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2016年11月7日月曜日

「倒錯天国日本」の本当の意味

英語版 Wikipedia の Perversion の項目は次のような記述で始まっている。

倒錯とは、正常あるいは規範と理解されているものから逸脱する人間行為の一類型である。倒錯用語はしばしば多種多様な逸脱形式を示し得るが、最も頻用されるのは、とりわけ異常な・嫌悪感を与える、あるいは強迫的と考えられる性的行為を示す。

そしてその「倒錯」の項目には次の画像が(のみが)貼り付けられている。



ーー「痴漢」とは標準的にはmolester (Molesting)と英訳されるが、ここではPerverts と訳されている。

日本は、(おそらく通念上)世界に名高い「Beware of Perverts!」、すなわち「倒錯」天国の国ということになる。

それは次の中井久夫の叙述も暗示している。

日本は今、世界最大の児童ポルノ・ビデオ輸出国である。(……)女性の実に半数以上が色々な段階の性的攻撃を受けていることが、小西聖子によって明らかにされた。男性による男性の性虐待はさらに隠微である。学校だけでなく職場をはじめ、いじめがいたるところにある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」)

もし日本の精神科医や精神分析家が社会構造分析をしたいなら、こういったところから始めなければならないのではないだろうか。それにもかかわらず彼らの多くは「倒錯」をめぐって寝言ばかり言っているようにみえる。

ラカンは次のように言っている。

倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存、すなわち母の欲望への欲望によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 (想像的ファルス)と同一化することである。(ラカン、エクリ、E.554、摘要訳)
原文:Tout le problème des perversions consiste à concevoir comment l'enfant, dans sa relation à la mère, relation constituée dans l'analyse non pas par sa dépendance vitale, mais par sa dépendance de son amour, c'est-à-dire par le désir de son désir, s'identifie à l'objet imaginaire de ce désir en tant que la mère elle-même le symbolise dans le phallus.

古典的ラカン派観点からはーー人間の精神構造の三区分「精神病」「倒錯」「神経症」の構造的観点からはーー、性的倒錯行為をするから倒錯者なのではない。神経症者、精神病者も「性的倒錯行為」をする。性的倒錯行為をしない構造的倒錯者もいる。

(倒錯者の倒錯と)神経症者における倒錯的特徴との差別化が認知されなければならない。神経症的主体は倒錯性の性的シナリオをただ夢見る主体ではない。彼(女)は同様に、自分の倒錯的特徴を完全に上演しうる。しかしながらこの上演中、神経症者は大他者の眼差しを避ける。というのはこの眼差しは、エディプスの定義によって、ヴェールを剥ぎ取る眼差し、非難する眼差しでさえあるから。神経症者は父の権威をはぐらかし・迂回せねばならない。その意味はもちろん、彼はこの権威を大々的に承認するということである。

逆に倒錯的主体は、この眼差しを誘発・挑発する。目撃者としての第三の審級の眼差しが必要なのである。このようにして父と去勢を施す権威は無力な観察者に格下げされる…。この状況をエディプス用語に翻訳するなら次のようになる。すなわち、倒錯的主体は、父の眼差しの下で母の想像的ファルスとして機能する。父はこうして無力な共謀者に格下げされる。

この第三の審級は、倒錯的振舞いと同じ程大きく、倒錯社会の目標・対象である。第三の審級の不能は実演されなければならない。数多くの事例において、倒錯者は、倒錯者自身の享楽と比較して第三の審級の貧弱さを他者に向けて明示的に説教する。(バーハウ、2001,Paul Verhaeghe、PERVERSION II,PDF

このポール・バーハウの論文には次のような叙述もみられる。

・倒錯的シナリオの特徴は権力関係の設置に至ることである。すなわち他者は支配されなければならない。マゾヒストでさえ、最初から終りまで糸を操っている。彼(女)は、他者がしなければならないことを厳しく命ずる。

・実際上の性的法侵犯は、それ自体では必ずしも倒錯ではない。倒錯的構造が意味するのは、倒錯的主体は最初の他者(母)の全的満足の道具へと自ら転換し、他方同時に、二番目の他者(父)は挑発され受動的観察者のポジションへと無力化されることである。

・マルキ・ド・サドの作品は、この状況の完璧な例証である。そこでは読者は観察者である。このようなシナリオの創造は、実際上の性的行動化のどんな形式よりも重要である。というのは、倒錯者による性的行動化は神経症的構造内部でも同様に起こり得るから。(同バーハウ、2001)

一番上の文は、ドゥルーズがそのマゾッホ論で叙述した内容と相同的である。

マゾヒストの契約は父親を排除し、父権的な法の有効性の保証と適用の配慮を、母親に転位させることだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳 P.117)

ここでもっと一般論的にいえば「倒錯者」の特徴は権威ではなく権力にある。バーハウの別の論文からなら次の通り。

重要なことは、権力 power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)

権力をめぐっては、中井久夫の「いじめ」論にもすぐれた指摘がある。

・権力欲は(……)その快感は思いどおりにならないはずのものを思いどおりにするところにある。自己の中の葛藤は、これに直面する代わりに、より大きい権力を獲得してからにすればきっと解決しやすくなるだろう、いやその必要さえなくなるかもしれないと思いがちであり、さらなる権力の追求という形で先延べできる、このように無際限に追求してしまうということは、「これでよい」という満足点がないということであり、権力欲には真の満足がないことを示している。

・非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。(……)個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」)

