2016年9月21日水曜日

ドゥルーズ派諸氏の訳文 réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits

réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits(Proust,Le Temps retrouvé)

ーーこのプルースト文の訳文ヴァリエーション。

現時でなくて現実的であり、抽象的ではなく観念的(プルースト「見出された時」井上究一郎訳,p.325)
現実的ではないが実在的であり、抽象的ではないが観念的である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』宇波彰訳 p.76)
実在的ではあるがアクチュアルではなく、観念的ではあるが抽象的ではない」(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)
現実的 (actuel) であることなしに実在的 (réel) 、 抽象的 (abstrait) であることなしに観念的(ideal)](ドゥルーズとガタリの思想の同一性と差異ーブルースト『失われた時を求めてJ の解釈をめぐって、増田靖彦、PDF)
Real without being present, ideal without being abstract.(Gilles Deleuze, Proust and Signs, Translated by Richard Howard)

いやあ、マジでなんとかしてくれないかな、この文ってのはドゥルーズの「潜在的なもの」の核心の定義(のひとつ)ではないのか。

潜在的なものは、実在的なものには対立せず、ただアクチュアルなものに対立するだけである。潜在的なものは、潜在的なものであるかぎりにおいて、或る十全な実在性を保持しているのである。潜在的なものについて、まさにプルーストが共鳴の諸状態について述定していたのと同じことを述定しなければならない。すなわち、「実在的ではあるがアクチュアルではなく、観念的ではあるが抽象的ではない」ということ、そして、象徴的ではあるが虚構ではないということ。(ドゥルーズ『差異と反復(下)』財津理訳,河出文庫,2007年,p.111)

Le virtuel ne s'opposent pas au réel, mais suelement à l'actuel. Le virtuel possède une pleine réalité, en tant que virtuel. Du virtuel, il faut dire exactement ce que Proust disait des états de résonance : « réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits » ; et symboliques sans être fictifs .

《現実的ではないが実在的であり、抽象的ではないが観念的である。》――この観念的な実在的なもの、この潜在的なものが本質である。本質は、無意識的に記憶されたものの中に実在化または具体化される 。ここでも、芸術の場合と同じく、包括と展開は、本質のすぐれた状態として留まっている。そして、無意識的に記憶されたものは、本質の持つふたつの力を保持している。それは、過去の時間での差異作用と、現在の時間の中での反復作用である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』宇波彰訳 P.76)
« Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits. » Ce réel idéal, ce virtuel, c'est l'essence. L'essence se réalise ou s'incarne dans le souvenir involontaire. Ici comme dans l'art, l'enveloppement, l'enroulement, reste l'état supérieur de l'essence. Et le souvenir involontaire en retient les deux pouvoirs : la différence dans l'ancien moment, la répétition dans l'actuel. (Gilles Deleuze, Proust et les signes, ROLE SECONDAIRE DE LA MÉMOIRE )

宇波彰訳は、1977年という最初期の訳なので、それほど文句を言うつもりはないが、失礼ながら英訳を付記させていただく。

"Real without being present, ideal without being abstract." This ideal reality, this virtuality, is essence, which is realized or incarnated in in voluntary memory. Here as in art, envelopment or involution remains the superior state of essence. And involuntary memory retains its two powers: the difference in the past moment, the repetition in the present one.Gilles Deleuze, Proust and Signs, Translated by Richard Howard )

いずれにせよ「象徴的ではあるが虚構ではない symboliques sans être fictifs」もの、「この観念的な実在的なもの、この潜在的なものCe réel idéal, ce virtuel」がエッセンスなんだろ?

ーーオレはドゥルーズは知らないから、すくなくともこの時期のドゥルーズは、と言っておくが。

オレの愛するプルーストをずたずたにしないでくれたまえ、ドゥルーズ派諸君!

以下の文が「潜在的なもの」の定義の核心だよ、チガウカイ?


