2016年11月4日金曜日

猿の沈没

其れはまだ人々が「愚」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。(谷崎潤一郎『刺青』)

ははあ、もう沈没しちまったようだな、「愚」と云う貴い徳に溢れ返る貴君は。やめておいたほうがいい、と何度か言ったはずだがね。「愚」は「愚」らしくしていたらよろしい。谷崎のいうようにそれはなんのわるいことでもない。

蚊居肢散人による投稿せずままの「科学版在庫」は、まだ10ほどあるんだが残念だな。前回のは、ほんのサワリなんだがね。もうすこしサワリをここに掲げておくよ。

近代科学にとって……、自然は、科学の数学的公理の正しい機能に必要であるもの以外にはどんな感覚的実体もない。(ジャン=クロード・ミルネールJean-Claude Milner, Le périple structural, 2002、私訳)
科学が物理学においてわれわれに捉えさせてくれた現実の構造はもはや知覚理論には関与しないということを、なぜ認めようとしないのだろうか。…あらゆることが示しているのは、ガリレオの動力学が天体を大地に組み込むことは重さに関するものや impetus(弾み、推進力、起動力)の知覚的直感の拒否によって得られたのだということである。(ラカン、メルロポンティ追悼 Merleau-Ponty: In Memoriam)

ーージャン=クロード・ミルネールは、ラカンを「拡張されたガリレオ主義」(le galiléisme étendu)者と呼んでいる(PDF)。

彼のことはつい一年前までまったく知らなかったが、なかなかの「男前」の人物だよ。




近代科学は…対象の数学化を要求する。それは対象が数学的本質であることを要求しない。したがって対象が永遠・完璧であることを要求しない。……むしろ、反対に、数学化の手段によって、対象の把握を目指す。数学化において、対象はそれ自体と異なることもありうる。対象は、実験上の、偶然的・反復的、したがって一時的な性質をもちうる。(ジャン=クロード・ミルネールJean-Claude Milner, Le périple structural, 2002、私訳)

数学・科学は、「物質性の還元」、「自然の現実の忘却」 を基盤としている。まずなぜそれを認めようとしないんだろう? 世界は数学的「言語」で構造化されていることを。

我々は次の事実の視界を見失うべきではない。すなわち、科学によって探求される構造、《リアル、その内部に言説自体が帰結をもたらすものとしてのリアル réel dans lequel le discours lui-même a des conséquences 》は、同時に《最もリアルなもの le plus réel…全く隠喩ではなくnulle métaphore…リアル自体 le réel même》であるという事実を。

言い換えれば、《必然性と偶発的なものの多様性を以った帰結概念自体 la notion même de conséquence avec ses variétés du nécessaire ou du contingent》、ーーつまり蓋然的偶然としてのオートマンーーは、科学の言説によって為される言語の「物質性の還元 Réduction de matériel」と共存する。すなわち、「自然の現実の忘却 l'oublie comme réalité naturelle」を伴っているにも拘らず、それをそっくり保存し続けている。

我々はここで新しく意想外の観点を提供されている。「科学と真理」が、因果性の物質的次元の科学による排除と精神分析の共謀的ヴェール剥ぎ(科学の言説の覆いを取り除くこと)と定義したことについての予期されなかった転回である。それ自体としてどんな帰結もない。ゆえに必然性と偶発性とにあいだのどんな区別もない。非言語学的性質だけではなく、自然言語としての言語の水準においても同様である。すなわちーー非論証的/論証的ーー世界は、無因果(あるいは対象aの因果 l'a-cause)的である。事実、そのような区別は、ラカンが明記するように、全体化するメタ言語、つまり《数学的論理 logique mathématique》の導入を要求する。それは、自然言語としての言語のなかのメタ言語の欠如として現れるものを補填しようと努めることによって、《論証的亀裂 clivage discursif》を生み出すことに終わる。というのは《どんな論理もすべての言語を囲い込むことはできない pas plus de logique qui enserre tout le langage》から。(ロレンツォ、2010, Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency',PDF

ラカンが「拡張されたガリレオ主義者」であるなら、柄谷行人も同じく(すくなくともある時期までの柄谷、社会運動を起こす以前の柄谷は)。

実際の数学の発展は“基礎”などに関知しない“応用数学者”によってなされており、また数学の発展はつねに“非合理的”になされてきたのである。他方“純粋数学者”もまた“基礎”にかかわるかぎりペーパーを書けないという体制の下で、“基礎”にかんして無関心である。(『隠喩としての建築』)

もちろん一般には応用科学者でよいのだが。その応用によってーー同じエピステーメ内であるならーー、成果を出すことができる。「猿」もそれに励んでおればよろしい。科学信者ーープラトニストーーでなんの悪いこともない。そもそも凡庸な科学者は、信仰を疑わないことで成り立っている。それはノーベル賞をとったって同じ。

