2016年10月10日月曜日

ホロコースト生存者の子供たちのPTSD

われわれが心的なもの(心の生活)と呼ぶもののうち、われわれに知られているのは、二種類である。ひとつは、それの身体器官と舞台、すなわち脳(神経系)であり、もうひとつは、われわれの意識作用である。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940)

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以下、資料。

表題を「ホロコーストの生存者の子供たちのPTSD」としたが、もちろん日本でなら、戦争神経症、災害神経症(地震などによる)、性的被害、いじめ被害等々の親の子供たちと読み替えうるだろう。

ーーここでの問いのベースになっているのは、無意志的記憶に襲われやすい人間は、現勢神経症優位のタイプではないだろうか、という「思いつき」だが、それには直接ふれていない[参照:「 レミニサンス réminiscence」と「穴馬 troumatisme」]。



【ホロコースト生存者の子供たち】
多くの調査研究が示しているのは、トラウマ経験は心的外傷後ストレス障害の展開にとって必要不可欠だが十分条件ではないことである。(Paris.J, 2000, Predispositions, personality traits, and posttraumatic stress disorder. Harvard Review of Psychiatry)
予想されるように、ホロコースト生存者の子どもは、他の両親の子どもよりも、PTSD になる傾向が高い。しかしながら、奇妙なことに、これらの子どもたちのほうが親たちよりも心的外傷後ストレス障害をよりいっそう経験することが示されている(Yehuda, Schmeidler, Giller, Siever, & Binder-Brynes, 1998)。

これらの親たち--犠牲者自身--が機能している可能性があるのだろうか、その子どもたちにトラウマ経験を飼い馴らす必要不可欠なツールを提供し得ないようなものとして? この問いには容易には答え難い。(ACTUAL NEUROSIS AND PTSD The Impact of the Other Paul Verhaeghe, and Stijn Vanheule、2005,PDF

ーー《我々の読解では、これらの患者は底に横たわる現勢神経症に基づいて、PTSDを患う。すなわちソマティック(流動する身体的)不安等価物をともなった不安神経症を基盤にして。》(同上)


【現勢神経症と精神神経症】
現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)
精神神経症と現勢神経症は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現勢神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」。(フロイト『自己を語る』1925)

かつまたフロイトは『制止、症状、不安』(1926)にて、「後期抑圧」(後の大半の抑圧 Mehrzahl aller späteren)と「最初期の抑圧 (frühesten Verdrängungen )」とを比較して、第二の場合(原抑圧)は現勢神経症 Aktualneuros の原因、第一の場合(後期抑圧)は精神神経症 Psychoneuros の特徴としている。《daß der zweite Fall in der Ätiologie der Aktualneurosen verwirklicht ist, der erste für die der Psychoneurosen charakteristisch bleibt.》


【システム無意識の症状/力動的無意識の症状】

上の文でみたように原抑圧/抑圧の対比がなされている。ラカン派的観点からは、前者の「現勢神経症(現実神経症)の「現勢」は現実界」、すなわち現実界の症状(原抑圧の症状)、後者の精神神経症は象徴界の症状(抑圧の症状)ととらえうる(そして基本的には、前者は(身体の)欲動の症状、後者は欲望の症状)、さらにはシステム無意識の症状/力動的無意識の症状といいうる(もちろんフロイトの考え方を生かせば、という範囲で、ではある[参照:原抑圧・原固着・原刻印・サントーム])。

「現勢神経症」の主な特徴とは、表象を通しての欲動興奮を処理することの失敗である。(Paul Verhaeghe,Lecture in Dublin, 2008,A combination that has to fail: new patients, old therapists,PDF
フロイトは、「システム無意識あるいは原抑圧」と「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」を区別した。

システム無意識は欲動の核の身体への刻印であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、まずは過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的エラボレーションを表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。フロイトはこれをAbkömmling des Unbewussten(無意識の後裔)と呼んだ。これらは欲動の核が意識に至ろうとするさ遥かな試みである。この理由で、ラカンにとって、「力動的あるいは抑圧された無意識」は無意識の形成と等価である。力動的局面は、症状の部分はいかに常に意識的であるかに関係する、ーー実に口滑りは声に出されて話されるーー。しかし同時に無意識のレイヤーも含んでいる。(バーハウ、2004、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnosticsーー非抑圧的無意識 nicht verdrängtes Ubw と境界表象 Grenzvorstellung (≒ signifiant(Lⱥ Femme)

