このブログを検索

2016年9月22日木曜日

地球における最悪の病原菌

地球から見れば、ヒトは病原菌であろう。しかし、この新参者はますます病原菌らしくなってゆくところが他と違う。お金でも物でも爆発的に増やす傾向がますます強まる。(中井久夫「ヒトの歴史と格差社会」2006.6初出『日時計の影』所収)



地球にとってもっともよいのは、三分の二の人間が死ぬような仕組みをゆっくりとつくることではないだろうか。 (ジジェク『ジジェク、革命を語る』2013)

わたくしはおおむね「科学者」という種族をあまり好まなかったのだがーーさらにいっそう福島原発災害のときのツイッターでの「理系専門家」の木瓜の華の百花繚乱ぶりにあきれ果てたーー、最近は、彼らは実のところ近未来、地球に最も貢献する種族かもしれないと思い返すようになり、いままでの蔑視に忸怩たる思いを抱いている。

ラカンは、芸術=ヒステリー、宗教=強迫神経症、科学=パラノイアとして、人間の昇華形式の三様式[…l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science(Lacan,S.7)]と言っているが、次の文はたぶんそれにかかわるはずだ。

1、科学は、象徴界内部で形式化されえないどんなリアルもないという仮定に基づいている。すべての「モノ das Ding 」は徴示化 signifying 審級に属するか翻訳されるという仮定である。言い換えれば、科学にとって、モノは存在しない。モノの蜃気楼は我々の知の(一時的かつ経験上の)不足の結果である。ここでのリアルの地位は、内在的であるというだけではなく手の届くもの(原則として)である。しかしながら注意しなければならないことは、科学がモノの領野から可能なかぎり遠くにあるように見えてさえ、科学はときにモノ自体(破局に直に導きうる「抑え難い」盲目の欲動)を体現するようになる。…

2、宗教は、リアルは根源的に超越的な・〈大他者〉の・排除されたものという仮定に基づいている。リアルは、不可能で禁じられており、超越的で手の届かないものである。

3、芸術は、リアルは内在的で手かないものという想定に基づいている。リアルは、表象に常に「突き刺さっている」、表象の他の側あるいは裏側に、である。裏側は、定められた空間に常に内在的でありながら、また常に手が届かない。どの動きも二つの物を創造する。目に見えるもの/見えないもの、聞こえるもの/聞こえないもの、イメージ可能なもの/不可能なもの。このように、芸術は常に境界と戯れる。境界を創造・移動・越境する。境界の彼方に「ヒーローたち」を送り込むのだ。しかしまた、鑑賞者を境界の「正しい」側に保つ。(ジュパンチッチ、Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan、PDF)

いささか図式的すぎる説明であるにもかかわらず、科学の時代ーーエビデンス主義などということがまことしやかに語られる時代ーーの現在においては、豊かな示唆をもっている。

いやわたくしはエビデンス主義というものの実態をよく知らないのだが、たとえば「科学史家」トーマス・クーンの半世紀ほど前の指摘をどうやって処理しているのだろう?

T.S.クーンは、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはから客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。つまり、経験的なデータが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわり認識論的パラダイムで見出される、とする。(柄谷行人『隠喩としての建築』)

ジュパンチッチの文に戻れば、《科学はときにモノ自体(破局に直に導きうる「抑え難い」盲目の欲動)を体現するようになる》とは、ハイデガーやラカンの「科学と真理」論文などに依拠する考え方である。

はじめて意志が、全面的に技術のうちに整備されて、大地を力づくで疲弊させ、濫用しつくし、人工のものに変えてしまうのである。技術は大地を、それにとって〈可能なもの〉という元来の圏域を超えて、もはや〈可能なもの〉ではなく、したがって〈不可能なもの〉であるようなものへと強いる。(ハイデガー『技術への問い』)

これらは現在なら、まずは環境汚染、原子力開発、あるいは遺伝子工学やクローン技術などを想起すればよいだろう。

このような「無頭の」知の範例的ケースは、(死の)欲動の「盲目的執拗性」を例証している現代科学によって提供されているのではないだろうか?

