2016年11月9日水曜日

三つの機械と三つの対象a

『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分対象の機械(衝動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros),・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos),である。

このそれぞれが、真実を生産する。なぜなら、真実は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。

それが失われた時間のばあいには、部分対象 objets partiels の断片化により、見出された時間のばあいには共鳴 résonance による。失われた時間のばあいには、別の仕方で、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この喪失は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』1964年→1970年に加えられた「アンチロゴスまたは文学機械」“三つの機械 Les trois machines”)

movement forcé という表現はーーざっと調べてみたかぎりだがーー『アンチ・オイディプス』には出てこないが、『千のプラトー』には一箇所出現する。手元の邦訳(宇野邦一他訳)では次の通り。

……そして全体主義国家の場合でも、別々の中心や切片を共振させるという国家の機能には、なんら変わるところがない。そこでは共振の機能が閉塞状態で果たされて、その内的な射程を拡大するか、あるいは「共振」が「強制的な運動」で裏づけられるだけのことなのだ。(『千のプラトー』p.257)

Et même quand l'Etat est totalitaire, sa fonction de résonance pour des centres et des segments distincts ne change pas : elle se fait seulement dans des conditions de vase clos qui en augmente la portée interne, ou double la « résonance » d'un « mouvement forcé ».

《「共振」が「強制的な運動」で裏づけられる》とあるが、これはもちろん「エロスがタナトスで裏づけられる」と翻訳できる。

エロスの役割は、タナトスのエネルギーを結びつけ、その結合を〈エス〉のうちで快感原則に従属せしむることにある(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳)
エロスは共鳴によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅 l'amplitude d'un mouvement forcé によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼方に、その輝かしい核を見出す)。(ドゥルーズ『差異と反復』私訳ーー潜在的対象・純粋過去・純粋差異・反復


さて冒頭の『プルーストとシーニュ』の文に戻る。

A:部分対象の機械(衝動)machines à objets partiels(pulsions)
B:共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros),
C:強制された運動の機械(タナトス)

ーーとあった。

ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012には三つの対象aが示されている(対象a のより基本的な捉え方は、「基本的な二種類の対象a (ラカン、ドゥルーズ)」を参照のこと)。

①空虚の幻想的化身としての対象a(欲望の対象‐原因)
②空虚自体の対象a(欲望の真の対象‐原因)
③喪失自体の対象a(欲動の対象a)

わたくしの理解(誤解でありうる)では、A=②、B=①、C=③

C=③はおそらく間違いないが、ほかの二つはやや疑問はある(ふたりの論者をこうやって重ね合わせること自体の問題はさて置いても)。

さて、ジジェクの説明を聞いてみよう。

【欲望の対象-原因としての対象a】
欲動は「超越論的」であり、その空間は原初に喪われた対象(モノ)の空虚を穴埋めする幻想の空間である。……この喪失と重なり合う対象としてのラカンの対象a ーー、それはまさに喪失の瞬間に出現する(乳房から声・眼差し迄の全ての幻想的化身は、空虚・無の換喩的形象化である)ーーこの対象a は、欲望の地平内部にあるままである。真の欲望の対象-原因としての対象a は、幻想的化身によって穴埋めされる空虚自体である。


【欲動の対象としての対象a】
他方、ラカンが強調しているように、対象a はまた欲動の対象である。ここでの関係性は欲望の対象a とは徹底的に異なる。もっともどちらの場合も、対象と喪失の繋がりはきわめて肝要ではある。

欲望の対象-原因としての対象の場合、原初的に喪われた対象がある。それはそれ自体の喪失と一致する。喪失として出現するのである。

欲動の対象としての対象a の場合、「対象」とは喪失それ自体である。欲望から欲動への移行において、われわれは喪われた対象から対象としての喪失自体へと向かう。

言い換えれば、「欲動」と呼ばれる奇妙な運動は、喪われた対象への「不可能な」探求によってドライブ(欲動)されるのではない。それは直接的に「喪失」自体ーー裂け目、切り傷、距離ーー自体を上演する。


【欲望の対象-原因/欲動の対象-喪失】
したがって、ここで為されなければならないのは二重の区別である。幻想的な地位の対象a とポスト幻想的な地位の対象a とのあいだの区別だけではない。そうではなくまた、ポスト幻想的領域自体内部において、欲望の対象-原因と欲動の対象-喪失とのあいだの区別が必要である。


【純粋な死の欲動をめぐる誤謬】
ゆえに次のように主張するのは誤謬である、「純粋な」死の欲動は、(自己)破壊への不可能な「全的」意志・エクスタシー的自己消滅であるとするのは。そこでは主体は母親なるモノの全体性に融合しようとするが、その意志は実現されえず、遮断され・「部分対象」に付着して身動きがとれなくなっている、とするのは誤謬である。

