意識されている。と同時に自分も相手によって同じように意識されている。だから「私」と言った場合に、あくまで特定の「私」が話しかけている相手にとっての相手の「あなた」になっている。(……)私も実はあなたのあなたになって、ふたりとも「あなた」になってしまうわけです。これを私は日本語の二人称的性格と言います。ですから、私は日本語には根本的には一人称も三人称もないと思うんです」。(森有正「経験と思想」1974)

【音声言語の裏に張り付いている漢字表象】
記銘における兆候性あるいはパラタクシス性は、言語化によって整序されているとはいえ、その底に存在し続けている。それは日本語の会話において音声言語の裏に常に漢字表象が張りついているという高島俊男の指摘に相似的である。想起においても兆候性あるいはパラタクシス性は、影が形に添うごとく付きまとって離れない。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』p.73)

…………

ここでラカンを引用することにする。上に掲げた日本語の二つの特性がラカンによっても指摘されている。この論は、ロラン・バルトの『記号の国』に刺激されて、ラカンが日本旅行をした直後に書かれたものである(オートル・エクリ冒頭にのせられた最も重要な論のひとつであるーー「リチュラテール」向井雅明訳 Lituraterre, 1971, in Autres Écrits, Ēditions du Seuil, 2001.)


【主体が「おまえ le Tu」によってしか支えられない日本語】
私はすでに指摘したある事実から生ずることについて述べたい。エクリチュールが作用するものとしての、日本語 というラングの事実である。 それは、日本語の中にエクリチュールの効果が含まれているということであり、重要なのは日本語がエクリチュー ルに繋がれたままになっていること、 そしてエクリチュールの効果を担っているものが、 日本語では二つの異なった発音で読めるということにおいて、 特殊なエクリチュールだということである。 つまり音読みという、 漢字が漢字としてそれ自体で発音される読み方、そして訓読みという、漢字が意味することを日本語で言う方法である。

漢字が文字であるという理由で、シニフィエの河を流れるシニフィアンの残骸がそこに示されているとみなすのは滑稽であろう。 隠喩の法則によってシニフィアンの支えとなるのは文字それ自体である。 シニフィアンが文字を見せかけの網目のなかに捕らえるのは別のところ、ディスクールからである。 とはいえ、そこから、文字はあらゆるものと同じように本質的な指示対象として格上げされ、そしてそのことは主体の地位を変化させる。
主体がおのれの基本的同一化として、 単一の徴 le trait unaire にだけではなく、 星座でおおわれた天空にも支えられることは、主体が「おまえ le Tu」によってしか支えられないことを説明する*XXXII。「おまえ le Tu」によってというのは、 つまり、 あるゆる言表が自らのシニフィエの裡に含む礼儀作法の関係によって変化するようなすべての文法的形態のもとでのみ、主体は支持されるということである。
日本語では真理は、私がそこに示すフィクションの構造を、このフィクションが礼儀作法の法のもとに置かれていることから、強化している。 奇妙なことに、このことは抑圧されたものとして防衛すべきものは何もないという結果をもたらすようにみえる。 というのも、抑圧されたもの自体が文字への参照によっておのれの宿る場所を見いだすからである。 言いかえると、日本でも主体は他のすべての地域においてと同様に言語によって分割されているが、主体の次元の 一方はエクリチュールへの参照によって満足することができ、他方ではパロールによって満足することができるのだ。
それがおそらくロラン・バルトに、すべての行動様式において日本人的主体は何も包み隠すものをもたないという、 あの陶酔した感覚を与えたものである。 彼は自分のエッセーを 『表徴の帝国L'Empire des signes』 と題しているが、 それは 『見せかけの帝国 empire des semblants』 を意味する。

聞くところによると、 日本人はそれを良く思っていないようだ。 というのも、見せかけほどエクリチュー ルによって穿たれた空虚とはかけ離れたものはないからである。 エクリチュールによる空虚は、 つねに享楽を受け入れる用意がある、もしくはその人為的所為によって享楽を喚びおこす用意がある受け皿である。 われわれの習慣からすれば、最終的に何も隠さないこのような主体ほど、おのれについて何も伝達するものを持た ないものはない。 この主体にとってはあなたがたを操ることしかないのだ。 つまり、 あなたがたは儀式の要素のひとつで あって、 その儀式では、 主体はおのれを分解しうることによっておのれを組み立てるのだ。

