いま私が欲するもの、それはママであった、ママにおやすみをいうことだった、その欲望の実現に通じている道に私はあまりにも突っぱしりすぎた、もうひきかえせない。(プルースト「スワン家のほうへ」井上究一郎訳)
外出している母がもう帰ってこないのではないかと思って
母はどんなにおそくなっても必ず帰ってき
ぼくはすぐに泣き止んだけれど
そのときの不安はおとなになってからも
からだのどこか奥深いところに残っていてぼくを苦しめた
だがずっとあとになって母が永遠に帰ってこなくなったとき
もう涙は出なかった
ーー谷川俊太郎「なみだうた」『モーツァルトを聴く人』
歴史的に見れば、不在のディスクールは女性によって語りつがれてきている。「女」は家にこもり、「男」は狩をし、旅をする。女は貞節であり(女は待つ)、男は不実である(世間を渡り、女を漁る)。不在に形を与え、不在の物語を練り上げるのは女である。女にはその暇があるからだ。女は機を織り、歌をうたう。「糸紡ぎの歌」、「機織りの歌」は、不動を語り(「紡ぎ車」のごろごろという音によって)、同時に不在を語っているのだ(はるかな旅のリズム、海原の山なす波)。そこで、女ではなくて男が他者の不在を語るとなると、そこでは必ず女性的なところがあらわれることになる。待ちつづけ、そのことで苦しんでいる男は、驚くほど女性的になるのだ。男が女性的になるのは、性的倒錯者だからでなく、恋をしているからである。(神話とユートピア、その起源は女性的なところをそなえた人びとのものであったし、未来もそうした人びとのものとなるだろう。)
ときとして不在を立派に耐え忍べることもある。そのとき、わたしは「正常」なのだ。「いとしい人」の出発に耐える「みんな」のやり方を見習っているのだから。かつて、まだほんの子供だったころのわたしに、母と離れて生きることを習慣づけてくれたあの訓練、最初のうちはわたしを苦悶(狂乱とは言わずとも)させずにおかなかったあの訓練に、わたしはいま忠実に従っている。立派に乳離れのできた人間として振舞っている。待っている間も、ひとりで栄養を摂ることができるのだ。母乳以外のないかで。
このように耐え忍ばれる不在とは、忘却以外のなにものでもない。つまり、わたしは間歇的に不実となるのである。それが生き残るための条件なのだ。忘れることがなければ、わたしは死ぬだろう。恋する者は、ときどき忘れることがないと、記憶の過剰と、疲労と、緊張とで死ぬのである(ウェルテルのように)。
(子供のころわたしは忘れることがなかった。「母」が遠くで働いている昼間、いつ終るとも知れぬひとりぼっちの昼間。夕方にいなると、セーヴル=バビローヌのU系統乙のバス停に行き、母の帰りを待ちわびたものだった。何台も何台も、バスは次々と通りすぎたけれど、どれにも母は乗っていなかった。) (ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)「不在の人」)
いやあ不思議だ、いまさらだが
わたくしの愛する作家はみんなマザコンなんだな、
それともすぐれた作家ってのはみなマザコンなんだろうか・・・
断膓亭日記巻之二大正七戊午年 (荷風歳四十)
八月八日。筆持つに懶し。屋後の土蔵を掃除す。貴重なる家具什器は既に母上大方西大久保なる威三郎方へ運去られし後なれば、残りたるはがらくた道具のみならむと日頃思ひゐたしに、此日土蔵の床の揚板をはがし見るに、床下の殊更に奥深き片隅に炭俵屑籠などに包みたるものあまたあり。開き見れば先考の徃年上海より携へ帰られし陶器文房具の類なり。之に依つて窃に思見れば、母上は先人遺愛の物器を余に与ることを快しとせず、この床下に隠し置かれしものなるべし。果して然らば余は最早やこの旧宅を守るべき必要もなし。再び築地か浅草か、いづこにてもよし、親類縁者の人〻に顔を見られぬ陋巷に引移るにしかず。嗚呼余は幾たびか此の旧宅をわが終焉の地と思定めしかど、遂に長く留まること能はず。悲しむべきことなり。
おかあさん
ぼく 七十歳になりました
十六年前 七十八歳で亡くなった
あなたは いまも七十八歳
ぼくと たったの八歳ちがい
おかあさん というより
ねえさん と呼ぶほうが
しっくり来ます
来年は 七歳
再来年は 六歳
八年後には 同いどし
九年後には ぼくの方が年上に
その後は あなたはどんどん若く
ねえさんではなく 妹
そのうち 娘になってしまう
年齢って つくづく奇妙ですね
ーー高橋睦郎「奇妙な日」
今朝がた 夢にあなたを見た
あなたはうしろ向きで
地面に しゃがんでいた
ぼくは声をかけようとしたが
やめた
あなたが ぼくのことを
憶えていない と思えたから
死の床のあなたは
未知のむこうが愉しみだ
と 顔じゅうでかがやいた
むこうがわに着いて
そこがどんなか
知らせる方法が見つかったら