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以下、以前の投稿から。


【中井久夫】
中井久夫)フロイトは神経症を三つ立てています。精神神経症、現実神経症(現勢神経症)、外傷神経症です。彼がもっぱら相手にしたのは精神神経症ですね。後者の二つに関してはほとんどやらなかった―――あるいはやる機会がなかったと言った方がいいかもしれないけど。フロイトの弟子たちも「抑圧」中心で、他のことはフロイティズムの枠内ではあまりやっていませんね。(批評空間2001Ⅲー1 「共同討議」トラウマと解離)
今日の講演を「外傷性神経症」という題にしたわけは、私はPTSDという言葉ですべてを括ろうとは思っていないからです。外傷性の障害はもっと広い。外傷性神経症はフロイトの言葉です。

医療人類学者のヤングいよおれば、DSM体系では、神経症というものを廃棄して、第4版に至ってはついに一語もなくなった。ところがヤングは、フロイトが言っている神経症の中で精神神経症というものだけをDSMは相手にしているので、現実神経症と外傷性神経症については無視していると批判しています(『PTSDの医療人類学』)。

もっともフロイトもこの二つはあんまり論じていないのですね。私はとりあえずこの言葉を使う。時には外傷症候群とか外傷性障害とか、こういう形でとらえていきたいと思っています。(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」初出2002.9『徴候・記憶・外傷』所収)
現実神経症と外傷神経症との相違は、何によって規定されるのであろうか。DSM体系は外傷の原因となった事件の重大性と症状の重大性によって限界線を引いている。しかし、これは人工的なのか、そこに真の飛躍があるのだろうか。

目にみえない一線があって、その下では自然治癒あるいはそれと気づかない精神科医の対症的治療によって治癒するのに対し、その線の上ではそういうことが起こらないうことがあるのだろう。心的外傷にも身体的外傷と同じく、かすり傷から致命的な重傷までの幅があって不思議ではないからである。しかし、DSM体系がこの一線を確実に引いたと見ることができるだろうか。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006『日時計の影』所収)
アラン・ヤングに言わせると、PTSDの症状はほかの病気にもある症状であり、PTSD特有の症状はないということです。そもそも神経症概念をDSM-Ⅲが捨てたということは、ある意味では正しいが半分しか正しくないのです。

なぜならば確かにフロイトは神経症の概念をつくった人ではあります。しかしフロイトの立てた神経症には三つあり、それは精神神経症、現実神経症、外傷神経症です。精神病と神経症との境界は年々曖昧になってきています。昔は人格全体が犯されているものを精神病、人格が健康な部分が残っているものを神経症と明解に線を引いていたのですが、だんだんそれが怪しくなってきています。ヤングは「この撤廃は意味があるが、あとの二つの神経症をDSM-Ⅲは問題にしていない」と言っています。

現実神経症は、例えば失恋して抑鬱になるなどというシンプルなもので、あまり研究の対象にはならないかもしれません。普通には心因反応と言われているものです。あるいはDSM-Ⅳになってから出てきた、ASD(急性ストレス障害)もあります。外傷神経症はフロイトも挙げているけれどもそれほど問題にしていません。この後身がPTSDです。DSM体系の中から神経症を追放するのは、よく考えてやっていないということいなります。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002.2『徴候・記憶・外傷』所収)

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【ポール・バーハウ】
フロイトは症状形成を真珠貝の比喩を使って説明している。砂粒が欲動の根であり、刺激から逃れるためにその周りに真珠を造りだす。分析作業はイマジナリーなシニフィアンのレイヤー(真珠)を脱構築することに成功するかもしれない。けれども患者は元々の欲動(砂粒)を取り除くことを意味しない。逆に欲動のリアルとの遭遇はふつうは〈他者〉の欠如との遭遇をももたらす。(バーハウ、2009,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex PAUL VERHAEGHE )
フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケである。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。

これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。この研究では、防衛理論についてはなにも言い添えていない。というのはすでに精神神経症psychoneurosisにかかわる以前の二つの論文で詳論されているからだ。

このケーススタディの核心は、二重の構造にあると言うことができ、フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”(身体からの反応)と呼んだものーーである。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。

この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の表象――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。

この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、症状の形式的な外被に帰着する。すなわち、「それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの」(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)である。

このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、それは、「あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの」(『あるヒステリー患者の分析の断片』)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.,Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq 2002、PDF).