このような考え方は、死の欲動を欲望とその喪われた対象へと再翻訳するものである。すなわち、ポジティヴな対象が不可能なモノという空虚の換喩的代役であるのは欲望においてである。全体性への憧憬が部分対象へと移転されるのは欲望においてである。これがラカンが欲望の換喩と呼んだものである。


【欲動は部分対象とは関係ない】
ここで我々は、ラカンの核心を見失なわないように(欲望と欲動を混同しないように)殊更厳密でなければならない。欲動は、部分対象のうえに固着されたモノへの無限の憧憬ではない。「欲動」は固着自体である。どの欲動にもある「死」の次元はここに帰される。欲動は、堰き止められ解体された(近親相姦的モノへの)普遍的渇望ではない。欲動はこの歯止め brake 自体である。本能への歯止め、その「凝固 stuckness」(エリック・サントナー曰く)である。(……)


【欲望への対抗運動としての欲動】
さらにもっと的確に言おう。欲動の対象は、空虚の充填物としてのモノとは関係ない。欲動とは文字通り欲望への対抗運動である。欲動は、不可能な融合に向かって奮闘し、そして断念を余儀なくされて、その残余としての部分対象に凝着させられるものでは〈ない〉。欲動 drive は、極めて文字通り、まさに「ドライブ」である。欲動は、我々が埋め込まれている全ての連続体を粉砕し、その連続体のなかに根源的不均衡を導入する「ドライブ」である。そして欲動と欲望のあいだの相違はまさに、欲望においては、この切れ目、この部分対象への固着が、あたかも「超越論的に」モノの空虚の代役に変換されることである。


以下、同ジジェク、2012だが、別の章から。


【対象a の地位の移行と外密 Extimité
ラカンのセミネールXVI へのミレール注釈は、対象a 、欲望の対象-原因の地位の決定的変化を詳述している。すなわち、身体上の標本(部分対象:乳房、糞便…)から純粋な論理的機能への移行。このセミネールで、《ラカンは本当は、対象a を身体上の標本として叙述していない。彼は、対象a を論理的一貫性、生物学の場のなかにある論理的存在として構築している。この論理的一貫性は、身体が、異なった身体的演繹を通して満足せねばならぬ機能のようなものである》(Jacques‐Alain Miller, “A Reading of the Seminar From an Other to the other,” 2007)。

この移行とは、外部の侵入者、徴示化機械 signifying machine のなかの砂粒ーーその砂粒が機械のスムーズな機能を邪魔するーーから、機械に完全に固有の何かへの移行である。

ラカンが、象徴空間の内部が外部に重なり合うこと(外密 ex‐timacy)によって、象徴空間の湾曲・歪曲を叙述するとき、彼はたんに、対象a の構造的場を叙述しているのではない。剰余享楽は、この構造自体、象徴空間のこの「内に向かう湾曲」以外の何ものでもないのだ。


【ミレールの対象a は欲望の地平のまま】
ミレールは最近、「構成された不安 constituted anxiety」と「構成する不安 constituent anxiety」というベンヤミンの区別を提案した。この区別は、欲望から欲動への移行に関わって決定的である。前者は我々に纏いつく怖ろしくも魅惑的な不安の深淵の標準概念を示す。我々を惹き込み脅かす悪の渦巻である。後者はそのまさに喪失において構成された対象a との「純粋な」遭遇を表す。

ミレールはここで二つの特徴を正しく強調している。構成された不安と構成する不安を分け隔てる相違は幻想についてに対象の地位に関わる。構成された不安の場合、対象は幻想の領域内にある。構成する不安が齎されるのは、主体が「幻想の横断」を経て、幻想的対象によって埋め合わせられた空虚・裂目に遭遇するときのみである。

とはいえ明瞭判然としているのは、ミレールの定式は対象a の真のパラドックス、あるいはむしろ、対象a の両義性を見失っていることである。その両義性とは次の問いに関わる。対象a は欲望の対象として機能するのか、あるいは欲動の対象として機能するのか?