*XXXII訳注:アイデンティティーの支えとなるものがあまりに多くて、結局、敬語体系による相手との関係で自分の地位を確立するということ。

向井雅明氏が訳註しているように、ここでの最も核心的な文節は、次の箇所である。

主体がおのれの基本的同一化として、 単一の徴 le trait unaire にだけではなく、 星座でおおわれた天空にも支えられることは、主体が「おまえ le Tu」によってしか支えられないことを説明する*XXXII。「おまえ le Tu」によってというのは、 つまり、 あるゆる言表が自らのシニフィエの裡に含む礼儀作法の関係によって変化するようなすべての文法的形態のもとでのみ、主体は支持されるということである。

Qu'il s'appuie sur un ciel constellé, et non seulement sur le trait unaire, pour son identification fondamentale, explique qu'il ne puisse prendre appui que sur le Tu, c'est-à-dire sous toutes les formes grammaticales dont le moindre énoncé se varie des relations de politesse qu'il implique dans son signifié.

le trait unaire という表現が出てきている。

フロイトが「一の徴 der einzige Zug」と呼んだもの(ラカンの Ie trait unaire)、この「一の徴」をめぐって、後にラカンは彼の全理論を展開した。(『ジジェク自身によるジジェク』2004、私訳)

実際、ラカンの主人のシニフィアン S1、対象a、サントームΣ、「文字」、初期ラカンの「要素現象phénomènes élémentaires」概念でさえすべてこの「一の徴」にかかわる(参照)。

もしラカンの言うように日本語使いがこの「一の徴」が曖昧化されるのならば、去勢の否認、倒錯的もしくは精神病的な気質の人々が多いということになる(後述)。

ところで次のような見解がある(ここでは短く引用するので前後関係を読まないと分かりづらいかもしれないが、その場合、原文ーー簡潔明瞭な英文で書かれているーーを参照)。

倒錯構造の患者の「自由連想」と治療者の「自由に漂う」注意力は、次の状況を起こしがちである。すなわち倒錯者が(神経症的)治療者を取り扱う(治療する treat)という状況である。何の不思議なことでもない、頻繁に倒錯者を扱う分析家は集団療法を提案しているのは。それは転移的関係性を制御できるようにである。(Paul Verhaeghe, PERVERSION II: THE PERVERSE STRUCTURE PDF p.92)

もし日本に倒錯的構造の人々が多いなら、そしてラカンやラカン派臨床家でもあるヴェルハーゲの見解を信用するなら、斎藤環のやろうとしていることは限りなく的を射ている。

先日、オープンダイアローグという急性期の精神病の人を対象としたグループについての講演を聴きました。精神科医の斎藤環先生が、「個人精神療法なんてものは、100年前にフロイトが始めた奇妙な風習が残っているだけなのかもしれない。グループで関わることで、転移(治療者とクライエントさんの関係が難しくなるようなことです)も起きにくいし、効率がいい」なんてことをおっしゃっていました。(グループカウンセリングの方法と利点

世界的にも象徴的権威の斜陽、あるいは「父の名」の崩壊の影響により、「寝椅子の時代の終わり」と言いうる議論がある(参照)。ようは20世紀の神経症の時代から、21世紀の精神病の時代・倒錯の時代への移行である。