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◆以下、バーハウによるやや専門家向け版

「現勢病理 Actual-pathology」の共通の分母は、興奮、あるいは緊張が、心理学的-表象的な仕方で、加工されえないという事態である。これはフロイトにとって、当時の精神分析では治療は不可能であることを意味した。言葉上の、いや象徴的素材さえもがないので、分析するものは何もない。

フロイトの議論では、「精神病理」的発達は、どの発達の出発点としての「現勢病理」の核の上への標準的な継ぎ足しである。これらの二つは、単一の連続体の二つの両極端として考えられなければならない。どの「精神病理」も「現勢病理」の核を含んでおり、 どの「現勢病理」も潜在的に「精神病理」へと進展する。 (…)

私の読解では、この古典的なフロイトの区分は、もし我々が処方と病理学上の両レヴェルで、彼の理論を拡大するなら、新しい症状と古典的な症状とのあいだの相違である。「現勢病理」に関して、ラカン的観点からみるなら、興奮を表象へ移行することの典型的な失敗が意味するのは、主体と大他者とのあいだの関係において、何かうまくいっていないものがある、ということだ。とくに、主体形成、あるいはアイデンティティ発達の過程における欠陥である。結果として、アイデンティティの水準での問題に遭遇する。不可欠な展開は臨床的多様性にかかわる。フロイトは、不安神経症と神経衰弱(現代のパニック障害と身体化somatization)しか叙述していない。しかし、これらのみが「現勢神経症」の可能な形式ではない。私の見解では、全ての境界性パーソナリティ障害とトラウマ神経症の殆どを付け加えなければならない。この表象の不可能性は、我々分析家をとても困難な状況に置く。というのは、それが意味するのは、我々は通常の精神分析的アプローチを適用しえないということだから。 (……)

「現勢病理」に関して、ラカン的観点からみるなら、興奮を表象へ移行することの典型的な失敗が意味するのは、主体と大他者とのあいだの関係において、何かうまくいっていないも のがある、ということである。とくに、主体形成、あるいはアイデンティティ発達の過程における欠陥である。(バーハウ、2008、Lecture in Dublin, A combination that has to fail: new patients, old therapists Paul Verhaeghe、PDF
精神分析のまさに始まりから、フロイトは異なった診断上の区別を導入した。彼はその区別を生涯の全著作を通して保持した。一方で、彼が、Abwehr-Neuropsychosen、すなわち防衛の精神神経症と呼ぶものを叙述した (Freud, 1894,1896)。この障害の起源は、精神的 psychical 領域に位置づけられる。すなわち幼児性愛の表象的・防衛的エラボレーションに位置する。精神神経症に結びついた症状は、この文脈にて、解釈・理解されうる意味を持っている。ここでの中心的考え方は、性的欲望にかかわる相剋とこの相剋に対する防衛である。

他方、フロイトは Aktualneurosen(現勢神経症)を区別した。この起源はまた性的なものである。が、全く異なった仕方のものだ。現勢神経症の典型的な特徴は、症状の上部構造の不在、そしてそれに関連したセクシャリティに関する表象的発達の不在である。症状はソマティック(流動する身体)の現象に限定されている。その症状はどんな付加的意味もない。中心的臨床現象は、自動的な不安と不安のソマティック等価物である(Freud, 1895,1896)。

フロイトはその後の彼の経歴の道程にて、精神神経症という最初のグループに主に携わった。彼は現勢神経症のグループのエラボレーションをしなかった。それは、フロイトがその仕事の最後まで現勢神経症の存在を確信していたにもかかわらず、である。この注力欠如の理由は、大部分は実践的なものだ。すなわち、現勢神経症のグループは、その当時の彼の精神分析的治療に適していなかった。結局、現勢神経症の場合、症状の上部構造と表象的発達が不在であるため、分析するものは単純に何もない。

(…)それにもかかわらず、フロイトはこの現勢神経症のグループを詳述することを辞めない。その病因学にかんして数多くの仮説を形式化した。

現勢神経症の領野内で、フロイトは神経衰弱と不安神経症とのあいだの区別をした。後に、心気症を付け加えた(Freud, 1914)。これらの例すべてにおいて、決定的原因は、欲動から来る内的緊張あるいは圧迫感、この欲動を精神的にエラボレーションすることの不可能性と繋がっている。これは、原不安と/あるいは不安等価物をもたらす。(バーハウ他、2005、ACTUAL NEUROSIS AND PTSD(Paul Verhaeghe and Stijn Vanheule,2005)
人が、現勢神経症についてのフロイトの叙述と DSM–IV における PTSD の叙述を比較するとき、すぐさま数多くの類似性が現れる。まず、現勢神経症と PTSD の両方とって、中心的な臨床現象は不安である。この理由で、DSM–IVにおいて、PTSD は不安障害の見出しのもとに分類されている。この不安の特性はまったく典型的なものだ。すなわち、この不安の精神的加工がない。PTSD の DSM–IV 評価基準に叙述されている恐怖・無力・戦慄は、フロイトにおける不安神経症とパニックアタックの不安とそっくりである。(同上)