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2016年11月6日日曜日

わたくしはラカン派ではない

またなんたら言ってくる人がいるがーー別の人だと思うがーーわたくしはラカンをよくしらない。わたくしはラカンをまともに読んでいない。わたくしはラカン派ではない。わたくしは教師ではない。ラカンの科学をめぐる考え方を知りたければ、自分で読んだらよろしい。

わたくしの依拠している論文は、次の三つ。そこに引用されているラカン文の前後を原文にあたってみているだけである。

①:ロレンツォ・キエーザ、2010, Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency',PDF

②:この①への応答してあるアレンカ・ジュパンチッチの論、Realism in Psychoanalysis 、Alenka Zupančič、2014、PDF

ラカンの科学理論とは何か。 同種の議論の文脈において、そしてジャン=クロード・ミルネールに依拠しつつ、この問いが最近になって再開された。そしてロレンツォ・キエーザによって大いなる重要性が与えられた。私のこの記事の議論はロレンツォに負っている。(ジュパンチッチ、2014)

③:より基本的にはジュパンチッチの次の叙述。

1、科学は、象徴界内部で形式化されえないどんなリアルもないという仮定に基づいている。すべての「モノ das Ding 」は徴示化 signifying 審級に属するか翻訳されるという仮定である。言い換えれば、科学にとって、モノは存在しない。モノの蜃気楼は我々の知の(一時的かつ経験上の)不足の結果である。ここでのリアルの地位は、内在的であるというだけではなく手の届くもの(原則として)である。しかしながら注意しなければならないことは、科学がモノの領野から可能なかぎり遠くにあるように見えてさえ、科学はときにモノ自体(破局に直に導きうる「抑え難い」盲目の欲動)を体現するようになる。…

2、宗教は、リアルは根源的に超越的な・〈大他者〉の・排除されたものという仮定に基づいている。リアルは、不可能で禁じられており、超越的で手の届かないものである。

3、芸術は、リアルは内在的で手かないものという想定に基づいている。リアルは、表象に常に「突き刺さっている」、表象の他の側あるいは裏側に、である。裏側は、定められた空間に常に内在的でありながら、また常に手が届かない。どの動きも二つの物を創造する。目に見えるもの/見えないもの、聞こえるもの/聞こえないもの、イメージ可能なもの/不可能なもの。このように、芸術は常に境界と戯れる。境界を創造・移動・越境する。境界の彼方に「ヒーローたち」を送り込むのだ。しかしまた、鑑賞者を境界の「正しい」側に保つ。(ジュパンチッチ、Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan、PDFーー地球における最悪の病原菌)

以上