記号は芸術作品によって、彼が愛する人によって、出入りする環境によって発せられる。「固有名詞」もまた一つの記号であって、もちろん意味する(シニフィエ)することなく指示するような単なる指標ではなく、この点、パースからラッセルにいたる通念が要求するところとはちがう。記号としての「固有名詞」は探求の、解読の対象となる。「固有名詞」は(用語の生物学的意味における)《環境》であって、そのなかにとびこみ、それがもたらすあらゆる夢想にどこまでも浸らなければならないものである。と同時に、「固有名詞」は圧縮され香りがこめられている貴重品であって、花のように開かせなければならないものでもある。言いかえれば、「名前」(これからは固有名詞をこのように呼ぼう)は記号であるが、それはヴォリュームのある記号、密生した意味の厚さのために常にかさばっている記号であって、いかなる慣用もこのれ縮小し押しつぶすようなことはなく、この点、普通名詞が連辞によって必ずその意味の一つだけを引き渡すのとは反対である。プルーストにおける「名前」は、あらゆる場合に、ただそれだけで辞書のある項目全体の等価物である。ゲルマントという名前は、思い出や慣用や文化がそこに含ませうるものをすべて、ただちにつつみこむ。(ロラン・バルト「プルーストと名前」P.81)
ーーと、「あらゆるものを包みこむ「名前」による新しい階調」にて引用した。
そこでの問いは、この「固有名=名前」は、主人のシニフィアンとどう異なるのだろう、というものだった。
S1はシニフィアン〈一〉から来る、その格言「〈一〉のようなものがある」(Y a de l'Un)にて。これに基づいたS1はどんなシニフィアンでもいい。こういうわけで、彼の言葉遊びS1、essaim(ミツバチの群)がある。問題はシニフィアンの特質ではなくその機能である。一つの袋(envelope封筒)を与え、そのなかで全てのシニフィアンの鎖が存続できるようにするのだ(S.20)。 (Paul Verhaeghe,Enjoyment and Impossibility ポール・ヴェルハーゲ「享楽と不可能性」より、2006,私訳)
ところで、ロレンツォ・キエーザのバディウ論のなかに、《the proper name as the redoubling of the letter, the unary trait, raises the issue of ‘the attachment of language to the real' (S.9)》という文がある(Count-as-one, Forming-into-one, unary trait, S1 Lorenzo Chiesa)。
unary trait(一つの徴)とは、ラカンによって「最初のシニフィアン」とされるものだ(参照:「S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴)」)。
。
…la fonction du trait unaire, c'est-à-dire de la forme la plus simple de marque, c'est-à-dire ce qui est, à proprement parler, l'origine du signifiant.(Lacan,Séminaire ⅩⅦ Staferla 版 P.56)
こう引用したからといって、固有名 proper name が「記号」ではなく、主人のシニフィアンだと断言するつもりはない。ただバルトの「つつみこむ」は、ラカンにとっての「一つの封筒」としても読むことができ、これはS1(主人のシニフィアン)である。
今度はドゥルーズのプルースト論を掲げよう。
習得は本質的にシーニュにかかわる。シーニュは、時間的な習得の対象であって、抽象的な知識の対象ではない。習得することはまず第一に、ひとつの物質・対象・存在を、あたかもそれらが解読・解釈を求めるシーニュを発するものであるかのように考えることである。習得する者の中で、何かについての《エジプト学者》でないような者はいない。材木のシーニュを感知しないで指物師になることはできず、病気のシーニュを感知しないで医師になることはできない。職業は常に、シーニュとの関係による宿命である。われわれに何かを習得させるすべてのものがシーニュを発し、習得の行為はすべて、シーニュまたは象形文字 hiéroglyphes の解釈である。プルーストの作品の基礎は、記憶のはたらきの提示ではなく、シーニュの習得のである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』pp.4-5)
ここに「シーニュまたは象形文字 hiéroglyphes」とある。象形文字とは、マルクスの『資本論』やフロイトの『夢判断』にて、名高い「概念」である。
価値の額(ヒタイ)にそれが何であるかが書かれているわけではない。むしろ、価値が、どの労働生産物をも一種の社会的象形文字に転化するのである。後になって、人間は、この象形文字の意味を解読して彼ら自身の社会的産物--というのは、使用対象の価値としての規定は、言語と同じように、人間の社会的産物だからである--の秘密の真相を知ろうとする。(マルクス『資本論』)