◆プルースト「見出された時」(井上究一郎訳)

ーーこの箇所は今まで何度も引用してきたが、ここでは仏文もあわせて資料として引用する。

単なる過去の一瞬、それだけのものであろうか? はるかにそれ以上のものであるだろう、おそらくは。過去にも、そして同時に現在にも共通であって、その二者よりもさらにはるかに本質的な何物かである。これまでの生活で、あんなに何度も現実が私を失望させたのは、私が現実を知覚した瞬間に、美をたのしむために私がもった唯一の器官であった私の想像力が、人は現にその場にないものしか想像できないという不可避の法則にしばられて、その現実にぴったりと適合することができなかったからなのであった。

Rien qu'un moment du passé ? Beaucoup plus, peut-être ; quelque chose qui, commun à la fois au passé et au présent, est beaucoup plus essentiel qu'eux deux. Tant de fois, au cours de ma vie, la réalité m'avait déçu parce que, au moment où je la percevais, mon imagination, qui était mon seul organe pour jouir de la beauté, ne pouvait s'appliquer à elle, en vertu de la loi inévitable qui veut qu'on ne puisse imaginer que ce qui est absent.
ところが、ここに突然、そのきびしい法則の支配力が、自然のもたらした霊妙なトリックによって、よわまり、中断し、そんなトリックが、過去と現在とのなかに、同時に、一つの感覚をーーフォークとハンマーとの音、本のおなじ表題、等々をーー鏡面反射させたのであった。そのために、過去のなかで、私の想像力は、その感覚を十分に味わうことができたのだし、同時に現在のなかで、物の音、リネンの感触等々による私の感覚の有効な発動は、想像力の夢に、ふだん想像力からその夢をうばいさる実在の観念を、そのままつけくわえたのであって、そうした巧妙な逃道のおかげで、私の感覚の有効な発動は、私のなかにあらわれた存在に、ふだんはけっしてつかむことができないものーーきらりとひらめく一瞬の持続、純粋状態にあるわずかな時間――を、獲得し、孤立させ、不動化することをゆるしたのであった。

Et voici que soudain l'effet de cette dure loi s'était trouvé neutralisé, suspendu, par un expédient merveilleux de la nature, qui avait fait miroiter une sensation – bruit de la fourchette et du marteau, même inégalité de pavés – à la fois dans le passé, ce qui permettait à mon imagination de la goûter, et dans le présent où l'ébranlement effectif de mes sens par le bruit, le contact avait ajouté aux rêves de l'imagination ce dont ils sont habituellement dépourvus, l'idée d'existence et, grâce à ce subterfuge, avait permis à mon être d'obtenir, d'isoler, d'immobiliser – la durée d'un éclair – ce qu'il n'appréhende jamais : un peu de temps à l'état pur.
あのような幸福の身ぶるいでもって、皿にふれるスプーンと車輪をたたくハンマーとに同時に共通な音を私がきいたとき、またゲルマントの中庭の敷石とサン・マルコの洗礼堂との足場の不揃いに同時に共通なもの、その他に気づいたとき、私のなかにふたたび生まれた存在は、事物のエッセンスからしか自分の糧をとらず、事物のエッセンスのなかにしか、自分の本質、自分の悦楽を見出さないのである。私のなかのその存在は、感覚機能によってそうしたエッセンスがもたらさえない現在を観察したり、理知でひからびさせられる過去を考察したり、意志でもって築きあげられる未来を期待したりするとき、たちまち活力を失ってしまうのだ。意志でもって築きあげられる未来とは、意志が、現在と過去との断片から築きあげる未来で、おまけに意志は、そんな場合、現在と過去とのなかから、自分できめてかかった実用的な目的、人間の偏狭な目的にかなうものだけしか保存しないで、現在と過去とのなかの現実性を骨ぬきにしてしまうのである。

