2016年10月9日日曜日

「 レミニサンス réminiscence」と「穴馬 troumatisme」

私はその驚きのことをときどき人に話してみたが、しかし誰も驚いてはくれず、理解してさえくれないように思われたので、私自身も忘れてしまった(人生は、このように、小さな孤独の数々から成り立っている)。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

…………

よく知られているように(?)、無意志的記憶とは、トラウマ(との遭遇)のことである(参照:Involuntary memory:Wikipedia)

「 レミニサンス réminiscence」 と「無意志的記憶 la mémoire involontaire」 との相違はあるだろうが、基本的にはトラウマと同じ構造をもっている。《外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である》(中井久夫)のと同じように。

敢えて私自身の言葉を用いれば、マドレーヌや石段の窪みは「メタ記憶の総体としての〈メタ私〉」から特定の記憶を瞬時に呼び出し意識に現前させる一種の「索引 ‐鍵 indice-clef 」である(拙論「世界における徴候と索引」一九九〇年、『徴候・記憶・外傷』みすず書房、二〇〇四年版所収)。もちろん、記憶の総体が一挙に意識に現前しようとすれば、われわれは潰滅する。プルーストは自らが翻訳した『胡麻と百合』の注釈において、「胡麻」という言葉の含みを「扉を開く読書、アリババの呪文、魔法の種」と解説したといっているが( …)、この言葉は、読書内容をも含めて一般に記憶の索引 ‐鍵をよく言い表している。フラッシュバックほどには強制的硬直的で頑固に不動でなく、通常の記憶ほどにはイマージュにも言語にも依存しない「鍵 ‐ことば‐ イマージュ mot- image-clef」は、呪文、魔法、鍵言葉となって、一見些細な感覚が一挙に全体を開示する。( …)それは痛みはあっても、ある高揚感を伴っている。敢えていえば、解離スペクトルの中位に位置する「心の間歇」は、解離のうち、もっとも生のさわやかな味わい saveurをももたらしうるものである。(中井久夫「吉田城先生の『「『失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」初出2007年『日時計の影』所収)

《フラッシュバックほどには強制的硬直的で頑固に不動でなく》というのが、「 レミニサンス réminiscence」ということになるのだろうか。

中井久夫は上のように記しつつ、次のようにも書いている。

おそらく、心の傷にもさまざまなあり方があるのだろう。細かな無数の傷がすりガラスのようになっている場合もあるだろうし、目にみえないほどの傷が生涯うずくことがあり、それがその人の生の決定因子となることもあるだろう。たとえば、おやすみなさいのキスを母親に忘れられて父母が外出をする気配を感受する子どもの傷である。(中井久夫「吉田城先生の『「『失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」初出2007年『日時計の影』所収)

《おやすみなさいのキスを母親に忘れられて父母が外出をする気配を感受する子どもの傷》、--もちろんプルーストの「スワン家のほうへ」の主人公のことを言っている。こちらのほうが「無意志的記憶 la mémoire involontaire」にかかわるのだろうが、ほとんど区別がつきがたい(おそらく臨床家の方々にとっては区別しなくてはないらないのだろうが)。

無意志的記憶の啓示は異常なほど短く、それが長引けば我々に害をもたらさざるをえない。

…les révélations de la mémoire involontaire sont extraordinairement brèves, et ne pourraient se prolonger sans dommage pour nous…(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』p.77)

《「メタコスモス」が比例世界に展開しえて白日のもとにさらされるようなことがあれば、私はとうてい生きておれないだろう。》(中井久夫「世界における徴候と索引」)

現在の瞬間であると同時に遠く過ぎさった瞬間 le moment actuel et dans un moment éloigné でもある場、過去を現在に食いこませその両者のどちらに自分がいるのかを知ることに私をためらわせるほどの場(……)。もし現時の場所 le lieu actuel が、ただちに勝を占めなかったとしたら、私のほうが意識を失ってしまっただろう、と私は思う、なぜなら、そうした過去の復活 résurrections du passé は、その状態が持続している短いあいだは、あまりにも全的で、並木に沿った線路とあげ潮とかをながめるわれわれの目は、われわれがいる間近の部屋を見る余裕をなくさせられるばかりか、われわれの鼻孔は、はるかに遠い昔の場所の空気 l'air de lieux pourtant si lointains を吸うことを余儀なくされ、われわれの意志は、そうした遠い場所がさがしだす種々の計画の選定にあたらせられ、われわれの全身は、そうした場所にとりかこまれていると信じさせられるか、そうでなければすくなくとも、そうした場所と現在の場所 les lieux présents とのあいだで足をすくわれ、ねむりにはいる瞬間に名状しがたい視像をまえにしたときどき感じる不安定にも似たもののなかで、昏倒させられるからである。(プルースト「見出された時」)

ラカンはセミネール21で、トラウマのことを« troumatisme »という新造語で表現している。trou とは穴である。すなわち穴馬。

無意識、それはリアル(現実界)である(……)。それが穴が開けられている troué 限りにおいて。

l'inconscient, c'est le réel. (...) c'est le réel en tant qu'il est troué." (Seminar XXII, RSI,1975)

