2016年11月8日火曜日

倒錯の三つの特徴

…私が 「倒錯の構造 structure de la perversion」と呼ぶもの。それは厳密にいって、幻想の裏返しの効果 effet inverse du fantasme である。主体性の分割に出会ったとき、己れを対象として定めるのが倒錯の主体である。(ラカン、S.11)

幻想の式 $ ◊ a の読み方(の一つ)は、「シニフィアンの象徴的効果によって分割された主体は、対象a と関係する」である。倒錯においては、この幻想の式が裏返される。すなわち、a ◊ $

もっともこの a には種々の意味がある(参照:リアルな対象a とイマジネールな対象a)。イマジネールな対象a の場合、幻想の式の完全ヴァージョンは次のように書きうる。



※参照:ジジェクが「奇跡の書」と呼んだ「 DOES THE WOMAN EXIST? PAUL VERHAEGHE,1999,PDF)」のp.176

実際の倒錯の構造は、この式の裏返しであるだろう(Aとはもちろん大他者のことである)。もっともこの A を Ⱥ  とするという立場さえ取りうる。Ⱥ とは非全体 pas-tout(大他者の非一貫性)だが、リアルな対象a のことでもある。

自分の観照の眼と、神が彼を見る眼 l'œil dont Dieu le regarde とを混同することの中には、たしかに倒錯的な享楽 la jouissance perverse があるといわざるをえない。(ラカン S.20)

…………

以下、ポール・バーハウ、2001,Paul Verhaeghe、PERVERSION II,PDFより。「「倒錯天国日本」の本当の意味」でいくらか引用した文の前後をもう少し長く訳出する。

とはいえここで示したいのは、バーハウのような観点もあるということであり、これは現在のフロイト・ラカン派の主流の考え方ではない。

そう、あなたがたにはまた、倒錯がある。けれど、それは同じ重みではなかった。というのは本質的に、真の倒錯者はほんとうは自ら分析しないから。したがって、あなたが臨床で経験するのは、倒錯的痕跡をもった主体だけだ。倒錯は疑問に付される用語だ。それは、ゲイ・ムーブメントによって混乱させられ、見捨てられたカテゴリーになる傾向がある。

このように、我々の臨床は本質的に二項特性がある。この結果、我々は長いあいだ観察してきた。臨床家・分析家・精神療法士たちが、患者は神経症なのか精神病なのかと首を傾げてきたことを。あなたが、これらの分析家を見るとき、毎年同じように、患者 X についての話に戻ってゆく。そしてあなたは訊ねる、「で、あなたは彼が神経症なのか精神病なのか決めたの?」。答えは「まだ決まらないんだ」。このように、なん年もなん年も続く。はっきりしているのは、これは満足のいくやり方ではなかったことだ。 (ジャック=アラン・ミレール、Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、2008 私訳、PDF

このラカン主流派の首領ミレールの見解との齟齬になによりも注意して読まなければならない。かつまたバーハウはラカン主流派に抵抗している人物でもある。

この10年のあいだに、ラカンの精神病概念理論化をめぐる二つの重要な発展があった。ポール・バーハウの「現実神経症(現勢神経症)」とジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病」である。(Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis Jonathan D. Redmond、2013(PDF))

《……ポストラカニアンは、実にこれを「ふつうの精神病」用語で理解するようになっている。私はこれを好まない。二つの理由があります。一つは、「ふつうの精神病」概念は、古典的ラカンの意味合いにおける精神病にわずかにしか関係がない。もう一つは、さらにいっそうの混乱と断絶をもたらしています。非精神分析的訓練を受けた同僚とのコミュニケーションとのあいだの混乱・断絶です。》(PSYCHOANALYSIS IN TIMES OF SCIENCE”(An Interview With Paul Verhaeghe,2011 ,PDFーーふつうの妄想・ふつうの父の名・原抑圧の時代

