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2016年9月16日金曜日

基本的な二種類の対象a (ラカン、ドゥルーズ)

欲望は剰余享楽の換喩である」で記した欲望機械をめぐるジジェクの文にコメントを入れてくる方がいる。よい機会なのでいくらかまとめてみた。

まずドゥルーズ派の人には異和が感じられるだろう次の文はとほとんど同じ文が『身体なき器官』にもあり、ジジェクは2012年の書でもくり返していることになる。

ラカン派によるドゥルーズ読解の出発点は、情け容赦ない直接的な読み替えである。すなわち、ドゥル ーズ&ガタリが「欲望機械(machines désirantes)」について語るとき、我々はその用語を欲動に置き換えるべきだ。

ラカンの欲動ーーそれは、エディプスの三角形とその禁圧的な法/その法への侵犯の弁証法に先んじる匿名/無頭的で不滅な「身体なき器官」の反復への執拗さであり、ドゥルーズが前エディプスのノマド的な「欲望機械」として境界を引こうとしたものと完全に一致する。実際、セミネールⅩⅠの欲動に捧げられた章で、ラカン自身が、欲動の「機械的な」特徴・反有機的な anti‐organic 性質(その人工的な要素、あるいは異質の成分からなる部分のモンタージュの特質)を強調している。

しかしながら、これは出発点にすぎない。問題をすぐさま混み入らせるのは、この読み替えにおいて、何かが失われてしまうという事実である。すなわち、欲動と欲望とにあいだにある、まさに還元し得ぬ相違、この差異の視差的 parallax 性質があり、一方から他方へと跡づけたり生み出したりするのは不可能なのだ。

言い換えれば、ラカンには全く異質なものは、ドゥルーズの反-表象主義者的な欲望の概念である。それ自体が表象や抑圧の場面を創造する原初的流動 flux としての欲望概念。これはまた、ドゥルーズが欲望の解放について語る理由だが、ラカンの地平ではまったく無意味である。

ドゥルーズにとって、最も純粋な欲望とはリビドーの自由な流動だが、ラカンの欲動は、基盤となる解決しえぬ袋小路によって構成的に徴づけられている。ーー欲動は行き詰まりであり、まさに行き詰まりの反復において満足を見出す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

ーー「欲望の自由な流れ」とは具体的には、『アンチ・オイディプス』の冒頭近くにある「自由状態での純粋な流体un pur fluide à l'état libre」という表現などにかかわる。

ある純粋な流体が、自由状態で、途切れることなく、ひとつの充実人体の上を滑走している un pur fluide à l'état libre et sans coupure, en train de glisser sur un corps plein。欲望機械は、私たちに有機体を与える。ところが、この生産の真っ只中で、この生産そのものにおいて、身体は組織される〔有機化される〕ことに苦しみ、つまり別の組織をもたないことを苦しんでいる。いっそ、組織などないほうがいいのだ。こうして過程の最中に、第三の契機として「不可解な、直立状態の停止」がやってくる。そこには、「口もない。舌もない。歯もない。喉もない。食道もない。胃もない。腹もない。肛門もない」。もろもろの自動機械装置は停止して、それらが分節していた非有機体的な塊を出現させる。この器官なき充実身体は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能、これがこの身体の名前である。 (ドゥルーズ+ガタリ、アンチ・オイディプス、上P.26)

まず最初に、そもそも「身体なき器官」とは、ラカンはその表現を直接的には使っていないとしても、ラカン自身の叙述が起源。

このラメラ、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーー、それはリビドーです。

Cette lamelle, cet organe qui a pour caractéristique de ne pas exister, mais qui n'en est pas moins un organe - et je pourrai vous donner plus de développement sur sa place zoologique - je vous l'ai déjà indiqué, c'est la libido.
これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。 それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象aについて挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。

La libido, je vous ai dit, en tant que pur instinct de vie, c'est-à-dire dans ce qui est retiré de vie, de vie immortelle, de vie irrépressible, de vie qui n'a besoin, elle, d'aucun organe, de vie simplifiée et indestructible, de ce qui est justement soustrait à l'être vivant, d'être soumis au cycle de la reproduction sexuée. C'est de cela que représente l'équivalent, les équivalents possibles, toutes les formes que l'on peut énumérer, de l'objet(a). Ils ne sont que représentants, figures.(ラカン『セミネールⅩⅠ』)