すなわちミレールが、対象a をその喪失と重なり合う対象、まさにその喪失の瞬間に出現する対象(したがって乳房から声・眼差し迄の全ての幻想的化身は、空虚・無の換喩的形象化である)として定義するとき、彼はいまだ欲望の地平内部にとどまっている。

…………

次に『アンチ・オイディプス』から欲望機械にかかわる箇所を三つ掲げる。

【欲動機械と対象a】
欲望には何もかけていないし、対象も欠けてはいない。欲望に欠けているのはむしろ主体であり、欲望は固定した主体を欠いているのだ。ただ抑圧によって、固定した主体が存在するのだ。ただ抑圧によって、固定した主体が存在するだけだ。欲望とその対象とは一体をなし、それは機械の機械として、機械をなしている。欲望とは機械であり、欲望の対象もやはりこれに接続されたもうひとつの機械である。したがって、生産物は生産する働きから採取される。そして生産する働きから生産物に移行するプロセスで、何かがりだすし、これは遊牧し放浪する主体に残余を与える。欲望の客体的存在は〈現実界 le Réel〉そのものなのである。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』宇野邦一訳からだが、黒字強調箇所を変更、以下も同様)
註)ラカンにおける、欲望の賞賛すべき理論は、二つの極をもっているように思われる。ひとつは、欲望機械 machine désirante としての「対象a l'objet petit-a」にかかわる極である。これは、あらゆる欲求や幻想の観念を越え、現実的生産 production réelle によって欲望を規定する。もうひとつは、シニフィアンとしての「大他者grand Autre 」にかかわり、ある種の欠如の観念を再び導入する。
ある純粋な流体 un pur fluide à l'état libre が、自由状態で、途切れることなく、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走している。欲望機械 Les machines désirantes は、私たちに有機体を与える。ところが、この生産の真っ只中で、この生産そのものにおいて、身体は組織される〔有機化される〕ことに苦しみ、つまり別の組織をもたないことを苦しんでいる。いっそ、組織などないほうがいいのだ。こうして過程の最中に、第三の契機として「不可解な、直立状態の停止」がやってくる。そこには、「口もない。舌もない。歯もない。喉もない。食道もない。胃もない。腹もない。肛門もないPas de bouche. Pas de Io.Hgue. Pas de dents. Pas de larynx. Pas d'œsophage. Pas d'estomac. Pas de ventre. Pas d'anus. 」。もろもろの自動機械装置は停止して、それらが分節していた非有機体的な塊を出現させる。この器官なき充実身体 Le corps plein sans organes は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能Instinct de mort 、これがこの身体の名前である。(同『アンチ・オイディプス』)


ジジェクは「欲望機械」は、ラカン派観点からは「欲動」のことである、と言っている。

【欲望機械と欲動】
ラカン派によるドゥルーズ読解の出発点は、情け容赦ない直接的な読み替えである。すなわち、ドゥル ーズ&ガタリが「欲望機械(machines désirantes)」について語るとき、我々はその用語を欲動に置き換えるべきである。

ラカンの欲動ーーそれは、エディプスの三角形とその禁圧的な法/その法への侵犯の弁証法に先んじる匿名/無頭的で不滅な「身体なき器官」の反復への執拗さであり、ドゥルーズが前エディプスのノマド的な「欲望機械」として境界を引こうとしたものと完全に一致する。実際、セミネールⅩⅠの欲動に捧げられた章で、ラカン自身が、欲動の「機械的な」特徴・反有機的な anti‐organic 性質(その人工的な要素、あるいは異質の成分からなる部分のモンタージュの特質)を強調している。

しかしながら、これは出発点にすぎない。問題をすぐさま混み入らせるのは、この読み替えにおいて、何かが失われてしまうという事実である。すなわち、欲動と欲望とにあいだにある、まさに還元し得ぬ相違、この差異の視差的 parallax 性質があり、一方から他方へと跡づけたり生み出したりするのは不可能なのだ。

言い換えれば、ラカンには全く異質なものは、ドゥルーズの反-表象主義者的な欲望の概念である。それ自体が表象や抑圧の場面を創造する原初的流動 flux としての欲望概念。これはまた、ドゥルーズが欲望の解放について語る理由だが、ラカンの地平ではまったく無意味である。

ドゥルーズにとって、最も純粋な欲望とはリビドーの自由な流動だが、ラカンの欲動は、基盤となる解決しえぬ袋小路によって構成的に徴づけられている。ーー欲動は行き詰まりであり、まさに行き詰まりの反復において満足を見出す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

《行き詰まりの反復において満足を見出す》と最後にあるが、これはラカンのセミネール7における 《欲動の満足 satisfaction à une pulsion》(S.7)  という表現に由来する。


ジジェクの対象a の三つの区分けは、資本の欲動にもかかわる。

【資本の欲動】
ジャック=アラン・ミレールに従って、欠如と穴とのあいだの区別がされなければならない。「欠如とは空間的で、空間内部の空虚を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す」(Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,” excerpted at www.lacan.com )