…………

さてもう少しーーいささかくどくなることをおそれずにーー日本の論者たちの見解を並べておこう。かつてはしばしばこうやって語られた。


【「汝と汝」との関係の日本人】
私は、「日本人」において「経験」は複数を、更に端的には二人の人間(あるいはその関係)を定義する、と言った。(……)二人の人間を定義するということは、我々の経験と呼ぶものが、自分一個の経験にまで分析されえない、ということである。(……)肉体的に見る限り、一人一人の人間は離れている。常識的にはそこに一人の主体、すなわち自己というものを考えようとする誘惑を感ずるが、事態はそのように簡単ではない。(……)本質的な点だけに限っていうと、「日本人」においては、「汝」に対立するものは「我」ではないということ、対立するものも相手にとっての「汝」なのだ、ということである。(……)親子の場合をとってみると、親を「汝」として取ると、子が「我」であるのは自明のことのように思われる。しかし、それはそうではない。子は自分の中に存在の根拠をもつ「我」ではなく、当面「汝」である親の「汝」として自分を経験しているのである。(……)肯定的であるか、否定的であるかに関係なく、凡ては「我と汝」とではなく、「汝と汝」との関係に推移するのである。(森有正全集12 P64-65) 
夫人同伴でパリ滞在中の高田氏(彫刻家高田博厚:引用者)を訪れる。ソルボンヌ広場で一緒に昼食。

僕はある種の態度に我慢できない。自分が三人称になれないこと、そして話し相手が三人称になることを認められないこと。換言するなら、話し相手と相互に二人称の関係に入り、融合してしまい、自分自身及び話し相手が主観性を取り戻すことを認められないこと、このような態度が僕には我慢できない。

次の二つの態度を分つ本質的な相違について。一人称で話すこと、一人称で話すことは話すのだが一人称を二人称の中に流し込んで話すこと。(森全集14 P162)


【相互篏入性】
……相互篏入性とは、関係が対等者間の水平な関係ではなく、上下的な垂直的な関係だという点である。(……)親子、上役と下のもの、先生と生徒、師匠と弟子、など一定の社会秩序を内容とするものである。(……)したがって、二項関係の直接性は、本当の直接性、すなわち独立の個人の間の接触ではなく、すでにある限定を受けた者同士が、その限定の框の中で、その限定そのものを内容として起る直接性なのである。(森全集12 P74-75)

わたくしはこの「相互篏入性」の指摘をーーいじめ天国である日本に思いを馳せつつーー、中井久夫の「いじめ論」とともに読む。

非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。(……)個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」)


【日本語の書字体系による裸の日本人】 
かなと漢字の分担に関して、常識的には、かな(訓読み)こそが漢字(音読み)を注釈していると見なしたくなる。(……)だが、ラカンは、まったく逆に、漢字が、かなを注釈することにおいて、無意識を触知可能なものとして浮上させていると暗示したのであった。今や、ラカンのこの暗示に、日本語の書字体系に対する深く、正確な洞察が含まれていたことが明らかになる。述べてきたように、日本語にあっては、漢字は、かなから区別されることで、外来性を明示し続ける。発話に必然的に随伴するあの「残余」は、つまり無意識は、この漢字の外来性に感応し、そこに表現の場を見出すのである。(大澤真幸『思想のケミストリー』)

【抑圧のない日本人】
たとえば、平安時代に、各地の人々が京都の宮廷で話されている言葉で書かれた「源氏物語」を読んで、なぜ理解できたのか。それは彼らが京都の言葉を知っていたからではありません。今だって各地の人がもろに方言で話すと通じないことがあるのに、平安時代に通じたはずがない。「源氏物語」のような和文がどこでも通じたのは、それが話されていたからではなくて、漢文の翻訳として形成された和文だったからです。紫式部という女性は司馬遷の『史記』を愛読していたような人で、漢文を熟知している。にもかかわらず、漢語を意図的にカッコに入れて『源氏物語』を書いたわけですね。(……)

私はつぎのように書きました。《ラカンがそこから日本人には「精神分析が不要だ」という結論を導き出した理由は、たぶん、フロイトが無意識を「象形文字」として捉えたことにあるといってよい。精神分析は無意識を意識化することにあるが、それは音声言語化にほかならない。それは無意識における「象形文字」を解読することである。しかるに、日本語では、いわば「象形文字」がそのまま意識においてもあらわれる。そこでは、「無意識からパロールへの距離が触知可能である」。したがって、日本人には「抑圧」がないということになる。なぜなら、彼らは無意識(象形文字)をつねに露出させているーー真実を語っているーーからである》。したがって日本人には抑圧がないということになる。なぜなら彼らは意識において象形文字を常に露出させているからだ。したがって、日本人はつねに真実を語っている、ということになります。(柄谷行人『日本精神分析再考(講演)』(2008)より