L'être qui était rené en moi quand, avec un tel frémissement de bonheur, j'avais entendu le bruit commun à la fois à la cuiller qui touche l'assiette et au marteau qui frappe sur la roue, à l'inégalité pour les pas des pavés de la cour Guermantes et du baptistère de Saint-Marc, cet être-là ne se nourrit que de l'essence des choses, en elles seulement il trouve sa subsistance, ses délices. Il languit dans l'observation du présent où les sens ne peuvent la lui apporter, dans la considération d'un passé que l'intelligence lui dessèche, dans l'attente d'un avenir que la volonté construit avec des fragments du présent et du passé auxquels elle retire encore de leur réalité, ne conservant d'eux que ce qui convient à la fin utilitaire, étroitement humaine, qu'elle leur assigne.
ところが、すでにきいたり、かつて呼吸したりした、ある音、ある匂が、現在と過去との同時のなかで、すなわち現時ではなく現実的であり、抽象的ではなく観念的である Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits アクチュアルではなくリアルなもの、抽象的ではなく観念的なものである」二者の同時のなかで、ふたたびきかれ、ふたたび呼吸されると、たちまちにして、事物の不変なエッセンス、ふだんはかくされているエッセンスが、おのずから放出され、われわれの真の自我がーーときには長らく死んでいたように思われていたけれども、すっかり死んでいたわけではなかった真の自我がーーもたらされた天上の糧を受けて、目ざめ、生気をおびてくるのだ。時間の秩序から解放されたある瞬間が、時間の秩序から解放された人間をわれわれのなかに再創造して、その瞬間を感じうるようにしたのだ。それで、この人間は、マドレーヌの単なる味にあのようなよろこびの理由が論理的にふくまれているとは思わなくても、自分のよろこびに確信をもつ、ということがわれわれにうなずかれるし、「死」という言葉はこの人間に意味をなさない、ということもうなずかれる。時間のそとに存在する人間だから、未来について何をおそれることがありえよう?
Mais qu'un bruit déjà entendu, qu'une odeur respirée jadis, le soient de nouveau, à la fois dans le présent et dans le passé, réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits, aussitôt l'essence permanente et habituellement cachée des choses se trouve libérée et notre vrai moi qui, parfois depuis longtemps, semblait mort, mais ne l'était pas autrement, s'éveille, s'anime en recevant la céleste nourriture qui lui est apportée. Une minute affranchie de l'ordre du temps a recréé en nous pour la sentir l'homme affranchi de l'ordre du temps. Et celui-là on comprend qu'il soit confiant dans sa joie, même si le simple goût d'une madeleine ne semble pas contenir logiquement les raisons de cette joie, on comprend que le mot de « mort » n'ait pas de sens pour lui ; situé hors du temps, que pourrait-il craindre de l'avenir ?


ジジェクは、ドゥルーズの「潜在的なもの」は、ラカンの現実界である、と言っている(2012)。現実界の定義のいくらかは「基本版:現実界と享楽の定義」を見よ。

もちろんジジェクは virtuel(潜在的なもの)の語源がvirtus(力能)にあることを知らないわけではない。そして、ニーチェの「力への意志」とは、欲動の現実界のことであるのもわかっている。

力への意志が原始的な情動(Affekte)形式であり、その他の情動(Affekte)は単にその発現形態であること、――(……)「力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

で、もちろんドゥルーズ派諸氏はジジェクは「もちろん誤謬」だというのだろうが、で、貴君たちの「潜在的なもの」はいったい何なんだい? 

オレの潜在的なものとは上のプルーストの文だけどさ、これってラカンの現実界に近似してるぜ

…………

※付記

ドゥルーズは「潜在的対象(対象=x) l'objet virtuel (objet = x)」を語るなかで、フロイトの原抑圧の用語を出している、un refoulement dit « primaire »と。

反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成されるのだ。潜在的対象は、たえず循環し、つねに自己に対して遷移するからこそ、その潜在的対象がそこに現われてくる当の二つの現実的な系列のなかで、すなわち二つの現在のあいだで、諸項の想像的な変換と、 諸関係の想像的な変容を規定するのである。潜在的対象の遷移は、したがって、他のもろもろの偽装とならぶひとつの偽装ではない。そうした遷移は、偽装された反復としての反 復が実際にそこから由来してくる当の原理なのである。反復は、実在性(レアリテ)の〔二つの〕系列の諸項と諸関係に関与する偽装とともにかつそのなかで、はじめて構成される。 ただし、そうした事態は、反復が、まずもって遷移をその本領とする内在的な審級としての潜在的対象に依存しているがゆえに成立するのだ。したがってわたしたちは、偽装が抑圧によって説明されるとは、とうてい考えることができない。反対に、反復が、それの決定原理の特徴的な遷移のおかげで必然的に偽装されているからこそ、抑圧が、諸現在の表象=再現前化に関わる帰結として産み出されるのである。