浅田)アルチュセールがおもしろいことをいっている。科学者は最悪の哲学を選びがちである、と(笑)。細かい実験をやってて、そこではすごくハードな事実に触れているのに、それを大きなヴィジョンとして語り出すと、突然すごく恥ずかしい観念論になっちゃうことがあるわけ。それこそアニミズムとかね。 (浅田彰ーー村上龍との対談、2000)

ノーベル物理学受賞者のなかにも「すごく恥ずかしい観念論者」はいくらでもいるんじゃないか。蚊居肢散人は彼らにほとんど関心がないが。故郷の同じ小学校出身のノーベル物理学賞者が一人いるがね。

現代数学は、集合論と記号論理学によって、全数学領域を統一的に基礎づけることができるというたてまえに立っている、実際には、集合論のパラドックスからはじまり、ゲーデルの証明によってとどめをさされたように、それは不可能なのだ。むろん、このような‟基礎論”は、実践的な数学者=発明家にとっては無関係である。ある数学者はいっている。《われわれは、ウィークデーはプラトニストであり、日曜日は形式主義者となる》(デイヴィス、ハーシュ「数学的経験」)(『探求Ⅰ』)
ウィトゲンシュタインは、数学の哲学の根本問題と「私的言語論」の根本問題ーー感覚言語の問題ーーを、共に彼のパラドックスから発生しているところの、根源的には同一の問題である、と見なしている。

《私的言語論でほんとうに否定されているのは、規則に従っている、という事についての「私的モデル」である。》(クリプキ「ウィトゲンシュタインのパラドックス」)。

(……)言語について考えるとき、われわれは通常対象(物)に関係づけてしまう。ところが、言語の一方の極限である数学を例にとると、そうはいかない。数学的対象が実在していて、数学者はそれを探求し‟発見”するのだと考えるプラトニズム(ほとんど実際の数学者はそう信じている)を受けいれないとすれば、数学は、いわば規則を‟発明”する実践的な過程にほかならなくなる。この問題について語る前に、われわれは、数学的言語が、その‟対象”が実在するか否かが古代から問われた領域であり、むしろそこからギリシャの「哲学」の問題が出てきたことを確認しておこう。さらにまた、数学を、形式てな規則の体系(公理系)としてみる十九世紀後半の動向から、言語を、対象(レフアレント)と無関係に形式的な差異体系としてみる視点が出てきたことを。(柄谷行人『探求Ⅰ』)

この数学的言語の使用による「世界の貧困化」(中井久夫)は、日常言語でも同じ。というかそもそもラカンの「数学論」「科学論」は日常言語論からの演繹。

言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 p.66)

ラカンによる「数学」への言及の起源はこういったところにある。《言語による物の殺害》(ラカン、1953)とはまずは「世界の減圧、貧困化」のことを言っている。これをジジェクは巧みに記している。

ヘーゲルが何度も繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。もっとパセティックな言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが次のように言うのを好んだように。つまり、私は話しているのではない。私は言語によって話されている、と。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。ダイレクトな動物的生の代理人であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

もっとも貴君はプラトニストどころか、「素朴な実感主義」者、「経験したものでなければわからない」派、「天動説の現代版」派じゃないのかね、こういった語彙群を使って斎藤環は10年ほどまえ茂木ちゃんを罵倒していたが。

とはいえ蚊居肢散人は「クオリア」について批判するつもりはない。仮に《クオリアは言語活動がもたらした幻想の一種》であろうとも(「斎藤環ー茂木健一郎の往復書簡」)。

われわれのやっていることの基盤は、日常言語であれ数学言語であれすべてその「言語」を通した「幻想」によるものなのだから。

幻想をフェティッシュと言い換えてもよい。

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (ラカン,S.10)
フェティッシュと幻想は同じ地位にある。(Vincent Zumstein, 2006)
倒錯とは、欲望に起こる不意の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である。(JACQUES-ALAIN MILLER: THE OTHER WITHOUT OTHER、2013)

すなわち己れが倒錯者ではないと信じ込んでいる連中こそが究極の「倒錯者」、ラカン曰くの père-version(父のヴァージョン=倒錯)、 「天動説の現代版」派の典型であるだろう。

それはクリステヴァがとっくの昔に言っている(もっとも起源はさらに遡ってマルクスにあるが)。

しかし言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980ーー言語自体がフェティッシュである

前回、貴君は19世紀に退行しているといってしまったが、シツレイした。蚊居肢散人の誤謬であった。ガリレオ以前、15世紀人と言うべきだった。

それともピラミッド以前の時代人だろうか。

個人にとって、強大な帝国の支配下にあるのと、乱世といずれが幸福かは、にわかにいうことができない。さらにいえば、歴史は、四大河流域における文明の勃興をなお善であり、進歩とするが、しかし、生涯をピラミッドの建設や運河の掘削に費やす生活と森の狩猟採集民の生活とのいずれを選ぶかは答えに窮する問題である。「桃源郷」は前者が夢見た後者であろう。(中井久夫「治療文化論再考」初出1994)

それであるならなんと幸福なことよ! ウラヤマシイ!!