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2016年11月16日水曜日

Wunsch(願望と欲望)とLust(快と欲望)

岩波新訳では『文化の中の居心地の悪さ』と訳されるフロイトの『文化への不満』Das Unbehagen in der Kultur1930 はこう始まっている。

われわれは、人類は物事を間違った尺度で測っている、権力とか成功とか富とかを自分でも追い求め、それらを手中に収めた人々を讃嘆する一方では、人生において本当に価値のあるいろいろなものは不当に低く評価しているという印象を禁じえない。しかし、そういう一般的な判断には、人間の世界および人間の精神生活の多様性を忘却してしまう危険が常につきまとう。大多数の人間の目標や理想とはほど遠い性質とか業績のおかげで偉大とされていながら、同時代の人間に尊敬されている人もいないわけではない。そういう場合われわれは、そんなことを言っても、その種の偉大な人々の価値を認めるのは少数の人間だけで、大多数の人々はまるでそっぽを向いているのだとつい思いがちであろう。ところが、人間の考えることと行動のあいだには、さまざまな矛盾があり、人間は実にさまざまの願望衝動を持っているから、事はそう簡単ではないらしいのである。(フロイト『文化への不満』人文書院)

「願望衝動」は独原文は Wunschregungen(英訳ではwishful impulses)。

この『文化の中の居心地の悪さ』ではないが、フロイトの別の論文にある「Hinweise auf die verdraengten Wunschregungen」は、岩波新訳では「抑圧された欲望の蠢きへの示唆」と訳されているそうだ。

岩波新訳では、願望という用語自体が欲望と訳されているという話もある(「自我理想の起源 : フロイトにおけるメランコリーと同一 化の問題」、松山あゆみ、2011、PDF)。すべてにわたってかどうかは判然としないが(わたくしは岩波新訳を一度も眺めたことがない)。

こう記して何が言いたいわけでもない。願望が欲望であってもとくにかまわない。

とはいえ、かつて次のような記述を読んだことがある。

「欲望 desire」(désir, Wunsch, Begierde, Lust) 

フロイトの標準版 The Standard Editionでは、フロイトの「Wunsch」を「願望 wish」という、ドイツ語に非常にあう英語に訳している。この仏語訳としては、「voeu」の方が、現在フランス語で使われることは少ないが、「Wunsch」や「wish」に近い。しかし、フロイトの仏訳者は「voeu」よりむしろ「désir」を常に用いている。また、「Wunsch」「wish」と「désir」の決定的な違いは、ドイツ語と英語(「Wunsch」「wish」)は、個人の独自の望むという行為に限定されているのに対して、フランス語(「désir」)は、持続的な力へのかかわりがずっと強い。(Ecrits : A Selection, translated by Alan Sheridan)

欲望という語は実に厄介な言葉であり、何を差しているのか実のところわからくなってしまう(ラカンの核心のひとつは欲求・要求・欲望を截然と区分したことではあろうが)。

例えば初期フロイトの書簡には、Wunsch という語は次のような形で出現する。

両親に対する敵対的な衝動(両親が死ねばいいのにという欲望=願望 Wunsch)は、同じく神経症の不可欠な構成要素である。Die feindseligen Impulse gegen die Eltern (Wunsch, daß sie sterben mögen) sind gleichfalls ein integrierender Bestandteil der Neurose.(フロイト、草稿N、ヴィルヘルム・フリース宛1897年5月31日)

じつは少し前にも引用したフーコーとドゥルーズのあいだの欲望・快楽をめぐる齟齬がーーなんだか愉快でーーしばらく思いを馳せていたのだが、フーコーは欲望という語が我慢できない、という。他方、ドゥルーズは快楽という用語が我慢できない、という。

最後に会った時、ミシェル(フーコー)は優しさと愛情を込めて、僕におおよそ次のようなことを言った。自分は欲望 désir という言葉に耐えられない、と。 〔…〕僕が「快楽 plaisir」と呼んでいるのは、君たちが「欲望」と呼んでいるものであるのかもしれないが、いずれにせよ、僕には欲望以外の言葉が必要だ、と。

言うまでもなく、これも言葉の問題ではない。というのは、僕の方は「快楽」という言葉に耐えられないからだ。では、それはなぜか? 僕にとって欲望には何も欠けるところがない。更に欲望は自然と与えられるものでもない。欲望は機能している異質なもののアレンジメントと一体となるだけだ。 〔…〕快楽は欲望の内在的過程を中断させるように見え、僕は快楽に少しも肯定的な価値を与えられない。 〔…〕マゾッホの中で僕の興味を引くのは苦痛ではない。 快楽が欲望の肯定性、 そして欲望の内在野の構成を中断しにくるという考えだ。