La répétition ne se constitue pas d'un présent à un autre, mais entre les deux séries coexistantes que ces présents forment en fonction de l'objet virtuel (objet = x). C'est parce qu'il circule constamment, toujours déplacé par rapport à soi, qu'il détermine dans les deux séries réelles où il apparaît, soit entre les deux présents, des transformations de termes et des modifications de rapports imaginaires. Le déplacement de l'objet virtuel n'est donc pas un déguisement parmi les autres, il est le principe dont découle en réalité la répétition comme répétition déguisée. La répétition ne se constitue qu'avec et dans les déguisements qui affectent les termes et les rapports des séries de la réalité ; mais cela, parce qu'elle dépend de l'objet virtuel comme d'une instance immanente dont le propre est d'abord le déplacement. Nous ne pouvons pas, dès lors, considérer que le déguisement s'explique par le refoulement. Au contraire, c'est parce que la répétition est nécessairement déguisée, en vertu du déplacement caractéristique de son principe déterminant, que le refoulement se produit, comme une conséquence portant sur la représentation des présents.
そうしたことをフロイトは、抑圧という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧〉と考えてしまってはいたのだが。 ひとは、抑圧するから反復するというのではなく、かえって反復するから抑圧するのである。 また、結局は同じことだが、ひとは、抑圧するから偽装するのではなく、偽装するから抑圧するのであり、しかも反復を決定する焦点〔潜在的対象〕の力によって偽装するのだ。偽装は反復に対して二次的であるということはなく、それと同様に、反復が、究極的あるいは起 源的なものと仮定された固定的な項〔古い現在〕に対して二次的であるということもない。 なぜなら、古い現在と新しい現在という二つの現在が、共存する二つの系列を形成しており、しかも、それら二つのなかでかつ自己に対して遷移する潜在的対象に即して、それら 二つの系列を形成しているのであってみれば、それら二つの系列のどちらが根源的でど ちらが派生的だ、などと指示するわけにはいかないからである。それら二つの系列は、〔ラカン的な〕複雑な相互主体性のなかで、様々な項や様々な主体を巻き込んでおり、しかも それら主体のそれぞれは、おのれの系列におけるおのれの役割とおのれの機能とを、お のれが潜在的対象に対して占めている非時間的な位置に負っているのである。この〔潜在的〕対象そのものに関して言うなら、それを究極的あるいは根源的な項として扱うのは、 なおさら不可能なことである。もしそんなことをすれば、その対象が本性の底の底から忌み嫌う同一性と固定した場所を、その対象に引き渡すことになってしまうだろう。その対象が ファルスと「同一化」されうるのは、ファルスが、ラカンの表現を用いるならば、あるべき場所につねに欠け、おのれの同一性において欠け、おのれの表象=再現前化において欠けているかぎりのことなのである。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)

Freud le sentait bien, quand il cherchait une instance plus profonde que celle du refoulement, quitte à la concevoir encore sur le même mode, comme un refoulement dit « primaire ». On ne répète pas parce qu'on refoule, mais on refoule parce qu'on répète. Et, ce qui revient au même, on ne déguise pas parce qu'on refoule, on refoule parce qu'on déguise, et l'on déguise en vertu du foyer déterminant de la répétition. Pas plus que le déguisement n'est second par rapport à la répétition, la répétition n'est seconde par rapport à un terme fixe, supposé ultime ou originaire. Car si les deux présents, l'ancien et l'actuel, forment deux séries coexistantes en fonction de l'objet virtuel qui se déplace en elles et par rapport à soi, aucune de ces deux séries ne peut plus être désignée comme l'originelle ou comme la dérivée. Elles mettent en jeu des termes et des sujets divers, dans une intersubjectivité complexe, chaque sujet devant son rôle et sa fonction dans sa série à la position intemporelle qu'il occupe par rapport à l'objet virtuel. Quant à cet objet lui-même, il ne peut pas davantage être traité comme un terme ultime ou originel : ce serait lui rendre une place fixe et une identité à laquelle toute sa nature répugne. S'il peut être « identifié » au phallus, c'est seulement dans la mesure où celui-ci, selon les expressions de Lacan, manque toujours à sa place, manque à son identité, manque à sa représentation.