最も厄介なのは、明らかに「倒錯的構造」をもっているのに、自分では倒錯者ではないと思っている連中である。

偶然の一致では全くない、倒錯者がしばしば、あなた方が思いももうけなかった場所に見出されるのは。すなわち、司法・宗教・道徳・教育の分野である。事実、まさにこれらの舞台は、己れの法を押し出すための特権化された舞台である。(バーハウ、2001,Paul Verhaeghe、PERVERSION II,PDF

ところでラカン派精神分析家の藤田博史氏は次のように言っている。

官僚というエリートの集団の発想は、まさにそれが母の欲望にちゃんと答えてきた模範生としてのエリートであるゆえに、母親拘束から抜け出ていない人の集団だという風に考えるべきでしょう。母親拘束のなかで育ってきた優秀なエリートたちは、今度は自らが母親と同一化してその位置に立ち、迷える子羊たる国民を飼い馴らそうとするようになるのです。(藤田博史、セミネール断章 2012年 8月4日講義、PDF)。

藤田氏は直接「倒錯」という言葉を出していないが、これはあの官僚連中は「倒錯者」だと言っているようなものである。

斎藤環のヤンキー論もこの系譜にある。

切断的なものは父性ですね。それで、連続的、包摂的なものを母性と考えれば、厳しい母性がヤンキーだとなる。(斎藤環ーー「「おみこしの熱狂と無責任」気質(中井久夫)、あるいは「ヤンキー」をめぐるメモ」

浅田彰が30年近くまえに記した「共感の共同体」をめぐる指摘もこの文脈のなかで読める。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988 )

最後に海外住まいで日本の最近の状況に疎いが、自他ともに倒錯者としてミトメラレテイル蚊居肢散人に顔を出させていただければ、ツイッターでなにやら囀っている連中の大半は「構造的倒錯者」ーーすなわち「構造的痴漢」の典型である・・・


…………

※付記

ここに発達段階論的に書かれている2010年の論文(バーハウ他)から、その一部を抜き出しておこう。別の話題の論なのでやや簡略化され過ぎている嫌いはあるが、ラカン派の基本的な倒錯心因の捉え方である。

乳幼児の避けられない出発点は、受動ポジションである。すなわち、彼は母の欲望の受動的対象に還元される。そして母なる大他者 (m)Other から来る鏡像的疎外を通して、自己のアイデンティティの基礎を獲得する。いったんこの基礎のアイデンティティが充分に安定化したら、次の段階において観察されるのは、子供は能動ポジションを取ろうとすることである。

中間期は過渡的段階であり、子供は「過渡的対象」(古典的には「おしゃぶり」)の使用を 通して、安定した関係にまだ執着している。このような方法で、母を喪う不安は何とか対処されうる。標準的には、エディプス的状況・父の機能が、子供のさらなる発達が発生する状況を創り出す。母の欲望が父に向けられるという事実がありさえすれば。

倒錯の心理起因においては、これは起こらない。母は子供を受動的対象、彼女の全体を作る物に還元する。この鏡像化のために、子供は母の支配下・母自身の部分であり続ける。したがって、子供は自身の欲動の表象能力を獲得できない。ましてやそれに引き続く自身の欲望のどんな加工も不可能である。

構造的用語で言えば、これはファルス化された対象 a に還元されるということである。その対象a を通して、母は彼女自身の欠如を塞ぐ。母からの分離の過程は決して起こらない。第三の形象としての父は、母によって、取るに足らない無力な観察者に格下げされる。…

こうして子供は自らを逆説的なポジションのなかに見出す。一方で、母の想像的ファルスとなることは子供にとって勝利である。他方で、このために支払う代価は高い。分離がないのだ。自身のアイデンティティへのさらなる発達の道は塞がれてしまう。代りに、子供はその「勝利」を保護する企図のなかで、独特の反転を遂行する。彼は自ら手綱を握りつつ、しかも特権的ポジションを維持したままで、受動ポジションを能動ポジションへと交換しようとする。

臨床的用語では、これは最も歴然としたマゾヒズムである。マゾヒストは、全シナリオを作成してそれを指令しながら、自らを他者にとっての享楽の対象として差し出す。これが他者の道具となる 側面であり、「能動的」とは「指導的」として解釈される条件の下で、瞭然と受動-能動反転がある。倒錯者は受動的に見えるかもしれないが、そうではない。 (……)倒錯者は自らを大他者の享楽の道具に転じるだけではない。彼はまた、この他者を自身の享楽に都合のよい規則システムに従わせる。 (When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe ,2010,PDF)


この文脈でいえば、倒錯といえば男性的な症状だと通説では言われてきたが(主流のラカン派においてさえ)、女性の倒錯も明らかにある。だが今までほとんど語られてこなかった。その精神医学・精神分析における欠陥は、英語版 Wikipediaにさえ指摘されている。

Freud wrote extensively on perversion in men. However, he and his successors paid scant attention to perversion in women. In 2003, psychologist, psychoanalyst and feminist Arlene Richards published a seminal paper on female perversion, "A Fresh look at Perversion", in the Journal of the American Psychoanalytic Association. In 2015, psychoanalyst Lynn Friedman, in a review of The Complete Works of Arlene Richards in the Journal of the American Psychoanalytic Association, noted prior to that time, "virtually no analysts were writing about female perversion. This pioneering work undoubtedly paved the way for others, including Louise Kaplan (1991), to explore this relatively uncharted territory."

このように女性の倒錯は無視されてきた、 ラカンはすでに1973-1974年の「アンコール」セミネールで次のように言っているにもかかわらず(日本ラカン派自体おおむね寝言派である)。

女性の享楽は非全体pas-tout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)彼女は(a)というコルク栓 bouchon de ce (a) を見いだす(ラカン、S.20)