ところで、ドゥルーズ+ガタリの『アンチ・オイディプス』1972年には、対象a という語が二度出現する(クラインに依拠しつつ部分対象 l'objet partiel, les objets partiels)という語はしばしば頻出するが、『差異と反復』などに出現した「潜在的対象 l'objet virtuel (objet = x)」という語彙さえ現れない)。

その二度の出現は次の通り。

ラカンは反対に、神経症さえ分裂症化して、精神分析の領野をくつがえすことができる分裂症の流れを解放したのである。ラカンのいう〈対象a〉は、地獄の機械〔仕掛け爆弾〕として構造論的な平衡の只中に侵入する。それは、欲望機械なのである。( ドゥルーズ+ガタリ『アンチ・オイディプス』宇野邦一訳,上,文庫上 P.163.)

L'admirable théorie du désir chez Lacan nous semble avoir deux pôles : l'un par rapport à « l'objet petit-a » comme machine désirante, qui définit le désir par une production réelle, dépassant toute idée de besoin et aussi de fantasme; l'autre par rapport au « grand Autre ,. comme signifiant, qui réintroduit une certaine idée de manque.
ラカンにおける、欲望の賞賛すべき理論は、二つの極をもっているように思われる。ひとつは、欲望機械としての「部分対象-a」( « l'objet petit-a » →対象a)にかかわる極である。これは、あらゆる欲求や幻想の観念を越え、現実的生産production réelle によって欲望を規定する。もうひとつは、シニフィアンとしての「大〈他者〉」にかかわり、ある種の欠如の観念を再び導入する。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』宇野邦一訳、ドゥルーズ他の註)

L'admirable théorie du désir chez Lacan nous semble avoir deux pôles : l'un par rapport à « l'objet petit-a » comme machine désirante, qui définit le désir par une production réelle, dépassant toute idée de besoin et aussi de fantasme; l'autre par rapport au « grand Autre ,. comme signifiant, qui réintroduit une certaine idée de manque.

 宇野邦一氏の訳では、下の文は「部分対象-a」と訳されているが、対象a=部分対象とするのは(ラカン的観点からは)誤謬。

ラカンはセミネール11で、《喪われた対象(対象a) は口唇欲動に起源があるのではない l'objet perdu (a)… n'est pas l'origine de la pulsion orale.》と言っている。これは対象aは乳房という部分対象とは直接関係がないと言っていることと捉えうる。

現実界は《快原理の障害(物)である l'obstacle au principe du plaisir》(Lacan,S.11)。オートマンautomaton と象徴界によるシステム的決定性の彼方には、テュケー tuché・偶然的要素としての欲動の現実界が待っている。ラカンによれば、この偶然性はすべて欲動にかかわる。彼は、フロイトに従って、欲動に随伴する部分対象と共に欲動における部分的側面を強調する。フロイトによれば、対象 Objekt は欲動の最も重要でない部分である(欲動 Trieb の源泉 Quelle、衝迫 Drang、目標 Ziel という他の部分に比べて)。部分対象が重要性に劣ることについて、ラカンは次のように説明している。どの対象も決定的に喪われた原初の対象a (l'objet perdu (a))の場に現れる。《この喪われた対象は、実際には、シンプルに空洞・空虚の現前であり、フロイト曰く、どんな対象によっても占められうる Cet objet qui n'est en fait que la présence d'un creux, d'un vide… occupable, nous dit FREUD, par n'importe quel objet》(S.11)。(ヴェルハーゲ、Verhaeghe, P. (2001). Beyond Gender. From Subject to Drive


ヴェルハーゲの文では、対象aが二つに分けられている。原初の空洞・空虚の対象aと部分対象としての対象a。この二つについて、ラカン注釈者たちのあいだで、しばしば、リアルな対象a(= Ⱥ)とファルス化された対象aという言い方がされる(参照)。厳密にいえば対象aのより精緻な差別化があるが(参照))、基本はこの二区分(晩年のラカンは骨象aとも訳しうる奇妙な言い方をしていることを付け加えておこう、« osbjet », la lettre petit a(S.22))[参照