この「潜在的対象(対象=x) l'objet virtuel (objet = x)」というのは、どうみても対象aのことである(参照:基本的な二種類の対象a (ラカン、ドゥルーズ))。

ここで、「この観念的なリアル、この潜在的なもの Ce réel idéal, ce virtuel」(ドゥルーズ=プルースト)の「観念的なリアル réel idéal」という言葉に拘ってみよう。

ラカンはセミネール11(1964-1965)でこう言っている。

抑圧、原初に抑圧されたもの、この抑圧されたものはシニフィアンである。…抑圧と症状は同種のものであり、シニフィアンの機能に還元される。

Le refoulé, le refoulé primordial, ce refoulé est un signifiant… Refoulé et symptôme sont homogènes et réductibles à des fonctions de signifiants.(Lacan,S.11) 
抑圧されたものは、欲望の表象されたもの・意義(意味作用)ではなく、表象代理である。

…que ce qui est refoulé, ce n'est pas le représenté du désir, la signification, que c'est le représentant de la représentation (Vorstellungsrepräsentanz)(S.11)

ラカンは上の文で、抑圧、原初に抑圧されたもの Le refoulé, le refoulé primordial と並列しているように、ここでは、抑圧と原抑圧を同じものとして扱っているように読める。

もうひとつの核心は、抑圧されたものは、欲望の表象されたもの・意義(意味作用)ではない ce n'est pas le représenté du désir, la signification と言っていることだ。

そして次に続いてある「表象代理 le représentant de la représentation」という用語は、フロイトのVorstellungsrepräsentanzである。

フロイトの「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」とは、仏語では représentant-représentation、英語では ideational-representative と訳される。この表象代理とは、主体の生活史をつうじて欲動の固着の対象となり、また心的現象への欲動の記載のための媒介となる表象ないしは表象群のことと一般には定義される。

ラカンは「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」を別に tenant lieu de la représentation とも訳している。tenant lieu とは、英訳ではplaceholder と訳され、つまりは実際の内容を後から挿入するために、とりあえず仮に確保した場所ということだ。

この場所、この形式が原抑圧にかかわる(原抑圧とは何ものも抑圧しない。抑圧の形式である)。

原抑圧とは、何かの内容を無意識のなかに抑圧することではない。そうではなく、無意識を構成する抑圧、無意識のまさに空間を創出すること、「システム意識・前意識」 と「システム無意識」 とのあいだの間隙を作り出すことである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

そしてドゥルーズの文脈からは、「この観念的なリアル、この潜在的なもの Ce réel idéal, ce virtuel」ーー、これも原抑圧にかかわる。そして上にみたように、フロイトの表象代理は、観念的表象  ideational-representative のことである。

そしてこの観念的表象は、「非抑圧的無意識 nicht verdrängtes Ubw」(フロイト『自我とエス』)ーーあるいはジジェクの上の文にある「システム無意識 System Bewußt (Bw)」にかかわる。

フロイトは、「システム無意識あるいは原抑圧」と「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」を区別した。

システム無意識は欲動の核の身体への刻印であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、まずは過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的エラボレーションを表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。フロイトはこれをAbkömmling des Unbewussten(無意識の後裔)と呼んだ。これらは欲動の核が意識に至ろうとするさ遥かな試みである。この理由で、ラカンにとって、「力動的あるいは抑圧された無意識」は無意識の形成と等価である。力動的局面は、症状の部分はいかに常に意識的であるかに関係する、ーー実に口滑りは声に出されて話されるーー。しかし同時に無意識のレイヤーも含んでいる。(ヴェルハーゲ、2004、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics)

ーーというわけだが、潜在的なものは現実界じゃなかったらなんなんだろ?

…………

ついでに在庫から悪訳で名高い宇波彰訳から貼り付けておく(くりかえせば最初期の訳だからやむえない)。


◆ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』(宇波彰訳)より


【意志的な記憶 mémoire volontaire】

意志的な記憶には、過去の即自存在 l'être en soi du passé という本質的なものが欠けているのは明らかである。意志的な記憶は、過去が以前に現在であったのちに、過去が過去として構成されたかのようにふるまう。(……)確かに、われわれは過去を現在として経験しているその同じときに、何かを過去として把握することはない(……)。しかしそれは、意識的な知覚と、意志的な記憶との結合された要求によって、もっと深いところで両者の潜在的な共存が存在しているところに、実在的な両者の連続が作られるからである。Mais c'est parce que les exigences conjointes de la perception consciente et de la mémoire volontaire établissent une succession réelle là où, plus profondément, il y a une coexistence virtuelle.