さて、バーハウ、2001の倒錯論である。途中、他の論者等の引用もあるが、黒字強調の小題にて始まる箇所が彼の「倒錯論」からの引用訳出である。

…………


【倒錯の三つの特徴】
①頑固な(融通のない)前性器的シナリオがある。
②そのシナリオが倒錯的主体に強迫的に課されている。
③それを通して、彼(女)は権力と支配の関係性を設置する。
①は古典的特徴である。もっともここでの強調は形容詞に置かれる。すなわち「融通性のない」性格である。疑いもなく、神経症的文脈内でも、前性器的シナリオはいたる処にある。固有の倒錯的特徴は、自由の欠如と組み合わさった「頑固さ」に関わる。

シナリオからのどんな逸脱も、不安と緊張の源泉である。精神分析的観点からは、これを「反復強迫 Wiederholungszwang」の形式ーー「反復 Wiederholen」の形式ではなくーーとして理解しうる。事実、我々が神経症的文脈から知っているように、どの「反復」も、絶えず移行する想像的な欲望の弁証法の内に、何か新しいものを含んでいる。対照的に「反復強迫」ーーフロイトによって外傷神経症のなかに見出されたもの--は、外傷的現実界からの何かを象徴化するその試みにおいて、きわめて融通のなさ(執拗さ)を伴っている。
②の特徴は、倒錯にかんする神経症者の「薔薇の絵(羨望)」とは合致しない。倒錯者はエロティックな官能主義者ではない。全く正反対である。倒錯的主体は基本的に不自由である。彼は殆ど一定不変のシナリオの上演に向かって、衝動的な形を以て駆り立てられている。その上演はとてもしばしば何か奇妙なものとして倒錯者に経験される。そして目的は、まず何よりも不安と緊張の削減である。

上演後、倒錯者は安堵感に出会う。しかしまた、恥・罪・鬱の感情を抱く。言い換えれば、倒錯的主体は分割された主体である。彼は、自身の奇妙な振舞いへと駆り立てる要因自体にさえ気づいていない場合がある程に、二つの部分に分割されている。これが説き明かすのは、倒錯者はその社会生活において、とても正常な人物・社会適応した人物でありうることである。分割された他の部分が彼を乗っ取ったときにのみ、倒錯が瞭然とする。
③は最も興味深い特徴である。そしてこれはいくつかの点にかかわる。臨床的叙述が何度もくり返して示しているのは、倒錯的シナリオは権力関係の設置に至ることである。すなわち他者は支配されなければならない。マゾヒストでさえ、最初から終りまで糸を操っている。彼(女)は、他者がしなければならないことを厳しく命ずる。この権力は純粋に身体的次元には限定されない。さらに先に進んで、倒錯者はとてもしばしば、快楽の新しい倫理の唱導者となる。したがって彼は、自らの権力の掌中となる取り巻き連中を創造する。


【犠牲者から犯罪者への転換】
権力は必ずしも暴力と同義ではない。決定的な事は、彼が他者を支配する関係性の次元にある。これは、すべての倒錯者が法に触れる振舞いをするわけではないことを意味する。反対に、一定の割合の倒錯者たちは自分自身の法を広めようとする。実質的に何の性暴力も犯さずに、彼ら自身の法の伝播と設置の領野内のみに、その倒錯を活かす倒錯者さえいる。

我々は法医学臨床の内で、倒錯の心理起因にかんしてむしろ古典的言明に出会う。簡潔に言おう。性的虐待の犠牲者は、彼ら自身、犯罪者になる危険性がある。元々の虐待は多様な形式を取りうる。性的虐待自体から、肉体的酷使、あるいは間違ったジェンダー配置、そして一般的な無視の範囲まで。この多様性はむしろ混乱をもたらす。というのは共通の要素を正確に指摘するのが困難だから。…我々は底に横たわる構造に焦点を絞る必要がある。すなわち主体・大他者・欠如のあいだの構造的関係性に。

