2016年9月23日金曜日

ヘルダーリン・プルースト・ラカン あるいはシニフィアンの論理

シニフィアン signifiant は記号 signe とは逆に、誰かに何かを表象するものではなく、主体をもうひとつのシニフィアンに対して表象する représente précisément le sujet pour un autre signifiant ものである。私の犬はご存知のように、私の印、記号を探し、そして話す。なぜこの犬は話す時に言語を使わないのであろう。それは、私はこの犬にとって記号を与えるもので、シニフィアンを与えることはできないからである。前言語的に存在し得るパロールと言語の違いはまさにこのシニフィアンの機能の出現にかかっているのである。(ラカン、セミネールⅨ、向井雅明訳)

《記号とは、つねにある固定された意味を示す。赤信号は「停まれ!」の意味である。シニフィアンとは、底に横たわる絶え間なく変化するシニフィエを示す。結果として固定された意味について語るのは困難である。意味は、この個別のシニフィアンが使用される、より大きな言語学的かつ社会文化的なコンテクストによって決定される。》(ヴェルハーゲ、2004、Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disordersーーラカン派の「記号」と「シニフィアン」

① 《シニフィアンはどんな対象とも関係しない記号である》(S.3)。それは《他の記号と関係する記号であり、それ自体、他の記号の不在を徴示するように構造化されている。言い換えれば、二つ組で己に対立する》(S.3)。さらにシニフィアンは必ずしも(文のなかの)言葉に相当しない。音素から文までの言語のあらゆる階層的レヴェルでの対立するユニットはシニフィアンとして機能しうる。人のボディランゲージもーー例えば、頭を振ったり頷いたり手を振ったり等々ーーそれが多義的である限りにおいてシニフィアンとして働きうる。

② 記号とは、厳密に言えば、コード概念、あるいは「生物学的な記号」と重なり合う何かである。索引と指示物とのあいだのとゲシュタルト的/想像的なーー両一義的な bi-univocal ーー関係である。これは動物のコミュニケーションの領域である(思い起こしてみよう、例えば動物においてある色の出現はそのパートナーにおけるある性的反応を惹き起こす仕方を)。このように動物のコミュニケーションは「(特別の)意味をもつ significant」。他方、人間のコミュニケーションは「徴示する signifying」。その意味はけっして「両一義的」でないことである。というのは根絶できない虚偽の可能性ーー象徴的局面の精髄ーーが間違いなくあるのだから。

③「主体性のどんな科学的定義もない、次ぎのように考え始める以外は。すなわち意味する先ではなくnot significant ends、純粋に徴示するものpurely signifyingに対するシニフィアンを扱うことの可能性から始めること。これは、欲求の秩序とのどんな直接の関係性もないことを言っている」(Seminar. III, p. 189) この定義はすでに1960年代初めのラカンの名高い公式の基本を提示している。その公式によれば、主体はほかのシニフィアンに対するシニフィアンによって表象される。主体はシニフィエに還元され得ない。シニフィエの主体the subject of the signified とは自我egoに相当する。他方、主体はシニフィアンにさえ同一化できない。というのはシニフィアンの行為そのものが言表内容と言表行為のあいだで主体を分裂させるからだ。どんなシニフィアンも主体を十分に徴示することはない、それが「特権的なシニフィアン」であってさえも。(ロレンツォ・キエーザ、2007、Lorenzo Chiesa.、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan)

シニフィアンとは、《他の記号と関係する記号であり、それ自体、他の記号の不在を徴示するように構造化されている。言い換えれば、二つ組で己に対立する》(ラカン、S.3)とあった。

つまり、次の図となる。



最も基本的なところから始めよう。何がシニフィアンの「差異的 differential」性質を構成しているのかと。S1 とS2 、シニフィアンの二個一組の用語(男-女、天-地、明-暗、陰-陽、等々)は、単純には同じレヴェルで現れるわけではない。…「差異性 differentiality」はもっと精密な関係性を示している。

