2016年11月13日日曜日

至高の「倒錯」思想家(マルクス・フロイト・ラカン)

【剰余価値・剰余享楽・快の獲得】
" Mehrlust "、すなわち「剰余享楽 plus-de-jouir」は" Merhwert(剰余価値) "と相同的である。(ラカン、S.16,D'un Autre à l'autre)
主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって表象されうるものである。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体は何に対して表象されるのか? ーー使用価値である。

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値 la plus-value と呼ばれるものである。この喪失は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。(ラカン、S.16)
フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。 …oder unmittelbaren Lustgewinn… à savoir tout simplement mon « plus-de jouir ».(Lacan,S.21)

ーーフロイトの著作においては1900 年代に既に Lustgewinn という語が現われるが、ここでは最晩年(死後出版)の草稿においての簡潔な叙述。

まずはじめに口 der Mund が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは‘性的 sexuell'と名づけることができるし、またそうすべきものである。(Freud,S.1940 "Abriss der Psychoanalyse" 「精神分析学概説」)

…………

◆以下、ジジェク、2016,Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge,PDFより。

【快原理を蝕む倒錯性】
リビドー的経済において、反復強迫の倒錯性に乱されない「純粋な」快原理はない。この倒錯性は快原理の用語では説明しえない。商品交換の領野において、別の商品を購買するために商品を貨幣に代える交換の、直かの閉じた円環はない。商品売買の倒錯的論理ーーより多くの貨幣を得るための論理--によって蝕まれていない円環はない。この論理において、貨幣はもはや、商品交換における単なる媒体ではなく、それ自体が目的となる。

【フロイトの快の獲得 Lustgewinn とマルクスの M– C–M】
唯一の現実は、貨幣を消費してより多くの貨幣を獲得することである。そしてマルクスが C-M-C(商品-貨幣-商品)と呼んだもの・別の商品を購買するために商品を貨幣に代える交換は、究極的には虚構である。もっともこの虚構は、交換過程の「自然な」基盤を提供している(たんに金、もっと金じゃないよ、交換のすべての核心は、具体的な人間欲求を満たすことさ!)。ーーここにある基本のリビドー的機制は、フロイトが Lustgewinn(快の獲得)と呼んだものである。Samo Tomšič の『資本家の無意識』はこの概念を巧みに説明している。

《「快の獲得 Lustgewinn」は、快原理の恒常性 homeostasis が単なる虚構であることの最初の徴である。しかしながらそれが証明しているのは、欲求のどんな満足もいっそうの快を生みだしえないことである。それはちょうど、どんな剰余価値も C–M–C(商品–貨幣–商品)の循環からは論理的に生じないように。

剰余享楽・快と営利 profit making との連携は、快原理の想定された恒常的特性を掘り崩すわけでは単純にはない。それが示しているのは、恒常性は欠くべからざる虚構であり、無意識的生産を構造化し・支えていることである。それはちょうど、世界観的機制のイマジネールな獲得が閉じられた全体ーーその総体的構築において亀裂のない全体--を提供することで成り立っているように。

「快の獲得 Lustgewinn」はフロイトの最初の概念的遭遇である、後に快原理の彼岸・反復強迫に位置づけられたものとの。それは精神分析に、M– C–M(貨幣– 商品–貨幣)と等価なものを導入することになる。》(Samo Tomšič, The Capitalist Unconscious, 2014)

【反復運動自体による快の獲得】
「快の獲得 Lustgewinn」の過程は、反復を通して作働する。人はその目的を見失い、人はその運動を反復する。何度も何度も試みる。したがって真の目標は、もはや意図された目的ではなく、目的に到ろうとする反復運動自体である。

これは、形式と内容の用語に置き換えうる。「形式」とは、欲望された内容に接近する形式・様式を表わす。一方で欲望された内容(対象)は、快を提供することを請け合う。他方で剰余享楽は、目的追求のまさに形式(手続き)によって獲得される。