ーーバーハウの2001年時点の仮説は次の通り。

もし我々が倒錯構造をもった患者を見出したいなら、いわゆる心的外傷後ストレス障害、とくにその慢性的形式のDSMのカテゴリーのなかに探し求めるなければならない。

彼はその後、倒錯よりも現勢神経症をめぐる論文・レクチャーが多くなる。

人が、現勢神経症についてのフロイトの叙述と DSM–IV における PTSD (心的外傷後ストレス障害)の叙述を比較するとき、すぐさま数多くの類似性が現れる。まず、現勢神経症と PTSD の両方とって、中心的な臨床現象は不安である。この理由で、DSM–IVにおいて、PTSD は不安障害の見出しのもとに分類されている。この不安の特性はまったく典型的なものだ。すなわち、この不安の精神的加工がない。PTSD の DSM–IV 評価基準に叙述されている恐怖・無力・戦慄は、フロイトにおける不安神経症とパニックアタックの不安とそっくりである。(バーハウ他、2005、ACTUAL NEUROSIS AND PTSD(Paul Verhaeghe and Stijn Vanheule,PDF

もちろん、上の二つのバーハウの叙述からは、「倒錯」と「心的外傷後障害」は、「現勢神経症」を基盤とした心因的構造をもっているという見解になる。

そして現勢神経症の最も基本的な症状とは何か。

「現勢神経症」の主な特徴とは、表象を通しての欲動興奮を処理することの失敗である。(Paul Verhaeghe,Lecture in Dublin, 2008,A combination that has to fail: new patients, old therapists,PDF

中井久夫には次のような問いかけがある。

現実神経症と外傷神経症との相違は、何によって規定されるのであろうか。DSM体系は外傷の原因となった事件の重大性と症状の重大性によって限界線を引いている。しかし、これは人工的なのか、そこに真の飛躍があるのだろうか。

目にみえない一線があって、その下では自然治癒あるいはそれと気づかない精神科医の対症的治療によって治癒するのに対し、その線の上ではそういうことが起こらないうことがあるのだろう。心的外傷にも身体的外傷と同じく、かすり傷から致命的な重傷までの幅があって不思議ではないからである。しかし、DSM体系がこの一線を確実に引いたと見ることができるだろうか。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006『日時計の影』所収)

現勢神経症と外傷神経症は区別がつきがたいのではないか、と言っていることになる。

21世紀にはいる前後から、フロイトの現勢神経症 psychoneurose 概念に強く注目しているのは、わたくしの知る限り、バーハウと日本の中井久夫である。両者とも 心的外傷後ストレス障害 PTSD の研究者としても知られている(参照:ホロコースト生存者の子供たちのPTSD)。

ところで中井久夫には別に、《外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」》、《彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか》という叙述がある。これは上のバーハウの叙述、《性的虐待の犠牲者は、彼ら自身、犯罪者になる危険性がある》と「ともに」読むことができる。

治療における患者の特性であるが、統合失調症患者を診なれてきた私は、統合失調症患者に比べて、外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」であると感じる。この侵入性はヒントの一つである。それは深夜の電話のこともあり、多数の手紙(一日数回に及ぶ!)のこともあり、私生活への関心、当惑させるような打ち明け話であることもある。たいていは無邪気な範囲のことであるが、意図的妨害と受け取られる程度になることもある。彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。世話になった友人に対してストーキング的な電話をかけつづける例もあった。(中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収ーー「トラウマ患者の「暴力」性」)

この見解はフロイトの古典的解釈起源といってもよいだろう。

容易に観察されるのは、性愛の領域ばかりではなく、心的体験の領域においてはすべて、受動的にうけとられた印象が小児には能動的な反応を起こす傾向を生みだす、ということである。以前に自分がされたりさせられたりしたことを自分でやってみようとするのである。それは、小児に課された外界を征服しようとする仕事の一部であって、苦痛な内容をもっているために小児がそれを避けるきっかけをもつこともできたであろうような印象を反復しようと努める、というところまでも導いてゆくかもしれないものである。小児たちの遊戯もまた、受動的な体験を能動的な行為によって補い、いわばそれをこのような仕方で解消しようとする意図に役立つようになっている。医者がいやがる子供の口をあけて咽喉をみたとすると、家に帰ってから子供は医者の役割を演じ、自分が医者に対してそうだったように自分に無力な幼い兄弟をつかまえて、暴力的な処置をくりかえすのである。受動的なことに反抗し能動的な役割を好むということが、この場合は明白である。(フロイト『女性の性愛について』1931)