※穴については、参照:「欠如 manqué から穴 trou へ(大他者の応答 réponse de l'Autre から現実界の応答 réponse du réel へ)」


réminiscence は井上究一郎訳では「無意識的記憶」と訳されている。

しかしながら、記憶のそんな復活のことを考えたあとで、しばらくして、私はつぎのことを思いついた、――いくつかのあいまいな印象も、それはそれで、ときどき、そしてすでにコンブレーのゲルマントのほうで、あの無意識的記憶 réminiscence というやりかたで、私の思想をさそいだしたことがあった、しかしそれらの印象は、昔のある感覚をかくしているのではなくて、じつは新しいある真実、たいせつなある映像をかくしていて、たとえば、われわれのもっとも美しい思想が、ついぞきいたことはなかったけれど、ふとよみがえってきて、よく耳を傾けてきこう、楽譜にしてみようとわれわれがつとめる歌のふしに似ていたかのように、あることを思いだそうと人が努力する、それと同種の努力で私もそうした新しい真実、たいせつな映像を発見しようとつとめていた、ということを。(プルースト「見出された時」)

→ アクチュアルではなくリアル、抽象的ではなく観念的であるもの
réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits(Proust,Le Temps retrouvé)

すでにきいたり、かつて呼吸したりした、ある音、ある匂が、現在と過去との同時のなかで、すなわち「アクチュアルではなくリアルなもの、抽象的ではなく観念的なものである Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits 二者の同時のなかで、ふたたびきかれ、ふたたび呼吸されると、たちまちにして、事物の不変なエッセンス、ふだんはかくされているエッセンスが、おのずから放出され、われわれの真の自我がーーときには長らく死んでいたように思われていたけれども、すっかり死んでいたわけではなかった真の自我がーーもたらされた天上の糧を受けて、目ざめ、生気をおびてくるのだ。時間の秩序から解放されたある瞬間が、時間の秩序から解放された人間をわれわれのなかに再創造して、その瞬間を感じうるようにしたのだ。それで、この人間は、マドレーヌの単なる味にあのようなよろこびの理由が論理的にふくまれているとは思わなくても、自分のよろこびに確信をもつ、ということがわれわれにうなずかれるし、「死」という言葉はこの人間に意味をなさない、ということもうなずかれる。時間のそとに存在する人間だから、未来について何をおそれることがありえよう?(プルースト「見出された時」井上究一郎訳だが一部変更→参照

…………

※以下、資料編。

我々は「トラウマ的 traumatisch」という語を次の経験に用いる。すなわち「トラウマ的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、1916年、私訳)
トラウマの不透明性ーーフロイトの思考によってその初期作用 fonction inaugurale のなかで主張されたものであり、私の用語では、意味作用への抵抗 la résistance de la signification であるがーー、それはとりわけ想起の限界 la limite de la remémorationを招くものである。(ラカン、セミネール11)
私は…問題となっている現実界 le Réel en questionは、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値 valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスと呼ぶもの qu'on appelle la réminiscence に思いを馳せることによって。…レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。

…私は、現実界は法のないものに違いないと信じている je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi。…真の現実界は法の不在を意味する Le vrai Réel implique l'absence de loi。現実界は秩序を持たない Le Réel n'a pas d'ordre。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)
テュケーの機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » [ in abstentia ]である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、セミネールⅪ、邦訳よりだが一部変更ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

テュケーとは、言ってしまえば、穴馬のことである。

情動の痕跡を生みだす出来事の総合的定義は、フロイトがトラウマと呼んだものである。トラウマ化とは、それが快原理の失敗した効果によって生みだされる限りで、快原理の規範に従っては消し去りえない要素である。すなわち、トラウマは、快原理の統制の失敗を引き起こす。情動の痕跡の根本的出来事は、次のようなものだ…それは、身体のなか、心のなかに、興奮の過剰を持続させるもの・再吸収されえないもの。我々は、ここで、トラウマ的出来事の総合的定義を得る。それは、言存在 parlêtre のその後の人生において痕跡を残すものである。 (Miller, J.-A. (2001). The symptom and the body event, Lacanian Ink, 19ーー基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)


※プルーストの書簡(編集者ルネ・ブルム宛 1913年11月)

C'est un livre extrêmement réel, mais supporté en quelque sorte pour imiter la mémoire involontaire (qui selon moi, bien que Bergson ne fasse pas cette distinction, est la seule vraie, la mémoire de l'intelligence et des yeux ne nous rendant du passé que des fac-similés inexacts qui ne lui ressemblent pas plus que les tableaux des mauvais peintres ressemblent au printemps, etc.) par des réminiscences brusques. Une partie du livre est une partie de ma vie que j'avais oubliée et que tout d'un coup, je retrouve en mangeant un peu de madeleine que j'avais trempé dans du thé [...] Une autre partie du livre renaît des minutes du réveil, quand on ne sait pas où on est et qu'on se croit deux ans avant dans un autre pays. Mais tout cela n'est que le support du livre. Et ce qu'il apporte est réel, passionné... » (‘’Comment parut Du côté de chez Swann. Lettres de Marcel Proust à René Blum, Bernard Grasset et Louis Brun’’, [pages 151-152])