その関係性のなかでは、一つの用語、その現前の対立物は、すぐさま他の用語ではなく、最初の用語の不在・それが記銘された場における空虚である(記名の場と合致する空虚)。そして、他の対立的用語の現前が、最初の用語の不在の空虚を埋め合わせる。これが、典型的二項対立おける、よく知られた「構造主義者」の命題ーー《一つの用語の現前は対立した用語の不在と等価である》--をいかに読まなければならないかのあり方である。
ここで、「昼(日中 day)」と「夜 (night)」という二個一組のシニフィアンの例を取り上げる。この二組は、単純には補完的シニフィアンではない。二つが組み合わされば(「昼」+「夜」)、全体を形作るものではない。むしろ、核心は次の通り。

《人間は「昼」をそれ自体として置く。それによって、昼は、夜という具体的な背景ではなく昼の潜在的不在ーーこの不在のなかに夜が位置づけられるーー という背景に対して、昼として現れる。もちろん逆もまた真である。》(ラカン、S.3.p.331)
したがって、シニフィアンの二個一組内部において、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在の背景に対して現れる。この不在は、その対立物の現前のなかで、物質化されたものーーポジティヴな存在として想定された不在である。ラカンによるこの不在のマテームは、もちろん、斜線を引かれたシニフィアン $ である。

すなわち、一つのシニフィアンはその対立物の不在を埋め合わせる。それは、その対立物の場を「表象」し所有する。…こうして、我々は既にシニフィアンの定式を生み出した。《一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を表象する[un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.]》。

ゆえに我々は理解できるだろう、ラカンにとってなぜ主体のマテーム $ が必要なのかを。すなわち、一つのシニフィアン S1 は、他のシニフィアン S2 に対して、その不在・その欠如 $ を表象する。

ここでの決定的な要点は、シニフィアンの二個一組において、一つのシニフィアンはその反対のシニフィアンの直の片割れでは決してなく、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在を表象(具現)するということだ。二つのシニフィアンは、三番目の用語である「空虚」を通してのみ「差異的 differential」関係性に入る。シニフィアンが差異的であるという意味は、主体を表象するどんなシニフィアンもない、ということである。(ジジェク『為すところを知らざればなり』(Slavoj Žižek For They Know Not What They Do、1991、私訳ーー価値形態論(マルクス)とシニフィアンの論理(ジジェク=ラカン)

上に掲げた図は、四つの言説のなかのひとつ主人の言説の図として展開される(参照:「四つの言説」(ラカン)概説)。



この主人の言説(あるいはヒステリーの言説、大学人の言説、分析家の言説)の形式的構造はつぎの通り。




以下、Serge Lesourdによる説明。

話し手は他者に話しかける(矢印1)、話し手を無意識的に支える真理を元にして(矢印2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印3)。

他者は、そのとき、発話主体に生産物とともに応答する(矢印4)。そうして生産された結果は発話主体へと回帰し(矢印5)、循環がふたたび始まる。 (Lesourd, S. (2006) Comment taire le sujet? )

さらに次のような説明もなされる。




最初の要素は次の通り。他 Autre は、言説の主体としてではなく、主体のパートナーとして発話環境のなかに包含されている。

事実、人間のコミュニケーションは二人の個人のあいだの均等な交換ではない。そうではなく、コミュニケーションとは言説(ディスクール)なのであり、そこでは主体は主体自身によって構築された別の者 へ話しかける。それはこの他 autre が友人であっても変わらない。

それゆえコミュニケーションとは二人の主体のあいだの間主体的なものではない。二人の人物のあいだにおいて、主体Aーー〈私〉と呼ぼうーーは主体Bではない或る主体に話しかける。そして主体Aに応答する〈あなた〉と呼ばれる主体Bは本当は彼の言説の《他〉に応答するのだ。

間主体性という誤解に満ちた特徴の全てのダイナミズムはこの論述構造の特異性から来る。

〈私〉は〈あなた〉に話しかけるのではない。そして〈あなた〉がこの〈私〉に応答するとき、〈あなた〉が応じているのは実際はこの〈私〉ではないのだ。

これがフロイトが転移的反復において発見したことである。すなわち私が話しかける人は「内部の他」、彼自身の言説の他であり、現実の他者ではない。(同、Lesourd, 2006)