現代科学(微生物学や遺伝子操作や粒子物理学)はコストを度外視してその道を歩んでいる――満足はここで知それ自体によって提供されており、科学的知はいかなる倫理や公共の目的にも奉仕していない。遺伝子操作や医学実験などについての適正な運営のルールを定めようとしている「倫理委員会」が近頃増えつつあるが、それらのすべての「倫理委員会」は、究極的には、内在的な限界付け(簡潔に言えば、科学的態度に内在的な倫理)を知らない科学の無尽蔵な欲動的-発展を再び刻み付けようとする必死の試みではないだろうか?

「倫理委員会」は人間の目的を制限し、科学に「人間の顔」という限界付けを与えようとしているのだ。近頃の凡庸な叡知(commonplace wisdom)は「科学装置を通して自然を操作する私たちの並外れた力は、生きがいのある存在を導いたり、この強大な力を使うための私たちの能力をしのいでいる」と言っている。このように「欲動を追う」現代倫理は、伝統的倫理と衝突する。そこで人は、適切な基準というスタンダードにしたがって人生を送るよう指導され、人生ののすべての側面を、《善》というすべてを包み込む考えに従属させられてしまう。

もちろん、問題は、倫理についての二つの考えがバランスをとれないということにある。科学的欲動を生命の制限へと再び刻み付けるという考えは、最も純粋にファンタスム的なものである――これはおそらくファシストの基本的ファンタスムであろう。この類の制限はすべて、科学に内在的な論理とはまったく無縁なものである――科学は現実的なものに属しており、享楽の現実界の一つのモードとして、象徴化のモダリティにはそぐわないし、社会生活に影響を与えるようなやり方にもそぐわないのだ。(ジジェク『欲望:欲動=真理:知』

あるいは次のようにゴダール=蓮實重彦を引用することもできる。

ゴダールは)、「20世紀の夜明け」に起こったこととして「テクノロジーは、生を複製することに決め、そこで写真と映画が発明された」ともいっているが、すぐさま「喪の色である黒と白とともに、映画術が生まれたのだ」とつけ加えることをゴダールは忘れない。(……)さらに「映画は生命の動きを模倣しようとしたのだから、映画産業がまず最初に、死の産業に売り渡されたのは、当然で、理に適ったことだった」と語りなおされることになるだろう。(……)

テクノロジーが知らずにいたのはこのことだ。すなわち、生の模倣が死の模倣と同じ仕草におさまるしかないことを、技師者たちはいまなお知ろうとしないのである。

そのことの傍証であるかのように、ゴダールは、「1B」(『(複数の)映画史』)の「ただ一つの歴史」で、『ラ・シオタ駅への列車の到着』のしばらく後、アウシュヴィッツへと人々を運ぶ列車のイメージをフラッシュのようにごく短く挿入してみせる。あたかも、公共機関としての鉄道は、強制収容所へと無数のユダヤ人を運ぶ装置として発明されたといわんとするかのように。

どこで読んだのか定かではないが、デジタル技術の映画への貢献は何かと聞かれたゴダールが、それはイメージの質を向上させるための技術ではいささかもないと断言していたことが思いだされる。それは、イメージを圧縮してまとめて運ぶために考案された技術にほかならず、それは貨車いっぱいに人をつめこんで移送するようなものだと彼はいっていたはずだ。この比喩は明らかに強制収容所へと犠牲者を運ぶ列車のイメージを思わせる……(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』)

いずれにせよ20世紀に人口爆発だけではなくとんでもないことが起こってしまったということに無自覚な「科学者」たち、とくに工学的な頭の無頭の acéphale の死の欲動が、今度は逆に、ヒトというとんでもない病原菌の猖獗を近未来亡ぼしてくれるに違いない。