夢の思考は、聞けばすぐに理解できるようなものである。それにたいして夢の内容は、いわば象形文字で綴られており、その一つ一つの文字を夢思考の言語に置き換えなければならない。 (フロイト『夢判断』第四章「夢の仕事」)
ここでふたたび Lorenzo Chiesa の別の書 (Subjectivity and Otherness A Philosophical Reading of Lacan” 2007)から抜き出してみよう。
ラカンにとっては、象形文字は絶対的なシニフィアンであることがわかる。
さて、ドゥルーズのプルースト論に戻る。
ここには包み込むものとしてのシーニュが二箇所、現われる。
今はこれらの著者たちの書き物に現われた表現だけに注目しているのだが、シーニュ(記号)と主人のシニフィアンはどちらも包み込むものであり、それ以外にも似た表現に満ち溢れる。
そもそも、なにを記号として取るか、なにをシニフィアンとして取るかは、受け手の問題であり、記号、あるいはシニフィアンなるものの性質の問題ではない(「ほとんど」そうではない、と婉曲しておこう)。
《作家が固有名詞を案出するときは、プラトンの言う立法者が普通名詞を創出しようとするときと同じ動機づけの規則にしばられる》とある。この文を次ぎの文と「ともに」読んでみよう。
※附記
柄谷行人はこう記したあと、ヘーゲルの『小論理学』から引用している。上の文での「現実性」は、ヘーゲルの Wirklichkeit、あるいはenergeia エネルゲイアにかかわるようだ。
すなわち、ヘーゲルの「現実性」(Wirklichkeit)とは、経験的に実在するというような意味ではない。
To clarify this difficult point, Lacan perpetuates Freud's passion for hieroglyphics.
Lacan believes that hieroglyphics provide perfect evidence of the level of the Real-of-language. As he puts it, the signifying chain as letter “is found to survive in an alterity in relation to the subject [the individual subject's self-consciousness] as radical as that of as yet undecipherable hieroglyphics in the solitude of the desert.”(Lacan,Ecrits)
ラカンの原文から、その前後もいくらか含めて引用すれば、次の通り。
Encore est-ce trop parler de ce que nous donnons à cette attestation, alors qu’en son maintien elle nous néglige assez pour transmettre sans notre aveu son chiffre transformé à notre lignée filiale. Car n’y eût-il personne pour la lire pendant autant de siècles que les hiéroglyphes au désert, elle resterait aussi irréductible en son absolu de signifiant que ceux-ci le seraient demeurés au mouvement des sables et au silence des étoiles, si aucun être humain n’était venu les rendre à une signification restituée.(ÉCRITS,p.446)
ラカンにとっては、象形文字は絶対的なシニフィアンであることがわかる。
さて、ドゥルーズのプルースト論に戻る。
友情は、観察と会話とで育って行くことができるが、愛は、沈黙した解釈から生まれてそれを養分とする。愛される者は、ひとつのシーニュとして、《魂》として現われる。そのひとは、われわれにとっては未知の、ひとつの可能な世界を表現する。愛される者は、解読すべきひとつの世界、つまり解釈すべきひとつの世界を含み、包み、とりこにしている implique, enveloppe, emprisonne。(…)
…愛するということは、愛される者の中に包まれたままになっているこの未知の世界を展開し、発展させようとすることである。われわれの《世界》に属していない女たち、われわれのタイプにさえ属していない女たちを容易に愛するようになるのはこのためである。愛される女がしばしば次のような風景と結びついているのもそのためである。…たとえばアルベルチーヌは、《浜辺と砕ける波》を含み、まぜ合わせ、化合させる enveloppe, incorpore, amalgame 。もはやわれわれが見ている風景ではなく、逆に、その中でわれわれが見られているような風景に、どのようにして到達できるだろうか。《もしも彼女が私を見たとして、私は彼女に何を示すことができたのか。どのような世界の内部から、彼女は私は見わけるのか。》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』p.8-9)