きっと背中を押すから
と ほほえんだ
あれから七年
あなたは忘れてしまったのだ
ーー高橋睦郎「おくりもの 七年後の多田智満子に」より
記念日現象ってのはあるよ
「母親がガラスの器にイチジクの実を入れてほの暗い廊下を向こうから歩いてくる」(中井久夫「発達的記憶論」所収 2002(幼虫(ラルヴァ)と成虫(イマーゴ))
わたくしの記念日は11月4日で、もう34年たってる
グールドと同じ年に生まれひと月違いで死んだ
でもまだうしろ向きで地面に しゃがんでるのはどうしたわけだろう
それにあなたの年齢より8歳も上になってしまったけど
昭和十二年 荷風散人年五十九
三月十八日。くもりにて風寒し。土州橋に往き木場より石場を歩み銀座に飯す。家に帰るに郁太郎より手紙にて、大久保の母上重病の由報ず。母上方には威三郎の家族同居なるを以て見舞にゆくことを欲せず。万一の事ありても余は顔を出さざる決心なり。これは今日俄に決心したるにはあらず、大正七年の暮余丁町の旧邸を引払ひ築地の陋巷に移りし際、既に夙く覚悟せしことなり。余は余丁町の来青閣を去る時その日を以て母上の忌日と思ひなせしなり。郁太郎方への二十年むかしの事を書送りてもせんなきことなれば返書も出さず。当時威三郎の取りし態度のいかなるかを知るもの今は唯酒井晴次一人のみなるべし。酒井も久しく消息なければ生死のほども定かならず。
今朝がた 夢にあなたを見た
あなたはうしろ向きで
地面に しゃがんでいた
ぼくは声をかけようとしたが
やめた
あなたが ぼくのことを
憶えていない と思えたから
死の床のあなたは
未知のむこうが愉しみだ
と 顔じゅうでかがやいた
むこうがわに着いて
そこがどんなか
知らせる方法が見つかったら
きっと背中を押すから
と ほほえんだ
あれから七年
あなたは忘れてしまったのだ
ーー高橋睦郎「おくりもの 七年後の多田智満子に」より
「まあ、奥さま、坊ちゃまはどうなさいました、こんなに泣いて?」とたずねたとき、私の権利で期待できたものとは非常にちがったこのような時間を、良心の呵責で台なしにさせるまいとするかのように、ママはフランソワーズに答えた、「この子自身もわからないのよ、フランソワーズ、神経が立っているのね、早く大きなベッドを私はやすめるようにつくってください、それからあなたも上にあがっておやすみ。」
このようにして、はじめて、私の悲しみは、もはや罰すべき過失ではなく、一種の無意志的な病気と考えられたのであり、人がそんな私の病気を、私に責任がない神経症状として、いまこの場で公然と認めたことになったのである。(……)うれしくなくてどうしよう、ところが私はうれしくなかった。私にはこんな気がした、ママははじめて私に譲歩したのだ、彼女にはどんなに苦しいことだろう、(……)
私は自分が、何か不孝な、目に見えない手で、いま彼女の魂のなかに、最初のしわをきざみつけ、最初のしらがを生えさせてしまった、という気がした。(プルースト「スワン家のほうへ」)
記念日現象ってのはあるよ
「母親がガラスの器にイチジクの実を入れてほの暗い廊下を向こうから歩いてくる」(中井久夫「発達的記憶論」所収 2002(幼虫(ラルヴァ)と成虫(イマーゴ))
その人にとって重要な事件が1周年を迎えるときには、しばしば「記念日現象」というものが起こります。悲しいこともうれしいことも、あらゆる追憶を呼び覚まされることで、空気の肌触りとか温度とか、そういうものが総合的に引き起こすとも言われています。
阪神大震災から1年を迎えるころ、私は新聞に「記念日現象」を警告する文章を書きました。実際に、当時委託していた24時間態勢の電話相談の窓口には、1月17日前後の数日間に集中して百数十件の電話がありました。
人間の身体はさまざまな形で周期づけられています。私自身も脳梗塞の発作と言える目まいを震災から1年たったころに起こしています。そのときは震災1年との関係を意識しておらず、その年の秋に脳梗塞を起こすまで忘れていた。当時の記録を後から読んで、思い出したんです。
また、このころは眠りが浅くなり、就寝途中で目覚めることも多くなりました。ふと時計を見ると(阪神大震災の発生時刻の)5時46分だったことが何度かあり、思わず笑いだしてしまったこともある。これも「記念日現象」なのかもしれません。こうしてみると、時間はらせん状に過ぎてゆくという面があるように思います。しかし普段はなかなか気づかれない。(中井久夫「歳月とこころ」)
わたくしの記念日は11月4日で、もう34年たってる
グールドと同じ年に生まれひと月違いで死んだ
でもまだうしろ向きで地面に しゃがんでるのはどうしたわけだろう
それにあなたの年齢より8歳も上になってしまったけど
妹って感じはぜんぜんしないな
棺のなかにバッハのカンタータ1番,4番と
グールドのレコード入れたんだ