〔…〕快楽とは、人の中に収まりきらない過程の中で、人や主体が「元を取る」ための唯一の手段のように思える。それは一つの再領土化だ。(ジル・ドゥルーズ「欲望と快楽Désir et plaisir」 、 『狂人の二つの体制 』)

ドゥルーズは言葉の問題ではない、と言っているが、言葉の問題のところもあるんじゃないか、と疑わしくなる。

ほかにも厄介な語として lust がある。この語はまずは「快」とか「快楽」「快感」であるだろう(もちろん英語の lust とおなじように欲望という意味もある)。フロイトの旧訳の『快感原則の彼岸 Jenseits des Lustprinzips』は『快原理の彼岸』である。

ところが、lust 自体、たとえば次のようにさえ使われるらしい。

Keine Lust!(やる気がない!)

ようするにドイツ語では英語の lust の脂ぎった印象とは異なる意味合いがあるらしいのだ。

たとえばゲーテは次のように lust を使っている。

おお大地 おお太陽 O Erd',o Sonne,
おお幸せ おお喜び O Glttck, o Lust
おお愛  おお愛  O Lieb,  o Liebe,

ーーゲーテ「五月の祝い」

僕が恋人のかたわらに
座ると 彼女の目が喜び Lust を語っている
羨ましいような絹衣の下では
彼女の胸がはっきり盛り上がっている
よく僕のくちづけに
アモールが少女を連れてきてくれた
この幸せをあきらめなくてはいけない
厳しい母親が起きているのだから

An meines Mädgens Seite
Sitz ich, ihr Aug spricht Lust,
Und unter neid'scher Seide
Steigt fühlbaar ihre Brust;
Oft wären sie zu küssen
Die giergen Lippen nah,
Doch ach, diß muß ich missen,
Es sitzt die Mutter da.

ーーゲーテ、An den Schlaf (Mai 1767)


ということを今頃初めて知った。

ニーチェが次のように使っており、快とか悦楽と訳されているのは知っていたが、これも考えだすと意味深長である。

人間は快 Lust をもとめるのではなく、また不快 Unlust をさけるのではない。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。

快と不快 Lust und Unlust とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《力の増大 Plus von Macht》である。

この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの力への意志 Willens zur Macht を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。

人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。

──不快は、《私たちの力の感情の低減 Verminderung unsres Machtgefühls》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの力の感情へとはたらきかける、──阻害はこの力への意志の《刺戟剤 stimulus》なのである。(ニーチェ『力への意志』第702番→原文
悦楽 lust は常にすべてのことの永遠ならんことを欲する、蜜を欲する、おりかすを欲する、酔いしれた真夜中を欲する、息を欲する、墓を欲する、墓の涙の慰藉を欲する、金色にちりばめた夕映えを欲するーー

悦楽が欲しないものがあろうか。悦楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が悦楽のなかに環をなしてめぐっている。――

――悦楽は愛しようとする、憎もうとする。悦楽は富にあふれ、贈り与え、投げ捨て、だれかがそれを取ることを乞い求め、取った者に感謝する。悦楽は好んで憎まれようとする。――

――悦楽はあまりにも富んでいるゆえに、苦痛を渇望する。地獄を、憎悪を、屈辱を、不具を、一口にいえば世界を渇望する、――この世界がどういうものであるかは、おまえたちの知っているとおりだ。

おまえたち高人たちよ。悦楽はおまえたちをあこがれ求めている、この奔放な、至福な悦楽は、――できそこないの者たちよ、おまえたちの苦痛をあこがれ求めているのだ。すべての永遠な悦楽はできそこないのものをあこがれ求めている。

つまり、悦楽はつねにおのれ自身を欲しているのだ。それゆえに心の悩みをも欲するのだ。おお、幸福よ、おお、苦痛よ。おお、心臓よ、裂けよ。おまえたち高人たちよ、このことをしっかり学び知れ、悦楽が永遠を欲することを。

――悦楽はすべてのことが永遠ならんことを欲するのだ、深い深い永遠を欲するのだ。- Lust will _aller_ Dinge Ewigkeit, will tiefe, tiefe Ewigkeit!(ニーチェ『ツァラトゥストラ』グランフィナーレ「酔歌」手塚富雄訳)