以下の柄谷行人の文は、ラカン的に言えばいささか用語使いの混乱は見られるが、それを除けば核心をついている。

【去勢の否認の日本人】
日本において、権力の中心はつねに空虚である。だが、それも権力であり、もしかすると、権力の本質である。フーコーは、精神分析の「抑圧」という概念に反対した。その意味では、日本には「抑圧」とそれが生み出す「主体」はない。しかし、ラカン的にいえば、「排除」があるというべきだろう。すなわち、それは原抑圧の失敗であり、去勢の否認である。日本の言説空間は、外からの原理による去勢を排除してしまった分裂病的な空間であるといえるかもしれない。見かけの統合はなされているが、それは実は空虚な形式である。私は、こうした背景に、母系制(厳密には双系制)的なものの残存を見たいと思っている。それは、大陸的な父権的制度と思考を受け入れながらそれを「排除」するという姿勢の反復である。

日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。しかし、そのことに批判的にこだわることは、逆にそれに閉じこめられうことに帰結する。フーコーは「日本」を愛さなかった。そして、私がフーコーに共感するのは、具体的に「生」の形態を変える「自由」を楽天(ゲイ)的に求めようとしたことにおいてである。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収)

去勢の否認とは、古典的ラカンによれば倒錯のことである。

ラカンの分析の教義の多くは、否定の三つの異なったモードを作ることにささげられています。ラカンはこのように言います――精神病における排除[Verwerfung] は 父のシニフィアンの否定であり、倒錯における否認[Verleugnung]はファルスのシニフィアンの否定の特別なモードであり、 神経症における抑圧[Verdrangung]は主体自身のより広範な否定である、 と。 (ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」


【父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体】

もっと一般にわかりやすく言えばーーおそらく誰もが無意識的には感じているだろうことの指摘としてーー次の文がよいだろう。

さて、高度成長と、それによる高度大衆社会の形成は、共同幻想の希薄化をもたらした。 いいかえれば、国家のレヴェルが後退し、家族のレヴェルが、それ自体解体しつつも、前 面に露呈されてきたのだ。......そもそも対幻想を対幻想たらしめていた抜き差しならぬ他者との「関係の絶対性」の契機がそれ自体著しく希薄化し、対幻想は拡大された 自己幻想に限りなく近付いていく。そうなれば、そのような幻想の共振によって共同体を構成することも不可能ではなくなる。公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可 能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らない という保証はどこにもないのである。(浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号)

※参照:「おみこしの熱狂と無責任」気質(中井久夫)、あるいは「ヤンキー」をめぐるメモ


【時枝誠記の「風呂敷」理論】
……日本語には機能接尾辞がきわめて多くて、前接語が複雑であるという特徴から、つぎのように推測することができる。主体は、用心や反復や遅滞や強調をつうじて発話行為を進めてゆくのであり、それらが積み重ねられたすえに(そのときには単なる一行の言葉ではおさまらなくなっているだろうが)、まさに主体は、外部や上部からわたしたちの文章を支配するとされているあの充実した核ではなくなり、言葉の空虚な大封筒のようになってしまうのである、と。したがって、西欧人にとっては主観性の過剰のようにみえること(日本人は、確かな事実ではなく印象を述べるらしいから)も、かえって、空虚になるまで細分化され微粒化されて言語のなかに主体が溶解し流出してゆくようなこといなってしまうのである。(ロラン・バルト『記号の国』p15)

「言葉の空虚な大封筒」という表現があるーー 原文は「パロールの空虚な大封筒 une grande enveloppe vide de la parole」ーー。バルトは時枝誠記の「風呂敷」理論を読んだのかだれかに聞いたのだろう。