ここには包み込むものとしてのシーニュが二箇所、現われる。
今はこれらの著者たちの書き物に現われた表現だけに注目しているのだが、シーニュ(記号)と主人のシニフィアンはどちらも包み込むものであり、それ以外にも似た表現に満ち溢れる。
そもそも、なにを記号として取るか、なにをシニフィアンとして取るかは、受け手の問題であり、記号、あるいはシニフィアンなるものの性質の問題ではない(「ほとんど」そうではない、と婉曲しておこう)。
医療診断学において、症状は、底に横たわる障害を指し示す記号として解釈される。その記号は、孤立化されると同時に一般化される。臨床的な精神診断学においては、われわれはシニフィアンに直面する。そのシニフィアンは、患者と〈他者〉とのあいだのその折々に見合った相互作用において絶え間なく移動する意味をもっている。(……)
臨床的な精神診断学の問いは、「この患者はどんな病気を持っているか?」というものではそれほどなく、むしろ「この症状は誰に、何に、差し向けられているのか?」というものである。底に横たわる、しかし目に見えない構造――患者に交差するすべてを決定する構造――があるに違いないというものである。
医療診断学は特定化(症状symptom)から始め、一般化に向かう(症候群syndrome)。それは、個々人の苦情に完全に焦点を絞った記号的なシステムsemiotic systemを基礎としている。臨床的な精神診断学は一般(化)(始まりの苦情)から始めて、個別化(N = 1)に進んで行く。それは、主体と〈他者〉とのあいだのより広い関係性の部分であるシニフィアンのシステムを基礎としている。(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics 私訳ーーラカン派の「記号」と「シニフィアン」)
この象形文字は、「なにを意味しているのか?」、と捉えるのが、「記号=シーニュ」として扱う方法である。他方、この象形文字は、「何に、差し向けられているのか?」とするのがシニフィアンとして捉えることである(参照:ラカンのシニフィアンの定義:「シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象する」)。
フロイトがはっきり言っているように、われわれは夢を前にしたとき、その全体やその構成要素のいわゆる「象徴的意味」を探すことを断じて避けなければならない。「この家は何を意味しているのか。屋根の上のボートは何を意味しているのか。走っている人物は一体何を象徴しているのか」といった質問をしてはならないのである。しなければならないことは、物をふたたび翻訳する、つまり物をそれを指す言葉に置き換えることである。判じ絵においては、物は文字通りその名前を表わしている。すなわちそのシニフィアンを表わしている。言葉表象Wort-Vorstellungenから物表象Sach-Vorstellungenへの移行――夢の中で作用しているいわゆる「表象可能性への配慮」――を言語から前言語的表象への一種の「退行」と見なしてはいけない理由が、これで明らかになっただろう。夢の中では、「物」それ自体がすでに「言語のように構造化されて」おり、その配置は、それが表わしているシニフィアンの連鎖によって規定されている。「物」から「言葉」への再翻訳によって得られる、このシニフィアンの連鎖のシニフィエが「夢思考である」。意味のレベルでは、この「夢思考」は夢の中に描かれた物と、内容的にはなんの繋がりもない(同様に判じ絵の場合、その解読は判じ絵に描かれた個々の物の意味とはなんの繋がりもない)。夢の中にあらわれた形象の「より深い隠された意味」を探そうとすると、その中に表現された潜在的「夢思考」が見えなくなってしまう。直接的な「夢内容」と潜在的な「夢思考」とは、言葉遊び、すなわち意味のないシニフィアン的物質のレベルのみで繋がっているのである。(ジジェク『斜めから見る』p103)
…………
《だがもっと後になると、わたしはこの同じ名前がわたしの心のなかで持続するにつれて七つや八つの異なった姿(フィギュール)をつぎつぎに見出す……》(プルースト『ゲルマント家のほうへ』)
プルーストにおける「名前」は、その意味論的厚みのゆえに(その《パイ皮性》〔葉層性〕のゆえに、と言えるものなら言いたいところだが)、真の意味素分析の対象となり、語り手自身その分析を志し、それに着手せずにはいない。彼が「名前」のさまざまな“姿〔フィギュール〕”と呼んでいるものは真の意味素であって、想像上のものという性格をもつにもかかわらず、完全な意味論的有効性をそなえている(記号内容を指向対象から区別することがいかに必要かを、このことが改めて証明する)。
たとえば、ゲルマントという名前は(ライプニッツの語を借用すれば)、いくつかの基本素を含んでいる。すなわち、《その高みから領主と奥方が家臣の生死を決定した、オレンジ色の光の帯にすぎない厚みを欠いた天守閣》、《歳月を経て、黄ばんだ、花形模様のある城塔》、《その名前と同じように透明な》ゲルマント家のパリの邸宅、パリのまんなかにある封建時代の城館、など。これらの意味素はむろん《イメージ》であるが、しかし文学という上位言語においては、これが純然たる記号内容であることに変わりなく、外示言語の記号内容と同じように、ある意味組織論全体の対象となるのである。
