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2015年11月4日水曜日

この世の幸福

私は悟ったのだ、この世の幸福とは観察すること、スパイすること、監視すること、自己と他者を穿鑿することであり、大きな、いくらかガラス玉に似た、少し充血した、まばたきをせぬ目と化してしまうことなのだと。誓って言うが、それこそが幸福というものなのである。(ナボコフ『目』)

ーーとツイッターのナボコフbotで拾ったのだが、別に何が言いたいわけでもない・・・

ああ、ここでいくらか記したことの変奏だな、と思っただけだ、→「ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」(ジジェク)


…………

他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)

そして《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(中井久夫超訳)》(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)のであり、ひとは他人より自分を取り調べるのが不得手だ。

他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」より)

だから、まずは他人の言説に目が向き、こんな具合の思いを抱くことになる、《「滑稽だな。いかにもあなたらしい滑稽だ。そうしてあなたはちっともその滑稽なところに気がついていないんだ」》(夏目漱石『明暗』 第百八十三章)

…なぜなら、私の興味をひくのは、人々のいおうとしている内容ではなくて、人々がそれをいっているときの言いぶりだからで、その言いぶりも、すくなくともそこに彼らの性格とか彼らのこっけいさがにじみでているのでなくてはいけなかった、というよりも、むしろそれは、特有の快楽を私にあたえるのでこれまでつねに別格の形で私の探求の目的になっていたもの、すなわち甲の存在にも乙の存在にも共通であるような点、といったほうがよかった。そんなもの、そんな点を認めるとき、はじめて私の精神は、突然よろこびにあふれて獲物を追いかけはじめるのだが、しかしそのときに追いかけているものは(……)、なかば深まったところ、物の表面それ自体からかなたの、すこし奥へ後退したところにあるのであった。そして、それまでの私の精神といえば、たとえ私自身、表面活発に話していても―――その生気がかえって精神の全面的な鈍磨を他の人々に被いかくしていて―――そのかげで精神は眠っていたのであった。したがって、精神が深い点に到達するとき、存在の、表面的な、模写的な魅力は、私の興味からそれてしまうというわけだ、というのも、女の腹の艶やかな皮膚の下に、それを蝕む内臓の疾患を見ぬく外科医のように、もはや私はそのような表面の魅力にとどまる能力をもたなくなるからだった。(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)
心理学者の決疑論。――この者は一人の人間通である。いったい何のために彼は人間を研究するのであろうか? 彼は人間に関する小さな利益を引っとらえようと欲する、ないしは大きな利益をも。――彼は政略家にほかならない!・・・あそこのあの者もまた一人の人間通である。だから諸君は言う、あの者はそれで何ひとつ自分の利益をはかろうとしない、これこそ偉大な「無私の人」であると。もっと鋭く注意したまえ! おそらく彼はさらにそのうえ“いっそう良くない”利益を欲している、すなわち、おのれが人々よりも卓越していると感じ、彼らを見くだしてさしつかえなく、もはや彼らとは取りちがえられたくないということを欲しているのである。こうした「無私の人」は”人間軽蔑者”にほかならない。だからあの最初の者の方が、たとえ外見上どうみえようとも、むしろ人間的な種類である。彼は少なくとも同等の地位に身をおき、彼は“仲間入り”する。(ニーチェ『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」十五 原佑訳)

…………

ツイッターというのは「この世の幸福」を感じるのにまたとないツールである。

その「言いぶり」に、《彼らの性格とか彼らのこっけいさがにじみでている》ことが多いから。

ラカンの「四つの言説」理論的にはーーすなわちマルクスの価値形態論的にはーー、人はあるポジションに置かれれば、構造的には相同的な「言いぶり」になる。

個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(マルクス『資本論』「まえがき」)
イデオロギーの最も基本的な定義は、おそらくマルクスの『資本論』の次の文である、"Sie wissen das nicht, aber sie tun es" 、すなわち、「彼らはそれを知らないが、そうする」。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989)

上に記したようにわたくしの「メタ私」はこの際ムシすることにして記すなら、たとえば、《建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こう》としている人は、例外はあるにしろ、似たような「口ぶり」でツイートすることになる、--「彼らはそれを知らないが、そうする」

建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人にあれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱いている者は、すでに勝利者なのである。勝利は愛情の結実だ。……知能は愛情に奉仕する場合にだけ役立つのである。(サン=テグジュペリ『戦う操縦士』堀口大学訳)