いかに口唇欲動が機能するかの古典的事例がある。一方で乳房吸啜の目的は、乳で満腹になることである。他方でリビドー的獲得は、吸啜の反復運動によって提供され、したがってそれ自体が目的となる。(……)

「快の獲得」の別の形象は、ヒステリーを特徴づける反転である。快への断念は、断念の快・断念のなかの快へと反転する。欲望の抑圧は抑圧の欲望へ反転する、等々。これらすべての事例において快の獲得は、「パフォーマティヴ」の水準で起こる。目的に到達することではなく、目的に向かって作働する「パフォーマンス」自体がその獲得を産出する。

【快の獲得 Lustgewinn と剰余価値 Mehrwert 】
…我々は「快の獲得 Lustgewinn」 と「剰余価値 Mehrwert」とのあいだに歴然とした繋がりを観察しうる。快の獲得過程の目標は、公式的目的(欲求の満足)ではなく、過程自体の拡張された再生産である。たとえば、母の乳房を吸啜する目標は乳で満腹になることではなく、吸啜行為自体によってもたらされる快である。そして正確に相同的のあり方で、剰余価値の交換過程の目標は、自身の欲求の満足ではなく、資本自体の拡張された再生産である。

ここで決定的なのは C-M-C から M-C-M' への反転である。C-M-C(諸個人は商品をその欲求よりも過剰に生産する。彼らはその商品を交換する。そして貨幣とは、生産者が必要とする生産物を求めて彼の過剰生産物と交換するための、単なる仲介要素である)、ここから M-C-M' (私が所有する貨幣を以て、私は商品を購買する。そしてより多くの貨幣を獲得するために商品を販売する)への反転。もちろん二番目の作用が働くのは、私が購買した商品がその価値よりももっと多くの価値を産出するために使用された場合に限る。そしてこの商品とは労働力である。

要するに、M-C-M' の条件は、自己言及的捻りのなかで、商品自体を産出する労働力が商品となることである(ここで別の捻りを付加しよう。遺伝子工学の爆発的な発展、すなわち諸商品を産出する一つの商品を科学的に産出することの行く末…)。


【人間の生産活動の倒錯性】
ここで耐えねばならない誘惑は、C-M-C から M-C-M' への移行を、より基本的過程の疎外・脱自然化として捉えてしまうことである。一見自然で妥当に見える、人が生産しうるが自らにとっては実際の必要でない品を、他者によって生産された必要品と交換するのは。この全過程は私の欲求によって統制されている。だが事態は奇妙な転回を起す。それは仲介要素(貨幣)にすぎなかった筈のものが、目的自体になるときである。そのとき全運動の目的は、私の実際の欲求における拠り所を失い、二次的手段化であるべき筈のものの終わりなき自己増殖へと転じる…。

C-M-C を自然で妥当と見なしてしまう誘惑に対抗して、人は強調しなければならない。C-M-C から M-C-M' への反転(すなわち自己を駆り動かす貨幣の妖怪の出現)は、既にマルクスにとって、自己駆動化された人間の生産活動の倒錯的表現である。マルクス的観点からは、人間の生産活動の真の目標は、人間の欲求の満足ではない。むしろ欲求の満足は、ある種の理性の狡知のなかで、人間の生産活動の拡張を動機づけるために使われる。

…………

【言語というフェティッシュ】
貨幣フェティシュ(Geldfetischs)の謎は、ただ、商品フェティシュ(Warenfetischs)の謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。(マルクス『資本論』)
吾々にとつて幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。(……)

脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物史観に於ける「物」とは、飄々たる精神ではない事は勿論だが、又固定した物質でもない。(小林秀雄「様々なる意匠」1929年)

《遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない》における魔術とは、言語自体のフェティッシュの魔術に他ならない。

しかし厳密に言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980ーー言語自体がフェティッシュである


【言語・貨幣の異国性 Fremdheit】
人間を人間とする言語、法、貨幣が個々の人間にとっては外部の存在(他者)であるということが、つまり根源的な発想になるということです。(岩井克人、2006、ーー「人間の真のパートナーは、言語、法、貨幣」)