ここに、欲望と欲動とのあいだの相違が横たわっている。欲望は、その構成的欠如に基づいている。他方、欲動は、穴・存在の秩序の裂目のまわりを循環する。

言い換えれば、欲動の循環運動は、歪んだ空間の奇妙な論理に従っている。その歪曲空間では、二つの点の最短距離は直線ではなく曲線である。欲動は、目標 aim を実現するための最速の方法は、目的 -対象 goal‐object のまわりを循環することであるのを「知っている」。

資本主義はもちろん、各個人に差し向けられた直接的水準においては、諸個人を顧客・欲望の主体として扱い、絶え間ず新しい倒錯的な、かつ過剰な欲望を誘引する(彼らを満足させる生産物を提供する)。さらに資本主義は明らかに「欲望することの欲望」を巧みに操作する。まさに絶えず新しい対象と快楽の様式を欲望することの欲望を喧伝する。しかしながら、もし資本主義が、「最も基本的欲望は欲望としてのそれ自体を再生産することの欲望(そして満足を見出せないことの欲望)である」という事実を踏まえて既に欲望を操作しているなら、この水準においては、我々は未だ欲動には至っていない。

欲動は、もっと根本的・体系的水準において、資本主義に固有なものである。全き資本家機械へと駆り立てるものとしての欲動は、拡張された自己再生産の絶え間ない循環運動に従事する非人格的衝迫である。我々が欲動モードに入るのは、資本としての貨幣の循環がそれ自体目的になったときである。というのは価値の拡張は、絶えず更新される運動内部でのみ起こるのだから(人はここで念頭に置いておくべきである、ラカンのよく知られた欲動の目標 aim と目的 goal とのあいだの区別を。目的 goal とは、欲動がそのまわりを循環する対象である一方、欲動の本当の目標 aim は、この循環の絶えまない継続自体である)。

したがって資本家の欲動はどんな特定の個人にも属さない。むしろ資本の直接的「代理人」(資本家自身・経営者)として振舞う諸個人がそれを露にする。
(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)


マルクスの剰余価値や価値形態論を読み込めば、おそらくこのように捉えざるをえなくなるのだろう。

主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって表象されうるものであるUn sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体は何に対して表象されるのか? ーー使用価値である。 le sujet de la valeur d'échange est représenté auprès - de quoi ? - de la valeur d'usage

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値と呼ばれるものである。この喪失は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。(ラカン、セミネールⅩⅥ、D’un Autre à l’autre,1968-1969)

もちろんラカンはここで剰余享楽(対象a)のことを言っている。ラカンはマルクスの剰余価値Merhwert に触れるなかでドイツ語で剰余享楽のことを示しているほどである、《Mehrlust, plus-de-jouir en analogue au Merhwert》。

ジジェクと同様のマルクス読み、柄谷行人の観点はジジェクと相同的である。

マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である。この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上学的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。

しかし、それを嘲笑したとしても、資本の蓄積欲動は基本的にそれと同じである。資本家とは、マルクスがいったように、「合理的な守銭奴」にほかならない。それは、一度商品を買いそれを売ることによって、直接的な交換可能性の権利の増大をはかる。しかし、その目的は使用することではない。だから、資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』P25-26)

…………

ドゥルーズは晩年まで次のように語っている。

最後に会った時、ミシェル(フーコー)は優しさと愛情を込めて、僕におおよそ次のようなことを言った。自分は欲望 désir という言葉に耐えられない、と。 〔…〕僕が「快楽  plaisir」と呼んでいるのは、君たちが「欲望」と呼んでいるものであるのかもしれないが、いずれにせよ、僕には欲望以外の言葉が必要だ、と。

言うまでもなく、これも言葉の問題ではない。というのは、僕の方は「快楽」という言葉に耐えられないからだ。では、それはなぜか? 僕にとって欲望には何も欠けるところがない。更に欲望は自然と与えられるものでもない。欲望は機能している異質なもののアレンジメントと一体となるだけだ。 〔…〕快楽は欲望の内在的過程を中断させるように見え、僕は快楽に少しも肯定的な価値を与えられない。 〔…〕マゾッホの中で僕の興味を引くのは苦痛ではない。 快楽が欲望の肯定性、 そして欲望の内在野の構成を中断しにくるという考えだ。

〔…〕快楽とは、人の中に収まりきらない過程の中で、人や主体が「元を取る」ための唯一の手段のように思える。それは一つの再領土化だ。(ジル・ドゥルーズ「欲望と快楽Désir et plaisir」 、 『狂人の二つの体制 』)

ーーネット上で拾った文で、今はいつ語られたのか調べていないままだが、冒頭に、《最後に会った時》とあるので、フーコーの死後(1984年)、語られているはずである。