バーハウ変奏であるなら次の通り。

小さなクララは歯医者に行かねばならない。兄ーー既に10歳で、クララにとってある種の権威の人物であるーーは彼女をひどく脅かした。注射、ドリル、不快な騒音、ひどい苦痛、と。けれどクララは怯まず(比喩的に)歯を食いしばった。家に戻ると、人形相手に同じ遊戯をした、何週間も続けて、だ。歯医者のゲーム、クララは歯医者。この例は幻想の機能を示している。以前に比べてよりよい役を演じるために台本を書き換える。二等兵の役割は通り過ぎる。「よりよい」の意味はふつう、受動的・隷属的の代わりに、能動的・支配的であることである。現実において幻想へと踏み込む歩みは、ほんの半歩先でしかない。幻想には、我々の誰もが、己れの世界のディレクターとなる効果がある。それは「役」を与え、「俳優」を選択する。我々の現実は、虚構の構造をもっている。(ポール・バーハウ、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE,1998,PDF

さて、元の「倒錯論」に戻る。

…………


【母と子の関係】
典型的な子供の世話・躾け状況は、母が中心的役割にあることを示している。母は大他者の最初の化身である。言い換えれば、もし未来の倒錯者が母の想像的ファルスに自身を同一化するなら、そのとき母は何らかの形で関係しているに相違ない。もちろんこれは、現代のポリティカル・コレクトネスの言説内では危険な言述である。そして「母に責めを負わせること」はきわめて疑わしい。それは「分裂病的母」の考え方においてさえ、である。我々は常に思い起こさねばならない、主体自身が、同様に、いつも関わっていることを。

限りあるかも知れないとはいえ、心理起因において主体自身の選択要素はある。それは、フロイトが彼の理論のなかのある時点に、どんな種類の病理が展開するのかを予測するのは不可能だと言った理由である。我々に唯一開かれた可能性は、何かが存在するようになるそのあり方を再構築することである。それにもかかわらず、倒錯構造の基盤において数多くの心因性要因を示すことが可能である。

そしてこの点において、我々は男女のあいだの重要な差異を理解しなければならない。その差異自体が、倒錯は男性の分野だと考えられている理由を説明する。通説では、男たちだけが倒錯者でありうる。女たちはパートナーの倒錯的要求への反応としてのみ倒錯的である。

ラカン的観点からは、これはややナイーヴである。男性の倒錯は明らかにファルス的倒錯である。女性の倒錯は、ファルスのシニフィアンに向けての異なった位置のせいで異なる。事実、ラカンの「アンコール」セミネールにおける性別化の式に従えば、女はファルスのシニフィアンと非全体の両方にかかわる。

臨床的用語では、男は、「ファルス的なもの」と「前性器的なもののファルス的想像化、すなわち部分対象」にのみに心を注ぎ込む。他方、女は非全体 pas-tout としての「自身の身体」、そしてこの「身体の生産物としての子供」に心を注ぎ込む。これは自分自身の欲望である。

この状況が続けば、子供は全体の過程を裏返す試みをするようになる。すなわち受動的ポジションを能動的ポジションへと交換しようとする。そこでは同じ目標でありながら、すなわち原初の共生が損なわれないようにしながら、それ自体の糸を操ることがなされる。

※ここでの「アンコール」セミネールにおける性別化の式とは次の図のことである。



左側が男性、右側が女性であり、男性側にある $ は 対象a に向い、女性側の Lⱥ [Lⱥ Femme]はS(Ⱥ)[非全体 pas-t out ] とΦ [ファルス] に向っている(いくらかの詳細は「S(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme」を参照)。



【倒錯・神経症・精神病の構造】
倒錯と神経症・精神病の構造との診断上の相違を示すのは、それほど困難ではない。

神経症者の場合、母の欲望は外部の世界にある何か・あるいは誰か、すなわち子供と父の彼方に向かう。外部のどこかに、彼女の欲望に応答してくれる誰かがいるに相違ない、それは父や子供では十分でない、と。ここにあるのは、欲望とセクシャリティの問題における典型的な神経症的態度である。神経症者は自分が十分に善いか否かを常に疑っている。ほかの他者の欲望に応答するに十分であろうかどうか、と。この失敗することについての神経症的不安は、想像的去勢の効果である。