繰り返すが、ヴィリリオを引くまでもなく科学技術の問題はきわめて重要だし、「あくまで現実的に何が可能かを見極めようとする工学的な思考」はとことん徹底されなければならない。しかし、それがすべてだ、それ以外のいわゆる哲学的(あるいはもっと広く人文学的)な思惟などと いうのはノンセンスな夢想に過ぎない、という実証主義的批判は、それ自体、大昔から繰り返されてきた紋切型に過ぎず、受け入れることができない。必要なのは、すべてを工学的思考に還元することではなく、人文学的なものを工学的に思考すると同時に工学的なものを人文学的に思考することなのだ。私は「事故の博物館」の頃から(いや、もっと以前から)現在にいたるまで、そのような立場を一貫して維持してきたつもりである。そして、それが最初に示唆するのは、地球 環境問題が、もとより主観的な良心の問題(「やるだけやったし、まいっか」)ではないと同時に、客観的な工学の問題に尽きるものでもなく(現在をはるかに 凌ぐ計算力をもったシミュレータが出現しても、最終的にすべてを明確な因果関係によって把握することはできないだろうが、問題は、むしろ、そうした不完全 情報の下でいかに判断するかということなのだ)、文明のあり方そのものにかかわる思想的・政治的・社会的な問題だということなのである。。(浅田彰『続・憂国呆談』ーー「理系/文系」、あるいは「超越論的」をめぐる備忘

工学的なものを人文学的に思考などしなくてもよろしい、どうせ次のようになるに決まっているのだから。

浅田)アルチュセールがおもしろいことをいっている。科学者は最悪の哲学を選びがちである、と(笑)。細かい実験をやってて、そこではすごくハードな事実に触れているのに、それを大きなヴィジョンとして語り出すと、突然すごく恥ずかしい観念論になっちゃうことがあるわけ。それこそアニミズムとかね。 (浅田彰ーー村上龍との対談、2000)

いうまでもなく「科学者」たちの使命は「三分の二の人間が死ぬような仕組み」作りとその実現であり、優秀な科学者であればあるほどその資質がよりいっそう備わっているのは、彼らの真摯なる破廉恥、その無頭の知、その剰余価値ならぬ剰余知の顕現ぶりが証している。

もちろんここでの「科学者」というのは冒頭近くに掲げたように比喩であり、ようはラカンの言う通り、パラノイド的人格者たちのことである。パラノイド的人格者とは、非去勢の主体、あるいは「病理的ナルシシスト」とも言い換えられるのは周知の通り。

……「病理的ナルシシスト」の出現は、それ以前の二形態の根底に共通してあった自我理想の枠と絶縁する。象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、すなわち「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則がいろいろ与えられる。ナルシスト的な主体は、他者たちを操るための「(社会的)ゲームの規則」だけを知っている。社会的関係は、彼にとってはゲームのためのグラウンドである。彼はそこで、本来の象徴的任務ではなく、さまざまな「役割」を演じる。本来の象徴的同一化を含んでいる、自分を縛るような関わりはいっさい持とうとしない。彼は根源的に体制順応者でありながら、逆説的に、自分を無法者(アウトロー)として経験する。(ジジェク、1991)

これは精神分析だけではなく、心理学の分野で既に1989年前後ーーすなわち最後の「父」の死の後ーーから言われ続けていることももちろんご存じであろう。そしていまでは病理的ナルシシストでない人物を探すのが困難になってしまった。

ツイッターなどでまがおで、一人称単数代名詞を使ってーーいや仮に使っていなくても言表内容の主体 sujet de l'énoncé と言表行為の主体 sujet de l'enonciationが一致している思い込んでいるつもりの連中は、ほとんどすべて病理的ナルシシストである。

すなわち、「私は私自身の主人maîtreである」という妄想的(パラノイア的)信念の言説、--《m'être à moi même》(Lacan,S.17)ーーを振り撒いている連中のことである(参照)。

もっともこのたぐいの錯誤を抱く人間はかねてより多数存在しはしたが、やはり「神の死」にひきつづく「父の死」が決定的であった。

どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』)

わたくしはーーもちろんこの一人称単数代名詞はフィクションの「わたくし」であるーー、みなさんの仲間入りできなくて残念だが、どちらかといえば「倒錯者」ではないかと疑っている・・・