ところでラカンは次のように言っている。

フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。 …oder unmittelbaren Lustgewinn… à savoir tout simplement mon « plus-de jouir ».(ラカン,S.21

享楽とは悦楽とも訳される語である。

悦楽 jouissance のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)
『テクストの快楽』につけ加えて。享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。 la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. (『彼自身によるロラン・バルト』)


ここで、クロソフスキーの『ニーチェと悪循環』の英訳者は、次のようにその翻訳者序文で記していることを付記しておこう。

Impulsion(衝動) は、仏語の pulsion(欲動) に関係している。pulsion はフロイト用語の Triebeを翻訳したものである。だがクロソフスキーは、滅多にこの pulsion を使用しない。ニーチェ自身は、クロソフスキーが衝動という語で要約するものについて多様な語彙を使用しているーー、Triebe 欲動、Begierden 欲望、Instinke 本能、Machte 力・力能・権力、Krafte 勢力、Reixe, Impulse 衝迫・衝動、Leidenschaften 情熱、Gefiilen 感情、Afekte 情動、Pathos パトス等々。クロソフスキーにとって本質的な点は、これらの用語は、絶え間ない波動としての、魂の強度 intensité 的状態を示していることである。(PIERRE KLOSSOWSKI,Nietzsche and the Vicious Circle Translated by Daniel W. Smith)

ーーニーチェの《魂の調子(=Stimmung)は強度の波動である。La tonalité d'âme est une fluctuation d'intensité》(PIERRE KLOSSOWSKI)

欲動という語は、享楽とともに、わたくしはしばしば使うのだが、日本語文脈では衝動のほうが通りがいいんだろう。あるいはドゥルーズの1960年代後半の書に頻出する「強制された運動」movement forcé (Thanatos) でもいい。

ドゥルーズはこうも記している。

『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なもの involontaire に固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる donne à penser》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である plus important que le philosophe, le poète。…『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

これはフロイト・ラカン的な欲動とやや異なるかもしれないが、欲望用語では処理でき難いあり方である。

ところでラカンは次のように記している。

フロイトの欲動 Trieb を享楽の漂流(逸脱)と翻訳する…« la dérive » pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (ラカン、S.20)

ーー dérive 自体、上のロラン・バルト訳では「漂流」とされているが、ひょっとして「逸脱」のほうがふさわしいのかもしれない。

いずれにせよ、ラカンのセミネール19 に現れる次の図は、見せかけの主体である我々は享楽に向かうが、そのとき漂流もしくは逸脱として剰余享楽(対象a)が生まれ、絶え間ない反復運動が生じる、ということを言っている。



これはラカンによる我々の生の図式である。なぜそうなのか。

ーー言語を使用する人間は、“le mi-dire de la vérité”、「真理は半分しか話せない」から。

ラカンは比較的早い時期からこうくり返している。

・先ず、語 symbole は物の殺害 meurtre de la chose として顕れる。そしてこの死は、主体の欲望の終わりなき永続化をもたらす。

le symbole se manifeste d'abord comme meurtre de la chose, et cette mort constitue dans le sujet l'éterrusation de son désir.

・主体は、言わば、話すのではなく話させられる。

le sujet, peut-on dire, est parlé plutôt qu'il ne parle(E.280、ローマ講演、1953)
フロイトの観点からは、人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。

Dans la perspective freudienne, l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S.3)

ここから後期ラカンがどう転回したのか、というのはあるが(とくにララング概念)、いまはそれに触れない。

…………

邦訳においても言葉の問題はまちがいなくあるんじゃないか、ドゥルーズの欲望機械だってあやしい。

・ラカンにおける、欲望の賞賛すべき理論は、二つの極をもっているように思われる。ひとつは、欲望機械 machine désirante としての「対象a l'objet petit-a」にかかわる極である。これは、あらゆる欲求や幻想の観念を越え、現実的生産 production réelle によって欲望を規定する。もうひとつは、シニフィアンとしての「大他者grand Autre 」にかかわり、ある種の欠如の観念を再び導入する。

・ある純粋な流体 un pur fluide à l'état libre が、自由状態で、途切れることなく、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走している。欲望機械 Les machines désirantes は、私たちに有機体を与える。(『アンチ・オイディプス』)

ーーこの文の前後は、「三つの機械と三つの対象a」を参照。

ドゥルーズなのかガタリなのか知らないが、この二人がしばしば参照するルクレールは、当時「欲動機械 machine à pulsion」ということを言っている(参照)。