【一気に、過去そのものの中に自らを置くこと qu'on se place d'emblée dans le passé lui-même】(蓮實重彦はドゥルーズ追悼文でこの文を連発している)。

もしもベルクソンとプルーストの考え方にひとつの類似があるとすれば、それはこのレヴェルにおいてである。つまり、持続のレヴェルにおいてではなく、記憶のレヴェルにおいてである。現実の現在から過去にさかのぼったり、過去を現在によって再構成したりしてはならず、一気に、過去そのものの中に自らを置かなくてはならない。この過去は、過去の何かを表象するものではなく、現在存在するもの、現在としてそれ自体と共存する何かだけを表象する。Que ce passé ne représente pas quelque chose qui a été, mais simplement quelque chose qui est, et qui coexiste avec soi comme présent.


【ベルクソンの潜在的なもの】

過去はそれ自体以外のものの中に保存されてはならない。なぜならば過去はそれ自体において存在し、それ自体において生き残り、保存されるからである。――これが『物質と記憶』の有名なテーゼである。過去のこのようなそれ自体における存在をベルクソンは潜在的なもの virtuel と呼んだ。同様にプルーストも、記憶のシーニュによって帰納された状態について、《現実的ではないが実在的であり、抽象的ではないが観念的である Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits》と言っている。


【ベルクソンとプルーストの相違】

確かにそこを出発点として、プルーストとベルクソンとでは問題が同じではなくなる。ベルクソンにとっては、過去がそれ自体で保存されることを知れば足りる。(……)これに対してプルーストの問題は、それ自体において保存される過去、それ自体において生き残るような過去をどのように救うかという問題である。(……)この問題に対して、無意識的な記憶のはたらきという考え方が解答を与える。


【無意志的な記憶 La mémoire involontaire】

無意識的な記憶のはたらきは、まだ第一に、ふたつの感覚、ふたつの時間の間の類似性に依存しているように思われる。しかし、もっと深い段階では、類似性からわれわれは厳密な同一性へと導かれる。それは、ふたつの感覚に共通な性質の同一性か、あるいは、現在と過去というふたつの時間に共通な感覚の同一性である。たとえば味であるが、味は、同時にふたつの時間に拡がる、或る量の持続を含んでいる。しかしまた逆に、同一の性質である感覚は、何か差異のあるものとのひとつの関係を含んでいる。マドレーヌの味は、それに含まれたものの中に、コンブレーを閉じこめ、包んでいる。われわれが意識的知覚に留まっている限り、マドレーヌはコンブレーと全く外的な接近関係しか持たない。われわれが意識的記憶に留まる限り、コンブレーは、過去の感覚と不可分のコンテクストとして、マドレーヌに対して外的なままである。しかし、ここに無意志的記憶の特質がある。無意志的記憶はこのコンテクストを内在化し、過去のコンテクストを、現在の感覚と不可分なものにする。


【内在化された差異性 différence intériorisée】

ふたつの時間の間の類似性が、もっと深い同一性へとおのれを越えて行くのと同時に、過去の時間に属している接近性は、もっと深い差異性へとおのれを越えて行く。コンブレーは現在の感覚の中に再現され、過去の感覚とその差異は、現在の感覚の中に内在化される。したがって、現在の感覚は、異なった事物とのこの関係とはもはや分離できない。無意志的記憶における本質的なものは、類似性でも、同一性でさえもない。それらは、無意志的記憶の条件にすぎないからである。本質的なものは、内的なものとなった、内在化された差異性である。想起が芸術と類比的で、無意志的記憶 réminiscence が隠喩と類比的であるというのは、この意味においてである。無意志的記憶 la mémoire involontaire における本質的なものは、《ふたつの異なった事物》を、たとえば、その味をともなったマドレーヌと、色と気温という性質をともなったコンブレーを把握する。それは一方を他方のなかに包み、両者の関係を、何らかの内的なものにする。C'est en ce sens que la réminiscence est l'analogue de l'art, et la mémoire involontaire, l'analogue d'une métaphore: elle prend « deux objets différents », la madeleine avec sa saveur, Combray avec ses qualités de couleur et de température; elle enveloppe l'un dans l'autre, elle fait de leur rapport quelque chose d'intérieur.

