…………
◆ジャック=アラン・ミレール、2013
◆コレット・ソレール、2013
◆ラカン「哲学科の学生への返答」(オートルエクリ)
ーー欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである。il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme
《フェティッシュと幻想は同じ地位にある。》(Vincent Zumstein, 2006)
ーー人はみなフェティシュの主体である。
《ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、「我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien」
これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。》(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)
《ラカンは、人間の現実を「見せかけの世界 le monde du semblant」と考えた。》(ヴェルハーゲ、2001)
倒錯は欲望に起こる偶発事ではない。すべての欲望は倒錯的である。いわゆる象徴秩序がそうしたいようには、享楽はけっしてその場のなかにないという限りで。
La perversion n'est pas un accident qui surviendrait au désir. Tout désir est pervers dans la mesure où la jouissance n'est jamais à la place que voudrait le soi-disant ordre symbolique.(L'Autre sans Autre par JACQUES-ALAIN MILLER)
◆コレット・ソレール、2013
ーー欲望は剰余享楽(対象a)の換喩である。
幻想はモンタージュであり、それを通して、欲望は対象a を分節化 します。その分節化は、父の機能のモデルを必らずしも通さずになされます。そして欲望に適用される換喩は、欠如の換喩であると同程度に剰余享楽の換喩です。
le fantasme est un montage par quoi le désir se raccorde à l'objet a, sans passer nécessairement par le modèle de la fonction paternelle, et la métonymie qui vaut pour le désir est autant métonymie du plus-de-jouir que métonymie du manque.
「欲望は大他者の欲望」が意味したのは、欲求との 相違において、欲望は、言語作用の効果だということです。それが現実界を空洞化し穴をあける。この意味で、言語の場しての大他者は、欲望の条件です。(…)そしてラカンが言ったように、私はひとりの大他者として欲望する。というのは、言語が組み入れられているから。けれども、私たちが各々の話し手の欲望を道案内するもの、精神分析家に関心をもたらす唯一のものについて話すなら、 「欲望は大他者の欲望」ではありません。
Le désir est désir de l'Autre signifiait que le désir dans sa différence d'avec le besoin, est un effet de l'opération du langage, lequel évide le réel, y fait trou. En ce sens, l'Autre comme lieu du langage est la condition du désir, et on peut dire comme le fait Lacan, je désire en tant qu'Autre, parce que le langage est incorporé. Mais si on parle de ce qui oriente le désir de chaque parlant, seule chose qui intéresse le psychanalyste, alors le désir n'est pas désir de l'Autre, comme(Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013)
◆ラカン「哲学科の学生への返答」(オートルエクリ)
ーー欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである。il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme
《フェティッシュと幻想は同じ地位にある。》(Vincent Zumstein, 2006)
ーー人はみなフェティシュの主体である。
ーー疎外された労働を乗りこえようとする革命的実践の主体と、疎外された欲望の主体のあいだにはどんな関係があるのでしょうか。(……)
疎外された欲望の主体というのは、おそらく私が、「~の欲望は<他者>の欲望である」と表現することをおっしゃりたいのでしょう。それは正しいのですが、ただ、欲望の主体というものはありません。あるのはファンタスムの主体、つまりある対象によって引きおこされた主体の分裂、つまり対象によって覆われた主体の分裂、より正確にいえば、この対象とは、その場所が原因というカテゴリーによって主体の中で占められるような対象なのですが、こうした対象によって覆われた主体の分裂です。
この対象は、哲学的考察には欠如しており、そのために哲学的考察は自らを位置づけることができなくなっている、つまり、自らが無意味であることを隠しているのです。
この対象は、われわれが精神分析において、選手たちのあいだから抜けてゴールに入って得点になるボールのように、自らの位置から飛び出させることができる対象です。
この対象は、精神分析においてわれわれが、それを理論的に把握するのに最大限の不手際を見せながら、その後を追うものです。
私は、本年度の講義の題を『精神分析の対象』とし、この対象を対象a と呼びました。この対象がそれにふさわしい地位を認められてはじめて、皆さんが主体による自らの疎外された労働の乗りこえという革命的実践に掲げる、いわゆる目標に意味を与えることができるでしょう。何においてひとは自らの労働の疎外をのりこえるのでしょうか。それはあたかも皆さんがディスクールの疎外を乗りこえようとするようなものです。
この疎外を乗りこえるために私が見るのは、 疎外の価値を支持する対象だけであって、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものです。精神分析はその生物学的意味というものを暴くからです。(向井雅明訳)
— Quel est le rapport entre le sujet d'une praxis révolutionnaire visant le dépassement de son travail aliéné et le sujet du désir aliéné ?……
Sujet du désir aliéné, vous voulez dire sans doute ce que j'énonce comme : le désir de — est le désir de l'Autre, ce qui est juste, à ceci près qu'il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme, c'est-à-dire une division du sujet causée par un objet, c'est-à-dire bouchée par lui, ou plus exactement l'objet dont la catégorie de la cause tient la place dans le sujet.
Cet objet est celui qui manque à la considération philosophique pour se situer, c'est-à-dire pour savoir qu'elle n'est rien.
Cet objet est celui que nous arrivons dans la psychanalyse à ce qu'il saute de sa place, comme le ballon qui échappe de la mêlée pour s'offrir à la marque d'un but.
Cet objet est celui après quoi l'on court dans la psychanalyse, tout en mettant toute la maladresse possible à sa saisie théorique.
C'est seulement quand cet objet, celui que j'appelle l'objet petit a, et que j'ai mis au titre de mon cours de cette année comme l'objet de la psychanalyse, aura son statut reconnu, qu'on pourra donner un sens à la prétendue visée que vous attribuez à la praxis révolutionnaire d'un dépassement par le sujet de son travail aliéné. En quoi peut-on bien dépasser l'aliénation de son travail? C'est comme si vous vouliez dépasser l'aliénation du discours.
Je ne vois à dépasser cette aliénation que l'objet qui en supporte la valeur, ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche, étant entendu que la psycha-nalyse dévoile sa signification biologique.(REPONSES A DES ETUDIANTS EN PHILOSOPHIE 1966)
《ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、「我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien」
これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。》(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)
真理は見せかけと反対のものではない。La vérité n'est pas le contraire du semblant.(Lacan,S.18)
《ラカンは、人間の現実を「見せかけの世界 le monde du semblant」と考えた。》(ヴェルハーゲ、2001)
ーー敢えて変奏すれば、人間の現実は「フェティッシュの世界」である。マルクスが人間の生産、あるいは交換活動はフェティッシュだと言ったように(交換はコミュニケーションでもあるのだから)。
◆ラカン、セミネール22
人は症状概念の起源を、ヒポクラテスではなく、マルクスに探し求めなければならない。Chercher l'origine de la notion de symptôme… qui n'est pas du tout à chercher dans HIPPOCRATE …qui est a chercher dans MARX (Lacan,S.22,18 Février 1975)
ーー症状のない主体はない。
対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。
固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外立するもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動である。(Lacan, 1974-75, R.S.I., 1975, pp.106-107.摘要)
症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。「私は、皆が無意識を楽しむ方法にて症状を定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。“Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine”」ラカンは対象aよりも症状の概念のほうを好んだ。性関係はないという彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)
《しかし言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。》(J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)
◆ラカン、セミネール23
ーー人はみな倒錯の主体である。
フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。
あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明することさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme,。我々の実践は何と不毛なことか!(Lacan, Le Seminaire XXIII, Le Sinthome,11, 1977)