この基本の二区分は、ラカンがセミネール11で聴衆を驚かせたらしい「二つの欠如 Deux manques」(参照)にかかわる。

ジャック=アラン・ミレールは、後年この二つの欠如を欠如と穴(ブラックホール)と言い換えた。

欠如とは空間的で、空間内部の空虚voidを示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,” ーー「欠如 manqué から穴 trou へ(大他者の応答 réponse de l'Autre から現実界の応答 réponse du réel へ)」)

そもそもドゥルーズは『プルーストとシーニュ』で次のように記している。

『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分的事物(→ 部分対象 objets partiels)の機械(衝動)・反響の機械(エロス)・強制された運動の機械(タナトス).である。このそれぞれが、真実を生産する。なぜなら、真実は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。それが失われた時間のばあいには、部分対象の断片化により、見出された時間のばあいには反響による。失われた時間のばあいには、別の仕方で、強制された運動の拡がりによる。この喪失は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』宇波彰訳、原著初出版1964年だが、1970年に加えられた「アンチロゴスまたは文学機械」CHAPITRE IV “Les trois machines”より)
Toute la Recherche met en œuvre trois sortes de machines dans la production du Livre: machines à objets partiels (pulsions), machines à résonance (Eros), machines à mouvement forcé (Thanatos) . Chacune produit des vérités, puisqu'il appartient à la vérité d'être produite, et d'être produite comme un effet de temps : le temps perdu, par fragmentation des objets partiels; le temps retrouvé, par résonance; le temps perdu d'une autre façon, par amplitude du mouvement forcé, cette perte étant alors passée dans l'œuvre et devenant la condition de sa forme.

ドゥルーズは、「部分対象の機械(衝動)/強制された運動の機械(タナトス)」と記すことによって、対象aの二つの側面を認知していたとも捉えられる。

したがって、ガタリと組んで書かれた『アンチ・オイディプス』は、ドゥルーズの退行、あるいは次のように言われる理由がある(その正否は別にして)。

間違いなくドゥルーズの最悪の書『アンチ・オイディプス』は、単純化された「平面的」解決を通して、袋小路の十全な遭遇から逃げ出した結果ではないだろうか?(ジジェク『身体なき器官』)
蓮實重彦)あのとき何が敵だったかというと、間違いなく精神分析であるわけで、その精神分析をフーコーは優雅に避けるわけだけれども、ドゥルーズはそういう避け方をしなかった。代わりに、どんなに異質でもいいから、ガタリを連れてきて、一緒に『アンチ・オイディプス』を書いちゃうわけです。それは、優雅なテクストになるかわりに、暴力的かつ危険性をはらんだかたちで機能するわけでしょう。そのことがドゥルーズには見てたわけですよ。(……)

浅田彰)……72年には、私はフロイトに反対すると言ったかもしれないけど、93年には、自分は完璧にマルクス主義者だというのと同じ意味で、完璧にフロイト主義者だと言うかもしれない。彼は、概念の分類ではなく、現実の中での機能だけを考えていたわけだから。(『批評空間』1996-Ⅱ-9,共同討議「ドゥルーズと哲学」財津理・蓮實重彦・前田英樹・浅田彰・柄谷行人)


わたくしはドゥルーズにまったく詳しくない(やや熱心に読んだのはプルースト論とマゾッホ論だけ)。だが、ラカン派的観点からはこういうことらしい、という(今のところの)理解をしている。

結局、アルトー本人のことはいざ知らず、ドゥルーズとラカンの解釈においては次の文が決定的ではないだろうか。

われわれはしだいに、CsO(器官なき身体)は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。CsOは器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。アルトーは確かに器官に抗して闘う。しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要としない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ。CsOは、器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない「真の器官」と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

このドゥルーズ&ガタリの見解が正しいとしてーーそして厳密さを期さずにいえばーー、「器官なき身体corps sans organes」でも「身体なき器官 organes sans corps 」でもどちらでもよいといえるのではないか。両者とも有機体なき(統合的身体なき)身体器官である。