須賀敦子はこの文を引用して、次のように書いている、《自分が、いまも大聖堂を建てつづけているか、それとも中にちゃっかり坐りこんでいるか、いや、もっとひどいかも知れない。座ることに気をとられるあまり、席が空かないかきょろきょろしているのではないか》と。(『遠い朝の本たち』)


《席が空かないかきょろきょろしている》のは、ここではインテリくんたちをシツレイながら標的にするなら、「研究者」とか准教授とかの人々だろう。

彼らの「言いぶり」は、--ボクチャンはこんなにワカッテイルのに、名の知れた先行研究者たちはクズばかりだ、という形式に還元できるツイートが多い(逆に、オベッカ使いもたまに見られるが)。

公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽―――になぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』)

キョロキョロ組のなかには唇の周りのビラビラ組も含まれる。

……自分の頭と心とを通過させないで、唇の周りに反射的な言葉をビラビラさせたり、未消化の繰り返しだけやる連中がいるけれどーー学者に、とはいわないまでも研究者にさーー、こういう連中は、ついに一生、本当のテキストと出会うことはないんじゃないだろうか?(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第三部「大いなる日」より)

ーーといってもツイッターではビラビラはやむえない。もともと「インテリのパチンコ」の場であろうから。

とはいえ、彼らの「難聴ぶり」を聴きとらずにはいられない。

どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。(『彼自身によるロラン・バルト』)

その批判の正否はわたくしにはたいして興味はない。

真理が女である、と仮定すれば-、どうであろうか。……彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』)
真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。(ラカン『同一化セミネールⅨ』)

《私の興味をひくのは、人々のいおうとしている内容ではなくて、人々がそれをいっているときの言いぶり》なのだ。

(そして博士論文まじかの研究者にとってはことさらオリジナリティが大切なのだろうから、「引用」ですませればいいようなことでも「自分の言葉」で囀ることになる、ーーいわゆる夜郎自大言説の気味がないでもない。)


それなりに名の知れた「知識人」たちも、己れへの評価は自分の実力に見合っていないという思いを抱いている人が多いだろう。すると次ぎのような言説構造になる。

どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口にしながら、 なおも自分を例外的な存在であるとひそかに信じ、 しかもそう信じることの典型的な例外性が、 複数の無名性を代弁しつつ、 自分の所属している集団にとって有効な予言たりうるはずだと思いこんでいる人たちがあたりを埋めつくしている。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
……すでに書かれた言葉としてあるものにさらに言葉をまぶしかける軽業師ふうの身のこなしに魅せられてであろうか。さらには、いささか時流に逆らってみせるといった手あいのものが、流れの断絶には至らぬ程度の小波瀾を戯れに惹起し、波紋がおさまる以前にすでに時流と折合いをつけているといったときの精神のありようが、青春と呼ばれる猶予の一時期をどこまでも引き伸ばすかの錯覚を快く玩味させてくれるからであろうか。(蓮實重彦『表層批評宣言』)

…………

いやシツレイ! 昼食後のハラゴナシのための戯言である。

最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

…………

わたくしはまだ「老人」に片足を入れかけただけであるつもりだが、そして「研究者」ではまったくないが、海外住まいの身で、日本からは降りているので、《群集の、世間の、将来の意見を気にせずともすむ》身分であるだろう。その自らの置かれた構造的場が、次のような言説を生んでいる可能性を否定するつもりはない。

その老学者はまわりの騒がしい若者たちを眺めていたが、突然、このホールのなかで自由の特権をもっているのは自分だけだ、自分は老人なのだから、と思った。老人になってはじめて人は、群集の、世間の、将来の意見を気にせずともすむ。近づいてくる死だけが彼の仲間であり、死には目を耳もないのだ。死のご機嫌をうかがう必要もない。自分の好きなことをし、いえばいいのだ。(クンデラ『生は彼方に』)


最後にニーチェやプルースト、ロラン・バルトやナボコフやらがなぜあんなに注意深いのだろうか、という問いをはなっておこう。

人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! (プルースト「囚われの女」)

研究者諸君はじつに〈わたし〉に似ているのだ、すくなくともかつての〈わたし〉に。

ーーもちろんこの文の〈わたし〉は、「研究活動」などという洒落たことをしたことはないこの〈わたくし〉(綿串→綿菓子)のことではない。