精神病の場合、母の留意は子供へと的を絞られている。それは純粋な形式における対象a に削減されている。その意味は、ファルス用語で書き換えられていないということである。父も外部の世界も視界に入って来ない。心因的展開は遥かにいっそう原始的水準で起こる。

この観点からは、精神病と神経症とのあいだに倒錯を位置づけることができる。この発達的履歴の光の下では、成人の倒錯的振舞いは二重の目標をもっていることになる。一方で、母 mother の想像的ファルスであることの原初のポジションを損なわないままでいること。したがって倒錯者は常に母なる大他者 (m) Other を喪失する不安に囚われている。他方で、能動的ポジションを取る必要性。それは他者を支配することである。

倒錯者は彼独自の仕方で大他者の欠如を埋める。これは逆説的結論である(神経症的- 合法的観点からの逆説的という意味で)。倒錯者は大他者の全的享楽のために死に物狂いで活動する。己れ自身をこの他者の享楽のための道具として表す。

この心因読解が意味するのは、倒錯は三世代にわたって研究されなければならないことである。母・彼女の対象(息子、娘)・息子と娘の後の対象。子供固有のジェンダーは影響はないわけではない。というのは二つのジェンダーは欠如に対して異なった位置をもつから。倒錯的男も倒錯的女も両方とも同じ目的を共有している。すなわち、母なる大他者との原初の共生関係の能動的支配の維持である。

ほとんどの事例で、男性の倒錯者は、彼が事態を支配しなければならないとしてさえ、大他者の全的享楽の対象として自らを表す。女性の倒錯者は母のポジションから出発する。その意味は、彼女は自身の欠如を埋め合わせる対象として他者を定義づけるということである。したがって、彼女の対象は子供であるか、彼女自身の身体であるかのどちらかという事実がある。そしてこの二つの対象の相違はきわめて僅少である。なぜなら彼女は子供を彼女自身の身体として考えているから。偶然の一致ではない、倒錯をめぐるフロイトの最も重要な論文が、女性の患者についてのものであり、「子供が叩かれる」1919 についてであるのは。

要約しよう。母は自分の子供を想像的ファルスの位置に保ったままにする。父は受動的観察者の位置に還元される。母の想像的ファルスの位置に同一化した息子は、大他者の位置にある他者に対して同じ過程を能動的に反復する。娘は彼女自身の子供に焦点を当てる傾向がある。こうして原初の過程を反復する。

《彼女は子供を彼女自身の身体として考えている》とあった。これはたとえば、次のラカンの文に依拠しているはずである。

女性の享楽は非全体pas-tout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)彼女は(a)というコルク栓 bouchon de ce (a) を見いだす(ラカン、S.20)

そして女性の享楽 La jouissance féminine とはーーすくなくともアンコールの時点ではーー、ラカンにとって身体の享楽 la jouissance du corps、ファルスの彼岸にある他の享楽 l'autre jouissance でもある。

ファルスの彼方には Au-delà du phallus、身体の享楽 la jouissance du corps がある。(ラカン、S.20)。

もちろんファルスの彼方とは、快原理の彼岸 Jenseits des Lustprinzips のことである。 フロイトは『快原理の彼岸』(1920)の前年の論文でそれを「不気味なもの Das Unheimliche」とした。この語のラカンによる翻訳は外密 Extimité」--主体にとって最も親密でありながら外部にあるもの(非全体の領域に外立するもの ex-sistence)ーーである。初期フロイトはこれを異物 Fremdkörper と呼んだ(参照:「分身Doppelgänger =想像的自我+異物 Fremdkörper」)。


【左手は右手がしていることを知らない】
心因的推論はけっして十分なものではない。我々は構造的観点からも倒錯を解釈しなければならない。しかしながらそのような構造的観点は、フロイト理論を基盤とすれば実質上不可能である。フロイトは、病理問題における差異化要因として、倒錯の事例では否定(否認)という防衛の固有の機制に焦点を絞った。

倒錯的否定の対象は母の去勢にかかわる。とくに自身の母の去勢に。結果として、倒錯者は二重の世界に生きる。一方で、女たちの去勢を認める。他方で、母の去勢が否定される世界がある。二つは出会わない。