ーー上の文では、réminiscence と la mémoire involontaire が共に「無意志的記憶」と訳されている。


【呼びかけられて再び現われるコンブレー(純粋過去 passé pur)】

マドレーヌの味、ふたつの感覚に共通な性質、ふたつの時間に共通な感覚は、いずれもそれ自身とは別のもの、コンブレーを想起させるためにのみ存在している。しかし、このように呼びかけられて再び現われるコンブレーは、絶対的に新しいかたちになっている。コンブレーは、かつて現在であったような姿では現われない。コンブレーは過去として現われるが、しかしこの過去は、もはやかつてあった現在に対して相対するものではなく、それとの関係で過去になっているところの現在に対しても相対するものではない。それはもはや知覚されたコンブレーでもなく、無意識的記憶の中のコンブレーでもない。コンブレーは、体験さええなかったような姿で、実在(リアリティ)においてではなく、その真実において現われる Combray apparaît tel qu'il ne pouvait pas être vécu: non pas en réalité, mais dans sa vérité。コンブレーは、純粋な過去 passé pur の中に、ふたつの現在と共存して、しかもこのふたつの現在に捉えられることなく、現在の無意識的記憶と過去の意識的知覚の到達しえないところで現われる。それは、《純粋状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur》である。つまりそれは、現在と過去、現実的な(アクチュアルな)ものである現在 présent qui est actuel と、かつて現在であった過去との単純な類似性ではなく、ふたつの時間の同一性でさえもなく、それを越えて、かつてあったすべての過去、かつてあったすべての現在よりもさらに深い、過去のそれ自体における存在〔即自存在〕である。《純粋な状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur》とは、局在化した時間の本質である。


【差異と反復】

現実的ではないが実在的であり、抽象的ではないが観念的である。Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits 》――この観念的な実在的なもの、この潜在的なものが本質である Ce réel idéal, ce virtuel, c'est l'essence。本質は、無意識的に記憶されたものの中に実在化または具体化される L'essence se réalise ou s'incarne dans le souvenir involontaire。ここでも、芸術の場合と同じく、包括と展開 l'enveloppement, l'enroulement は、本質のすぐれた状態として留まっている。そして、無意識的に記憶されたものは、本質の持つふたつの力を保持している。それは、過去の時間での差異(作用)と、現在の時間の中での反復作用である la différence dans l'ancien moment, la répétition dans l'actuel。

上の文にある「包括と展開 l'enveloppement, l'enroulement 」における「包括l'enveloppement」は、ロラン・バルトやラカン派にとっては、もうひとつの鍵言葉である。もちろんドゥルーズにとっても。

友情は、観察と会話とで育って行くことができるが、愛は、沈黙した解釈から生まれてそれを養分とする。愛される者は、ひとつのシーニュとして、《魂》として現われる。そのひとは、われわれにとっては未知の、ひとつの可能な世界を表現する。愛される者は、解読すべきひとつの世界、つまり解釈すべきひとつの世界を含み、包み、とりこにしている implique, enveloppe, emprisonne。(…)

…愛するということは、愛される者の中に包まれたままになっているこの未知の世界を展開し、発展させようとすることである。われわれの《世界》に属していない女たち、われわれのタイプにさえ属していない女たちを容易に愛するようになるのはこのためである。愛される女がしばしば次のような風景と結びついているのもそのためである。…たとえばアルベルチーヌは、《浜辺と砕ける波》を含み、まぜ合わせ、化合させる enveloppe, incorpore, amalgame 。もはやわれわれが見ている風景ではなく、逆に、その中でわれわれが見られているような風景に、どのようにして到達できるだろうか。《もしも彼女が私を見たとして、私は彼女に何を示すことができたのか。どのような世界の内部から、彼女は私は見わけるのか。》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』p.8-9)