これらの意味素的イメージのうち、あるものは伝統的、文化的である。たとえばパルム〔パルマ〕は、エトルリア人によって建設され、ポー河の流域に位置し、人口十三万八千をもつ、エミリア地方の町を指示しない。この二つの音節の真の記号内容は、二つの意味素によって構成されている。つまり、スタンダール的な甘美さとすみれの花の光沢とである。他の意味素的イメージは個人的で記憶にもとづく。たとえばバルベックは語り手が聞いた二つの言葉を意味素としてもつ。一つはルグランダンの言葉(バルベックは地の果ての嵐の土地です)、もう一つはスワンの言葉(そこの教会はなかばロマネスク式のゴチック・ノルマン建築です)である。その結果、この名前は常に《ゴチック建築と海の嵐》という二つの同時的意味をもつのである。
(……)物語るということは、ある限られた数の充実した単位を換喩的過程によって互いに結びつける以外のことでは決してない(……)。たとえば、バルベックはいくつかの場面を内蔵するだけでなく、また、それらを同一の物語的連辞のなかに統合しうる運動をも内蔵しているのだ。その証拠に、バルベックという混質的な音節はおそらく、すたれてしまったある発音法から生れたもので、《わたしはその発音法が宿屋の主人のもとにさえ見出せると信じて疑わず、わたしが到着したときミルク・コーヒーを出してくれ、教会の前の荒海を見に連れていってくれるであろうこの宿屋の主人に、寓話詩の登場人物のような議論好きの、もったいぶった、中世的風貌を与えていた》からである。「固有名詞」が無限に豊かな触媒の対象となるからこそ、詩学的には『失われた時を求めて』全体があるいくつかの名前から出てきたと言うことができるのである。(ロラン・バルト「プルーストと名前」)
《このゲルマントこそ、小説の骨子〔カードル〕のようなものだった……》(『ゲルマント家のほうへ』)
実際、作家が固有名詞を案出するときは、プラトンの言う立法者が普通名詞を創出しようとするときと同じ動機づけの規則にしばられる。(……)
プルーストにおける社会階級……もちろん、名前を貴族ふうにする小辞〔de〕などという粗雑な手段によるのではなく、ある広範な固有名詞体系の設定によるのであって、この体系は一方で貴族と平民の対立、他方では無音の語末をもった長母音(いわば長い引裾をつけた語末)と唐突な短母音との対立にもとづいて分節されている。つまり、一方にゲルマント、ローム、アグリジャントなど〔貴族名〕の範列があり、他方にヴェルデュラン、モレル、ジュピヤン、ルグランダン、サズラ、コタール、ブリショなど〔平民の名〕の範列があるのだ。
プルーストの固有名詞体系は高度に組織化されているように見え、たしかにこれが『失われた時を求めて』の出発点をなすと思われるのだ。名前の体系を手に入れることは、プルーストにとって、そしてわれわれにとっても、書物の本質的な意味作用と、書物の記号の骨組みと、書物の深層と統辞法とを手に入れることだった。
それゆえ、プルーストにおける名前は記号の大きな二つの次元を完全にそなえていることがわかる。つまり名前は一方においてまったく単独に、《それ自体として》、いくつもの意味作用の総体として(ゲルマントはいくつもの姿を含む)、要するにある本質として(プルーストの言う《本源的な実体》として)読むことができるし、あるいはまた、こう言ったほうがよければ、ある不在として読むことができる。というのも、記号は現存しないものを指示するからである。(同、ロラン・バルト)
〈主人のシニフィアン〉とは何だろう?社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、〈主人〉は新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「縫い合わせ点quilting point」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。(……)〈主人〉は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるのだ。(ジジェク、2012,私訳)
ーー主人のシニフィアンS1を案出する者は、プラトンのいう立法者であることがわかる。
…………
※附記
固有名の指すものがかりに実在しなくても、固有名は「現実的」である。その「現実性」は、いわば名前の受け手が名前を教えた者と同じものを指示しようとしない可能性から見たときに見いだされる。(柄谷行人『探求Ⅱ』p.56)
柄谷行人の引用は長いので、ここでは直接は引用しない。ネット上から拾える文を抜き出せば次の箇所にかかわる。
現実性(Wirklichkeit)とは、本質と現存在、あるいは内的なものと外的なものとの統一が直接的なものとなったものである。現実的なものの発現は、現実的なものそのものである。そこでそれは、発現の内にあっても同様に本質的なものにとどまり、そして直接的な外的な現存在の内にある限りにおいてのみ、本質的なものである。(ヘーゲル『小論理学』)
《アリストテレスはプラトンのイデアを「単なるデュナミス」と呼び、それに対して本来のイデアを「エネルゲイア、すなわち端的に外に現われている内的なもの、したがって内的なものと外的なものとの統一」として、したがったまたここで問題となっている意味での「現実性」として捉えた。》(ヘーゲルにおける現実性)。