この倒錯状況を神経症ーー抑圧が基盤となっているーーの状況と比較するなら、明白な差異がある。抑圧と神経症の事例では、二つの世界は分離されていない。抑圧と抑圧されたものの回帰は常に混淆している。既に『ヒステリー研究』1895の時に、フロイトは、抑圧はけっして全的なものではない、と言っている。そして、抑圧された内容さえ自我自体のなかで作用したままだ、と。

倒錯と否定(否認)の場合、我々は二つの完全に分離された事態に出会う。分割(分裂 splitting )はいっそう遥かに根源的である。左手は右手がしていることや考えていることを知らない。これは治療上、臨床的観察の問いのなかで心に留めて置かねばならない何ものかである。この帰結の一つは、倒錯的主体はずば抜けて分割された主体であり、彼は何によって駆り立てられているかに気づいていない、ということである。とてもしばしば、彼は自らの振舞いを正当化し合理化する必要性を感じる。

治療の水準において、倒錯者の片割れ部分を把握するのは難事である。まさにこの際立った分割のために。ラカンは、彼の構造的推論内部で、フロイトの考え方をふたたび取り上げる。倒錯者は大他者の欠如を、欠如している対象と己れを同一化することによって、否定する。すなわち、倒錯者は母なる大他者 (m)Other の想像的ファルスと己れを同一化する。これは神経症的主体とは対立している。神経症的主体は常に期待し常に恐れている、誰かほかの人物が想像的ファルスを持っているのではないか、と。

倒錯者の目標は、或る享楽の原初の状況を限度なしに再設置することである。彼自身を大他者の享楽の道具のポジションに置くことによって。この点において、彼は象徴的去勢ととものエディプスの法を拒絶するだけではない。それだけではなく、その法に戦い挑み、彼自身の規則によって置き換えようとする。

去勢にかかわるエディプスの法は倒錯者には適用されず、ただ哀れな小市民にだけがそれに服す。彼は例外であり特別な地位にある。(……)

《倒錯者は母なる大他者 (m)Other の想像的ファルスと己れを同一化する》とある。これは一般には神経症者も前エディプス期においては同様である。だが前回引用した同じバーハウ他、2010の論に書かれているように神経症者はそこから「父」の介入によって逃れる。これは倒錯者には起こらない。

標準的には、エディプス的状況・父の機能が、子供のさらなる発達が発生する状況を創り出す。母の欲望が父に向けられるという事実がありさえすれば。

倒錯の心理起因においては、これは起こらない。母は子供を受動的対象、彼女の全体を作る物に還元する。この鏡像化のために、子供は母の支配下・母自身の部分であり続ける。(バーハウ他、2010ーー「倒錯天国日本」の本当の意味

ゆえにラカンは次のように記すことになる。

倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存、すなわち母の欲望への欲望によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 (想像的ファルス)と同一化することである。(ラカン、エクリ、E.554、摘要訳)


【超道徳的主体としての倒錯者】
倒錯は男性-女性の関係性についてのものではない。子供とファリックマザーとのあいだの関係性に排他的にかかわる。次に、彼は超道徳的主体である。立法権をもった主体とさえ言える。性差の因習的法への挑戦は、極めてすぐさま或るポジションへと移行する。彼はそのポジションから、全的享楽を目標にして、彼自身の法・彼自身の支配を押し出す。

偶然の一致では全くない、倒錯者がしばしば、あなた方が思いももうけなかった場所に見出されるのは。すなわち、司法・宗教・道徳・教育の分野である。事実、まさにこれらの舞台は、己れの法を押し出すための特権化された舞台である。(……)


【倒錯者と神経症者の瞭然とした相違】
ここで再び、神経症者における倒錯的特徴との差別化が認知されなければならない。神経症的主体は倒錯性の性的シナリオをただ夢見る主体ではない。彼あるいは彼女は同様に、自分の倒錯的特徴を完全に上演しうる。しかしながらこの上演中、神経症者は大他者の眼差しを避ける。というのはこの眼差しは、エディプスの定義によって、ヴェールを剥ぎ取る眼差し、非難する眼差しでさえあるから。神経症者は父の権威をはぐらかし・迂回せねばならない。その意味はもちろん、彼はこの権威を大々的に承認するということである。