時枝は、英語を天秤に喩えた。主語と述語とが支点の双方にあって釣り合っている。それに対して日本語は「風呂敷」である。中心にあるのは「述語」である。それを包んで「補語」がある。「主語」も「補語」の一種類である! (私はこの指摘を知って雷に打たれたごとく感じた)。「行く」という行為、「美しい」という形容が同心円の中心にある。対人関係や前後の事情によって「誰が?」「どこへ?」「何が?」「どのように?」が明確にされていない時にのみ、これを明言する。(中井久夫「一つの日本語観」『記憶の肖像』所収)

主体的な総括機能或いは統一機能の表現の代表的なものを印欧語に求めるならば、A is Bに於ける“is”であって所謂繋辞copulaである。copulaは即ち繋ぐことの表現である。印欧語に於いては、その言語の構造上、総括機能の表現は、一般に概念表現の語の中間に位して、これを統合する。従ってこれを象徴的に、A-Bの形によって表すのであって、copulaが繋辞と呼ばれる所以である。右のような総括方式における統一形式を私は仮に天秤型統一形式と呼んでいる。この様な形式に対して、国語はその構造上、統一機能の表現は、統一され総括される語の最後に来るのが普通である。

花咲くか。

といった場合、主体の表現である疑問の「か」は最後に来て、「花咲く」という客体的事実を包む且つ統一しているのである。この形式を仮に図をもって示すならば。



或は、




の如き形式を以て示すことが出来る。この統一形式は、これを風呂敷型統一形式と呼ぶことが出来ると思う(時枝誠記『国語学原論』ー―「森有正の日本語論<後編>」より)。
…………

おそらく出発点の重要な一つはこれらの思考である、もし日本人の奇妙な特性を分析したいのなら。構造的倒錯は日本語の使用によってやむえないものとするのか。いやこららの考え方はおかしいのか。

いまさら志賀直哉の「日本語廃止・フランス語採用論」に思いを馳せてみるわけにはいくまい・・・

とはいえ日本語で会話するときに、実に耐えがたくなることがあるのは、森有正を再掲する通り。

僕はある種の態度に我慢できない。自分が三人称になれないこと、そして話し相手が三人称になることを認められないこと。換言するなら、話し相手と相互に二人称の関係に入り、融合してしまい、自分自身及び話し相手が主観性を取り戻すことを認められないこと、このような態度が僕には我慢できない。

次の二つの態度を分つ本質的な相違について。一人称で話すこと、一人称で話すことは話すのだが一人称を二人称の中に流し込んで話すこと。

《この列島の文化は曖昧模糊として春のよう》(中井久夫)なのであり、 《一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する》(柄谷行人)ーーこのあたりも実は日本語の「相互篏入性」によるところ大なのではなかろうか。たとえばツイッター社交界で湿った瞳を交わし合い頷き合う アーバン・トライバリスト(部族中心主義者) たち ・・・

…………

※付記

【をとこもす(男文字)なる日記ををむなもし(女文字)てみんとするなり】

ところで次のような説があるそうだ。

「をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみんとてするなり」 。男が書く日記を女も書 いてみようという「土佐日記」の冒頭だが、 「をむなもしてみん」には「をむなもし(女文字=平仮名) 」という言葉が埋め込まれているという▲ 文献学者の小松英雄さんの説で、書き出しの「をとこもす」も「をとこもし(男文字=漢字) 」の 重ね合わせだと見る。つまり日記は漢字で書くものだが、自分は平仮名で日本語の表現のままに書 き表すぞという宣言なのだという(石川九楊著 「ひらがなの美学」 ) 毎日新聞11月30日朝刊「余禄」(おそらく2014年だと思うーー室井努「日本語書記と本文テキストに関する読み手の存在の論争私見」 PDF

紀貫之の土佐日記はは承平5年(935年)頃書かれた。なぜ、こんなことが千年以上も気づかれなかったのだろう・・・

もっとも今 WIKI をみると、《小松英雄は、この日記は女性に仮託したものではなく、冒頭の一節は「漢字ではなく、仮名文字で書いてみよう」という表明を、仮名の特性を活かした技法で巧みに表現したものだとしている(……)。ただしこの説は広く受け入れられるには至っていない》とある。