もちろんプルーストの現実性も同じく。
マドレーヌの力によって、なぜコンブレーはかつて存在した通りに再現する(単なる観念連合)ことに満足せず、かつて体験されたことのないかたちで、その《本質》もしくはその永遠性において、絶対的に現われるのか…(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
コンブレーは、過去の感覚と結ばれて体験されたようにではなく、ひとつの輝きの中に、現実には全くそれと同じものがないような《真実》と共に現われてくる……(同上)
紅茶に浸したマドレーヌを口に含んだ途端、それを誘い水にして、コンブレは、かつて生きられたためしがない光輝のなかで、まさにそうした純粋過去として再び出現する。(ドゥルーズ『差異と反復』)
ーードゥルーズの「プルーストとシーニュ」、ロラン・バルト「プルーストと名前」に引き続いて、「プルーストとシニフィアン」があってもまったくわるいわけではないだろう・・・
……その境界はいっそう絶対的なものになった、というのは、おなじ日の、おなじ散歩に、二つのほうに出かけたことはけっしてなく、あるときはメゼグリーズのほうへ、またあるときはゲルマントのほうへ行ったそんな私たちの習慣が、そのふたつをたがいに遠くへひきはなし、たがいに不可知の状態に置き、別々の午後という、双方のあいだに流通のない、封じられたつぼとつぼとのなかに、その二つをとじこめていたからであった。(……)
コンブレーの周辺には、散歩に出るのに二つの「ほう」があった、そしてこの二つの方向はまるで反対なので、どちらへ行こうとするときも、おなじ門から家を出るということは実際はなかった……(プルースト「スワン家のほうへ」)
メゼグリーズとゲルマントというふたつのシニフィアンをめぐってプルーストの小説はすすんでいく。
そして最終巻「見出された時」では、この絶対的な境界がなくなってしまう(主人のシニフィアンとは境界シニフィアンでもある→参照:“A is A” と “A = A”)。
私達が歩いてゆくにつれて、土地も変化するように私には見えた、いくつかの丘をのぼらなくてはならないかと思うと、こんどはまた坂道をおりることになる。私たちはおしゃべりをつづけた。それが私には、ジルベルトと連れだっていて、非常にたのしみだった。といっても障害がなかったわけではない。多くの人間の内部には、みんなおなじではない、さまざまに異なる、いくつもの層がある、父の性格、母の性格がある、人はその一方の層を通りぬけ、ついで他の層を通りぬける。しかしその翌日は、層のかさなりの順序が逆になっている。そのようにして結局は、誰がその配分をするのか、そのきめ手を知るには誰にたよればいいのか、わからなくなる。ジルベルトは、政府が目まぐるしく変わるので迂闊に同盟できない国のようなものだった。しかし、ほんとうは、そういうのは正しくなかった。つぎからつぎへとじつにひんぱんに変わってゆく人間にあっても、記憶は彼の内部に一種の自己同一性〔アイデンティティー〕を確立していて、自分では署名しないでもはっきりおぼえている約束事には、けっしてそむかないように彼を仕向けるのだ。(プルースト『見出された時』)
このメゼグリーズ(スワン家のほう)の散歩のあと、ジルベルトは話者をびっくりさせることになる・・・
「あなたがおなかがすいていなくて、そのうえ時間がこんなにおそくなかったら、この道を左にとり、それから右にまがれば、十五分もしないうちに、私たちはゲルマントに行けるんですよ。」それは、あたかも、彼女がこういったかのようであった、「左にまがり、それから右に道をおとりなさい、そうすれば、あなたはさわることのできないものにふれるでしょう、地上で人が方向として、つまりどこそこの《ほう》としてーー知っているにすぎない、手でさわりに行くことができない、そんな遠方にあなたは到達するでしょう」(同上)
ーー《あなたはさわることのできないものにふれるでしょう》!
人はいま分かるだろう、正確な意味において、ラカンの命題が孕んでいるものを。その命題によれば、「原初的に抑圧されている」ものは、二項シニフィアン binary signifier (Vorstellungs-Repräsentanz 表象-代表のシニフィアン)である。すなわち象徴秩序が締め出しているものは、(二つの)主人のシニフィアン Master-signifiers、S1ーS2のカップルの十全な調和的現存 full harmonious presence である。S1 – S2 、すなわち陰陽(明暗、天地等々)、あるいはどんなほかのものでもいい、二つの釣り合いのとれた「根本原理」だ。「性関係はない」という事態が意味するのは、まさに第二のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原初的に抑圧されている」ということであり、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂け目を満たすもの、それは「抑圧されたものの回帰」としての多数的なもの multitude、「ふつうの」シニフィアンの連続 series である。(ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」(ジジェク))