逆に倒錯的主体は、この眼差しを誘発・挑発する。目撃者としての第三の審級の眼差しが必要なのである。このようにして父と去勢を施す権威は無力な観察者に格下げされる…。この状況をエディプス用語に翻訳するなら次のようになる。すなわち、倒錯的主体は、父の眼差しの下で母の想像的ファルスとして機能する。父はこうして無力な共謀者に格下げされる。

この第三の審級は、倒錯的振舞いと同じ程大きく、倒錯者の目標・対象である。第三の審級の不能は実演されなければならない。数多くの事例において、倒錯者は、倒錯者自身の享楽と比較して第三の審級の貧弱さを他者に向けて明示的に説教する。


【性的な法侵犯は必ずしも倒錯ではない】
再び強調するなら、倒錯的関係性へのこの焦点化は、構造的接近法と記述的-法医学的接近法とのあいだの主要な相違である。実際上の性的な法侵犯は、それ自体では必ずしも倒錯ではない。倒錯的構造が意味するのは、倒錯的主体は最初の他者の全的満足の道具へと自ら転換し、他方同時に、二番目の他者は挑まれ受動的観察者のポジションへと無力化されることである。

マルキ・ド・サドの作品は、この状況の完璧な例証である。そこでは読者は観察者である。このようなシナリオの創造は、実際上の性的行動化のどんな形式よりも重要である。というのは、倒錯者による性的行動化は神経症的構造内部でも同様に起こり得るから。……(バーハウ、2001,Paul Verhaeghe、PERVERSION II,PDF


…………

さて前段にいくらか記したことをくり返せば、このバーハウの言うように倒錯と神経症を截然と区別しうるものだろうか、という立場もあるだろう。

……臨床において、「父の名」の名の価値下落は、前代未聞の視野に導いてゆく。ラカンの「皆狂っている、妄想的だ」« Tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant » (Lacan Tout le monde délire、1979)という表現、これは冗句ではない。それは話す主体である人間すべてに対して、狂気のカテゴリーの拡張と翻訳しうる。誰もがセクシャリティについてど うしたらいいのかの知について同じ欠如を患っている。このフレーズ、この箴言は、いわゆ る臨床的構造、すなわち神経症、精神病、倒錯のそれぞれに共通であることを示している。 そしてもちろん、神経症と精神病の相違を揺るがし掘り崩す。その構造とは、今まで精神分裂病の鑑別のベースになっていたものであり、教育において無尽蔵のテーマであったのだが。(ジャック=アラン・ミレール 2012 The real in the 21st century by Jacques-Alain Miller

このミレールの見解は、ラカンの三区分をほとんどお釈迦にするものである。バーハウ自身、倒錯・神経症・精神病の区分ではなく、最近は現勢神経症ーー彼の用語では現勢病理ーーを強調しだしたのはこのあたりの消息にもかかわるのかもしれない。

フロイトの「現勢神経症」概念から導きだされたバーハウの「現勢病理 actualpathology」とは、臨床的スペクトラムーーラカンの三区分(精神病・倒錯・神経症)ーーを渡り動くものである。

現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。この種の関係は、神経衰弱 neurasthenia と「転換ヒステリー」として知られる転移神経症、不安神経症と不安ヒステリーとのあいだで最も明瞭に観察される。しかしまた、心気症 Hypochondrie とパラフレニア Paraphrenie (早期性痴呆 dementia praecox と パラノイア paranoia) の名の下の…障害形式のあいだにもある。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)

バーハウ自身の記述なら次の通り。

フロイトの論拠では、「精神病理」的発達は、どの発達の出発点としての「現勢病理」の核の上への標準的継ぎ足しである。これらの二つは、単一の連続体の二つの両極端として考えられなければならない。どの「精神病理」も「現勢病理」の核を含んでおり、どの「現勢病理」も潜在的に「精神病理」へと進展する。(Lecture in Dublin, 2008 (EISTEACH) A combination that has to fail: new patients, old therapists Paul Verhaeghe(PDF)