岩井克人を参照していえば、敢えてフェティッシュという必要はないかもしれない。

『グリントリセ』のマルクスのいうように、肝腎なのは異国性である。

貨幣を言語と比較することも、これ(貨幣を血液と比較すること)におとらずまちがっている。(……)類推は言語のうちにあるのではなく、言語の異国性 Fremdheit のうちにある。(マルクス『グルントリセ』)

ここでーーこう記していて唐突に想起したーーラカン文を挿入しよう(いささかここまでの文脈の流れから外れるかもしれないことを恐れずに)。

《幼児性愛は自体愛的ではなく、ヘテロ的である》(ラカン、1975、ジュネーヴ)

Il n’y a pas besoin de savoir tout ça. Il n’y a besoin que de savoir que chez certains êtres, qu’on les appelle, la rencontre avec leur propre érection n’est pas du tout autoérotique. Elle est tout ce qu’il y a de plus hétéro.(Lcan, Conférence à Genève sur le symptôme. 1975)

この1975年の会議でラカンが言っているヘテロ hétéro とは、「奇妙な、異物の、異者の、エイリアンの」という意味である(らしい)。本来の倒錯は自体愛 autoérotiqueではなくーー幼児の自体愛を強調したフロイトに反してーー、「異物」愛、と言っていることになる。

ーーとはいえ、ここでは初期フロイト概念の異物 Fremdkörper には触れないでおこう・・・(参照)。あるいはラカンがフロイトに依拠しつつ、《我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger 》(S.23)に触れるのもーー長くなりそうなのでーーやりすごすことにする・・・

とはいえ、

去勢が意味するのは、欲望の〈法〉の逆さになった梯子 l'échelle renversée の上に到りうるように、享楽は拒否されなければならない、ということである。[Lacn,E827] 

ーーという程度は引用しておいてもよろしい。ところで、逆さになった梯子とは、これまた「倒錯」のことではあるまいか・・・

さらにまた後年、《倒錯とは、「父に向かうヴァージョンversion vers le pere」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である。あなた方が好むなら、サントームと言ってもよい le père est un symptôme ou un sinthome, comme vous le voudrez》(S.23)などとオッシャッテオラレルのもよく知られている。しまいには« père-version »などとお書きになることになる,[Je l'écrive la « père-version »]。当面、 père-version を「父錯」と訳しておくことにする。

とすれば巷の自らは「正常」だと思っているらしき、いまだ父権制にどっぷり浸かったガチガチの神経症者・男根主義者たちは、今後、「父錯者」と呼ばれるべきではなかろうか・・・

ラカンは別に「正常な」性関係を、《norme-mâle》ーー男の規範と言った。これは悪い規範 norme  mal と読めもする。すなわち正常な性関係とは、「父」の介入による前性器的「多形倒錯polymorphe Perversität」--もちろんフロイト用語であるーーの男根化(ファルス化)である。

フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明することさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme,。我々の実践は何と不毛なことか!(Lacan, Le Seminaire XXIII, Le Sinthome,11, 1977)

ーーああ、「父錯者」たちは何と悲しい輩か!


【シニフィアンはそれ自身に一致しない】

さて古典的な?ラカンに戻れば、言語・商品の「価値」は、それ自身と一致しない。

すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.(Lacan, S.14)

ーーたとえば〈私〉というシニフィアンは、「この私」に一致しない。だから人は永遠に話し続ける。

ヘーゲルが何度も繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということである。

より情動に訴える言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。

前期ラカンは次のように言うのを好んだ、私は話しているのではない。私は言語によって話されている、と。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。ダイレクトな動物的生の代理人であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

※マルクスのフェティッシュをめぐる叙述( 『資本論』第1篇第四節「商品の物神的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)のいくらかは、「芸術作品とフェティシズム Fetischismus」を参照。