とはいえ、そうしたときでも、冒頭のジジェクが指摘するように決定的な相違がある。

ジジェク組のジュパンチッチ曰く、現実界は、バディウにとって裂開をもたらす出来事、ドゥルーズにとって生成変化(「なる」ことの過程)にかかわる一方で、ラカン派の現実界は実体でも過程でもない。むしろ、《過程を妨害する何ものか、躓きの石のような何かである。すなわち現実領野の構造のなかにある不可能性である》(ジュパンチッチ、Zupančič, The Odd One In,2008)

彼らの主張の起源はたとえば次の二つのラカン文。

・現実界は快原理の障害(物)である le réel, à savoir l'obstacle au principe du plaisir (Lacan,S.11)

・現実界とは形式化の袋小路である Le reel est un impasse de formalization(ラカン、S.20)

もっともこれはジジェク組や一部の哲学的ラカン派などがこのように考えているのであり、最近のジャック・アラン・ミレールは、ドゥルーズ的になってしまったという指摘がある。

…象徴界の外部の「純粋な」現実界 the “pure” Real、象徴界によっていまだ汚染されていない或る現実界 a Real に向けてのミレールの探求。彼はその現実界をラカンに属するものだと考えている。だがそんな探求は、ドゥルーズ的袋小路 blind alley に到るものとして、捨て去らなければならない。

ミレールは、まさにドゥルーズ的なやり方で(『アンチ・オイディプス』からの定式を文字通り反復して)、フロイトの無意識の「地下 beneath」の「本当の」プレエディプス的無意識について話している。あたかも、我々は最初に「純粋な」プレエディプス的欲動の動き、そしてラカンのララングによって洗礼を受けた徴示的 signifying 物質と享楽の直かの浸透があるかのように。(ジジェク、2016、Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledgeーー何かが途轍もなく間違っている(ジジェク 2016→ ミレール))

わたくしはジジェク組、ヴェルハーゲ、あるいはかつてのミレールを基準にして現実界を捉えているということはある。

ヴェルハーゲの文にテュケーという言葉が出てきたが、これは、トラウマ(事故的トラウマではなく構造的トラウマ)にかかわる。

※参照:基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)


ラカンはセミネール11で、アリストテレス用語の、automaton (αủτoματov) versus tuchè (τuχη) を取り上げている。

テュケーの機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » [ in abstentia ]である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、セミネールⅪ、邦訳よりだが一部変更)

De cette fonction de la τύχη [ tuché ]… du réel comme rencontre, de la rencontre en tant qu'elle peut être manquée, qu'essentiellement elle serait « présence » comme « rencontre manquée » [ in abstentia ] …voilà ce qui d'abord s'est présenté dans l'histoire de la psychanalyse sous la forme première… qui, à elle toute seule, suffit déjà à faire naître notre attention …celle du traumatisme. (S.11)

他方、アルトーは「人間に器官なき身体 un corps sans organes を作ってやるなら、人間をそのあらゆる自動性 automatisme から解放してその真の自由にもどしてやることになるだろう」と言った。

ようはアルトー曰くの「正当的疎外 aliéné authentique」 ーーこれはたぶんaliéné(疎外・同一化)からの分離、「疎外の疎外」、つまりヘーゲルの「否定の否定」だろうーーで遭遇するのは、自由なのか原トラウマなのか、という話にもなってくるはず(この点では、現在のミレールもトラウマ派のはず[参照:梯子 échelle と脚立 escabeau)。

と記したら、ここでの文脈とはあまり関係がないかもしれないが次の文を思い出した・・・

・自由か命か! « La liberté ou la vie » 自由を選ぶなら、即座に両方を失う。命を選ぶなら、自由を剥奪された生がある。

・自由とは、選択する自由 la liberté du choix があるのを示すことだ。…それは(究極的に)、死への自由だ c'est la liberté de mourir. (ラカン,S.11)

ーー自由とは、究極的に「死を選ぶ自由」以外の何ものでもない。(バゾリーニ


というわけで、以上、ようするに、わたくしにはよくわからない、--ということを記した。