ここで柄谷行人の叙述を抜き出してみよう。

たとえば、一人称が聞き手との関係によって違っているような日本語では、一人称と「主体」が混同されることはけっしてなかった。しかし、日本語に「主語がない」ことは、日本語で語る人間に「主体」が無いことをすこしも意味しない。逆にいって、そうした文法的条件は、近代的な主観を乗り越えることをも意味しない。今日、日本語では、文法上の subject と、理論理性としての subject、実践理性としての subject は、それぞれ主語、主観、主体と区別されている。そうしたのは、西田幾多郎であった。この区別は、日本語の性質から直ちに来るものではない。そこに、こうした語が混同されている西洋哲学への「批判」がある。(柄谷行人「非デカルト的コギト」1992『ヒューモアとしての唯物論』所収 p.87ーー「人間の思考はその人間の母語によって決定される」より)

《文法上の subject と、理論理性としての subject、実践理性としての subject は、それぞれ主語、主観、主体》とある。

この柄谷行人と、Serge Lesourd との解釈をーー厳密さをきさずに(つまり柄谷の叙述をそのままシニフィアンの論理に移行させるには牽強付会にすぎるが)ーー混淆させて図示すれば次のようになる。




主体とは、分裂した主体 $(無意識の主体)
主語とは、発話を担う代理人(見せかけsemblant の主体)
主観とは、主体が構成した「内部の他」

ーーここでの主観の定義はあえてこのような意味で使用した、ということである。

「意味」という語が用いられる――全ての場合ではなくとも――多くの場合に、次 のように説明することが出来る:ある語の意味は、言語[ゲーム]におけるその語の使用である。(ウィトゲンシュタイン『探求』)

実際、人は他者に話しかけるときには主体が構成した「内部の他者」であることは、すでにプルーストが指摘しているとさえ言える。

「知った人に会う」とわれわれが呼んでいる非常に単純な行為にしても、ある点まで知的行為なのだ。会っている人の肉体的な外観に、われわれは自分のその人についてもっているすべての概念を注ぎこむ。したがってわれわれが思いえがく全体の相貌のなかには、それらの概念がたしかに最大の部分を占めることになる。そうした概念が、結局相手の人の頬にそれとそっくりなふくらみをつくり、その鼻にぴったりとくっつけた鼻筋を通してしまい、その声に、それがいわば振動する二つの透明な膜にすぎないかのように、さまざまなひびきのニュアンスを出させることになるのであって、その結果、われわれが相手の人の顔を見、その声をきくたびに、目のまえに見え、耳にきこえているのは、その人についての概念なのである。(プルースト「スワン家のほうへ」井上究一郎訳)

主体の分裂については、もっと遡ってヘリダーリンを引用してもよい。

私が、私は私だというとき、主体(自己)と客体(自己)とは、切り離されるべきものの本質が損なわれることなしには切り離しが行われえないように統一されているのではない。逆に、自己は、自己からのこの切り離しを通してのみ可能なのである。私はいかにして自己意識なしに、「私!」と言いうるのか?(ヘルダーリン「存在・判断・可能性」

ラカン派では、言表内容の主体 sujet de l'énoncé と言表行為の主体 sujet de l'enonciation が一致している思い込んでいるらしき人々のことを「私は私自身の主人maîtreである」という妄想的(パラノイア的)信念の言説、--《m'être à moi même》(Lacan,S.17)ーーの主体と言う。

ラカンのシニフィアンの定義、「シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代表象する(Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant)」とは、フロイトの公式、「私は自分の家の主人ではない(dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus)」の発展形にすぎない。

ところが、「私は自分の家の主人」だと思い込んでいる言説、つまりはパラノイア的言説の主体のなんという跳梁跋扈!

象徴的権威の崩壊後の世界において、《きみたちは言いうるだろう、もはやどんな恥もないと。vous pouvez dire qu'il n'y a plus de honte. 》(Lacan,S.17, 17 Juin 1970)

ロラン・バルトの穏やかな言い方ならこうなる。

私は、「私」という語を口にするたびに想像的なもののうちにいることになる。(ロラン・バルト『声の肌理』)
人称代名詞と呼ばれている代名詞。すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私〔je〕」は想像界を発動し、「君〔vous〕」と「彼〔il〕」はパラノイアを発動する。(『彼自身によるロラン・バルト』)

もっとも蓮實重彦変奏であるところの「大量の馬鹿が書くようになった時代」であるから致し方がないともいえる・・・

だが、ヘルダーリンはこう言っていることもつけ加えておこう、《わたしは聴く耳をもつ者たちに警告の歌をうたってきかせる。》(「ヘルダーリン『あたかも- 祝祭の日に…』)